肩にオウムをとまらせて:洋司とノンタ

 

 

 タウンハウスを引き払い、田舎へ…しかもほとんど人なんか見ずにすむくらいの田舎へ引っ越そうと言ったのはミサだった。

 

 髪はいつもスタイリッシュにショートで決め、汗ばむくらい暑い日でも自分だけはクールよとばかり、1ダースは持っているサングラスの一つを小粋にかけ、足取り軽く街を闊歩するミサが、田舎へ越したいと言い出したので、洋司は思わず鶏のように首を突き出した。

 

 ミサはジュエリーや最新のファッションに多大な意味を見出す女だった。大都会の気まぐれ族が作りだすぜいたく品を刹那的に愛することができる女だった。その気まぐれさゆえ、不安も感じたし愛していると信じたい洋司にとって、田舎に住むミサというのは、水田にほおり投げられたマニュキュアの瓶みたいだった。

 

「子供ができたみたいなの」

 

 子供・・・。

 

 洋司は一瞬無表情になった。嬉しくないわけではない。子供は自分でも欲しいと思う。ただ、ミサと赤ん坊というのは、どうにも結びつかなかった。もともと温かい家庭を築きたくて一緒になったわけじゃない。ミサに魅せられた洋司が結婚してもらった、という出だしだった。

 

「聞いているの? 子供ができたのよ」

 

 ミサは浮かない顔で、こめかみの髪をぐいぐい引っぱった。ミサは苛立つと爪を噛む。さらに事態が悪くなると、絶望の中、目の前にある物に突っ伏し、声をたてずに泣く。本でもテーブルでも男の肩でもティッシュの箱でも突っ伏す対象に意味を見出すことはない。そして絶望が深い諦めの淵に沈むと、決まってこめかみの髪を引っぱりだすのだった。

 

 洋司は慌てた。これは重症だ。いつもと様子が違う。実際に髪抜きが止まらなくなった妻を見たことがない。そんなミサを見ずに済んだらそれにこしたことはない。洋司はどうにも怖かった。

 

 洋司自身、今、子供は無理だと思う。エプロン姿の妻が目立ち始めたお腹を揺らし、ハミングしながら幸せそうにキッチンに立つ姿なんて、グッディグッディのドラマの世界、洋司には縁のないものに思えた。料理嫌いのミサにとって洒落たディッシュにしてもケーキにしても、ファンシーなカフェで足を組み、上品に口に運ぶものであり、小麦粉その他と格闘しオーブンで焼いたりする代物ではなかった。

 

 ミサと赤ん坊か…。

 

 親戚の三才の子供の頭一つ撫でるでもないミサ。

 

 ミサと赤ん坊か…。

 

 スリムな服を横目に鏡を前に大きなため息をつくだろうミサ。

 

 ミサと赤ん坊か…。

 

 お腹が大きくなって全体的に浮腫み、荒れ狂うだろうミサ。

 

 洋司が思いをめぐらしているうちにもミサはこめかみの髪を抜き続け、大理石を模したテーブルには既に数十本の髪が散らばっていた。

 

 ミサの髪抜きが止まらなくて困ったというのは過去二回だと聞いた。一度目は大学受験に失敗したとき。第一志望に見事に落ち、右のこめかみの横に10円玉の禿げができた。

 

 それから5年後の、ミサいわくとんだ裏切り者のチンピラへの失恋騒動のときはもっとひどく、二つの500円玉の不毛地帯ができた。

 

 ミサにそんなことがあったと聞かされたとき、洋司は限りなく完璧に近いと信じていた宝石に小さな傷を発見したような気になった。同時に、ミサを人間として愛しているのかと不安にもなった。しかし、洋司は愛だと決めつけた。結婚を決めた理由は愛と言う方が何にしても爽やか…に思えたのだ。

 

 自己責任…。最近、やけにこの堅苦しい言葉が頭に浮かぶ。

 

 洋司、大人になるってことは自己責任をとるってことだ、父がしょっちゅう言っていた。

 

 金遣いが荒く、明日のこともろくに考えず、服を粋に着こなすことでは天才…そんなミサを洋司は愛しているはずだった。

 

 しかし、ほんとうに愛しているのだろうか、そう心に問うたび、なぜか父の「自己責任」という言葉を思い出した。ミサと父が「自己責任」という言葉で結びつくようになろうとは、思ってもみなかった。

 

「どうして田舎へ行きたいのさ?」

 

「去年のクリスマスにくれたイアリング覚えてる?」

 

「うん」

 

「じゃ、リキエルのブルーのドレスは?」

 

「覚えてるけど…」

 

「買ったときはみんな大好きで大切にするの。でもね、今はもう飽きてる」

 

「…うん?」

 

「つまりね、ここにいると新しいものが目につきすぎるの。古いものにすぐ飽きちゃうの。刺激が多すぎるの。ほしいものが多すぎるの」

 

「うん…」

 

「だからね、ここに住んでる限り、あたし子供産んでも途中で飽きてしまいそうな気がするのよ。ねえ、わかる?」

 

「馬鹿なこというんじゃないよ。物と赤ん坊じゃ違うさ」

 

「そうかしら。ユキの子なんて、生まれてすぐユキの着せ替え人形よ。彼女、これで泣いておしっこしなけりゃいいって言ってるわ」

 

「冗談だよ。本気じゃないさ」

 

「本気よ。彼女、いつだって本音を言うわ」

 

「そうかな」

 

「マユミは子供さえいなけりゃってぽろっと言うわ。子供さえいなけりゃ働きに出れるって」

 

「言ってるだけさ。あんなに仕事止めたがってたじゃないか。仕事止めるためなら牛とだって結婚したよ」

 

「ひどいわね」

 

 洋司はミサの髪をむしる手をゆっくり押さえ、握った。もっと強く握りしめたかったが、大きな石のついた指輪が邪魔だった。洋司はミサの手を握ることで、自分の気持ちも落ち着かせたかった。ミサを以前のように愛していると確信したかった。

 

「怖いの。自分が生臭くなののが怖いの」

 

「生臭く?」

 

「そう。あたし、美しく生きたいの。生臭さはごめんなの。一度しかない人生なんだし…」

 

「子供を産んで育てるのは美しいこと…だろ」 なんて陳腐な表現なんだ。

 

「ううん、あたしを地に落とす…そんな気がする」

 

 地に落とす、か…。どこかで読んだ主人公の台詞だ。洋司は笑いたくなった。…が気を取り直して言ってみた。

 

「それは地に足が着くって言うんだよ」

 

「まだ地に足なんか着けたくないのよ!」

 

 ミサは怒鳴った。いや、吠えた。

 

 洋司は焦った。空回りだ。ミサの頭の中で、洋司の頭の中で、からからからから何かが空回りしている。洋司とミサの関係もだ。

 

 彼女が心の平静を保てるというのなら、田舎へ行くのも悪くはないのかもしれない。ありがたきミサの両親のおかげで結婚当初には驚くほどの桁数だったミサの通帳が、今はほとんど空になっている。ミサが頼めばまた桁数は増えるだろう。けれどこの街にいたのでは、金は千枚の翼を持っているがごとくだ。

 

 ただ、この街を出てどこへ行くというのだ。どこで働くというのだ。洋司は自分の職を思った。やっと少し上がった給料を思った。

 

 夢のような解決策なんてどこにもない。ありゃしない。もちろんこの街から出てもいい。彼女の心穏やかなる処があるなら行きたい。でもそんな場所なんてありゃしない。あるとしたら、混乱したミサの頭の中でひらひら飛ぶ蝶のように、それもまた夢物語だ。

 

 せわしなげにこめかみから額にかけての髪を引っぱり続けるミサを見て、ひどく動物的だと思った。

 

 ミサが動物的?

 

 そんなことを思ったのは初めてだった。しかし、今のミサは飼い主のバスケットから野にほおり出されたのはいいが、陽のまぶしさに隠れ場所を探してバタバタする小動物のようだった。

 

 ミサ…。

 

 洋司は疲れを感じた。自分の中で今まで誰も触れなかったネジがギュウッと回されたようで、頭が混乱した。そんな中、一つの事実が見えてきた。ミサとの生活に疲れている…。父の言う「自己責任」の意味がずっとクリアには見えなかったように、今はミサとの未来が見えない。

 

 ぼんやりミサを見ていると、頭の中で一つの声が聞こえてきた。

 

 あなた、幸せなの?

 

 聞き覚えのある声だった。

 

 誰だい?

 

 思い出せなかった。

 

 あなた、幸せなの? 今、幸せなの?

 

 そうか…。

 

 ふっくらとした手。犬を抱き上げる手。猫の頭をくしゃくしゃする手。野良猫の臭いなどものともせず、抱き上げるその手。

 

 ふっくらとしたその手を思い出しながら、心でつぶやいた。

 

 ノンタ…。君だね。君の声だ。

 

 

 

 誰もノリコとは呼ばずノンタと呼んだ。ノンタでいいよ、会って数分後には彼女が口にする台詞。だから、パン屋の女主人も安コーポのオーナーも「やあ、ノンタ」と声をかけた。

 

 そう言えば一人だけ思慮深げな花屋の店主が「ノンタさん」と呼んでいた。ノンタはその花屋の常連で、萎れかけて二束三文で売られている花束を買っていた。よい客とは言えないノンタだが、店主はいつも愛想よかった。ノンタに連れられて寄ったとき、店主が言った。

 

「ノンタさんは珍しいグリーンサムだよ」

 

 グリーンサム、緑の親指。植物を育てる天性があるという。「あんたは果報者だ」という店主に洋司はしぶしぶ微笑んだ。ノンタはそのとき、小菊の小さな鉢を自分用に、小さな花束を洋司に買い、はいっ!と渡してくれた。

 

 何の花束だったんだろう。黄色と橙色が混ざったような小さな花だった。

 

「気分が沈んだときは花を見るといいよ。蕾で買って、花瓶にさして、花が開くの見てると何だか体中の淀みがきれいになる気がするよ」

 

 そんなノンタの言葉に、大の男に言うことかよ、と気恥ずかしくなったのを覚えている。

 

 そのころ洋司は沈んでいた。何で沈んでいたのだろう。思うようにならない生活に沈んでいた。ルックスもよく、才能もある。こんな下町でいつまでもくすぶっている器じゃない。トップクラスとはいえなくても、かなりいい大学だって出た。なのにとんだ就職難で、思いもかけぬちっぽけな会社に拾ってもらうのがやっとだった。洋司はスマートに生きたかった。そうじゃない暮らしなら田舎でいくらでもできる。なのにここにいながら、この生活はない…。

 

 花を買って差し出すノンタの手はふっくらと丸かった。体は貧弱といっていいほど細かったが、手だけは柔らかく丸かった。「これはこれは」彼は茶化したように受け取った。恥ずかしかったにしても内心嬉しかったし、安らぎも感じた。しかしこんなことで感動しては男がすたる、こんなことでは目標とする生活から離れるばかりじゃないか…そんな風にノンタがおこした小さな感傷を吹き飛ばした。

 

 ノンタか…。

 

 彼女のことは、ここしばらく思い出さなかった。しばらくどころか、ずっと思いださなかった。ずっとずっとなかった。

 

 

 

 ノンタのことで今思い出すのは、その奇妙な存在感だ。

 

 ノンタとつき合ってまだ間もない冬の日のこと。二人は散歩をしていた。ロマンチックな雰囲気はなかったと思う。思えばノンタとロマンチックに歩いたことなどなかった。

 

 ゆっくり歩く洋司の横をノンタはふわふわ歩く。そう、ふわふわ歩く子だった。肩のラインがふわふわ揺れる。時おり腕を組んできては、その垂れ加減の茶色の目で洋司を見つめた。

 

 その視線をどう受け止めていいかわからず、甘い視線や無垢な優しさを見せることができなかった。だから、いつも少しうるさそうにノンタを見た。

 

 けれど、ノンタの瞳は曇らなかった。ノンタには不思議な明るさがあった。温かな陽気さ。それが憂いを含んだ存在に恋をしたいと漠然と感じていた洋司にはうっとおしかった。

 

 当初からつき合うべくしてつき合ったとは思ってなかった。腐れ縁というにはノンタの陽気さが邪魔したが、安コーポの隣どうし、一人の日曜を重ねていた者どうし、なんとなく、一緒に出かけるようになった。

 

 あっ、お出かけですか?

 

 ええ、そこまで。

 

 そうですか…。

 

 一緒に歩きましょうか。

 

 そうですね。

 

 地味な子だと思った。センスのない子だと思った。けれど、懐かしい匂いがした。

 

 都会の一人暮らしも10年目になれば、昔駆け抜けた砂利道の水たまりの底で輝いていた太陽や、秋のひだまりに綿毛がふんわり浮かんでいる様子などが、時おりセンチメンタルなスローモーションで浮かんできた。そしてノスタルジックな思いには匂いがつきものだ。目をつぶって大きく吸い込みたいような匂い…。

 

 ノンタはその存在が匂いだった。甘さや華麗さはなかったにしても、素朴な優しい匂いがあった。時おり夕食を食べに行ったり、映画や祭りに行く。一人でいるよりずっと楽しい。恋してる気分ではないが、気を遣わなくてすむ。ノンタといて洋司はくつろいだ。

 

 ある日、彼女は言った。

 

「ピクニックに行かない?」

 

 手には妙に大きい水筒と弁当らしきものの入った袋を提げている。

 

 勘弁してくれよ、洋司は思った。

 

「ピクニックってどこへさ?」

 

「すぐ近くなの。時間はとらせないわ」

 

 洋司はほとんど当惑していた。どぶ川沿いのコーポの周りはごみごみした低い建物が密集しており、ほんの近くにピクニックなんて行きようがなかった。

 

「行きましょうよ」

 

 ノンタは洋司の手を取った。温かい手だった。温かい瞳だった。とても確かなあたたかさだった。何かしら不確かな毎日の中、とても確かなあたたかさに触れ、その瞬間、彼女を美しいと思った。そうだ、あの時、彼女を美しい、と思ったのだ。

 

「行きましょうよ」

 

 すぐそこよ、の言葉通り、それは確かにコーポから歩いてすぐだった。

 

「どう、ここだけ野原を切り取ってポンと置いたみたいでしょう」

 

 二つのビルの間に挟まれた空き地、それは不思議な一角だった。少し前まで、雑貨屋があったような気がする。手芸店だっただろうか。立ち退きせずだいぶ頑張っていたようだが、いつの間にか建物はなくなり、空き地になっていた。両脇の二つの建物が時代ものの煉瓦風のつくりだったので、そこは奇妙に風情ある空間となっていた。

 

「建物の間でしょ。陽が射している時間はあまり長くないの。それにしては頑張ってるでしょ、この花たち」

 

 ノンタは、空き地の所々に咲いている白や紫の花を両手を広げて誇らしげに示した。

 

「種蒔いたんだ。野草に近い丈夫な花です、土を選ばず可憐な花を咲かせますって袋に書いてあったの。種買ったのはいいけど、鉢に蒔くのもぴんと来なくて、そしたらここが目に入って。こっそり、でも思いっきりぱぁーって蒔いたんだ。冬になる前よ。五つの袋、ぜーんぶ蒔いたの。一種の賭けだったんだけど、冬の間じーっと地面の中で芽が出る準備してたのね。暖かくなって芽が出たの。普通どこにでもある雑草とちょっと違うでしょ。野草でもあたしが蒔いた種から出たんだから」

 

 土を選ばず可憐な花を咲かせますか…。ノンタみたいだ、洋司は思った。自分は卑下していつもしおれてるのに、ノンタは強い。

 

 ノンタの種まきは効を奏し、確かにその四角いスペースだけ唐突に春だった。

 

「ここね、児童公園になるらしわ。この両脇の建物もそのうち倒されるって」

 

「児童たってこの辺、子供いないぞ」

 

「児童公園って何も子供のためだけじゃないわ。そこへ行くと子供の心になって安らぐ児童公園でもいいわけじゃない」

 

 小さなビニールシートを広げておにぎりを食べた。最初恥ずかしかったが、面した道路が袋小路なので、人の通る気配もなく、両脇は古い建物、後ろはどぶ川沿いの低木や雑草に囲まれ、誰の目を気にすることもなかった。

 

 三個目のおにぎりを食べるころには、洋司もひどくのんびりした気分になっていた。羽のやぶれた紋白蝶がひらひらよたよた周りを飛んで、侵入者を恐がる様子もなかった。

 

 のどかだった。異性というという緊張感はなく、小さい頃、近所の女の子と縁側で一緒にお煎餅をかじってるような安らぎがあった。

 

 返り道、ノンタが手をつないできたとき、洋司は普段のように戸惑わなかった。そればかりか、ハミングしながら、つないだ手を揺らす、というサービスまでやってのけた。

 

 何を歌ったんだろう。まさか童謡ではなかったはずだ。

 

 歌が途切れるとノンタが言った。

 

「ね、どうして聞かないの?」

 

「えっ?」

 

「どうしてあたしのこともっと聞かないの? 知りたくない?」

 

 洋司は質問の意味がわからぬ振りをして、ハミングを続けた。続けながら、やばいと思った。

 

「聞けば、場違いなところに閉じ込められた、そんな気になる? 今日のピクニックみたいに」

 

 ノンタはそうつぶやいた。なぜか心にぎゅうっと圧力がかかったけれど、それを無視し、洋司はハミングを続けた。

 

 その夜、ノックがあった。少しやっかいな予感がした。ドアを開けると、やはりノンタだった。湯上りなのか頬が上気し、こざっぱりして見えた。

 

 ノンタは洋司を見た。十時は回っていた。こんな時間にやってきたノンタをやっかいに思ったにしても、何しに来たのさ、なんて追い返す勇気もなかった。ときめきはなかったが、愛しさはあった。そして彼女の瞳の優しさに心が揺れた。

 

 だから、ノンタの肩を抱いた。しっかりと抱いた。

 

 香水の匂いがした。湯上りに香水をふった彼女の気持ちを思うと、その気になれない、なんて言えなかった。

 

 それ以来、何度か肌を重ねたが、今、洋司が思い浮かぶのは、あの感覚だ。メイクラブの後、彼女のふっくらした手を握るとひどく落ち着いた、あの安らぎの感覚だ。静かな安らぎ。静かで穏やかな感覚だ。

 

 そしてあの温かな静けさ…。

 

 しばらくノンタとの穏やかな時間は続いた。そう、ミサに出会うまで。

 

 

 

 ミサに会ったとき、その美しさに圧倒された。華奢にバランスとれた体に繊細に彫りこんだような顔。表情が乏しいような気もしたが、会話にはウイットがあり、一つ一つのしぐさが美しく品があった。そう、品があった。

 

 そして驚いたことに、ミサも洋司に好意をもった。

 

 ウワォ!

 

 彼は思った。

 

 ウワォ!

 

 そう思った。

 

 まるで宝くじにでも当たった気分だった。跳び上がって、ひゃっほう!と叫びたかった。ただ宝くじのように、その喜びや幸運をノンタとシェアするわけにはいかなかった。

 

 そして洋司はノンタを邪魔に思い始めた。つき合っているものがいる、とミサに知られるのが怖かったわけじゃない。ノンタを見て、センスないと呆れられるのが怖かったのだ。

 

 邪魔に思い始めると止まらなかった。安らぎに感じたその笑顔さえうっとおしくなった。

 

 そんな自分を冷たいと思った。思いはしたが、仕方ないとも思った。

 

 あの時は欲しいものがしっかりわかっていた。ミサだ。ミサしかいない。ノンタの存在は邪魔でしかなかった。ノンタの春のミストのような優しい存在感は、ミサの出現ではかなく消えた。

 

 ノンタとの関係は必然性のない関係だったのだ。必然性のない…。

 

 しばらく、細心の注意を払って顔を合わせぬようにしていたが、やはりちょっとした罪の意識を感じ、ノンタの部屋を訪れた。ミサとの出会いから一カ月ばかり経っていた。

 

 もうノンタも悟っているだろう。悟っていてくれた方が都合いい。

 

 あら、とノンタは微笑んだ。どこか淋しげな微笑みだった。その笑顔に洋司は焦った。早く片づけなければ、と焦った。ノンタのそんな顔はやはり苦手だった。

 

 素焼きのマグカップでコーヒーをすすり、二人はしばし沈黙した。ノンタは決心したように顔を勢いよく上げた。陽の光では茶色に見える大きな瞳が、そのとき電球の下では真っ黒に見えた。

 

「隣は何をする人ぞ…」

 

「えっ?」

 

「戻りたいんでしょ。そんな感じに…。隣は何をする人ぞって感じのご近所さんに。そうでしょ?」

 

「ごめん…」

 

「どうして?」

 

「どうしてって…」

 

「理由なんていいわよね。大丈夫。怒ってないわ。気にしないで。もともと恋人どうしだったわけでもないし…」

 

「じゃ、何だったのかな」

 

「同士よ」

 

 同士…。

 

「そう、淋しさを紛らす同士よ。淋しいときに触れ合う…。時を過ごす。それは恋でなくてもいいものよ」

 

 うん、洋司はうなづいた。自分の立場がよくなったのか悪くなったのかわからなかった。

 

「大丈夫。洋司がいなくてもしょげたりしない。そりゃ、もうしばらくはしょげてるでしょうけど…」

 

「うん…」

 

「あたし、夢が好きなの。あたし、夢見つけるのうまいの。夢っていってもかなわぬ夢じゃないわよ。現実の上にいつの間にかちょこんとのっかってそうな夢のこと。そうそう、今日ね、写真雑誌のグラビアで読んだの。ブラジルに住む女の人たちのこと。海沿いのとっても貧しいところに住んでる人たちなんだけど、彼女たちの一人の長年の夢がね、そりゃ素敵なのよ。将来の夢…。小さな農園持って肩にオウムをとまらせてね、風にあたりながら眠ること。ねえ、ステキな夢だと思わない? こんな夢ならあたしいっぱい持ってるから大丈夫。洋司とつき合うって夢より現実離れしてるようで、ほんとはぐっと近い、そんな不思議で素敵なあたしなりの夢をね。うん、夢いっぱい持っているから大丈夫」

 

 そこまで少し早口でノンタは言い…言葉につまった。そしてうつむいた。

 

「でもね、洋司はあたしにとって夢だった。現実の上にのっかっていながら、いつか羽が生えて飛んでってしまいそうな夢だった。…でも気にしないで。洋司が悪いんじゃない。歯ブラシや、着古したセーターや…そんなのみたいに洋司の日常のかけらにはなれても、洋司の夢にはなれなかったあたしが悪い」

 

 どれくらい時間が流れたのだろう。ほんの数秒だったのかもしれない。ノンタは微笑み、視線をあげ、洋司を見つめた。今度は洋司がうつむく番だった。

 

 洋司の手をとってノンタは言った。

 

「大丈夫。あたし肩にいっぱいね、オウムとまらせるから」

 

 洋司は自分が卑怯に思えた。ひどく薄っぺらく思えた。

 

 けれどミサのためだ。そう、ミサというドリームガールのため。迷いはないはずだった。

 

「ありがとう。ノンタといて楽しかったよ。ありがとう。君はほんとうに…」

 

 そのあと何といっていいかわからなかった。ノンタを褒めたかった。今までの感謝をその一言にこめたかった。

 

 何て言ったらいいんだろう。

 

 何? という瞳でノンタは洋司を見つめていた。

 

 君はほんとに…

 

「あたたかい…」

 

 うん…その言葉をかみしめるようにノンタは小さくうなづいた。

 

 部屋を出ながら、ノンタの言葉を思い出した。肩にオウムをとまらせる…。夢の鳥。夢をかなえた鳥なのか、夢をかなえる鳥なのか…。

 

 ノンタらしいな。

 

 洋司は両方の肩に一羽ずつオウム大の鳥をとまらせたノンタを思った。しかし、なぜかモノクロだった。モノクロの写真のように、ノンタは時をこえた懐かしい笑顔で微笑んでいる。もう、ノンタを遠くに感じていた。いや、遠くに感じようとしていた。ノンタを過去のものにしたかった。

 

 それでもモノクロの写真は油断をすると少しずつ色をつけていく。ノンタの肩にとまった鳥はどこか神々しい。

 

 ノンタのオウムは何色だろう、ふとそんなことを思った。

 

 

 

 その日こそ後味悪かったが、次の日には洋司は晴れ晴れしていた。これですっきりかたがついた。なんて果報者だ。ミサがいる。僕には美しいミサがいる。

 

 そして、洋司は引っ越した。引越しの日、ノンタはいなかった。

 

 その後、ノンタとは一度だけ偶然出会った。別れた翌年、今から三年前のクリスマスイブのことだった。洋司はミサと腕を組んで歩いていた。洋司の頭はその夜の計画でいっぱいだった。レストラン、プレゼント、ジャズに夜景に…洒落た夜を素敵なミサに…。洋司は全くミサに夢中だった。

 

 だから、他の女なんか目にも入らなかった。しかし、目には入らなくても声は聞こえる。

 

「中谷さん、元気?」

 

 気がつくと見覚えのある顔が洋司を見つめていた。

 

 ノンタだ。

 

 中谷さん、と名字で呼んだノンタはひどく具合が悪そうだった。くちびるはひび割れ、素顔の肌はつやがない。年季の入った革のブルゾンに黒のブーツ。分厚い毛糸の手袋をしていた。首に巻いたストライプのスカーフはいかにも寒さよけという感じだった。

 

「よお、どうしてる?」

 

 洋司はできるだけからりと言った。

 

「うん、まあまあよ」

 

 そう言ってノンタは微笑んだ。笑うと洋司の知っているノンタに少し近づいた。

 

「偶然だな。何してるんだい」

 

「病院行ってきたとこなの」

 

「病院?どうかしたの?」

 

「もう大体よくなったの。薬だけもらいにね」

 

「どうしたのさ」

 

「風邪こじらせてね。でももうほぼよくなったの。あたたかい私でも肺炎になるんだね」

 

 ノンタはくすりと笑った。

 

「そうか…。大変だったんだね。勤めは同じ?」

 

「うん、同じとこ。去年、ちょっとだけ偉くなったよ」

 

 そういっておどけたように肩をすくめた。

 

 そばで微笑みながらもミサが苛ついているのを感じ、洋司はきっぱり言った。

 

「じゃ! 気をつけろよ。元気で」

 

「うん、中谷さんこそね」

 

 そう言い、ノンタはミサにも軽く会釈して背を向けた。

 

 洋司は、なぜかその背から目が離せなかった。腕にミサの手を感じながらも、どうしても背を向けて歩きだせなかった。その瞬間、ひどく不思議なことに、視界がスッとぼやけた。

 

 え?

 

 ノンタが銀色の毛皮の帽子をかぶっている? さっきまではかぶっていなかったのに。

 

 ノンタが振り向いた。

 

 ぐ……。

 

 洋司は固まった。

 

 その顔はノンタじゃない…。人間ですらない。いや表情は人間だ。着ぐるみとかではない…。

 

 ノンタは顔に毛を生やした不思議な生き物に変わっていた。

 

 キツネと犬の間のような顔…。茶色い目はさらに茶色く琥珀色で…。

 

 ノンタ?

 

 ノンタは笑った。確かにノンタだ。温かい笑顔だ。

 

 ノンタの瞳は明るかった。寒風に充血気味だったが、明るかった。あたたかかった。その瞳に何かを思い出さなければ、と思った。ひどく漠然とした懐かしさのようなものを。

 

「あ、あの…」

 

「何?」

 

 ノンタは少し近づいた。相変わらず、不思議な生き物の顔をしていた。

 

「オウムの調子、どうか…と思ってさ」

 

 ああ、ノンタの顔がほころんだ。大きく開いた口から八重歯が見えた。人間の顔をしていた時のノンタの歯並びを思い出させた。ノンタだね。やっぱり、どんなに変わった風貌でも僕には君だってわかる…。ミサの整った歯を見慣れていた洋司には唐突なほどの笑顔だった。

 

「絶好調よ」

 

 ミサが腕を引っ張った。

 

「ミサ、大川さんさ、あ、彼女、大川さんていうんだけど、オウムを飼っててね」

 

 僕はできるだけ自然に楽しげに言った。

 

 ノンタは微笑んだ。

 

「この前までね、二羽ほどとまってたの」

 

 ノンタは今もとまっているかのように両肩を目で示した。

 

「何色?」

 

「一羽は白よ」

 

「真っ白?」

 

「そうよ。夢には自分で色をつけなきゃね」

 

「そうか、白なんだね」

 

「でもね、もう一羽は青よ。真っ青なの」

 

 ノンタは笑った。ハハッと洋司も笑った。ノンタの顔の細かい銀色の毛が風に吹かれて揺れた。頭全体を覆う毛も波のようにうねって揺れた。

 

 真っ青か…。海の色か…。空の色か…。

 

「じゃ!」

 

 ノンタは洋司に再び微笑むと、くるりと背を向け、今度はもう振り向かなかった。ブルゾンの長めの袖から出た手袋は指先しか見えない。その指先が揺れている。一瞬、その手を握りたいと思ったが、その感覚も「変わった人ね」というミサの声に消えていった。

 

    あの時のことは、そのあと忘れようとした。白昼夢にしか思えなかった。そして実際に記憶に蓋をした。長い間。今でもほんとに起こったことなのかさえわからない。あの時、会ったノンタは何だったのか。単なる自分の記憶の揺らぎなのか…。何かの願望だったのか…。

 

 ノンタ、君は美しかったんだね。今の僕には君の美しさがわかるよ。あの時も君の存在の優しさはそのままだった。君がどう姿を変えても。

 

 見るべきものが見えた、それだけのことだ、洋司は不思議なほど確信した。思えば奇妙なことだけど…。

 

 ノンタ、君は美しかったんだ。存在が美しかったんだ。

 

 今ね、肩に二羽とまってる、そう言うノンタの瞳の絶対的な優しさを今でもしっかり覚えている。

 

 今、こんなにはっきり思い出せるのに、なぜノンタを思い出さなかったんだろう。

 

 なぜ、ここ数年、ノンタのことを忘れていたんだろう。

 

 それより、なぜ今、思い出すんだろう。

 

 …ないものねだりか…。

 

 ノンタと一緒に暮らし始めていたら、どれくらい続いたというのだ。そもそもノンタはいたのか…。実在したのか…。

 

 もともとルックスのよい女に弱いのだ。今、ノンタを思い出すのも、ミサを手に入れたからできること…。あのクリスマスイヴのことは、ほんとにあったことなのか…。

 

 ただ一つわかっているのはないものねだりだってことだ。

 

 そうさ、ないものねだりだ…。

 

 「時」のせいだ、洋司は思った。時、は人を疲れさせ、丸みをつけ、そして何より怖いのは…価値観を変えてしまう。

 

 価値観か…。価値観が変わっただけだというのか…。

 

 洋司は疲れていた。

 

 ないものねだりだ…。

 

 でも…。

 

 洋司は思った。

 

 僕のオウムはなんなんだ。

 

 ノンタに会いたかった。三年の間、思い出しもしなかったノンタに会いたかった。利己的なとんでもないやつだ、と思いつつ、ノンタに会いたかった。あの優しい目のノンタに。ふさふさの銀色の毛で覆われたノンタでもいい。あの優しい存在…ノンタに会いたかった。

 

 それがだめなら……目をつぶる。

 

 オウムになりたい。

 

 オウムになり、ノンタの肩にとまる。とまって風に吹かれよう。ノンタと風に吹かれよう。穏やかで暖かい午後の風に吹かれよう。

 

 「自己責任」の意味など考えることもなく、妻を愛しているか、など戸惑うことなく、しばらくぐっすり眠りたい、洋司は思った。

 

 シャッシャッシャ…乾いた音がした。

 

 気がつくと両手の爪をすりあわせている自分がいた。随分前になおったはずの癖だった。

 

 シャッシャッシャ、シャッシャッシャ…。

 

 ひどくこせこせとした小動物になった気がした。奥まった目をせかせか動かす小さな生き物。

 

 髪を引っぱり続けるミサの横で、洋司は爪を擦り合わせ続けた。

 

 二匹の小動物。

 

 ひどく自虐的な気分だった。

 

 いやだ、こんなの。洋司は思った。

 

 ノンタ。

 

 ノンタ…。

 

 洋司はオウムになりたかった。心底オウムになりたかった。