1章 アリバイ依頼

 

 夢を見ていたと思う。ビートルズの Maybe I’m amazed のメロディで目が覚めた。最近変えた呼び出し音だった。

 

 どんな夢か思い出せない。けれど夢の余韻がまとわりついている。

 

 真夜中の匂いがした。時計を見ると11時を少し回ったところだった。飲み始めたのが早すぎた。少しのつもりが飲みすぎた。

 

 立ちあがろうとするとめまいがした。

 

 やっとのことでベッドから起き上がり、床の雑誌や服を蹴飛ばしながら、ソファの横の携帯をとった。

 

「はい?」

 

「遅い時間に申し訳ありません。ゴールディ・ミラーさんですか?」

 

 低い声だった。

 

 ゴールディ・ミラーという輝かしい名前がどうにも自分に合わない気がして、ゴールディ・タナカという母方の祖父の苗字で過ごし始めて随分になる。久々に呼ばれたゴールディ・ミラーという名に思い出に似た感情が揺れるのを感じた。

 

「弁護士のポォ・・・・です」

 

「はい?」

 

 弁護士のぽぉーーにぃちゃん、と聞こえた。

 

 日本にはトータルでも1年過したことがあるだろうか。日本の血が四分の三入っている母はアメリカ育ちではあるが流暢な日本語を話し、家庭では日本語でゴールディに話しかけバイリンガルにしようとした。そのうち諦めたのか面倒になったのか、英語が増えていった。

 

 けれど、ゴールディにはときどき空耳で日本語が入り込む。酔ったときや寝ぼけているときなど特に。

 

 ぽぉーーにぃちゃん が ポーニチャックだとわかったのは男がもう一度繰り返したときだった。

 

「弁護士のポーニチャックです」

 

「弁護士?」

 

「この度、アン・パワーズさんの弁護を引き受けることになりました」

 

「アンが何か?」

 

「殺人罪で起訴されるのは時間の問題だと思われます」

 

 低音、それでいてしゃきしゃき感情の入らない歯切れのよい話し方は、電気代の支払いが遅れているとか、電話会社を変えてみないか、とかの口調で、殺人罪で起訴、とは全く不釣り合いだった。

 

「アリバイをしっかり証明できるのはミラーさんしかいない、とパワーズさんは言っているのです。実は6月18日の夜、殺人推定時刻に殺人現場の近くでパワーズ夫人を見た、という人がいて、これからの展開によってはちょっとやっかいなんです」

 

「わたしがアンのアリバイになる…ですか?」

 

 ゴールディ・ミラーがですか? 乾いたポーニチャックの口調を真似したくなったが、クリアになり始めた頭でゴールディは事の重大さに気づき始めていた。

 

「詳しい話は事務所でしたいと思いますので、お手数ですがご足労願えますか?今出張先からですが、明後日にはボストンに帰りますので、できましたら、明後日の朝一番で」

 

 ポーニチャックは事務所の名前と場所を告げた。

 

 

 

                   

 

 

 6月18日。その日、ゴールディはボストンハーバーの近くのレストランで男と向かい合っていた。昔、半同棲していた男が目の前にいる。ふとしたことで再会し、向かい合う。

 

 二本目のワインが空くころには、二人の間に横たわる年月が融け始めていた。ゴールディは媚に似た陽気さを装うのに成功し、高らかに笑った。

 

 男は一回り恰幅よくなっていた。上質のスーツを身につけ、深みのある視線にさらに磨きがかかっていた。

 

 けれどどこかその視線が気になった。

 

 ひがみか。 

 

 

 

 

 十年ぶりにロバート・アレンに会ったのはボストン大学の卒業式だった。リズに姪の撮影を頼まれ、仕方なく出かけていったのだ。急な発熱で楽しみにしていた卒業式に出られないというリズの頼みとあっては仕方ない。

 

 晴れ上がった空の下、芝生の上にきっちりと椅子が並べられていた。マンモス大学だけあって、集まった学生、家族、関係者の数に圧倒された。

 

 ゴールディは、前方の一人の男に目をとめた。四つ前の二つ右

 

 ボブだ。

 

 頭から肩のラインだけで、ボブだとわかった。ボブかもしれない、ではなくボブだ、と確信した。

 

 横顔、そして一回り大きくなった背中。

 

 かつて抱き締めた彼は、痩せていた。全くのホワイトというにはダークな肌。信じがたいほど美しい瞳は、濃いグリーンがかった茶色だった。いつもは威勢のいいボブだったが、しょげるとその目は路に迷った仔犬のようになった。そんな彼を、背伸びをして肩を抱かずにいられなかった。

 

 ボブの右肩にはスコルピオのしっぽがある。小さなスコルピオのしっぽ。

 

「十六のときに刺青入れようと思ったんだ。タッツゥパーラーに行ったら、いろんな絵や字があってさ、その中から選ぶんだ。スコルピオ見てかっこいいって思ったね。彫るならこれだってさ。けっこういい出来だったけど、ふと、スコルピオが体中這い始めたらさぞかしくすぐったいだろうなって思った。そしたらどうにもくすぐったくなってさ、どうにも落ち着かなくって、だから、ひっぺがしたんだ」

 

 小心者。ゴールディは、引っぺがし損ねた小さなそのしっぽを愛した。

 

 ボブのカリスマはエキゾチックな容姿に負うところが大きかった。父親にジャマイカの血が流れていると言っていた。夕暮れ時、彼が向こうから歩いてくると踵を擦るような独特な足取りで歩いてくるとこんなにも美しい男が恋人だなんてゴールディには信じられなかった。

 

 初めて会ったとき、雨が降っていた。雨粒が隙間なく叩きつける見事な雨だった。

 

 まったくしょうのない雨ね、肩をすくめるゴールディに、同じく雨宿りをしていた青年が、まったくさとうなづいた。

 

 どちらからともなく話し始め、雨が止んだ時、二人は歩き始めていた。

 

「おいしい店があるんだ。一緒に来ない?」青年は言った。

 

 五つほどしかテーブルのないチャイニーズレストラン。そこで、どんな話をしただろう。ゴールディは自分のことを話し、ボブも自分のことを話した。互いに自分のことを話そうとした。大好きだった父を失ったこと、そして淋しさのようなものについて語った。

 

 あの日、雨のあがった街を遅くまで歩いた。ウインドーをのぞき、カフェに入ってチリサンドを食べた。真夜中を回るころ、アパートの前まで送ってきたボブは言った。

 

「ゴールディ・ミラー、また会おう」

 

 それからはしばらく夢のような日が続いた。

 

 最初の一年はドリーミング。二年目は無風状態。そして三年目に入るとわずかなきしみを感じ始め。熱にうかされたような季節が終ると、現実という風が吹き始める。見つめ合うだけで満足だった日々が少しずつ後退していく。

 

 ある日、一人の男を見た。目と鼻が少しボブに似ていた。人生に散々打ちのめされた者特有の顔をしていた。手足は細いのに腹は膨れ、こめかみから額にかけて病的に血管が浮き上がっていた。

 

 一瞬、不思議な気持ちなった。不快、というのではなかった。ただ、時間軸がすーっと流れ、ボブとその男が重なった。

 

 そのころスコットが出現した。好青年だった。私大のビジネス専攻で、卒業後はウィスコンシンで父親の事業を継ぐと言っていた。スコットが見せた家族写真。ダブルのスーツの似合うパパがいて、上品なママがいて、メガネをかけた双子の弟がいて、みな陰のない笑顔を見せている。

 

 スコットからデートの誘いを受けたとき、ゴールディの口がイエスと動いた。疲れてるときにジャスミンティを差し出された…そんな気分だった。

 

 スコットとのデートは楽しかった。楽しいというより心地よかった。ボブとの関係が、あのチャイナタウンのワンタンスープのようにごちゃ混ぜの状態から始まったのに比べると、スコットとのデートには、清々しい花が飾られた丸テーブルでジャズピアノをバックにコーヒーを飲むそんな心地よさがあった。ゴールディは一瞬、自分を見失った。

 

 何にも束縛されず、この自由の国アメリカで自由に生きていく。そのうち何かになれるかもしれない。そんなあってないような目的と共に毎日が流れていく

 

 ゴールディもボブも今は貧しくたってそのうち何かになってやるそんな漠然としたファンタジーを持っていた。似たもの同志が具体的には大して何もせぬまま抱き合っては時を過ごした。

 

 そんなとき、ボブも女と出会った。彼女は、ゴールディのように低賃金で働く必要も、スーパーの安物を代わる代わる着る必要もなかった。

 

 彼女はそこそこ金を持っている親を持つ友人達にはないボブのワイルドさに惹かれた。人は自分にないものを欲する。

 

 自分の中の変化を柵に上げ、ボブを変えているのが自分ではなく、自分よりもっと商品価値のある女であろうこと、自分が持ってないものを生まれながらに持っている女であろうことがゴールディを苛立たせた。

 

「どんな子なの?」

 

 叩きつけるように言った。

 

「はん?」

 

 冷蔵庫からチーズを出しながら、ボブは振り向いた。

 

「どんな子なの? あたしとは行ったこともない洒落たレストランで食事でもするの? で、あたしのとこには冷蔵庫、荒しに来るだけってわけ? 人の家入って、食べ物齧って。利用するだけ利用したら、お礼も言わず、他の家荒しに行く、全くネズミみたいだわ」

 

「ネズミか。まだ家ネズミはいいさ。どぶネズミにだけはなりたくないもんだな。でも、ゴールディはどうなのさ」

 

「えっ?」

 

「よその家でお祭りすれば、のこのこ招待にあずかるってわけだ」

 

「えっ?」

 

「スコットさ」

 

 ボブも気づいていた。

 

 このままでは二人一緒に朽ちていく。別れるしかなかった。

 

 出ていく前に、ボブは言った。

 

「僕には焦りがあってね。ずっと前から、何とかこの生活を抜け出て、スポットライトのあたるところへ行きたいと思ってきた。でもただ思うだけでね。起爆剤がなかったんだ」

 

 あたしじゃなれなかったのね、その起爆剤。行きなさい。どこへでも。好きなところへ。好きな輝けるところへ。あなたがあの男のようになるのを見たくはない

 

「僕たち、いったい何だったんだろうね」

 

「ワンタンスープね

 

 時が経つにつれ、水分吸って膨れ上がり、身動きできなくなるワンタンスープ。

 

 しばらくして、ゴールディはスコットと同棲を始め、その半年後には別れてしまった。スコットの後も何人かの男とつき合っては別れ、彼らのことはいとも簡単に忘れてしまえるのに、ボブがゴールディの心に落とした光と影は、時とともに一層くっきりしていった。

 

 しばらくして知り合いから、彼が奨学金で法学を勉強し始めたと聞いた。もっと知的なところでつながっていれば、別れずに済んだのかもしれない。小さな後悔がきりりと音をたてた。

 

 

 

 

「アンドレア・カルロス!」

 

 ゴールディはその名にはっとした。リズの姪だ。黒い卒業ガウンを着たリズの姪アンドレアが、壇上で学部長から卒業証書を受け取り、にっこり笑っている。ゴールディは連続でシャッターを切った。

 

 アンドレアの次に呼ばれたのはストロベリーブロンドの長身だった。するとそれまで興味なさそうに座っていたボブが、拍手を始めた。手を打つたびに背中が揺れる。壇上では女が誇らしげに微笑み、明らかにボブに微笑んでいた。

 

 式が終わるとボブが振り向いた。まるでゴールディがそこにいたのを知っていたかのように。

 

 目が合った瞬間、ゴールディは立ち上がり、逃げるように会場を去った。突然光を当てられたげっ歯類のようにあたふた逃げ出した。

 

 

 

 

 

「顔を見たら懐かしくなってね」

 

 数日後、電話がかかってきた。久しぶりね、なるべく平坦に言った。

 

「どうしてる?」 

 

 あーら、元気よ、と笑いとばしてはしまえない何かがあった。

 

「会わないか?もうすべてが時効のはずだ」

 

 古き良き時代の友人として会って話がしたい、彼は言った。けれど、ゴールディにはまだどこか生々しい過去だった。古き良き時代と言うにはあまりに多感だった時期...。それでいて今よりは遥かに自分が輝いていただろう時期だった。

 

 約束の日、鏡を見ると、なんだかぼんやり不幸に見えた。気を取り直し、グリーンのワンピースに手を通す。

 

 シーフードレストランで食事をした。ボブはニューヨークの法律事務所で働いている、と言い、照れたように昔の僕からは信じられないだろう、と笑った。ゴールディはわざと甲高く、よかったじゃない、と言った。

 

 気まずかった過去が消えると思ったわけじゃない。ただ少しだけ懐かしかった。捨てたはずの写真を箱の底にでも見つけたように、少しだけ懐かしかった。小さな懐かしさは胸の中で大きくなり、ボブを見つめた。昔好きだった男だった。大好きだった男だった。

 

 気がつくと10時を回っていた。

 

「そろそろ帰るわね

 

「部屋でもう一杯飲まないか。今日はホテルに泊まろうと思ってるんだ。まだ話し足りない

 

 目の前にボブがいる。ワインで酔ったゴールディの前にボブがいる。少し緩みを見せた顔のラインや、ワントーン低くなったように感じる笑い声、そんなのをひっくるめてボブがいる。

 

「いいわ」

 

 ボブのホテルは隠れ家的豪華ホテルという位置付けのホテルで、細い通りにも入り口があり、キーカードで入ることができた。入るとすぐ横にエレベータがあった。12階のボタンを押すと、カタンと小さな音をたてて動き出したが、すぐに2階で止まった。

 

 一人の女が乗ってきた。深く帽子をかぶり、夜だというのに濃いサングラスをかけている。一昔前のデイタイムドラマの中から抜け出てきたような女だと思った。女はうつむき加減で、ツッとボブの後ろに回った。香水の香りがした。最近デパートでサンプルをもらった独特な香りに似ていた。

 

「何階ですか?」

  

「大丈夫です。私も12階ですから」

 

 女の少しかすれた声に、ボブはボタンを押そうとした手をひいた。

 

 エレベータの中で空気が固まった。

 

 ゴールディはちらりと横目で見たが、女は深くうつむき、帽子のつばで顎先しか見えなかった。

 

 エレベーターが止まると、ボブが降り、続いてゴールディも降り歩き始めた。けれど、足を止め、くるりと振り返り、女を見た。女は人指し指でサングラスを押し上げながら、小さくフッと笑った。

 

 ルームナンバー、1123。ボブが足を止めたのは突き当りから三つめの部屋だった。

 

 ふっと笑った口元。やっぱりそうだ。アンに違いない、ゴールディは確信し、くるりと方向を変え、廊下を小走りした。

 

 女は廊下の真ん中あたりで鍵を開けようとしていた。ゴールディが小走りに行くと、女は一瞬びくっとしたが、やはりフッと笑い、サングラスを外した。

 

 やはりアンだ。

 

「わかった?」

 

「わかるわよ。どうして声かけてくれなかったの?」

 

「あたしね、ここでは透明人間なの。ゆっくり話したいけど、今はちょっとね。ゴールディにも連れがいるようだし」

 

 アンは小声で言い、そっとゴールディの手を握った。

 

「さっきのあれ、ロバートよね」

 

 アンはボブと面識があった。

 

「そうなの。随分久しぶりに今日ばったり会ったの」

 

 少し焦っていうゴールディに、アンはうなづきながら、微笑んだ。

 

「そういうこともあるわね。またね、ゴールディ」

 

 アンは微笑んだまま、ドアの向こうに姿を消した。

 

「誰だい?」

 

「アンよ。覚えてる? 昔同じアパートに住んでたボブも会ったことあるわね」

 

「ああ…. 

 

 興味なさそうに彼はうなづいた。

 

 背中に感じるボブの手は暖かかった。ゴールディは過去の一時期を共有していたこの男と今の自分の接点が薄れていくのを感じた。どんな感情を再び共有できると思ったのだ。ゴールディが歩く蔦が壁に貼りつく小路そこに何かの拍子で昔懐かしい影が出現する…。昔寄り添い、昔剥ぎ取ったはずの影だった。

 

 部屋はスイートルームだった。ソファとテーブルがあり、そこから開け放されたベッドルームが見えた。

 

 ボブはワインのボトルを開け、グラスに注いだ。

 

「懐かしかったよ。とても

 

 懐かしさから、色あせたスライドでも見るがごとく、ベッドを共にしようとしている。

 

 ワインを飲み干すと、頬の上気を感じたが、心は冷えていた。ゴールディは立ち上がった。

 

「やっぱり帰るわ」

 

 空になったグラスをボブに渡した。

 

「...会えてよかった」

 

「そうね、あたしも。夢を実現させてね」

 

 夢がなんであれ

 

「ほんとに行くのかい?」

 

「ええ」

 

 ドアのところで、ゴールディは振り返った。一刻をあらそい抱きあった時もあった。

 

 部屋を出たあとしばらくドアノブを後ろ手でつかんだままドアに寄りかかっていたが、芝居がかっていると踵で蹴るようにして歩き始めた。

 

 まだアンが近くにいて話しかけてくる、そんな気がしたが、廊下はことりともしなかった。

 

 アンはあの部屋で誰といるのだろう? 夫のパワーズ氏ではない誰かそれだけは確かだった。

 

 

 

                    

 

 

 ポーニチャックのオフィスはダウンタウンの港寄りのビルの13階にあった。

 

「ポーニチャック アンド ベイツ法律事務所」と書かれた小じんまりしたドアを開け、名を告げると、黒い瞳に似合わぬプラチナブロンドの秘書が、彼のオフィスに案内してくれた。

 

「さっそくおいで下さってありがとうございます」

 

 大きな革の椅子から、小柄な男が立ち上がって手を差し出した。

 

「ポーニチャックです」

 

 柔らかい表情をしていた。端正な顔、いぶし銀のメガネ、そのぶ厚いレンズの奥で小さくなった穏やかな目がじっとゴールディを見つめている。銀色の髪はもとは濃い色だったのだろう。ところどころに黒に近い濃いブラウンの髪が混ざっていたが、遠目にみると白髪だった。けれど肌艶から、まだそんなに歳はとっていないと思われた。

 

 ポーニチャックは事件の内容を説明した。

 

 

 

 

 6月18日にボストン郊外のアンドリュー・パワーズ氏所有の邸で、パワーズ氏、殺害される。死因は22口径による後頭部からの弾丸。死亡推定時刻、22時。その時刻に、秘書のジェイムズ・コリンズがアンドリュー・パワーズの妻アン・パワーズをパワーズ邸の前で目撃している。

 

 その日コリンズは休みを取っていたが、書類を届けに妻との食事帰りにパワーズ邸に立ち寄り、メイルボックスに入れたという。そのときアン夫人らしき人物がハウスに入ったところを見たと証言している。

 

 2件隣のヒューズ夫人もアン夫人らしき人物を目撃している。

 

 翌朝、家政婦によってパワーズ氏の死体、発見される。

 

 今後の展開としては、コリンズ氏、ヒューズ夫人の証言の信頼性とアン夫人のアリバイが問われることになる。

 

 

 

 

「アン夫人にとって都合が悪いのは、パワーズ氏の秘書のジェイムズ・コリンズがパワーズ氏の死亡推定時刻にアン夫人と思われる人物がパワーズ邸へ入っていくのを目撃したと言っていることです。ジェイムズ・コリンズも夫人のエリザベス・コリンズも10メートルほど離れた車の中からその人物を見たと言っています。そして2軒となりのヒューズ夫人の証言も同じです。ですから、アン夫人にはしっかりしたアリバイが必要なのです」

 

 ゴールディは、あの夜確かに、その時刻にホテルでアンを見た。話もした。ゴールディは自分のみならずロバート・アレンもアンを見たとポーニチャックに告げた。

 

 電話が鳴った。ポーニチャックは少し眉をしかめて聞いていたが、電話を切るとゴールディに行った。

 

「アン夫人が逮捕されました。凶器の22口径が花壇の土の中からみつかったそうです。部分的ですがアン夫人のものと見られる指紋もついているようです」

 

「あのアンに動機はあるんでしょうか」

 

「パワーズ氏は婚前契約を交わしていなかったのです。最近は不動産投資で財産をかなり失ってますが、まだかなりあると思われます」

 

 ゴールディは、愛に婚前契約はいらない、と結婚し、離婚時に多大な慰謝料をとられたポール・マッカートニーを思い出した。

 

 

 

 ニューイングランド一帯に少なからぬ不動産を持つアンドリュー・パワーズと婚約したとき、アンは言った。

 

 あたしのこと、東洋のシンデレラとか、東洋からのゴールドディッガーって陰口たたく人もいるの。

 

 言わせておけば? ゴールディは言った。

 

 アンは一枚の写真を見せた。パワーズ氏とのほほえましい写真。アンはノーメイクで少女のような笑みをうかべ、パワーズ氏の肩に頭をもたせてかけている。パワーズ氏も優しい微笑みを浮かべている。

 

 ゴールディの知っているアンは天使でもなければ悪魔でもなく、ただ一人の人間だった。彼女に殺人ができるかと聞かれれば、時と場合による、と答えるしかない。たいていの人間は時と場合によって、殺人可能、なのだ。

 

 けれどパワーズ氏の殺人に関してはノーだ。自分というアリバイがいるではないか。殺人を依頼したとも考えにくい。もしそうなら、自分のアリバイはかっちり確保するだろうから、ホテルで密会まがいのことをするはずがない。

 

「ロバート・アレン氏も証言してくれればアン夫人のアリバイについて心配なくなるでしょう」

 

「私だけの証言だけで信頼性がないでしょうか?」

 

「ミラーさんが、というわけではないんです。友人の証言は必ず信頼性が問われます。ミラーさんは以前アパートが隣どうしで友人でしたね。その友人のミラーさんが、アン夫人を偶然にホテルで見かけたと言っても、信頼性に欠けるんです。だからここで是非とも、アレン氏の証言が必要になってきます」

 

「ポーニチャックさん。あの夜、私とボいえ、アレン氏以外にアンに会った人や見た人はいないのですか?」

 

 ポーニチャックは数秒ゴールディを見つめ、言葉を選ぶように言った。

 

「あの日、アン夫人が何のため市内に行ったか、御存知ですか?」

 

「いいえ」

 

「ある人に会いに行ったと言うのです。そして相手の名は迷惑になるので口が裂けても言えないと。その上、その相手に急用ができ、結局会えなかった、と。つまりおわかりですか」

 

「はい?」

 

「つまりですね。あの日、偽名でホテルに泊まった。彼女だとわからないように人目につかぬようにした。となると、彼女をあの時間に市内で見かけたという人を探すのは、至難のわざなんです。たとえ似た人を見たと言っても、確かですか? 本当に見たんですか? 会って話をしたんですか? と聞かれて、はい、と言える人はいないでしょう。ミラーさん以外には。ミラーさんだけはあまりに懐かしかったし、ミラーさんが話しかけてきたので言葉を交わしたというのです」

 

でも、相手の名を言えないってどうしてなんでしょう。アンは殺人罪に問われているのでしょう?」

 

「私もそれは何度も言ったのです。でも名を言うくらいなら罪を着せられた方がましだと言うのです。それに名を挙げても、実際に会ったわけではないので、アリバイにはならないだろうと。とりあえずミラーさんとアレン氏の証言を武器に、検察惻の主張を崩していきたいと思っています」

 

あのポーニチャックさんは、以前からアンとお知り合いだったのでしょうか?」

 

「いいえ、依頼人として今度初めて会いました。共通の知り合いがいましたので」

 

「引き受けるのにためらいはありませんでしたか?」

 

「ためらい?」

 

「普通、弁護士の方は弁護する者の無実を信じているのでしょうか?」

 

「無実だと思う場合もあれば、有罪だと知って弁護することもあります」

 

 ポーニチャックは少しの間、無表情にも見える顔でゴールディを見つめていた。

 

「ミラーさんは、私個人について聞きたいのですね」

 

「はい」

 

「弁護士として言うべきではないことだと思いますが、あえて言いますと私個人としては、殺人の場合は、原則として無実だと信じる者しか弁護しません。その他の知的犯罪は別ですね。ゲーム感覚で、有罪の者でもとことん弁護することがあります。ただ、殺人罪の弁護は、最初会った心象が白だったら引き受けます。もちろん、例外もあります。同情に値する殺人の場合、引き受けることがあります」

 

 白か、同情に値する殺人

 

「じゃあ、アンのこと無実だと信じてて下さるのですね」

 

「今のところそうです。こんなに奇妙なことしかアリバイとして言えないなんて、計画性のある殺人ではおかしいです。心象としては白です」

 

 ポーニチャックの言葉にゴールディはうなづいた。