アティチュード:タキ

 

 山岸さんのとこの下の子はショウタくん、という。小さい頃からかわいらしい知的な顔をしていた。「言葉の発達が遅くて」山岸さんはさほど気にしてるふうもなく言った。数日前会ったショウタくんは少し流れるような視線で「こんにちは!」と言った。その声が随分低くなっていたのに驚き、わあ!すっかりお兄ちゃんになったね!と言いたかったが、ゆっくり「こんにちは。ショウくん」と言うにとどめておいた。

 

「この子、大きな刺激が苦手なんです。ヘッドライトにあたった鹿って英語があるでしょ、その言葉聞いたとき、そんな感じだなって思ったんです。鹿が急に車のヘッドライトに照らされちゃったら、目を真ん丸にして驚いて固まるでしょ。この子、小さな刺激でもそんな顔になるんです」

 

 よりによって大きな刺激が苦手なショウタくんのお父さんがメタか……。急に眼差しが大人びてきたお兄ちゃんのソウタくんの方はどう受け止めているんだろう。

 

 

 

 メタ。メタモルフォーシス。変身。これは私たちが最も気を使わなければならない現象だ。一つのレイヤーだけに具現化するものなら、扱う方法は種々ある。けれど、メタだけは別だ。すべての層、レイヤーにさらされる。

 

 私がメタを目の当たりにしたケースは多くはない。まさか隣の山岸さんのご主人に起こるとは思ってもみなかった。

 

「山岸さぁん」買い物から帰ってきたとき、ドア越しにゴミ袋をガサガサいわせるような音がしたので、声をかけた。小学校の南班のプリントをなくしてしまったので見せてもらえればと思ったのだ。

 

 少しだけドアを開けた山岸さんは、いつもは、あーら!と元気に笑いかけてくるのだが、少し息をのみ、恐る恐るといった表情で私を見た。

 

 どうしたんですか? ドアの隙間から、血らしきものが床についているのが見えた。点々、というより、かなりの量で、直径20センチほどもある血だまりも見えた。けれど血、にしては色が薄い気もした。

 

「誰か怪我なさったんですか?」

 

 そのとき、床に落ちている不思議な物体が目に入った。山岸さんのところは角部屋のメゾネットタイプで入口の玄関扉こそうちの扉の隣に並んでついているが、中の広さは全然違う。吹き抜けもあるし、階段もある。

 

 その物体は玄関から比較的近いところに転がるように存在していた。

 

 緩やかな「くの字型」に曲がった子供の腕のような形だった。ただ色は薄い銅色、というかカッパー色というか…。

 

 メタで似たケースを以前一度だけ見たことがあった。シルバに付いてメタの人の安全確認についていったときのことだ。メタモルフォーシスしたのは30半ばの妻で、夫は「身長は少し縮みました、でも、顔は妻のままです」と笑顔で言い、すーっと涙を流した。奥の部屋に座っていた妻は少し緑がかった薄銅色をしていた。

 

 その経験もあったので、メタだ、と確信した。甲虫類のメタに違いない。

 

 もしかしたら、ご主人の体に何らかの変化があって、あそこに落ちているのは彼の体の一部分ではないか…。単刀直入に聞いてみた。もし、そうなら、そのようなケースに私は少し経験があるので、安全対策に協力させてもらえないだろうか、と。

 

 山岸さんは目を見開き、しばらく、というか、随分長い間、微動だにせず私を見つめていたが、やがて大きく息を吐くと言った。「お願い…します」

      

 

 シルバに伝えなければ。今すぐに。

 

 

 

               ☆

 

 

 シルバと出会ったのは、もう何年も前だ。限りなく昔のことのことのようであり、たった今のようでもある。

 

 私がジョウと出会って2年程経ったころだっただろうか。

 

 あの頃の私は若すぎないアル中で、ジョウはまだ若いアル中だった。ジョウと私は似たような年だったが、ジョウは男だからまだ若く、私は女だからそうともいかずと不公平な話だ。

 

 ジョウと私は酒がいける口で、それが不幸の始まりだった。酒がいけるとアル中にならない体質は同質ではない、それどころか反対だ、と気づいたときには既に遅しで、私もジョウもアル中だった。

 

 私は顔にも態度にも出ないドリンカー。一杯、二杯、三杯、四杯八杯、九杯いくら飲んでも一向に平気。醜態もさらさず、泣き上戸にもならず、しらふのときとほとんど変わらない。

 

 酒が飲めると知ったときひどく嬉しかった。自分の隠された才能を見出したようで嬉しかった。得意にさえなった。それまで何をやっても平凡の域を出なかった私だったから、不良少女になったときさえ、ちょうどいいあんばいの不良少女だった私だったから、女なのに酒が飲める、ひどく飲める、いくら飲んでもしらふのままこの事実は私を有頂天にした。

 

 ジョウは14で飲み始め、あたしは15だった。

 

 最初はビール。口の中で何かがパチバチ弾けた感じは、初めてコーラを飲んだときに似ていた。酒が好きになるだろう予感がした。すると、自分が大人びて思えた。

 

 それから数カ月後にはウイスキーをロックで飲んで平気だった。酒を飲み始めた私の中には池ができた。いったん池ができると干上がらせるのが恐かった。だから、体に池を飼った。

 

 アルコールの味が好きだった。自分の変化が好きだった。どんなに緊張していてもリラックスできる。度胸らしきものもついてくる。雄弁にもなれる。

 

 お酒を飲むとね、体がふわっとなるのよ、そういう子もいたが、私は違った。酒を注ぎ込み池の水位が上がると、私の安定感は増した。体と頭のねじがほんの少しだけ緩んだが、緩んだ分だけ、物事の衝撃は少なくなった。

 

 酒に強い女だと評判になった。酒が強いからといって、誰に迷惑かけるわけでもない。可愛げのない女だと言う男たちがいたが、そういう男はどちらにしても趣味じゃなかった。不良少女はとうに卒業し、一見普通のOLになった時期も数年あったが飲み続けた。

 

 人並にデートもしたが、酒ねらいだった。彼らの前で、底無し沼のように飲んだ。ワイン、ウイスキー、ジン、ウオッカ、テキーラ、ラム、何でもこいだった。勘定を払うころには怒りで顔が引きつっている男も一人や二人ではなかった。家まで送るよ、という男たちの申し出を丁重に断り、しゃきっと一人で電車に乗った。女らしくないやつだ、陰口を叩かれた。山姥だ、面と向かって言ったものもいたが、私は鼻で笑い、気にもとめなかった。

 

 長い間、酒の弊害は全くなかった。酒を飲むと食欲が落ちたから太りもしなかった。ただ、体の濃度が少しずつ薄くなるようでそれが多少気になった。

 

 ある時、巨大な水袋になった夢を見た。動こうにも動けない。ごろごろ寝返りうって目が覚めた。

 

 もともといたようでいなかった友達もいつの間にか完全消滅した。女友達は結婚し、少しずれて男友達も年貢を納めていった。恋人らしきものはできては消え、男運は悪かった。しまいには満足いく飲み友達さえ見つけられなくなった。そして残されたのは完全なるキッチンドリンカーの道だ。

 

 店で飲む男たちに比べれば、私が酒に費やす金はずっと少なかった。それでもある日、ざっと計算したら五百万になった。五百万……

 

 その数字は私を愕然とさせた。

 

 酒に費やさなくとも何かに使っていたには違いない。履きもしないパンプス、流行ブランドの擬似ファッション、自己満足のための小洒落た物……

 

 けれど案外有効に使っていたかもしれないのだ。貯金として残っていたかもしれない。焦りを感じた。何かしなければ。五百万も使ってアル中になっただけだったら何とも淋しいじゃない。だから毎月少しばかり寄付する手続きを取った。特別な時以外は、もう酒は飲まない、と決心もした。前者は続いたが、後者は数日後には消滅した。

 

 名前だけ夢々しい安普請のマンションに帰ると、取りあえず目に入ったリカーに手を伸ばす、それが日課だった。私へのレッテルは酒が強いから大酒飲みへととうの昔に変わっており、その違いもわからぬまま、数年が経っていた。そしてマンションからアパートに移るころには、仕事は飲み屋の給仕だけになり、髪に一色ずつメッシュを加えるのだけが楽しみになった。レインボーカラーの髪の私に真剣に同情するやつはいないだろう。憐れまれるのはいい。馬鹿にされるのもいい。だけど同情だけはされたくなかった。

 

 ある日、シェフのレイコが妊娠した。子供を待ち望んでいた彼女だったから、満面笑みで仲間に報告した。もうつわりがひどくってね、と言いながら、レイコは満足そうな笑みを浮かべた。みなレイコの周りに集まってきた。タエコは自分の事細かな経験談を披露し、エリはうらやましいわ、とレイコの肩を抱き、カヨコにいたっては「こんにちは赤ちゃん」をハミングしでみせた。

 

 私は、何か言わなければ……と手を止めた。

 

 ねえ、つわりって二日酔いに似てるのかしら?

 

 みな私を見た。一斉に私を見た。居心地悪さに私は続けた。あたしね、二日酔いなんて滅多にならないんだけど、ときおり朝起きるとね、むかむかして何も食べれないことがあるの。それってつわりに似てんのかな。

 

 二日酔いですってさ、カヨコが眉をひそめた。神聖な妊娠と二日酔いを比べるのは徹底的に悪趣味のようだった。飲み屋をやっていてもだ。私ににまったく悪気はなかったにしてもだ。

 

 レイコが臨月に入るころ、私も体調の変化を感じ始めた。もちろんこっちはおめでたくはない。アルコールに対する反応の変化だ。飲みすぎた翌日にとみに疲れを感じるようになった。吐き気や、めまいに立っているのさえ苦しい朝もあった。

 

 ある朝、バスルームでふらりとしゃがみこんだ。ドクッドクッ。心臓。腹、こめかみ、首、あらゆる血管が波うっていた。私はゆっくり立ち上がり、冷たい水で顔を洗った。若さにまかせてお酒をがぶ飲みし、不安や焦りや怒り、全てを酒で薄めていくそんな日々が去っていくそう思うと泣けてきた。

 

 その日、アルコールには手をつけず部屋をくるりと見まわした。

 

 女にしては殺風景な部屋。タンスをわけもなく開けては閉じたあと、机の引き出しを一つ一つ開けてみた。三段目の引き出しを開けたとき、もう随分前に母が送ってきた見合い写真が目に入った。何年も会っていない母が送ってきた、田舎の親戚のマッチメーカーからの男性の写真。見合いせぬまま終わった見合い話。男はえんじのタイをして青みがかった灰色のスーツを着ていた。丹頂鶴みたいな顔だと思った。しばらく見つめたあと、写真を閉じた。そもそも今の時代に見合いなど化石みたいなものなのだ。

 

 妹のパピーが大学時代から付き合っていた男性と結婚したと聞いたのはそれからしばらくしてからだった。結婚式はしたのだろうが、私は呼ばれなかった。

 

 酒が体に害を与えている、この事実を認めぬわけにいかなくなった。そう、ひずみが出てきていた。予感はしていたが、予想はしていなかった。ひずみが出たのはジョウの場合は肝臓で、私の場合は盲腸だった。

 

 盲腸と酒が関係があるなど思っちゃいない。けれど酒さえやめていたら盲腸にならなかった……そんな気がしてならなかった。酒さえ飲まなかったら、私の盲腸は痛みだしたりせず、取り出されることもなく、今だにあるべき場所にある……そんな気がしてならなかった。

 

 手術のあと、私の中の池は干上がった。干上がった池は空洞になった。そして時とともに大きくなった。その空洞は酒をいくら飲んでもごまかせなかった。体中が酒づけになってもそこだけは酒をはじいて……それだけに始末が悪かった。

 

 それは以前経験した或る空間に似ていた。私の中に視覚聴覚何もよせつけない一つの空間がある……そんな感覚。ほとんど悟りに似た感覚。皆もそれを持ってるのかそれを感じたことあるのか聞いてみたかったが、変人扱いされそうで恐かった。

 

 誰にも言えなかった。なぜか、いつかあひるの夢見ていた私が寝ぼけて「水かきをよく洗っといてちょうだい」と言ったときの、パピーの何ともスイートで困った様子を思い出したりした。

 

 

 

 ジョウに会ったのは、その急性虫垂炎でかつぎこまれた病院でだった。

 

 手術も無事終わり、翌日には退院の予定だった。私はトイレの帰り、スリッパの音をぺ夕ぺ夕響かせながら、ロビーへの階段を下りていった。週刊誌でもあるのでは、と思ったのだ。階段を一段降りるたび右腹がつったが、手摺をつたわりながらどうにか降りていった。一日中うとうとしていたので、時間の感覚はなかったが、真夜中といっていい時間のはずだった。

 

 ロビーに入るなり、人の気配を感じた。男が一人ソファに坐っていた。背を向けて煙草を吸っている。ぷふぁ……頭の上から煙が上がっていた。

 

 禁煙でしょ、病院だし・・・。

 

 あたしはソファの横のマガジンラックから、雑誌名も確かめずファッション雑誌らしきものを取った。腹にピピッと痛みが走った。手に取りながら男をちらりと見ると、男も横目で私を見た。

 

 奇妙な風貌だった。ちりちりの髪を頭の上だけ5、6センチ立たせ、サイドと後ろはほとんど刈り上げていた。

 

 髪型を除いては特に変わったところは見られなかった。色は黒かったが顔立ちは日本人に見えた。それでもその髪型と浅黒さで、ハーフは無理でもクォーターくらいに見えなくもなかった。

 

 男はうまそうに煙草を吸っていた。煙草を挟む男の指はひどく骨ばって見えた。

 

 立ち去ろうとする私に男が声をかけた。

 

「あの……。これ、飲みますか?」

 

 男が差し出しだのは、りんごジュースだった。

 

「はあ」

 

 なぜか私は受け取った。露を持った缶は冷たかった。私はそれを不思議な物体のように手のひらに転がした。

 

「あのぉ、こんな時間に面会ですか?」

 

「いや、患者ですよ、僕も」

 

 どこかやけっぱちな響きだった。

 

 男は死んでも病院になど来たがらないタイプに見えた。口でもよじり、それこそ酒でもクイックイッと飮んでいるのが似合うタイプ。

 

「入院してるんですか?]

 

「そんなとこです。あなたは?」

 

「盲腸です」

 

 男はああ、とうなづいた。

 

 男は白地に黄色い太陽の描かれたティーシャツ、その上にブルゾンをはおっていた。胸の模様は、見方によっては電球のようにも見えた。

 

 男は真っ白なスニーカーを履いていた。細い体の割に大きなスニーカーだった。真っ白で、力強い、大きなスニーカーだった。そのスニーカーを見ていると、重力に向かって巨大な手で思いっきり肩を押されたような気になった。

 

「入院患者には見えませんね」

 

「そうですか?」

 

「どこが悪いんですか?」

 

「ぱたりですよ」

 

「ぱたり?」

 

「わけがわからぬまま痛みがきてぱたり。で、救急車です」

 

 男は煙草の煙を吹き上げたが、途中でむせて、グリーンのブルゾンを揺らし咳き込んだ。

 

「どこが悪いんですか?」

 

 私はもう一度聞いた。

 

「肝臓でしょう。ここのあたりです。とにかくぱたりだから参りました。不思議だな。今までこんなことなかったのに。いくら飲んでも帰るまでぶっ倒れなかったのに。それが五杯飲んだところでぱたりなんですよ。突然ぱたり。気づいたらここだったってわけです」

 

 男は近視らしい目を少し細めて、あたしを見た。そして急にかしこまった様子になった。

 

「タマイジョウジです。みなジョウって呼びます」 男はジョージでもジョーでもなく、ジョウジ、と、ウを強調した。

 

 私は少しだけ体を曲げお辞儀をした。

 

「川野タキです。あのじょうじってカタカナですか?」

 

「いや、漢字ですよ」

 

「どんな漢字でしょう?」

 

「譲るの譲に一、二の二で譲二、タマイはお手玉の玉に井戸の井です」

 

「日本人なんですよね」

 

「そうです。全くの日本人です」

 

 ジョウはチリチリした髪を撫でた。

 

 ふと見えない手で頭から背中からスイッーと触れられた気がした。周りの空気がふわりと流れた。なぜか目をつぶらずにいられず、しばし固く目をつぶって開けた私は唖然とした。

 

 夢なのか…。今は夢の中にいるのか…。案外死んでしまったのか、あたしは…。

 

 目の前にいたジョウは大きなウォンバットに似た動物になっていた。黒々とした丸い小さな目がかたそうな毛に埋まっている。身長はそのままで、Tシャツ、ブルゾンもそのままウォンバットになっていた。

 

 再びまばたきをすると、もとのジョウに戻っていた。

 

 幻影か。飲みすぎの幻視? いや、飲んでない。手術もしたし、何日も飲んでない。麻酔の影響? アルコール脳症? そんなのがあっただろうか。

 

 まさに固まっていたと思う。そんな私にジョウは言った。

 

「今、一瞬見えませんでした?」

 

「え?」

 

「一瞬、僕が何か違うものに見えたでしょう?」

 

「ウォンバットみたいでした」 言うかどうか考える前に口が動いていた。

 

「はははは」

 

 ジョウは笑った。

 

「大丈夫ですよ。一瞬こっちのレイヤーが見えたんです。あなたみたいな人、フィーラーっていうんです」

 

 フィーラー?

 

 ジョウの微笑みは優しかった。もしさっきのウォンバットだったとしても優しい微笑みを浮かべていただろう。

 

 異様な状態のはずだった。シチュエーションもこの男も私も、何かおかしい。けれど突き止める気になれず、なぜか納得した。頭でなく心で納得した。

 

 

 

 

 

「川野さん、お目覚めですか」

 

 退院の日、ナースがやってきた。

 

「おはようございます。看護婦さん。あの一つ聞いていいですか?」

 

「どうぞ」

 

「あたし、どういう患者扱いなんでしょう。ただの急性虫垂炎患者でしょうか、それとも……

 

「ああ、胃洗浄のことですね」

 

 ナースはブラインドを上げながら言った。

 

 あの川野って患者はね、ちょいと変わってんのよ。睡眠薬を飲んで自殺しようとしてたところ急性虫垂炎になっちゃってさ。で、思わぬ痛みで寝ていられなくって119番したのよ。

 

 こんなふうにナースからナースに伝わってるのかもしれない。けれど、事実は少し違っていた。どうにも眠れず酒を飲んだがやはり眠れない。もう立っていられないくらい酔っ払っているのにやはり眠れない。そこで睡眠薬を数粒のんだ。けれどやはり眠れない。そこでまた数粒。

 

 これを二、三度繰り返した。いや三、四度、……案外五、六度だったのかもしれない。覚えてない。まったく覚えていないのだ。お腹が痛くなったのも、自分で119番したのも、何も覚えていない。

 

 担架を持って駆け込んできた男たちはさぞかし首を傾げたことだろう。腹が痛い!と通報が入ったはずなのに、酒に睡眠薬、状況は自殺未遂だ。

 

 運び込まれ、胃洗浄が行われた。そして虫垂炎の手術。白血球の数は爆発寸前だった。

 

 

 

 

 盲腸プラス自殺未遂容疑の私と、五杯でぱたり、肝臓をやられたジョウは、入院仲間から友人になった。

 

 あの時、ジョウが病院のロビーでぷかりと煙を吸いながら何を考えていたのかは今だに謎だ。彼が病院を抜け出して帰ってきたところだったのか、それともあの時間からふらりと出かけるつもりだったのかも聞かずじまいだ。ウォンバットに見えたことも詳しくは聞かなかった。フィーラーが何かも聞かなかった。

  

 ジーザス!ことある度にジョウは言った。怒っても、驚いても、悲しくても、最初の一言がこのジーザス。

 

 ジィーーーザス、時々あまりにジィーをのばしすぎるものだから、もう少し短めでもいいんじゃない、と思った。

 

「驚いたときゴッド!って言うの知ってるけど、ジーザスってのもよく使うの?」

 

 ジョウは少し考えるような目つきをして、うん、そうだなと答えた。一年ほどアメリカをふらふらしていただけだから、取り分け英語ができるわけでもなけりゃ、アメリカ通というわけでもないらしい。どうやらあまり楽しい思い出ばかりじゃないようだった。いろいろ聞かれると、早く話題を終わらせようとナーバスになる。

 

 ジョウも私もこれ以上酒を続けると保証はないとの忠告を受けた。改めての忠告に私はさすがにビクッとした。血液成分の数値はいくつもが正常値を割っているかオーバーしているかで、もう酒には適してない体なのですよ、医者は言った。

 

 医者は、禁酒セラピーを勧めた。グループで集まり互いの禁酒を励ましあうグループセッションがあるという。何より意志の強さが必要になりますからね、医者は顎のくぼみをこすりながら、言った。

 

 何とかしなければ、と思いはした。気休めにジョウと時々会おうと決めたが、それは意外にも効果をもたらした。ジョウと話した後は、少しだけ気分がよくなった。

 

 けれど、会う回数は次第に減っていき三ヶ月ぶりにジョウから電話があったのは、初秋にしては冷え冷えした朝だった。受話器の奥から聞こえる声は干からびていた。

 

 元気かい?元気よ。そのあとしばらくどちらも話さなかった。その沈黙に互いに元気にはほど遠い状況だと察した。

 

 ファミリーレストランでジョウと会った。デイリーランチを頼んだあと、ジョウは水を一気に飲んだ。のどは乾いていなかったが私も一気に飲んだ。

 

 ジョウは禁酒の二日目だと言った。禁酒の二日目と三日目は数え切れないほど経験したが、四日目を経験したのは数えるほどしかないとも言った。

 

「どうして電話しなかったのよ。互いに励まそうって言ったじゃないの」

 

「タキこそどうしてさ」

 

 ジョウはマヨネーズに溺れそうなコールスローをフォークの先でつついた。

 

「うん

 

 ジョウは運ばれてきたコーヒーを目をつぶり音をたてて飲んだ。目をつぶったジョウの顔は痩せた大仏みたいだった。病院で見たあのウォンバットのジョウをもう一度見たかった。そのことについて聞きたいことは山ほどあったが、聞いたら、ジョウの何から何まで、すべて消えてしまいそうな気がした。そうしたら、私はもう自分の記憶さえ信用できなくなるだろう。

 

ねえ、ジョウって付き合ってる人いるの」

 

「人並みにいたような気がするけど

 

「気がするけどって、やーね。記憶がないみたいな言い方してさ」

 

「うん」

 

「じゃ、一番印象に残る子の話して」

 

「ま、今のとこタキかな」

 

「それは光栄だ」

 

「今さ、考えてるんだけどね。会社辞めようかなって」

 

「ベンチャーの会社だったよね。経理だっけ」

 

「うん。でも税理士の資格も取ってる。で、父がやってる小さな税理士事務所、つがないかっていうんだ」

 

「そうなんだ

 

「うん。親父、自分が結構はちゃめちゃやってたから、僕にはレールにのっかってほしいんだろうな。酒もやめて」

 

 ああ、そういうこと。髪型まともにし、仕事も安全に、そういうことなのね、ジョウ。

 

 でも、それ何が悪いっての?幸せな光景じゃないの。ジョウの禁酒だって成功するかもしれない。

 

 ひゅー

 

 ジョウの溜息が風になった。

 

 私はジョウを見た。

 

 ジョウも私を見た。

 

「いいじゃない、レールにのっかるのは脱線よりずっといいわよ。あたし脱線って蟻地獄に似てると思うの」

 

 何、言ってんだろ。

 

 私たちはどちらからともなく目をそらし……しばらくジョウは空のコーヒーカップを、私は空の皿を見つめていた。

 

  店を出て街を歩くと、どこからかラップが流れてきた。

 

 わかるか、わかるか、キミにないもの、なんだかわかるか。

 それは、それは それは 

 ア、ア、ア、ア、アティチュード。

 ア、ア、ア、ア、アティチュード。

 

「ねえアティチュードって何だっけ?」

 

「アティチュードさ。わかるだろ」

 

「態度ってことだよね?」

 

「うん、一般的にはね。でも僕はちょっと違うって思うんだ。アティチュードってのはさ、目的と存在が一致したとき生まれるんだと思う」

 

「わかんないわ」

 

「アティチュード……。僕はさ、物には何でもアティチュードがあると思うんだ。人間だけでなくって何にでもあるって思うんだ。皿みたいな物体がアティチュードを持つと灰皿になれる。一枚の布もアティチュード持つとマントやテーブルクロスになれる。わかるかな」

 

「わかんない」

 

「とにかくさ、アティチュードがなくなったとき、存在の意味がなくなるのさ」

 

「わかんないわ。じゃ、ぼろきれみたいな人間はアティチュードがないってこと?」

 

「違うな。ボロきれでいようと心を決める。それはそれでアティチュードさ」

 

ねえ

 

「うん」

 

「ねえあたしもできるかな。アティチュード持つっての」

 

 あたしだって持ちたいじゃない、ジョウの言うそのアティチュード。

 

 アティチュードを持つ、それは飛躍的なことに思えた。やればできる、そんな力がほんの少し頭をもたげたような気もしたが、くしゃみの予感程度のたよりなさだった。

 

 ある日ジョウが猫の話をしてくれた。

 

「いつかしっぽの先だけ白い猫が三階の窓からアスファルトに突き落とされるの見た。そりゃもう凄いもんだった。命をかけたウルトラ宙返り

 

 ジョウは悲しげだった。酒をくいっと胃に流し込めないのは、窓から突き落とされた猫どころじゃない苦しさなのだ。命をかけてのウルトラ宙返りもできないまま、ジョウはスローモーにときおり息を吐く。

 

 ウルトラ宙返りのその猫は足を二本折ったけれど命に別状はなかったとジョウは話す。

 

「そいつさ、六才の誕生日の二日前に死んだんだってさ」

 

「えっ?」

 

「猫さ。ウルトラの猫さ。猫では早いほうなのかな」

 

「さあ……

 

「チャーリー・パーカーはさ、死んだときには68才の体だったんだってさ」

 

「実際は何才だったの?」

 

「34才」

 

 ジィーザス。あたしは言った。

 

 ジィィザス。ジョウは言った。

 

「彼、ジャズメンだったわよね」

 

「サックスさ」

 

「彼、ドラッグだったわね」

 

「うん」

 

「彼はドラッグだったのよね」

 

「うん」

 

「あたしね。わからないことだらけだわ。うん。わかんないことだらけよ」

 

「たとえば?」

 

「そう、たとえばね、ドラマ見てもらい泣きできても実生活では泣けないわけとか。いつになったら何かに対するやる気が出てくるのかとか」

 

「それから?」

 

「それから……

 

 沈黙のあと、あたしは話した。ジョウに話した。体に抱えた池の話……。いつの間にかそれが空洞になった話……

 

 話し終わると、虚しさがほんの少しだけ和らいだ。

 

 

 

 

 冬が過ぎ春が来て夏も過ぎ紅葉の季節も終わった。そしてまた冬がやってきた。

 

 その日は何だかひどく疲れていた。郵便受けを覗くと、家具屋のチラシの下に一枚の葉書が入っていた。

 

 元気かい? 僕はとりあえず頑張ってる。タキに近いうちに会える、そんな気がする。

 

 それは、サンタが首から「ただいま禁酒中」という紙をかけた絵葉書だった。

 

 ジョウ……。

 

   その夜、ベッドに横になると二つの言葉が浮かんできた。

 

 再生と復活。

 

 どちらもその時に私には、難しく、遠く、に思えた。

 

 私に必要なのは何?奇跡では実態がなさすぎ成長では優等生過ぎ……

 

 必要なのはもっと魔力のある言葉。限りなく奇跡に近く、それでいて現実味ある言葉。そんな言葉があったら教えてもらいたいもんだわ。

 

 と、突然、ア、ア、ア、ア、アティチュードとラップっていた男の顔を思い出した。

 

 アティチュードか

 

 キッチンに行き、ウオッカのビンを撫でた。ウィスキーのビンを撫でた。禁酒二日目と三日目は数えられないほど経験したが四日目はなかなか来ない、ジョウは言っていた。

 

 ボトルの蓋を開けて、閉める。

 

 蓋を開けて、閉める

 

 リビングに戻り、窓を少しだけ開けてみた。風が冷たい。

 

 ベッドに戻り毛布に包まると、病院の待合室にいたジョウを思い出した。ジョウに会いたいと思った。恋愛感情などではない。寒さでぶるぶる震えている小動物が仲間の誰かに会って温もりを感じたい、そんな感情に似ていた。

 

 ほとんど眠れぬまま、空が白んでいった。

 

 母が危ないと、妹から電話をもらったのはその日のことだった。

 

 

 

 

 

 そしてシルバに会った。母が亡くなったあの日シルバに会った。

 

 シルバは拾ったハサミを手渡すと言った。「サウスポーなのね」

 

「サウスポーのフィーラーね」

 

 フィーラー。ジョウから一度だけ聞いた言葉だ。

 

「私もそうなの。あ、サウスポーではないけどね」

 

 一瞬男か女かわからなかったのは、彼女が全くの銀髪で、中性的で、年齢も判断しかねたからからだろう。彼女は老齢には決して達していないだろうが、一見若さからは遠くかけはなれた容貌だった。それでいて俊敏さとひたひたとしたエネルギーを感じた。

 

「まずは依存症なおさなくちゃね」

 

 シルバの声は低く穏やかで、ビブラートがかかっていた。