これからはそれぞれが恋人を作ってもいいっていうのはどうかな。

 

 純一が言った時、優子の頭は一瞬、泥化した。その言葉をどう噛み砕いていいのかわからなかった。二人が恋人同士なら、さほど不自然ではない。よくあるほろ苦い別れの言葉だろう。

 

 けれど純一と優子は夫婦なのだ。十五年は生半可な年月ではない。

 

 どれほど激しい恋ではなかったにしても、普通に恋をし、普通に時を過ごした。喧嘩もしたし、少しばかりのジェラシーもあった。旅行へも行った。義理の両親とはそれなりの軋轢もあるが、度を超すほどでもない。金銭面での浮き沈みもあったが今ではそれなりに豊かで傍目から見ても仲はよいはず・・・。

 

 何を言ってるの?

 

 胸がどきどきした。純一のジョークでないことは確かだった。

 

 別れの言葉?

 

 今から自分が発する言葉がひどく重みを持つだろう、とそんな気がした。

 

 優子はとりあえず答を先延ばしにした。

 

 

 

 それから始終ぼんやりしていた。

 

 それぞれが恋人を作ってもいいってのいうのはどうかな、の言葉はあまりに重かった。

 

 その言葉で、優子の日常は変わった。幸せな結婚という重荷がとれたというより、錨が外れてしまった。

 

 夫婦はどちらにもとりたてて非がなく、一見幸せそうであれば、それを壊す可能性のあることにトライしてはならない。挑戦してはならない。それが優子の考えだった。

 

 

 

 優子はホープに相談することにした。ホープ…望美の学生時代からなニックネームだ。

 

 望美はジャスミンティをテーブルにトンと置いた。その繊細な容姿とは反対に、粗野にも見える置き方だった。トレイを使わないのはいつものことだ。

 

 美しいけれどどこか荒っぽい人。ホープの最初の印象だ。その荒っぽさが自分自身の女性的な美しさに対する彼女の反逆のように見えたこともあった。けれど彼女は生まれつきの個性と性格を、容姿に合わせて変えようとしていないだけのことだった。わざと黒ぶちの眼鏡をかけ、それを取ったときの相手の反応を楽しむといったこともなければ、美人であることを憂うような表情もせず、男は自分の容姿だけで自分のことを判断するの、など悩みを口にすることもなかった。

 

 つまり、ナチュラルな人だった。

 

 自然体で見栄がなく親分肌のホープは、富岡と暮らし始めて十年近くになる。結婚のお祝いならぬ、一緒に暮らし始めておめでとう、のお祝いのマグカップを持って訪れたとき、新居を見渡し、その素朴さにひどく感銘を受けた。

 

 結婚じゃないから、何にも揃えてないのよ。

 

 ホープの言ったとおり、オレンジジュースが入って出てきたのはもともとはジャムか何かのガラス瓶だった。口をあてるところが分厚く唇をあてた時、妙な感触だった。

 

 食器棚、というより木製の本箱にコバルトブルーのペンキを塗っただけの食器置きに並んでいるのは、二枚と同じ大きさや模様のない皿と様々な大きさのガラス瓶だった。中には剥ぎ取り切れなかったのかラベルが半分ついたままのものもあった。ラズベリージャムの瓶やマーマレードの瓶。もともとはそんな瓶であったにしても、棚の上ではオブジェとなって心地よさそうに存在していた。

 

 あたしね、世間でいういわゆるきちんとした結婚ってね、嫁入り道具の食器棚とその中に並べられるセットになったお皿やティーカップのようなものだと思うんだ。でもそんなのあたしには向かないし・・・。でもね、男と一緒に住むこともこんな風ならできるって、この箱にペンキ塗って、お皿と瓶並べながら思ったんだ。

 

 その食器棚も富岡との同棲もホープの作品だった。

 

 人生もアートしなけりゃね、という言葉通りの生き方のおかげで、随分親とは喧嘩したというが、それでもホープは彼女流を通した。

 

 あたし最近になって思うの。優しさもアートだなって。

 

 優しさもアート?

 

 そう、たとえば親が子供の花嫁姿を見たがってるとするでしょ。そうすると自分は結婚式なんかしたくなくても何らかの形で親にウエディングドレスを見せようとする、その優しさもアートなのよ。

 

 ホープはにっこり笑う。丸みがでてきたわね、優子は思う。

 

 富岡が入ってきた。以前はどこか投げやりな雰囲気があったが、年齢を重ね、静かな穏やかさが魅力となっていた。

 

 富岡はひけらかす、ということを知らぬ人間だった。ホープのこともその美しさより荒っぽいほどの正直さに惹かれたという。彼の言葉にはいつも真摯な響きがあった。

 

 やあ、優ちゃん、久しぶり。

 

 富岡は椅子をひいてきて優子の横にすわった。

 

 ご主人、元気かい?

 

 ええ、なんとか元気にしてるわ。

 

 何だか調子悪そうだな。

 

 うん、ちょっとね。

 

 

 

 

 富岡が本屋へ行くと出ていくと、優子はホープに話した。自分の置かれている立場を。誰かに話すとしたらホープしかいなかった。相手の相談ごとを興味、好奇心ではなく親身に聞けたらそこからが友情と呼べる、と優子が定義して長い。そしてホープはただ一人、その定義にあてはまる人だった。

 

 ホープは頷きながら聞いてくれた。うんうんと頷きながら聞いてくれた。

 

 どうしてあの優しい純一がそんなこと言いだしたんだと思う?

 

 ホープは、今でも純一と呼び捨てにする。もともとホープの友人の一人だった。それを優子に紹介したところ妙に気が合った。付き合おうかと思う、とホープに話したとき、あーあいつならいいよ。あたしまだ手つけてないし、いいやつだよ、彼女は言った。あいつはやめときな、あたし、ちょいと付き合ったことあるんだ、など、それまで正直に教えてくれていたホープだったから、それを聞いた時、彼女からお墨付きをもらったと思った。

 

 ノゾミンはとんでるからな、純一が望美のことをそう言ったとき、ノゾミンという純一だけがつけたニックネームに少し嫉妬した。

 

 それは多分、彼に好きな人が出来たんだと思うの。聞いてみた? ホープは言った。

 

 聞いてみたわ。

 

 どうだって?

 

 そんなんじゃない。こんな状態で二人いていいのかなって前から考えてたって。

 

 そう・・・。でもね、優子は純一に好きな人が出来たって思うんでしょ?

 

 うん。ホープはどう思う?

 

 私もそう思うわ。

 

 優子はホープの正直さを少し恨んだ。そんなことないわよ、と笑いながら打ち消してほしかった。

 

 彼は優しい人よ。自分から人を捨てるなんて出来ない人よ。彼が優子に会う前、学生時代のことなんだけど、つき合ってた子がいてね。でも純一、一生つき合っていける人だとは思えなくなったらしいの。でも自分からさよならとか別れてくれって言えなくて、どうしたら嫌いになってもらえるかな、なんてぽつりと聞いてきたの。結局それから一年ちょっとして女の子の方に別に好きな人が出来て別れたの。純一、最後まで紳士的で、お幸せに、なんて微笑んでたわ。

 

 嫌いになってもらうためのアドバイスしたの?

 

 まあね。

 

 何て言ったのよ。

 

 相手の話を親身に聞くのをやめ、ときどき馬鹿高い声で笑って遠くを見なさいって。

 

 純一、それ実行したのかしら。

 

 したんじゃない。

 

 優子とホープは顔を見合わせて笑った。

 

 ホープがキッチンの方へ行くと優子ははっとした。純一の幾つかの言葉を思い出したのだ。

 

 君も、もっと外に出てみたら?

 

 もっと着飾っていろんな人に会ってごらんよ。まだ若いんだから。

 

 仕事はもうしないの?

 

 優子はその度ににっこり笑ってみせた。きっと家の中ばかりにいてつやを失っていく妻を見たくないのだろう。そう思っていた。

 

 本当は、純一は優子の目を誰かに向かせたかったのだ。

 

 だから、優しい彼なりに様々なシグナルを送ったのだ。

 

 今日は天気がいいから、ちょっと出て見たら?気分転換に。

 

 時折、優子に服を買ってきてくれたりもした。優子なら決して選ばないような鮮やかで粋な服を。

 

 全てが、純一の優しさだと思っていた。

 

 全然優しくなんかにないじゃない。偽善じゃない。妻を思う夫としてふるまってるけど、本心は全く違うじゃない。

 

 優子は目をつぶった。涙が出そうな気がしたのだが、目を固くつぶっても涙はこぼれそうになかったので目を開けた。

 

 キッチンから戻ってきたホープがじっと見つめていた。

 

 籍が入ってても籍が入ってなくても長い間、男と女が暮らすってのは難しいものよ。

 

 えっ?

 

 私と富岡は人間としてとってもいいパートナー。でも夫と妻とか恋人同士とかそんな関係じゃないの。

 

 そうなの?

 

 そうよ。

 

 え? そうなの?

 

 そうよ。でも、真の理解者よ。歳が離れてたって、志って言うのかな、人として最低こうあるべきだって思うラインが同じなの。そんな人滅多にいないわ。富岡祥平はよい人間なの。

 

 彼の方は?

 

 同じじゃないかしら。彼の元の奥さんはとっても優しくて可愛らしいタイプだったようだから、女性としては私と正反対ね。もともと、そんなつきあいじゃなかったのよ。あたし、お節介だから、やけっぱちな人見ると、ちょっと放っておけないのよね。でもそんな人世の中にいっぱいいて周りにごろごろしてるけど、何故か祥平は、私の心をクリックしたのよね。でも彼が同居をやめたくなったら、いつでも自由にしてあげるわ。出来たらずっと友達でいたいけどね。

 

 優子は思った。自分は純一を必要としていないのかも。社会的には必要としている。ミセスという肩書とあくせく働かなくていい気楽さは有難い。でも純一の本質を見つめたとき、自分が真に必要としているとは言えない気がした。別れたら友達にもなれないだろうと。それってひどく悲しいことなのだと思った。

 

 考えてみたら、自分には築いてきたという物がない。キャリアもなし、子供なし、これで夫婦間で育んでできた愛がないとなれば、何もない。

 

 

 

 

 優子はそれから三日間はコーヒーを何杯も飲みながら、ぼんやり過ごした。自分と格闘しているような気がした。相手は自分の頭なのか心なのか。一向に結論もひらめきも出ない自分との格闘だったのかもしれない。

 

 けれど二つのことがだんだんクリアになってきた。自分は甘えていた、自分は自然体でなかった、この二つだ。

 

 それが分かるとなんとなく少しすっきりした。宿題の小問が解けたときの気分に似ていた。

 

 冷蔵庫の中から、古くなった粒マスタードが入っているガラス瓶といつ最後開けたのかわからないマーマレードの瓶を取り出し、中身を出して洗った。マスタードの酸っぱいにおい、マーマレードの甘酸っぱい匂いでシンクがいっぱいになった。洗いながら優子は、ホープの食器棚に並んでいた大小の瓶を思った。

 

 ラベルをお湯につけてとり、きれいににおいがしなくなるまで瓶を洗った。するとほとんど同じ大きさでどちらがどちらかわからなくなった。

 

 カウンターに二つ並べたガラス瓶を見ながら、自分にとっての自然体ってなんだろう、って考えた。揃えてきた食器やインテリアグッズやテーブルを照らすシャンデリアを誇りに思ってきた自分がいて、それはまだ確かに存在していたけれど、二つの空になったガラス瓶を見ていると、価値観がビビビビと揺れ、空のガラス瓶がカタカタ音をたてるような気がした。

 

 ガラス瓶ってのはね。捨てるには惜しいんだよね。空のガラス瓶ってのは何にだって使える。ラベルを剥がしちゃえば無限の可能性だよね。

 

 そう言って誇らしげに少し大き目のガラス瓶を頭にのせてみせたホープ。何秒もそのまま目玉きょろきょろしながらおどけていたホープの誇らしげな笑顔を思い出すと、優子は自分だって心地よい「空」の気分を少しは味わっていいんだ、そんな気になった。

 

 空の瓶をそれぞれの手に一つずつ握りしめ、優子は何かを思い出さなければ、そんな気になった。特に焦りはなかった。諦めと希望がせめぎ合っているような気が少しだけして、なぜか ふふふ と笑っていた。