5章 ミスディレクション

 

 ヴィンスの部屋には様々で雑多なプラントが自由に枝を伸ばしていた。ベンジャミン、パキラ、アスパラガス。ゴールディが名前を言える鉢はいくらもない。ゴールディは自分の部屋の葉を落としたジェイドプラントを思った。

 

「アンって興味深い人物だよな。初めて会ったときから、臭覚に訴える何かがあった」

 

「そう?」

 

「ゴールディは感じないかい?何かが釈然としないと」

 

 頭に小さな小石が一つずつ詰まっていく、そんな気はしていた。裁判がうまくいって早くアンの無実が証明されるといいと思っているときも。

 

 アンから何も連絡がないのも不思議だった。お礼が言ってもらいたかった訳じゃないけれど

 

 何かがギシギシしている。頭の小石がギシギシしている。

 

 ただ、いくら考えても何かがおかしいの何か、が分かる気はしなかった。

 

 今日会う男が鍵になるかもしれない、ゴールディは思った。

 

 

 

 

 モーリス・パーツが、アン・パワーズのことで聞いてもらいたいことがある、と連絡してきたのは一昨日のことだった。

 

「あの日のアン・パワーズの密会の相手が僕だったんです。会っていただけませんか」

 

「あの日?」

 

「ええ、パワーズ氏殺害の日、マデリーンホテルで会いました」

 

「どうして私に会いたいんですか?」

 

「聞いてもらいたいことがあるんです」

 

 モーリス・パーツは約束の時間きっちりにヴィンスのオフィスにやってきた。ところどころブロンドにハイライトした茶色の髪を首筋で同じ長さで揃えた長身の男だった。年は三十すぎだろうか。ハンサムの部類だろう。このタイプが好みなら、ゴージャス!と目を輝かせるのかもしれない。濃いブルーの目、筋の通った少し大きめの鼻、肉厚のくちびる。両耳に合計五つのピアスが光っている。黒いシャツにベージュのスーツ。メンズマガジンから抜け出たようだった。

 

「モーリス・パーツです」

 

 彼は手を差し出した。

 

「ゴールディ・ミラーです。こちらはヴィンス・ペロスキー。友人のP.I.です」

 

 モーリスはテレビシリーズや低予算映画に出ている俳優だという。

 

 アンが有罪になる危険をおかしてまで守ろうとした男だから、大物だろう、とそれなりにイメージしていた。政界か財界かの大物。失うものが多い男。人柄業績申し分なく、既婚者である。そんなイメージがあった。ところが実際はグッドルックス以外、とくに際立ったところが見当たらない男に見えた。

 

「パーツさんは俳優だとお聞きしましたが」

 

 ヴィンスが聞いた。人当たりのいいどこか軽い人物をヴィンスは演じていた。

 

「そうです」

 

「テレビですか? 映画ですか?」

 

「どちらもです」

 

「失礼ですが、どんな役でしょう?」

 

「気づかれなくても無理ないですよ。目立たない役ですからね」

 

「では今のところ、俳優としてはまだ成功してはいらっしゃらないわけですね」

 

「そうです。全くの駆け出しです」

 

「あ、すみません。いろいろ聞いて」

 

「いや、構いません。いろいろ疑問がおありでしょうから、質問なさって下さい。僕の方もお願いがありますから。とりあえず僕とアンのことを知ってもらったほうがいいでしょうから、何でもいいから聞いて下さい。親友のミラーさんなら、アンもかまわないと思います。それにぺロスキーさんのことも、ミラーさんのお友達なら信頼します」

 

「そうですか。じゃ、ちょっと質問させてもらいますね」

 

 ヴィンスはやはり軽い感じで、テレビのインタビューアーのように聞き始めた。

 

「パワーズ夫人とはいつごろからの知り合いですか?」

 

「一年とちょっと前からです」

 

「何を通じて知り合われましたか?」

 

「パーティでです。でも、すぐに二人きりで会うようになりました」

 

「どういうお知り合いだったんでしょう?」

 

「恋人同士です」

 

「パワーズ氏の殺された日、パワーズ夫人はあなたと会うためにボストン市内にいたわけですね?」

 

「ええ」

 

「パワーズ夫人は、事情があってその約束の相手と会えなかったと言ってましたが

 

「いいえ、会いました」

 

「会われたんですか」

 

「はい、会いました」

 

「何か証拠となるものはありますか?」

 

「あります。僕は持っていませんが

 

「と言いますと?」

 

「あの日、彼女は約束通り夜10時ごろホテルの部屋に来ました。そしてあなたとの思い出を撮りたいの、と動画を撮り始めたんです」

 

「思い出ですか

 

「ええ。彼女、部屋の中の様子とかを撮り始めたんです」

 

「それだけなら、殺人あった日のその時間って証拠にならないでしょう?」

 

「でも、後で思うと、絶対的な証拠がいくつか映ってるはずなんです」

 

「たとえば?」

 

「たとえば、撮ってる間、僕はテレビのチャンネルいくつも変えました」

 

「ホテルの案内ビデオと、ケーブルテレビを交互に。時間もはっきりわかるはずです。それに何といっても、二人で出かけたんです」

 

「出かけたんですか?」

 

「ええ。僕の車でハーバードスクエアに行きました。週末のハーバードスクエアは真夜中でも活気があります。彼女、車の中から、運転してる僕の様子や、街の様子、ストリートパーファーマーとか、喜んで撮ってました。映画監督になるつもりかい、なんて茶化して言ったくらいですから」

 

「で、外を歩いたんですか?」

 

「今度は私を撮ってと言うもんですから、彼女がアイスクリームパーラーでアイスクリームを買う様子を撮りました」

 

「周りに人はいましたか?J

 

「いましたけど、彼女、ジーンズにカジュアルな帽子をかぶって少し色のついた大きな丸メガネかけてましだから、知人が見たとしても彼女だとは気づく人は少なかったでしょう」

 

「で?」

 

「で、車の中でアイスクリーム食べたんですが、彼女が急に気分悪くなったって言って一人でホテルに帰りました」

 

「でも、パーツさん、失礼ですが、あなたのお話を証明するものが何かありますか? アンはその動画を持っているとしてもあなたは持っていないんですよね」

 

「そう言われると

 

「人はどうですか?誰か、今言われたことを証明できる人はいますか?」

 

「いえ

 

「それでは、今おっしゃったことが本当かを証明することはできないんですよね」

 

「そう言われればそうですが

 

 モーリスは悔しそうに口を歪めた。

 

「パーツさん、裁判中は一言も言わずに今になってというのはどうしてですか?」

 

「アンが口止めしたんです。証言すると、あなたの俳優生命は終りよって。いつになってもあああのパワーズ夫人のひもだった男ねって、そういう見られ方しかしないと。それにもし自分のために証言したらどんな目に合うかわからない、自分が敵に回してるのはそんな恐いやつらなのだ、とも言いました。あなたが俳優だと知ったら、命を奪うくらいならまだいいけど、顔を切りつけたりするかもしれない、って」

 

「それで証言しなかったわけですか」

 

「決して怖くなったからじゃありませんよ。いざとなったら、彼女があの動画を出しさえすればいいと思ったんです。無罪放免は簡単だったはずです。事件後、ハーバードスクエアに行ったとき気づいたんですが、アンがアイスクリームを買ったパーラーの横には、大きなデジタル時計があるんですよ。日付と時間と温度が交互に出るんです。ビデオのその部分だけでも見せればアリバイ成立ですからね」

 

「でも、結局それは使わなかったわけですよね」

 

「ええ

 

「で、どうしてアン夫人が無罪を勝ち取った今になって、ミラーさんに会われたいと思ったんですか」

 

 モーリスは少しすねたようにヴィンスを見た。

 

「アンと連絡取れないんですよ。こっちからいくら連絡取っても、彼女からは何の返事もありません」

 

「それが心外だというわけですか?」

 

「ええ、心外まさに心外なんです。別に怒ってるわけじゃありません。ミラーさんなら、アンが今何をしているか知っているだろうと思って、聞きにきたんです。僕たちは愛し合っていましたし、急に連絡がとれなくなるなんておかしいです。僕のために、自分のアリバイが危ないのに、ミラーさんの証言にかけたアンなのですから、裁判が終わった今、僕を避ける必要はないんです。いったい何が起こったのか僕は知りたいだけなんです。アンは自由になったわけですし

 

 まるで演技をしているようだ、ゴールディは思った。ルックスの良さと大げさな動作のせいだろう。

 

「そうですよね、今は堂々と一緒にいられるし、金銭的にも不自由はなくなったわけですよね」

 

 ヴィンスが同情するように言った。

 

「そう、まさにその通りです。だから、アンに直接会いたいんです。どこにいるか教えてもらえますか?」

 

「お教えしたいところですが、私もアンと連絡とっていないんです。だから、アンがどこにいるか知らないんです」

 

「でも、そのうちきっと連絡きますよね。来たら、僕にも教えてほしいんです」

 

「パーツさんの方に先に来るかもしれません。私は単なる友人、パーツさんはとても特別な人だったわけですから」

 

 ゴールディの皮肉に気づかず、モーリスはひどく落ち込んだように、ため息をついた。

 

「そう言われればそうかもしれませんが…」

 

 

 

 

 

 ヴィンスは冷めたコーヒーを一気に飲みほし、キッチンの椅子を引き寄せた。

 

「モーリスの話聞いててさ、思考の流れを邪魔してた小石がからんと取れた、そんな気がしたんだ。いいかい、俺の勝手な推測かもしれないけどさ、まず聞いてほしいんだ。そうだ、その前にゴールディはミスディレクションって知ってるかい?」

 

「ミスディレクション?」

 

「そうさ、ミスディレクションさ」

 

 この言葉にゴールディが思い浮かべたのは、叔父夫婦の隣に住んでいたカールのことだった。カールは皆から風変りだと思われていたが、ゴールディは慕っていた。奇術が得意で、鳩こそ出さなかったが、何もないはずのところから、いろんなものを出してくれた。花にハンカチに人形にクッキー。ゴールディは笑った。声がかれてしまうのではと思うほど笑った。カールの奇術には夢と笑いがあった。

 

 彼の言葉を、ゴールディはよく覚えている。カールは人のよさそうな頬にえくぼをうかべて言った。

 

「ゴールディ、今日は種あかしをしよう」

 

 ほんとに? ゴールディは目を輝かせた。

 

「いいかい、人生は、ミスディレクションなのさ」

 

「ミスディレクション?」

 

「そうさ、人生、みなこの論理で回ってる。つまり、こっちかなと思ったらあっちから、あっちかなと思ったらこっちから物が出てくる。実際は、出るべくして出てくるんだけど、気を他にそらされるから、その小細工がわからない。こうやってね」

 

 彼は、大きく右手を動かして、宙をつかむふりをした。

 

「いいかい。手をこうやって大きく動かすと、人間嫌でもこの手を見てしまうだろ。その瞬間、反対の手でこっちのポケットをさぐったり、こうやって物をつかんだりする。小細工を隠そうとするのさ。それがミスディレクションさ。手を大きく広げたり、足をどんと出して大きな音を出したり、帽子をとって深々とおじぎをしたり。みんなミスディレクションなのさ」

 

 カールはゴールディを見つめた。

 

「人生、このミスディレクションの連続なんだ。だから、ミスディレクションに惑わされちゃ駄目だ。実際何が起こってるか、その目で確かめるんだ。もちろん時にはわざとだまされた振りをするのも必要だけどね」

 

 それから一週間後、カールは飲みすぎて転び、打ちどころが悪く死んでしまった。呆気なく死んでしまった。ポーカーのつけが払えず消されたという者もいたが、警察は事故死と処理をした。一家のやっかいものだったカールの死は、悲しみと同時に親戚に一種の安堵をもたらしたらしい。

 

 人生はミスディレクションの連続さ、カールのその言葉はゴールディにとって遺言となった。

 

 その話をヴィンスにすると、彼は言った。

 

「それだけわかってたら、話が早い。俺が真実をつかもうとするときのルールも、そのミスディレクションだよ。事件を追いながら、ミスディレクションは何か、何のためのミスディレクションかを考える。隠そうとするものに光を当てる。スポットライトを、普段はあたらないところにあてるんだ」

 

「トリックをみつければ、真実につながるってわけね」

 

「そうさ。まず浮かび上がってきた事柄を、ミスディレクションか、そうでないかに分ける」

 

「それがわかりゃ苦労しないでしょ」

 

「そりゃそうさ。だから最初はシンプルに事柄をあげていく。そして一つ一つ、ミスディレクションの可能性を考える。いいかい、事件を最初から考えてみよう」

 

 ゴールディは事件を最初から思い出そうとした。何が起こり、何がミスディレクションかを。

 

「思うにさ、アンはゴールディというミスディレクション作りに成功したんじゃないかな」

 

「あたしがミスディレクション?」

 

「そうさ、ゴールディとの出会いがミスディレクションだったんじゃないかな」

 

「何のため?」

 

「陪審員の目を他へ向けるためさ。ゴールディがほんとのことを言ってるかどうかに焦点を向けさせる。それはつまり、アンがボストン市内にいたかどうかに目を向けさせることさ。市内にいたなら無罪、市内にいなかったなら有罪。ゴールディの証言と、市内にいたかいなかったが焦点となり、殺人者か殺人者でないか、という究極の問いから焦点かずれていく。まさにミスディレクションなのさ」

 

「ってことは……

 

「つまりさ、アンが実際にその手でパワーズを殺したのかにだけ目が集中し、依頼殺人や共犯者の存在など、他の可能性から目をそらさせる。ゴールディの証人喚問をショーアップさせ、スポットライトをあてて、陪審員の目をくらませようとする。俺は、ゴールディに会ったときに、アンは筋書きを変えたと思うんだ。君をミスディレクションに使い、無罪を勝ち取るというのにね。君はあくまでミスディレクションだから、君の証言を信じて無罪判決が下ろうと下るまいと、それは大した問題じゃなかったんじゃないかな。ゴールディの役目は、人の目を、アンがボストン市内にいたかいなかったかにのみ、集中させることだったのさ。それによって検察側の目を自分の都合のいい方に向ける。そうしたら、もうこっちのものさ。君の証言に真実味があれば、ゴールディ証言だけで運よく無罪となるかもしれない。でも無罪にならなかったときのためにちゃんと奥の手は要してあったんだ。というか元々はそっちがアリバイでゴールディに会ったのは本当に偶然なんだろうね」

 

「もともとのアリバイがモーリス・パーツってわけね」

 

「そうさ。あなたのためだと言い、最初は証言させないようにする。けれど君の証言がいよいよピンチになれば、動画という絶対的な証拠を提出するシナリオだったのさ。でも君の証言だけで無罪になったから、もうモーリスには用がなくなったわけだ。モーリスが君に泣きつきにくるとは誤算だったろうな」

 

 ゴールディは黙り込んだ。

 

「アンは、ミスディレクションが人の目を真実から遠ざけるのを知っていたのさ。結果を見てみろよ。検察側はアン・パワーズが殺人現場にいた、ってことを証明するのに躍起になった。ここで、大切なのはさ、検察側は依頼殺人や共犯者のことを調べようともしてなかったってことなんだ。これが現場にはいなかった、っていう最初から確固たるアリバイを持ってたら、どうだっただろう。捜査は違う方向を向いていただろう。より緻密な捜査にどこかでしっぽを出していたかもしれない」

 

 ゴールディは黙り込んだ。ヴィンスはアンが殺人に関わってると確信している。

 

「最初はモーリスをミスディレクションに使うつもりだった。自分が会っていたミステリアスな誰かという存在をミスディレクションに。で、最後にモーリスと撮った動画を見せる。君を使おうって決めたあとも見せざるを得なくなる可能性が高いと思っていたかもしれない。ただ、二重のミスディレクションで、真実を暴かれる可能性が更に小さくなる。ゴールディの証言が乱れる、隙だらけになる、検察側に突っ込まれた質問をされしどろもどろになる、親友の証言にもともと信頼性はない、他にアンを見たものはいない。みなが、やはりアン・パワーズがやったんだ、その時刻にはボストン郊外で自分の夫を殺害していたんだ、そう思い込んだところに、もうこれ以上隠しておけない、とあの動画を見せる。皆あっと驚く。なんだほんとに愛人といたんだ年下の恋人をかばうために、彼の俳優生命を守るために今まで隠していたのか。じゃ、無罪じゃないか。陪審員はそう結論を出す」

 

 アンは始めから自分を利用だけするつもりだったというのか

 

「君が一緒にいたロバート・アレンが証言をこばむ、それはアンには思ってもみないギフトとなったのさ。ますます焦点がずれていく」

 

「実行犯て誰っだんだろう?」

 

「俺はさ、ヒットマンではなく共犯者だと思う」

 

「どうしてそう思うの?」

 

「アンって女は用心深い気がする。ヒットマンは口を割るかもしれない。共犯者か恋人。そんな気がしてならない。あと、君への狙撃

 

 気を失う前の腕の痛みと熱さがフラッシュした。

 

「撃ったのは誰なんだろう?」

 

「あれで一番徳をしたのは誰だと思う?」

 

「証人が狙われている、という印象を与え、証人の信頼性が増すってわけ?じゃあヴィンスはアンとあの狙撃事件が関係あるって思う? アンは知っていたと?」

 

「いや、そうは言ってない。だけど、結果としてそうなってる、それは考慮に入れるべきだ。あの事件でゴールディは怒っただろ。なんて卑劣なやつってね。仕組んだのが誰にしろ。自分の証言を妨げるのが目的だと思っただろ。それがあの法廷での熱っぽさにつながった」

 

「でも

 

「焦るなよ、ゴールディ。一つ一つがどういう意味があるかはこれからじっくり考えよう」

 

「うん。ねえ、ジェイムズ・コリンズが見たアンに似た女って誰だったのかしら?アンにそっくりに見せかけた誰かってことよね。これもミスディレクションとしてアンが殺害現場にいたかどうかにスポットを当てるためだとしたら、アンに罪を着せようとした誰かじゃなくて、アンサイドってことよね」

 

「コリンズが嘘を言ってないとしたらね」

 

「嘘ついてたってことあるかしら。アンを落とし込むために

 

「いや、ほんとにそっくりな女を見たんだと思うな」

 

 ジェイムズ・コリンズが事件の当日見たというアンにそっくりな女。コリンズがアンに罪着せる動機はあるのか。パワーズはコリンズには遺言で何も残していない。アンが犯人であろうとなかろうと、関係ない。じゃあ、コリンズがアンに恨みを抱いていた、とは考えられないだろうか?それとも偽証することによって金銭的報酬が得られるとか

 

「コリンズの妻はコリンズ同様嘘をついてるって考えられるけど、もう一人目撃者がいたよな。近所の主婦で」

 

「ええ。ねえ、コリンズはパワーズに仕えてから長いんだったわね」

 

「十年以上だったはずだ。秘書としてよくやってたって評判だ」

 

「パワーズを尊敬してたとしたら、金めあてと思えるアンが嫌いだったんじゃないかな」

 

 ゴールディはヴィンスから聞いた法廷でのやりとりを頭の中でプレイバックした。

 

「コリンズさん、6月18日の夜、あなたは何をしていましたか?」

 

「妻と食事に出かけました。その翌日の6月19日が私たちの14年目の結婚記念日なので、結婚記念日前夜祭とでもいいましょうか、その日は二人で食事にでかけたのです」

 

「食事の後どうなさいましたか?」

 

「レストランを出たときは9時前だったと思います。そのあと、パワーズ氏から頼まれていた用で郊外のパワーズ邸を訪れたのです。私は飲んでいませんでしたので、私の車で。パワーズ邸に着いたのは10時ごろだったと思います」

 

「どんな用ですか?差し支えなければ、述べていただけますか?」

 

「新しくオープンするホテルへの資本投資のことで署名する書類を届けるためでした。私達の娘夫婦が郊外に住んでいますので、パワーズ氏に届けるのを兼ねて、寄ってその日は泊まろうか、と考えていました」

 

「わかりました。パワーズ邸前で何か見ましたか?」

 

「アン夫人が中に入るのを見かけたんですが、妻がイアリングを落としたものですから。十分あまり捜し、その後、呼び鈴を鳴らしました。でも誰も出てこなかったので、そのまま帰りました」

 

「確かにアン夫人を見かけたのですね?」

 

「はい、この目で確かに見ました」

 

「以上です」

 

 次はポーニチャックの反対尋問だった。

 

「コリンズさん、あなたはその夜、パワーズ氏が郊外のパワーズ邸に泊まるということを御存知だったのですね?」

 

「はい。出来たら書類を持って来てほしい、ということでしたから。パワーズ氏は本当に素晴らしい人で、あの地位の割に気取ったところのない方でした。ドアマンが24時間見張っている高級邸宅より、あの郊外の小さな邸をひどく気に入っておられました。学生時代に戻った気がするよ。なんて言われて。だから予定のない日はふらりと行かれることが多かったんです」

 

「で、見かけたというのは確かにアン・パワーズですか?」

 

「はい」

 

「どのくらいの距離から見かけましたか?」

 

10メートルくらいだと思います」

 

「どうしてそのとき。声をかけられなかったんですか?」

 

「妻のイアリングを捜していたからです。妻が車の中でイアリングを落としてちょうどさがしているところだったんです」

 

「どちらにしても声をかけて届く距離じゃなかったわけですね」

 

「もし声をかけたら届いたと思います」

 

「でもかなりの大声を出さなければ聞こえない距離だったんですよね。どのくらいの大声ですか。張り裂けるくらいのですか?」

 

「異議あり!」

 

 シェーファー検事が立ち上がった。

 

「質問を変えます。コリンズさん、あなたの奥さんも、アン・パワーズを見たと言っておられますか?」

 

「はい、妻もアン夫人には何度かお会いしたことがあり、あら、アン夫人ね、と言いました」

 

「イアリングを捜すのに必死だったんじゃないんですか。アン夫人らしい髪型、アン夫人らしい服装の誰か、を見たのであり、アン夫人の顔をしっかり見たわけではありませんね。アン夫人によく似た誰かがアン夫人風の服装をしていなかったとは、100%言い切れますか?神に誓って言えますか?とても言えないでしょう!」

 

「異議有り!」

 

 シェーファーが机を叩いて立ち上がった。

 

 

 

 

 ゴールディがコリンズを実際に見たのは法廷の廊下で会ったとき、一度きりだった。

 

 彼はグレイのダブルのスーツを着ていた。年のころ、五十前だろうか。髪は薄くなりかけていたが整った顔立ちの男だった。日常の細々とした雑用を処理する秘書だと聞いてゴールディが想像していた控え目な目立たぬ男と違い、コリンズは体格もよければ、眼光も鋭く、かなりの威圧感があった。

 

「ジェイムズ・コリンズか。ねえ、アン・パワーズに横恋慕してて、自分のものにならないなら、可愛さあまって憎さ百倍とか

 

 それはないな、ヴィンスは言った。

 

「そうね、昼メロじゃあるまいしね」

 

 ゴールディは肩をすくめて少し笑った。気はひどく重いのに、軽口を叩ける自分が不思議だった。

 

 

 

       

 

 

 その日から熱が出て、ゴールディは二日間寝込んだ。体中の震えと耐えがたい頭痛が、ゴールディを考えることから解放してくれた。

 

 三日目の朝、熱が引いた。体が楽になるとつくづく思った。健康ってありがたい。

 

 トーストにジャムをつけてかじりながら、テレビをつけた。ジャズの演奏をやっていた。デキシーランドジャズだ。「聖者が街にやってくる」を代表とするデキシーランドジャズ。明るさの中にどこか物悲しさを秘めている。トランペットの先を見ながら、トーストをゆっくり噛んでいると、何かが頭をよぎった。なんだか、思い出さなければならない影のような記憶の揺らめきだった。

 

 なんだろう、なんだろう

 

 眉をしかめ、目を細めてゴールディは考えた。

 

 そうだ、夢を見た

 

 そうだ、熱にうなされてる間に夢を見たんだ。奇妙な夢だった。アンがひどい南部なまりで楽しそうに話していた。アン。近づいていくと少しずつアンの顔が変わっていき一人の女の顔になった。女は手のひらに小さなガラスでできた翼魚の置物をのせている。そして言うのだ。ガラス製の翼のある魚なの、また来てちょうだい。

 

 変わっていったその女の顔に、見覚えがあった。いつ、どこで、見たんだろう。赤みがかったブロンド、密集したそばかす、厚く肉感的なくちびる、そしてかなりの南部なまり。かなり恰幅のいい女だった。十年も前なら輝くばかりに美しかったかもしれない、そんな女。どこで見たんだろう。アンの顔が次第に変わっていったところを見ると、アンと関係ある女なのだろうか。