久々のドライブだった。空は青く、新緑は一段と深みを増し、車は真っ赤な新車で、服はダナカランだった。マニキュアを仕上げてまだ一時間もたっていないし、適量振りかけた柑橘系の香りが車の中に漂っている。

 

 本当に久々のドライブだった。音楽はマツイケイコのピアノソロ。

 

 年収が一千万を超えて二年目になる。外資の銀行に入って7年、親元を出て一人暮らしをして三年。カーテンには42万円をかけ、ソファとランプシェイドは同じファブリックで作ってもらった。

 

 一人暮らしの女は、華やかで非日常の香りがしている方がいい。一人帰るマンションからはできるだけ生活の匂いを排除する。

 

 最初に寄るのは郊外のインテリアショップだ。休日なのに人が少ない。だいじょうぶかなあと思いつつ、空いている方が清々しいと、思いなおす。

 

 店員の女の子は客が少ないこともあり、私の問いに苛々する様子も見せず、それどころか興味しんしんで私を見ているようだった。

 

 私はどう見えたのだろう。キャリアウーマン。自立した女。意志を持った女。ある程度の金が自由に使える女。

 

 リビングに、カーテンとダイニングセットが入った日、友人がくれた赤ワインを三杯飲んだ。友人は生まれたばかりの子供がいたので、小一時間弾丸のように話した後、びゅん!と帰っていった。私は一人きりでワインのグラスを傾けた。

 

 ここ数年で職場において完全なる要領よさと気配りを得たが、その一方で人間嫌いになった。単に自分以外の人間に用がなくなったのか、プライベートで人と会うのが億劫になった。

 

 殻に閉じこもるというのでもなかった。強いて言えば、閉じこもろうにも閉じこもろうとする箱がばらばらになるかもしれないから閉じこもってなどいられない、リラックスできない、そんな感じか…。

 

 それにしても今日は調子がいい。朝起きて、何を考えるより先にぱぁっとカーテンを開けたのがよかった。清々しい陽射しが私を一瞬にして日光消毒してくれた。

 

 私がさがしているのはフロアマットだ。夏の香りがするフロアマットが欲しい。玄関ドアをあけるなり、目に入るのはフロアマットなのだから。

 

 海の色をイメージしたフロアマットと、懐古調の少しでこぼこしたガラスの器を買って駐車場に向かうころには、絶好調で鼻歌は周りに聞こえるほどだった。

 

 屋根つきの駐車場なので、車はさほど暑くなっていなかった。乗って目をつぶると次に何をしようか考えた。

 

 とりあえずカフェでも行こう。

 

 ほんとうに今日は全てが光に満ち、うまくいきそうな予感に満ちていた。朝から全てが順調。そう順調だったのだ。車に漂う香水もまさに丁度よい。そう、すべてが丁度よい。

 

 なのに! なのにだ! 突然のガシャン! 赤い小さな車がよたよたとバックしてきて、ワックスをかけたばかりの私の車に、ぶち当たった。

 

 ガシャン!

 ドスン!

 Thump!

  

 どれも当てはまらない不快な音だった。

 

 ぐしゃ。

 ごじゃ。

 がゅん。

 

 とにかく不快な音だった。不快過ぎて私は表情を失った。

 

 バッカヤロー。テメエ、ナニシテンダヨォー!

 

 叫びたかった。ダナカランのブラウスも美しく塗られたラズベリーグレースのネイルカラーも車に漂うオレンジ系の香水も何もかも一瞬にして汚され、消えていく。ギリギリギリギリ! とてつもない勢いで怒りは巻かれ、もうどうしようもなく体が震えるくらい怒りが身体中に満ちていく。

 

 けれど必死でおさえる。淑女とは我慢すべしものなり。我慢? 我慢だって? 冗談じゃないわよ、私は思ったが、ことさらのように動きをスローにし、ゆっくりと窓を開けた。とんでもないやつとのご対面だ。

 

 す、すみません…。軽四の赤い車から、よろっとてきたのは大柄な女だった。ところどころが凹んだり、小さく傷がついている車は真っ赤に光り輝く私の車とは同じ赤でも似ても似つかなかった。

 

 ああーああぁぁぁ!! 車内から赤ん坊の泣き声がした。

 

 あ、すみません。女は反対側に周り、赤ん坊を抱えて出てきた。鼻水だらけの顔。なんだか人間に見えないって思った。妖怪か…。けれど、泣き止んで周りをキョロキョロするその顔は決してかわいいとは言えないにしても、まあ確かに赤ん坊だった。あまり近くで見る機会のない、私には縁のない赤ん坊という種類の生き物。

 

 す、すみません。女はビニールのトートバックから薄茶色の財布を取り出し、ありったけの札を抜くと、私に渡そうとした。

 

 これで、足りるでしょうか。

 

 千円札が5、6枚だ。ばーか!足りるわけがないじゃない。一体いくらかかると思ってるのだ。こんなに食い込んでへっこんでしまった車を直すのに一体いくらかかると思っているのだ。保険を使ったら、翌年の保険料がぐわっと上がる。私は黙ったままじろっと女を睨んだ。

 

 女はショックと恐怖の混ざったような顔で下くちびるを噛み、私の言葉を待っている。

 

 赤ん坊は、私と母親間のテンションを感じたのか、黙って交互に見ている。母親の大きな体が次第に縮んでいく。

 

 母親は涙ぐんで言った。今年に入って3回目…です。

 

 3回目ってことは、こんな感じでぶつけたら、いくらくらい必要か分かっていそうなものなのに。

 

 1回目と2回目は示談だったんですか?

 

 興味を持ってしまった私は、口から出た優しげなトーンに自分でも少し驚いた。

 

 いいえ。

 

 ということは?

 

 逃げました。この子をベビシートにも乗せず、後ろの座席に転がして逃げました。

 

 ふぅぅぅ。私の口から息がもれた。

 

 これ以上、どんどん縮んで小さくなっていく女から、悲惨で非常識な話を聞き続けたくなかった。

 

 あ、じゃあ、今回は逃げなかっただけいいですよね。

 

 前は停まっている車にぶつけて中に誰もいなかったものですから。

 

 馬鹿正直なのか、計算された何かなのか知らないが、なんて女なんだろう。左の頬にだけ吹き出物が集中攻撃したようになっている。

 

 今これだけしかないので、どうぞこれで…なんとか…。

 

 女は私の手に六千円を押し付けた。

 

 あ…

 

 こんなもので済むわけないでしょう!という言葉を飲み込んだ。

 

 いりませんから。私は女に6千円を渡そうとした。

 

 彼女は両手を握りしめ、いえいえ受け取りませんというように首を振った。

 

 と、赤ん坊が手を伸ばしてきた。一枚取って母親に渡す。赤ん坊だと思っていたが、案外もうとおに一才を過ぎているのかもしれない。じゃ、トドラーと言うのだったっけ。よちよち歩きの子は。

 

 赤ん坊はケケケとキキキに似た中間の声で笑い、二枚目を取って、母親に渡した。

 

 えらいわね。言うつもりもないのに、私は言った。

 

 赤ん坊は3枚目、4枚目、5枚目、と小さな手で取っては母親に渡した。最後の一枚を取ろうとした時、風が吹いて、駐車場の床に落ちた。私はそれを拾って、母親に渡した。

 

 しばらくどちらも何も言わなかった。母親のカーディガンは一番上のボタンと3番目のボタンが取れていた。赤ん坊がひっちぎったのだろうか。赤ん坊はボタンが好きな生物らしい。

 

 じゃ、私はそう言い、くるっと背を向けるとドアが大きく凹んだ車に乗り込んだ。

 

 エンジンをかける。

 

 バイバイは? と母親が言うと、女の子は、多分女の子だろうけれど、小さく3回手を振った。

 

 ふぅ…。ため息をこらえ、私はゆっくりとやはり3回手を振るとアクセルを踏んだ。