アーモンドクロワッサンと何気ない始まり:シルバ

 

 

 それは何気ない始まりだった。

 

 おどおどしたりびくつく暇もないくらい何気ない始まりだった。

 

 そういうことの始まりには、私なりのイメージがあった。

 

 小さい頃の空想癖をそのまま引きずって大人になった女の一人だったから、今だに何をしていようと、どんな人混みの中でも、目をつぶれば自分なりのイマジネーションを広げられる、というやっかいな能力を捨て切れずにいた。だからそういうことの始まりを何度も想像してたと思う。自分でも気づかぬうちに

 

 

 想像しながら、自分だけはそうならないだろうと自負していた。TVの中でドタバタ演じる女たちを、ソファに寝そべり大きなマグカップでコーヒー飲みながら見ている、そんな余裕を抱え込み、イマジネーションの世界だけにとどめてきた。

 

 しかし、ここに来てイマジネーションはクリアになった。

 

 それは多分夜だろう。六時、七時、そんな生易しい時刻じゃない…。九時、十時あるいはミッドナイトはとうに過ぎているかもしれない。

 

 ゴーストじみた人間や、浮浪者たちの彷徨いタイム。私はアパートへの帰り道、二十四時間スーパーからオレンジジュース、ミルク、それにココナッツ入りクッキーなどを買って出てくる。

 

 私は多分疲れて見えるだろう。ギギ、ギギー思考がほとんど止まってしまったかのように疲れて見える。スーパーのドアを開け、ストリートに出る私からはエネルギーというエネルギーが流れ出てしまっている。

 

 多分、私は窮地にいる。お金か何かのことで困っている。そうだ、私はお金がいるのだ。

 

 サイドウオークには、それなりの男や女がいる。リカーのボトルを茶色の紙袋に隠して体を左右へ揺らして歩く男。肩や腕に刺青をいれた男。訳のわからないことを口走りながらふらふら歩く女。陽気に大声をあげる黒い髪、黒い髭、南方系の男たち

 

 その中へ一歩踏み出すと私も彼らの一員だ。 Wanderer。彷徨い人。夜、歩き回る彷徨い人。異空間での彷徨い人。生暖かい風が耳の後ろをそっと撫で、夏の湿気がまとわりついてくる。

 

 ヘイ

 

 男が声をかけるのはそんなときだ。人種は何でもいい。ただそれらしい格好をしている。黒シャツに黒ズボン、金のネックレス。男は私を見つめ、私の窮地を悟る。私も目で男のねらいを察する。男はゆっくりと口を開く

 

 ここでイマジネーションは終わりだ。そこまでだったらクラシックムービー、フィルムノワールの香りすらある。続いての安ホテルのシーンはごめんだ。とたんにチープな映画になる。

 

 

 

 純粋な恋愛以外の男と女の始まりを、私は長い間、こういうふうに空想し、予感さえしながらも、それは空想の世界だと安心していた。けれどそんなのは極々ありふれたものなのだ。黒シャツに黒ズボン、金のネックレスの男に荒んだ路上人たち…そんなお膳立てがいつもあるとは限らない。

 

 実際、その始まりは空想のようにエキサィティングでもなければ神秘的シャドーにも染まっていなかった。それは趣味でもないのに気まぐれで買ったセーターみたいなものだった。窓をカタカタいわせる秋風、カーペットに跳んだリンゴの種、傘から垂れる雨の滴、そんな何気なさだった。

 

 

 

 

 男は柔らかな微笑みを浮かべていた。ニートにカットされたブラウンとレッドの中間の髮。鼻の周りの密集したそばかすと、額にくっきりとよった皺数本がどこかアンバランスで、少年の面影が残っているようにも四十はとうに過ぎているようにも見えた。

 

 たまった洗濯物を二つのビニール袋に詰め、コインじゃらじゃらサンダルぺたぺた、アパートのランドリールームに入っていく私に、男は軽く微笑んだ。

 

 男は洗濯物を洗濯機から一枚一枚取り出しては広げ、乾燥機に入れていた。長袖シャツ、トレーナー、ブリーフ、灰色のソックス。血管の浮いた男の手で取り上げられた灰色のソックスはライトの下でぐったりしたネズミのようにも見えた。

 

 男はひよこ色のトレーナーを着ていた。レモン色でも山吹色でもなく、ひよこ色だった。赤味がかった髪とひよこ色のトレーナーはなぜか私に安心感を与えた。

 

 軽く微笑む私に男も微笑んだ。私は隣の洗濯機に洗濯物を入れ、スイッチをホワイトのところに合わせようか色物のところに合わせようかと迷ったが、結局色物に合わせた。実際はほとんどホワイトだったが色物の方がどことなくフェミニンな気がしたのだ。意味なき見栄ってものだった。

 

 ハロー。

 

 男はゆっくり声をかけた。

 

 ハロー。

 

 学生ですか? 

 

 そんなところです。

 

 大学の夜間クラスを取っていたのだから、まんざら嘘とはいえなかった。たとえ三回に一回しか出ないにしてもだ。

 

 ショーンです、男は言った。あたしはミミです、と返すと、ニックネームかと男は聞いた。にっこり曖昧に微笑む私に、男はそれ以上聞いてこなかった。

 

 卒業はいつですか?

 

 卒業する予定はないんです。単に趣味なんです。それに、ノーマネー、ノータイムですから。

 

 なぜ、ノータイムと付け加えたんだろう。残業もない仕事なので、時間だけは十分にあった。ただお金がないまま時間だけいくらあっても虚しい気がしてそれがノータイムと付け加えさせた。

 

 それは残念ですね。男は最後の洗濯物を広げてそれは青いストライプ人りのティーシャツだった。二、三度振って、乾燥機に入れた。

 

 ここに一生住みたいなんて惚れ込むには、冬は寒すぎ、家賃は高過ぎたが、国へ帰りたくはなかった。あのホームタウンに帰ることを思う度、心にざざーと風が吹いた。ここへ来て小さな自由を掴んだ、そう感じていた。まあ常識外れの女、なんて陰口を叩かれ、家族が肩身の狭い思いもすることもなければ、誰にもうるさいことを言われない、そんな小さくて大きな自由。小さなプールで手足を伸ばし、たまに爪先で水しぶきをピシャンとあげながら背中で浮かんでるような、そんな小さくて大きな自由。

 

 ロンリー?イエス。けれど、もう戻れなかった。

 

 生活はきりきりで小切手帳を前に溜息をついたり、財布を意味なく開けたりすることがないとはいえなかったが、なんとか暮していけた。もっと田舎の物価の安いところへ移っていたら、スリーベッドルームのアパートも夢じゃなかったかもしれない。けれど私は都会に住みたかった。三十マイル走ってやっとデパートがあるようなのどかで広大なところは、それなりに素敵だろうけどノーサンクス。私は雑多な人間が共存するエネルギーが好きだった。

 

 ジャズが流れるカフェでのランチがカウンターでのコールドサンドになっても、好きだったシアターから足が遠ざかっても、一時間程度なら雨が降っていようとタクシーに乗らずに歩き、雨を吸って靴がジャッジャッと音をたてるのを聞く羽目になっても、別に苦にはならなかった。そう、苦にはならなかった。

 

 

 

 

 男を二度目に見かけたのは、冬が誇り高きスピードで領地を広げようとしているときだった。私は以前よく行ったカフェの前で、コートのポケットに手を入れ、何やら映画の半券のようなものを握り締め、立っていた。

 

 実のところ、取りたてて何を考えていたわけでもなかった。強いていうならノスタルジックなフィーリングか…。そのカフェは、生活がまだ新鮮だったころのシンボルで、多いときには日に二回も来た。アーモンドクロワッサンとコーヒーを頼み、スケッチブックでも入りそうな大きな鞄から雑誌を取り出しゆっくりとページをめくるのがささやかな楽しみだった。

 

 私は決して贅沢な人間じゃない。ジュエリーとか、スーパーカーとか、一等地のコンドミニアムそんなものを望んでるわけじゃない。ただ、たまにゆったりしたカフェで、アーモンドクロワッサンとコーヒーを飲みながら、人生も捨てたもんじゃないわねなど思いたかったのだ。

 

 焦点不明の目をしてぼぉーっと立っている私に、入りませんか、と男は声をかけた。私はなぜか動揺した。古いアルバムに涙しているのを見られてしまったようで気恥ずかしかった。

 

 お財布持ってくるの忘れちゃったんです。

 

 そんなのいいですよ、僕のおごりです。

 

 そういう男の手にはマホガニー色のアタッシュケースが握られていた。隠し模様でストライプ入りのライトブラウンのスーツが明るい髪によく合っていた。

 

 男はスピナッチ入りのクロワッサンにブロッコリスーブ、それにティをオーダーした。私はアーモンドクロワッサンにコーヒー。

 

 パリパリとクリスピーな音をたてるクロワッサンを噛みしめながら、私は陽気な装いというのを取り戻していた。至福とは言わなくともほとんどハッピーだった。幸せな装いに成功して気をよくした私は、おいしいですよ、ちょっと飲んでみませんか、と男が差し出したスープのスプーンを、無邪気を装い受け取ってすすってみせた。丸いスプーンにブロッコリをのせて口に流し込み、私は全く上機嫌だった。

 

 スープの味が残っている口に、アーモンドのかけらを皿から摘み上げ、奥歯で噛んでいると男が言った。

 

 あのアパート、僕は出たんですよ。

 

 そうですか。

 

 前よりはちょっとリッチというわけです。

 

 それはおめでとうございます。

 

 それはそれはというように頷きながら、私は微笑んだ。

 

 すると男は不思議な視線で私を見た。私は男の表情を読めなかったし、読む努力もしなかった。男は借金を申し入れた様にどこか申しわけなさそうにも、何かいたずらを考えてる男の子のようにも見えた。

 

 今でもノータイム、ノーマネーですか。

 

 時間だけはありますね。

 

 額を中指で押さえながら、私は言った。

 

 パートタイムジョブでもさがしているんですか。

 

 そんなとこですね。

 

 私はディスカウントショップで、この商品もう少しばかり安くなりませんか、とでもいう表情をしていたに違いない。パートタイムなどする気はないはずだった。仕事と名のつくものは九時から五時まででたくさんのはず。プリンターの音の中で過ごす毎日に私は疲れきっていた。

 

 カフェを出て、男と一緒に歩き出した。風が歯にしみ、耳がちぎれそうに痛かった。帽子を買わなきゃ、耳がすっぽり入るくらいの。大きなマフラーも買わなきゃね、首と頬にしっかり巻きつけるため

 

 こんな風に異性と歩くのは久しぶりだったが、ちっとも浮かれてこなかった。

 

 ここ数年で三回恋をしたが、裏切るか裹切られるかで、実は結ばなかった。それは湿気のあるペーパーにつけた火みたいなものだった。最後の方は情熱もなくなって「裏切る」なんて言葉すらドラマチック過ぎる、そんな関係だった。

 

 実際、もう男にときめくことはないだろう、と感じていた。自分が女の定義にあてはまるのかすら、わからなくなっていた。

 

 少し前から、肩の下まで伸ばしていた髪がところどころ白くなり始めていた。若白髪…。どうにもぴんとこない言葉だった。私は白くなった髪をグレイヘアではなくシルバーと呼ぶことにした。グレイは光を弾かないが、シルバーは弾く。今のところ、ファッションでメッシュに染めたように見えなくもない。

 

 ふん! 鏡を見て時々そんな声を上げた。別に悪くないじゃん、と思った。まったくのシルバーになったら、全てが吹っ切れそうな気がした。自分の中途半端な思考や感情、全てが。

 

 私は英語を二段階おとして話し、四才若く言い、秘書学校に行くために英語の勉強をしていると嘘をついた。自分で自分のコーティングだ。何のコーティング? 

 

 anonymity。 匿名のコーティング。

 

 どうして? 得はしないまでも損はしないだろうと思ったのだ。漠然とながら。

 

 アパートすぐそこなんです。僕の部屋に寄りませんか。

 

 男はこもった声に無理にはずみをつけたように言った。

 

 そうですねえ

 

 その誘いを私は二ヶ月ぶりにきた請求書のように受け取った。

 

 男と並んでゆっくり歩いた。頭でかすかに羽音がした。

 

 男がエレベータのボタンを押したときには、その羽音はうるさいほどになっていた。耳鳴りかしら、耳をとんとん叩いたが、音は確かに頭の中からだった。

 

 エレベータは時折、超音波じみた音をさせながら上がっていき、私はいつか見たテレビでマネキンが動き出すというエピソードを思い出していた。人間になったマネキンが、自分がマネキンであったことを忘れエレベータに乗り、街へ繰り出すのだ。

 

 あたしの場合は反対だ、人間のマネキン化。匿名コーティングし、マネキン化していくのだ。いったい毎日、毎晩、何人の人間がマネキン化していくのだろう。エレベータに乗り、街へ繰り出していくのだろう。

 

 ショーンの部屋は暖房がよくきいていた。家賃は私のアパートの二倍はするだろう。フロアと壁の色がミスマッチ。カーペットのグリーンが濃すぎる。ライトグリーンならまだしも、モスグリーンに黒を落としたような緑はどうにも暗すぎた。

 

 素敵ね。

 

 ビールにする?ワイン?

 

 どちらもいらないと言った。ショーンはテレビをつけた。民主党の何とかという上院議員が演説している。

 

 あなたがたが本当に欲しいものは何ですか?

 

 お得意のポーズで両手を広げている。そのあと、教育か、温かい家族の往む家か、子供を安心して歩かせられる環境か、完璧なる医療保険かと聞き続ける。

 

 突然ショーンが肩に手を回してきたので、私はびっくりした。けれど動揺はしなかった。予期した突然、予想したびっくりだった。にもかかわらず私の心臓は速く打ち始めていた。

 

 ショーンのタッチに少しずつ反応していきながら、私は依然、この部屋の暖房効きすぎね、なんて思っていた。心は中性で、反応は一応女性…。

 

 私とショーンはベッドルームに入っていった。肩を抱き合ってはいたが、ロマンチックさのかけらもなかった。一人の病人をもう一人の病人が支えてる、そんな感じだった。支えているのが私なのか、支えられてるのが私なのか、どっちにしても薄暗いライティングの中で二人の男女がベッドルームに向かう雰囲気にはほど遠かった。リビングのテレビはついたままで、トークショーに変わっていた。

 

 ベッドルームは悪くなかった。パープルがかった青。私の好きな色。

 

 私たちは極々普通のラブメイキングをした。

 

 どこからが普通でどこからがちょっと変、どこからがエクセレントなんてはっきり言えるほどのエキスパートでもなかったが、極々普通と結論を出したあと、私はナイトテーブルにあった本をパラパラ指先で弄んだ。

 

 ショーンがバスローブをはおってバスルームから出てきた。黒いローブ。エアロビックスのあとのように汗をかいた胸にはそばかすが浮き上かっている。

 

 わたしがボタンの掛け間違いに気づき、一つずつ止め直していると、ショーンが小さな箱を差し出した。

 

 何、これ?

 

 見上げる私にショーンは軽く口の端だけ上げてスマイルした。

 

 それは小さな黒い箱だった。つやのある黒に、細い赤いストライプが入っている。メンズパフュー厶の箱のようにも見えた。

 

 開けると四つにたたまれた百ドル札が一枚入っていた。

 

 何なの?

 

 私は聞いた。怒るか、当惑するか、冗談めかして笑いとばすか、何か積極的な感情表現をすべきだったのかもしれない。けれど私はまるで無表情だった。

 

 私は数日前に見た映画を思い出していた。その中で女は、ワンナイトスタンドの男に二十ドル渡されて、プロじゃないわよ、と一旦返すのだが、結局受け取る。彼女はそれで何を買ったのだろうか。ラベルだけが妙に光っているウォッカの一本でも買えば、それで終わりの二十ドル。

 

 私の手の中に黒い箱がある。そしてその中に百ドル。

 

 何、これ?

 

 再び聞いた。

 

 ショーンは母親に叱られたかのように私を見た。お金がタイトだと言ってただろ。返さなくていいよ。

 

 私は親指と中指で紙幣を摘み上げた。指先の紙幣の感覚になぜか笑いたくなった。腹を抱えて笑いたくなった。笑い袋のようにあたりかまわず下品な大声で笑いたくなった。両手を叩いてこりゃおかしいと笑いたくなった。けれど、私は相変わらず無表情で箱をテーブルに置き、ベッドに脚をクロスしてブラウスの最後のボタンをとめた。

 

 プロスティチュート。

 

 浮かんできたこの言葉。

 

 プロスティチュート。

 

 私が白人で、もっと知的に着飾っていたら、彼はこんなことはしなかっただろう。見くびられたわね。侮辱の中でも最も程度のひどい侮辱に違いない。私はストリートガールでもエスコートサービスでもないのだ。

 

 けれど心の中に怒りが湧いてくる気配はなかった。責任は私にあるように思えた。どうしてこんなことになったんだろう。何かおかしい。何かがおかしい。もつれにもつれた糸が、巨大な綿菓子のように頭に広がっていく。

 

 ショーンは箱を取り上げ、奇妙なほど緩慢な動作で再び私に渡した。私は、煙のように曖眛に微笑み、立ち上がった。そしてドアを閉め、一、二、三、四、かっきり三十歩歩いてエレベータに乗った。

 

 エレベータに入ると。首をガクッとそらせて天井を見つめた。心と頭と体、三つがばらばらになって空間に浮かんでる、そんな感覚に目をつぶり大きく息を吐いた。私という部品が一瞬にしてばらばらになり、宙にほおり出され、疲れだけがどんよりと空中に残る。

 

 百ドルこの金はショーンに惚れてても憎んでても受け取ることはできなかっただろう。けれど、彼に対する感情は、好き嫌いのスケール上にはなく、罪の意識など感じてやしなかった。私は買い物でお釣りを多く貰ったくらいの気分だった。

 

 アパートへ帰ってから百ドル札一枚、ガラステーブルの上にのせてみた。かなり新しい。それを見ながらショーンが言った言葉を思い出した。今月から離婚手当ての心配がなくなったんだ、妻が再婚したんでね。それにちょっと昇格もしたんだ。だから金に余裕ができた。ショーンは自分から私への金の移行がいかにも正当であるかのように言った。それまで買い控えてきた写真集やコートや靴や鞄に金を費やすのが当然であるかのようにだ。

 

 紙幣を見ながら、これが二十ドル札五枚だったり、十ドル札十枚だったらどうだっただろうか、と考えた。返したかもしれない。けれど百ドル札一枚というのはちょっと小粋に思えたのだ。

 

 

 

 

 

 次にショーンから電話があったのは二週間後だった。私は何を期待していただろう。ショーンの体の温もりか、百ドル札か。どちらにも緊急の欲求は感じていなかった。

 

 ブザーを鳴らす。ドアを開けたショーンはストライプのジャケットに黄色のタイをしていた。靴の茶色は限りなくオレンジ色で、この夜のショーンはビジネスマン風というよりピエロ風だった。

 

 ショーンは微笑み、リビングまで私の手を引いていった。ショーンってこんなに外股だったかしら、そんなこと思いながらソファに腰をかけた。

 

 それから十分後にはベッドルームでショーンの首に手を回していた。フィットネスクラブのマットの上でのエクササイズに似ている。スクイーズースクイーズ! エアロビインストラクターのジーンの声が聞こえてくるようだった。

 

 帰りにショーンがまだ金はタイトかと聞いた。イエス。彼の頭の向こうの壁を見つめながら私は答えた。ノーと言えばショーンとのつながりがなくなってしまうように思えた。整理下手で、余分なものでもしまっておく私だ。関係を絶つ理由がとりたててなければ、しばらくキープしておく方がいい。

 

 ショーンはほっとしたように小さなカードを入れるような封筒を差し出した。私はゆっくり頷き、握りしめたまま、エレベータに乗った。

 

 アパートへの帰り、リカーショップでワインを買った。レッドかホワイトか決めかね、二本、買ってしまった。

 

 外へ出ると、どことなく不穏な空気が流れていた。いや、不穏…というネガティブなエネルギーではなく、それでいてミスティリアスといってしまえば陳腐すぎる…どこか凝縮した空気だった。ワインの入った袋がカタカタと音をたてた。いや実際には音などしなかった...。単にそんな気がしただけかもしれない。見慣れた通りを歩きながら、私は自分が迷子になっていると感じた。

 

 不思議なことに、空気の密度、というか、心の濃度と頭の回路の混迷、というか、急に自分自身も自分を取り巻く全てもが、重みを増した。体が地面に引っ張られる、そんな感じだった。

 

 そのエネルギーは体を包み込んだ。頭、そして背中の上から下までがすーっと見えない手で撫でられていく。そんな不思議な感覚だった。

 

 なんなんだ...。

 

 地面に落とした視線をあげると、道路を隔てて立つ人物が、光っていた。僅かだがぼんやりと。

 

 光っている...。

 

 その人物に焦点を合わせた。

 

 長いコートを着た男だった。

 

 男はこちらに向かって横断歩道を渡ってきた。すれ違う人は誰も彼に目をとめない。私だけがその男から目が離せない。私は一歩も動かず男を見つめた。

 

 横断歩道を渡り切った男は、私のすぐ前に立っていた。

 

 男は不思議な顔をしていた。背格好は普通だった。大して背も高くなければ、横幅も太すぎるわけでもなかった。ただ顔が人間とアライグマ?の中間のようだった。

 

 You can see me.   男が言った。

 

  私が見えるんですね、男の声はソフトでテナーで、囁くようだった。口はほとんど動いてないようにも見えた。

 

 初めてですか? 心配はいりません。 

 

 そしていたわるようにこう言ったのだ。You are a feeler.

 

 そう、確かにそう言った。

 

 You are a feeler.

 

   feeler?  私と男はしばし見つめあった。艶やかな飴玉色に光る男の目は生命力に満ちていた。

 

 私は混乱した。何か言いたかった。けれど言葉が、思考が、頭の中でもつれ、じじじ...とこすれ合った。

 

 私は男に背を向け、小走りした。小走りしながら自分の意思に反していると感じていた。私はもっと男と対面していたかった。

 

 しばし小走りを続けると、大丈夫、と感じた。混乱していたが、大丈夫だと感じていた。

 

 部屋に戻ったころにはすっかり落ちついていた。赤ワインの栓を抜き、グラスに入れ、一口飲んだ。

 

 そして調べた。フィーラーの一番の意味は「触覚」だった。他の意味もいろいろあったがどの辞書でも一番に出てくるのは触覚だった。

 

 触覚か……。  

 

 虫がもっている二本の触覚。ふと私は、自分が目に見えない二本の触覚でいつも何かを探してきた、求めてきたんじゃないかと思った。

 

   男は私がフィーラーだと言った。フィーラーとは、私の特質なのか種類なのか能力なのか、それとも存在そのものなのか。

 

 私を一本の触覚と言ったわけではないのだけは確かだった。触覚のような人間。触覚を持つ人間という意味だったのだろうか。

 

 なんだったんだろ、あの男は…。夢でもみたのか。いや、頭はクリアだった。今夜はショーンのところでアルコールも飲んでいない。酔ってもいない。そして精神も病んでいない。なぜかそれには妙な自信があった。けれど病んでいる人ほど病んでないと思うのだろう。私は フッ フッ と二度ほど笑った。

 

 

 

 

 それからもショーンとは会い続けたが、あの不思議な男に会うことはなかった。

 

 ショーンは時としてとてもスキルフルで、何回かに一度はとてもいい気持ちになることすらできた。彼は生活の中にパラパラちりばめられていた空白の一つを埋めた。ほんの小さな一つの空白であったにしても。

 

 マネキン化した私がショーンに感じるのはほんのテンポラリーな体の接触、それにともなう何のへんてつもないエキサイトメント…ただそれだけのことで、私たちの問には依然会話の広がりは見られなかった。

 

 一度、彼は、これからどうするのと聞いた。私は適当に音楽学院の名をあげ、ピアノを専攻するつもりだと答えた。彼がくちびるの端を中途半端に上げ、笑いを浮かべたところを見ると、どうやら嘘は見破られたようだった。秘書になるつもりだったんじゃないのか、あの学校にピアノ学科などあったかと聞くショーンに、もちろんよ、バリーマニローが出たじゃないの、と大昔前のコパカバーナのメロディをハミングしてみせたが、実のところバリーマニローがどこを出たかなどまるで知らなかったし、何より私は音楽を愛するタイプには見えないはずだった。

 

 一度からかい半分で、前の奥さんの写真を見せて欲しいと言った。ちょっとした好奇心だった。ショーンが引き出しから取り出しだのは、ダークヘアとブルーの目がなんとなくアンバランスな印象を与える顎の尖った女の写真だった。素敵じゃない、と言ったあと、私はこう聞いた。

 

 私と彼女、どっちが魅力的?

 

 言ってから、自分でぞっとした。ぞっと…ぞっと…ぞっと…した。自分をローラーでひき、くるくると丸めて壁に叩きつけたくなった。そしてこのシチュエーション全てを嫌悪した。

 

 その時を除くと、私とショーンの関係は悪くはなかった。マネキンは人との摩擦をできるだけ避けようとする。話らしい話をしなかったのは、都合のよい関係が崩れるのを恐れていたからだ。

 

 雨が降ってる。

 

 ほんとね。

 

 時間まだある?

 

 あるわよ。

 

 今度の水曜?

 

 そうね。

 

 私たちの会話は二語の世界だった。

 

 親しくなるほど言葉数が少なくなるというが、それは精神と肉体の親密さが浸透し、次第に言葉が単純化されていく場合だ。私たちは最初から二語の世界から入ったのだから、出発点と到達点が逆さだった。私たちの二語の世界はそのまま何の広がりも見せなかった。

 

 けれど、それは心地よくすらある世界だった。絶えず投げかけられる言葉の洪水に悩まされることもなく、深みのない二語の世界に身を横たえる…。

 

 

 

 

 

 風の少し和らいだ日だった。私はいつになく軽やか気分で二十五ドル出して買ったばかりのオールウールのマフラーを首に巻きつけながらカフェに入り、アーモンドクロワッサンとコーヒーをオーダーした。手のひらの二倍はありそうな大きなクロワッサンを掴みあげ、勢いよく噛み始めた。こんがり焼けたアーモンドのかけらが歯茎の裏をチクチク刺すのが心地よかった。熱いコーヒーを大きなカップでゴクゴク飲み、目をつぶる。甘いアーモンドの香り、コーヒーの香り。肩の力が抜け、眠気すら感じてきた。

 

 それこそ至福のハピネスだった。カフェの中は暖かく、客層もよく、アーモンドクロワッサンはほどよい甘さで、コーヒーは濃すぎも薄すぎもせず、高級とはいえぬまでも私は趣味よく装っている

 

 顔を上げたのは、頬に冷たい風があたったからだ。入ってきた私と同年代の二人の女が斜め前のテーブルに坐ろうとしていた。一人は黒い髪、黒い目、はっきりした顔だちをしていた。スパニッシュかアラブの血が入ってるような風貌だった。一人はブロンドの髪を二つのピンできりりととめていた。二人ともキャリア志向の女独特の話し方をしていた。

 

 ブロンドが今話題の上院議員の政策は好きだけど中絶に関しては気に入らないと言い、ブラックヘアもそれに賛成し、あんな考えの主がのさばるから女性のフリーダムはいつになっても得られないのよ、と言った。

 

 女のフリーダム

 

 ブロンドはハム&チーズクロワッサン、ブラックヘアはブルーベリーマフィンを注文し、二人とも時々顔をしかめたり、手でノーノー違うわよ、とジェスチャーしながら食べ始めたが、とてもとても幸福そうだった。ブロンドがママはあたしのことを無神論者だって言うのよ、と言い、そう?あたしのママは盲信者だって言うわ、ともう一人が言い、やがて無神論者と盲信者はボーイフレンドの話題に移り、ブロンドヘアはケニーについて、ブラックヘアはジェイクについて、誇らしげに話し始めた。ケニーはとても寝起きが悪いの、男の子ってまったくしょうがないんだから、と言うブロンドヘアも、それに頷くブラックヘアも数分前よりもっと幸福そうに見えた。

 

 私は肘をついて額に手をあてた。ジェラシーに似た羨ましさが体に走った。

 

 フリーダム

 

 二人の女の子のガールズトーク。どこでも見かける光景のはずだった。私は自分と彼女たちとの違いを思った。正道を堂々と歩き、誇らしげに悩みなさそうに笑う彼女たち。頭の表層のみ動かし、蝕む倦怠感に何の抵抗もせず、自分で自分を無視し続けている私。

 

 フリーダム。それはこげたアーモンドのかけらのように、私には意味がなかった。

 

 カッシャーン!

 

 肘に当たったスプーンが驚くほどの音をたててフロアに転げ落ちた。

 

 二人の女は同時にこちらを見た。あたしはソーリーと早口でつぶやいた。ブロンドヘアが微笑み、気にしないでと言い、ブラックヘアが、あら、あなたプロフェッサースコーフのクラス取ってなかった?と聞いてきた。

 

 プロフェッサースコーフ? ああ先学期三週間ほどでドロップした社会人向けのクラスだった。クラスで一人の東洋人だったから目立ったのだろう。クラスヘはいつも黒いワンピースを着てスカーフだけ換えて行った。長い髪、白いメッシュ、大きなイアリング、いつも黒いワンピースといういでたちのオリエンタルの女は目をひいたのかもしれない。小作りな顔は日本でより付加価値がつくようだった。

 

 イエス。覚えているわ。どうだった、あのクラス?

 

 最低よ。あなた正解だったわ、途中で落として。

 

 そう?

 

 ブロンドはテリー、ブラックヘアはスーザンと名乗った。あたしはカオルよ、と言った。

 

 私は落ち着かなかった。黒いセーターを着て気取って脚を組んでるにもかかわらず、表面をサァーつと漂白され、地の色が見えてるような、そんな感じがして何回も脚を組み直した。

 

 どこから?

 

 日本から。

 

 長いの?

 

 うん、結構になるわね。

 

 ここの住み心地どう?

 

 素敵よ。とっても素敵だわ。でも

 

 うん

 

 二人は穏やかな目を私に向けている。

 

 でも

 

 いろいろ大変なんでしょうね。

 

 そうね

 

 私はとても素直な気持ちになっていた。

 

 何だか道に迷っちゃったみたいよ。最初、とっても素敵だと思ったわ。それから、軽いカルチャーショックってのを経験して、それからね全く自分がわかんなくなったみたい。不思議なことにね、ちょっと前までそれにすら気づいてなかったの。

 

 そう言い、ふふふふ私は笑った。 

                            

 全く違った文化ですものね、スーザンが頷き、知らない国じゃ大変よね、テリーが言った。さらに私の言葉を待つ二人に、私は中途半端な笑いを浮かべていた。グラスの水をゴクリと飲むのが精一杯だった。もっと会話に加わりたいと思ったが、それ以上どうにも言葉が出てこなかった。

 

 テリーは自分のルームメートが中国へ行ったときの経験談を二、三、面白おかしく話した。私はすっかり心打ち解けたように笑ってみせた。

 

 けれど私にはわかっていた。道に迷ったのは別に異国にいるからじゃないってこと。どこにいたって同じなのだ。小さな罠はそこら中にある。小さなエスケープのつもりが小さな罠になる。罠が潜むは自分自身。罠も私なら、獲物も私

 

 彼女たちが自分たちの会話に戻り、私はプレー卜に残ってるクロワッサンのかわを人差し指でつぶし始めた。カップの中のコーヒーは薄いミルクの膜を作り始めている。

 

 斜め前の二人ほんの手が届きそうなところに掛けている二人。脚を組んでほんの手が届きそうなところに。なのに彼女たちは、私にはとても遠い存在に思えた。無神論者とか盲信者と自分たちを茶化して呼ぶ彼女たちが、私にはとても遠くに思えた。私は盲信者でも無神論者でもない。私は何者でもないのだ。匿名の仮面をかぶったまま、長い間、呼吸さえしていなかったのかもしれない。

 

 でもでもあたしハッピーのはずじゃない。誰にもしばられてないはずじゃない。精神的にも空間的にも私はフリー。ショーンも、ちょっとした百ドル札も、罪の意識からも、面倒なこと全てひっくるめて私はフリーのはずじゃない。

 

 スプーンでカップをかき混ぜながら、ほんの数分前との気分の違いは何だろう、と考えた。二人の女の子がトリガーなのだろうが、もっともっと根は深く地中を這っていた。彼女たちと一緒に、私は無神論者でも盲信者でもなく、偉大なる彷徨い人だと自分を茶化して笑うためにはどれくらい時間をさかのぼればいいのだろう。

 

 

 

 

 ショーンのアパートメントに足を向けたのは、別に彼に会いたかったからじゃなかった。私は払い忘れた勘定を清算にいくような気持ちだった。

 

 ドアをあけたショーンは一瞬無表情に私を見た。それは間違って配達された箱でも見るかのようだった。

 

 車ある?あるならドライブにでもいかない?

 

 優しく言おうとしたが、有無を言わせぬような、教師が生徒に詰問するようなトーンになってしまった。予期せぬ誘いにショーンは何かの容疑でもかけられたかのような顔をした。そして片方の眉をぴくりと上げて、イエスと答えた。

 

 数ブロック走ったあとショーンは聞いた。

 

 ちょっと行ったところに、時々行く店があるんだ。ジャズでも聞く?

 

 いいわね。

 

 裏通りに車をとめ、入ったのは狭い店だった。案内されたのはステージに近い壁際のテーブルだ。

 

 ドラムがカリスマティクな黒人で、ベース、ピアノ、ギターは白人だった。ピアノは大学教授にも見えそうな雰囲気をまとっていた。

 

 どう思う?

 

 演奏が始まりしばらくすると、ショーンは聞いた。

 

 私は言葉を探した。

 

 バワーフルでもなく、ソウルフルでもノスタルジックでもない。スキルフルっていうのかしらね、そう思ったが、いいわね、と答えた。

 

 ショーンに感じ始めているこの感情は何だろう? 好奇心でも悲しみでもなく…愛などであるはずもなく、苛々でもない。優しさなんて偽善は趣味じゃなく無視されてる痛手なんて繊細さからもほど遠い。じゃ、淋しさだろうか。シンプルに。

 

 私はショーンを改めて見つめた。居心地悪そうにほとんど空になったグラスを何度も口に運んでいるショーンを。

 

 最初のセッションが終わり、店内は明るくなった。

 

 ヘーイ!ショーンじゃないか。

 

 大声とともに髭を生やした体格のいい男がやってきた。

 

 ハーイ、ジョージ。

 

 ショーンは立ち上がり、男の肩を二、三度叩いた。ジョージの連れの女もやってきた。ルイーズだという。ショーンは、こっちはミミと私を紹介した。

 

 私はニッコリ笑い、手を差し伸ばした。

 

 ミミはニックネームでほんとはカオルなの。

 

 本当の名を言う何日も閉じこもった隠れ家を出るような緊張感があった。しかしちょっとした快感でもあった。自分の名を言ったことで、僅かに残っている自己愛がチャリンと音をたてた。

 

 いい名前ね。意味があるの?

 

 ルイーズが聞いた。

 

 大してないわ。

 

 でも、いい名前だ。

 

 ジョージが言った。

 

 ねえ、二人ともジョインしない?

 

 ルイーズが誘い、彼らのテーブルに加わる羽目になった。これでダブルデートの形が整った。

 

 どこでショーンと知り合ったの?

 

 ピーナッツを二、三粒摘みながら、ルイーズが聞いた。

 

 以前、同じアパートメントに住んでいたのよ。

 

 あら、そう、よかったわ、ショーンがいい人見つけて。あたしたち心配していたのよ。離婚後のショーンってきたら…。

 

 やめろよ。

 

 ショーンは笑いながらも目は真剣だった。

 

 会話は進まなかった。三十分ばかりの会話から私が得たのは、ジョージが三匹の犬を飼っていることと、ルイーズが最近、髪を赤く染めたということ。そしてジョージとショーンは以前職場が一緒だったということだ。

 

 次のセッションが始まったのをきっかけに、失礼するよ、と私の腕を取り、ショーンは立ちあがった。

 

 また会いましょうね。ルイーズがレッドヘアを揺らした。

 

 車の中で私は適当にハミングした。別にそんなことしたくはなかったが無理して歌った。そうでもなければ、窒息しそうだった。

 

 カオルか

 

 うん

 

 いい名だ。

 

 そうね。

 

 彼は今夜の進展にひどく当惑しているようだった。そこそこの機能だと満足していた製品が思ったより早く壊れたような気分なのだろう。

 

 今日で彼に会うのも最後だろうと確信した。すると急にリラックスしてきた。そこで私はショーンの神経質そうな横顔を見ながら聞いてみた。

 

 ねえ。仕事、何してんの?

 

 セールスさ。

 

 何の?

 

 オフィス小物とかの

 

 仕事変えようかって考えたことある?

 

 毎日だよ。

 

 そう? でも昇格したんでしょ。

 

 うん、でもマネージャーじゃない。

 

 いつかなれるんでしょ?

 

 無理だろうな。僕の場合、セールスマンはいつまでもセールスマンでセールスマネージャーにはなれないんだ。

 

 なぜ?

 

 ショーンはしばらく黙っていたが、なぜ?と繰り返す私に、小さな声で言った。

 

 時々、4と7の区別がつかなくなる。ときどき4を足したつもりでも7を足してしまってる。カリキュレータを使っても同じなんだ。理屈では分かっていても焦るとだめなんだ。

 

 数字なんか大したことないわよ。会計士にでもなる気がない限りね。

 

 私は陽気に言ってみた。

 

 ははっ。

 

 ショーンは少し笑った。

 

 私たちは初めてしっかりと顔を見合わせ、声を出して笑った。

 

 少しの沈黙のあとショーンは聞いた。

 

 がっかりした?

 

 どうして?

 

 金持ちじゃなくってさ。

 

 金持ちだなんて最初から思ってないわよ。

 

 うん

 

 紳士らしくなくって悪かったって思ってる。でもさ、ちょっとした贅沢をした気分になれたんだ。

 

 何が?

 

 ああ

 

 そのあとは、ショーンも、ミミとしての私も、カオルとしての私も口をきかなかった。

 

 カオルとなった私と、時々4と7の区別のつかないセールスマンになったショーン。私たちの間のイリュージョンは消えた。けれど、もともとそんなものは必用なかったし、存在すらしてなかったのかもしれない。

 

 ショーンに対して異性としてではなく、一人の人間として、真摯な思いが流れ始めるのを感じた。

 

 ショーンは私のアパートの前で車を止め、グッドナイトをグッバイの顔で言った。私は別に悲しくはなかったが、少し淋しかった。

 

 車を出ようとしながら、ショーンの方を振り返ろうとした。

 

 すると再びあの感覚がおそってきた。私の心と頭の触覚が動き出す…そんな感覚。背中、胸、そしてこめかみのあたりまで、濃度の変わった空気が大きな手になって私を触っているようなあの感覚…。

 

 振り返った私は、運転席にいたショーンの横顔に一瞬呼吸が止まった。

 

 それは…限りなくキツネ?…に近い横顔だった。

 

 ショーン… 私はつぶれた声を発した。

 

 こちらを向いたショーン。その顔には金色と銀色のミックスしたような毛が密集して生えている。目はグリーンがかった金色で、大きくなった耳の先の毛は白かった。

 

 でも表情は確かにショーンだった。

 

 怖くないといえば嘘だった。異邦の谷に落ち込んだように、体が少し震えていた。決して逃げ出したいような怖さではなく、大切な何かが指の間から逃げて行ってしまうのでは、という焦りに似た怖さだった。

 

 美しい、と思った。美しい人間。美しいキツネに似た顔をもつ人間。

 

 ショーンは静かに私を見ていた。

 

 見えてるね。

 

 ええ、見える。あなたで二人目。前にあった人はアライグマに似てたわ。

 

 ショーンは何も言わない。

 

 その人がフィーラーって言葉を口にしたの。ねえ、フィーラーって何?

 

 フィーラーか。うん、そうだな、時々レイヤー族…僕たちみたいな人間が見える人だよ。何か凝縮された瞬間に見える人が多いっていうけど、ただゆったりしているときに見え始めたって人もいるらしい。

 

 レイヤー族って何?

 

 普通の人々のことをコモン族って言うとしたら、コモン族には入り込むことのできないレイヤーに存在するものたちだよ。

 

 そのレイヤーってどこにあるの?

 

 この現実世界の同じところさ。もし僕らのレイヤーが見えるメガネがあったとしたら、そう、3Dのメガネのようにね、それをかけたら、僕らレイヤー族の姿やその他いろんなものたちの姿が見えるのさ。もっともそんな便利なメガネはないけどね。でも一瞬、そのメガネをかけた状態になれるものがフィーラーなんだ。今の君に僕が見えるようにね。

 

 ねえ、フィーラーって触覚って意味だよね。

 

 そうだね。層を分けているベールのような存在をまるで触覚を伸ばして触って一部だけ透明にするがごとく見ることのできる人がフィーラーなのさ。コモン族の中に時折現れるみたいだね。触覚のような感性で見ようと思えば見える人……。それとは違ってそのベールをくぐれるコモン族もいる。彼らはベールのところどころに存在する揺らぎのような輪を見つけてくぐるんだ。そうすると僕たちの世界をいっぺんに見ることが可能らしい。

 

 ねえ、私がまだ二人しか見てないってことは、いつでも見えるわけじゃないよね、レイヤー族の人たちを。

 

 そうだね。どんどん見れるようになる人もいれば、まったく見えなくなってしまう人もいる。

 

 レイヤー族ってどれくらいいるの?

 

 かなり珍しいと思うよ。でもまったくへんてつない暮らしをしているよ。映画のスーパーヒーローみたいなのを想像してもらっても困るよ。

 

 じゃ、フィーラーってどれくらいいるの? 

 

 決して多くはないね。

 

 ショーンってキツネ系だよね。

 

 うん、ま、そうだな。

 

 何かキツネに備わってる能力もあるの?

 

 あんまり現実社会では約に立たないことが多いね。ははっ、計算もろくにできないしね。けれど、確かにキツネの持つ優れた点を持っているかもな。

 

 それを生かした業種って考えなかった?

 

 ハハッ。穴掘り業? 野ねずみとり業? 特にないな。僕はまったく平凡な人間だよ。

 

 みんな何かの動物系なの?

 

 そうとばかりも限らないかな。僕だってたまたま見た目はキツネに近いけれど、完全なるキツネ人間ってわけじゃない。一人一人個性がある。ただ共通しているのは僕たちみたいなのはレイヤー族の一形態にすぎないってことさ。

 

 そうなの?

 

   よくわからないけれど、私はうなづいた。

 

 僕たちの仲間は静かな人が多いかな。内向的で静かで穏やかな人。

 

 私は何となく感じていたのかな。ショーンの何かを。どうなんだろう。

 

 少し微笑んで、ショーンを見つめた。不思議で美しい、と心から思った。

 

 

 

 車を降りると、車が見えなくなるまで手を振った。ショーンにではなく、自分の中の何かに手を振った。別れを告げているのか、新しい何かに手を振っているのかわからないまま手を振り続けた。

 

 真夜中まで開いているスーパーに足を向けた。ダイエッコーク2缶とスナックを買って店を出るころには、私は長い間失っていたものを少し取り戻せたと感じていた。けれどそれが何なのかはわからなかった。

 

  強い風に向かい、泳ぐようにして歩くと、息切れがしてきた。

 

 芽生え始めた陽の気配に抵抗するように、私の悪い癖、ネガティブな抑うつ感、倦怠感が襲ってきそうな気がした。そんなときは自分が干し魚になったように感じる。

 

 干し魚。小さいころ、店先で吊るされていた、目の離れた魚、ポロッと開けた口に小さな歯が並んでいる魚。限りなく死んでいるのに生臭さも残している不思議な物体。

 

 いや。そんなものにはならない。

 

 私は決心した。

 

 目を固く閉じると、突然の静けさに涙が流れてきた。