カフェ ハーヴィ

 

 

 遠足からの帰り道、水筒に残ったお茶を飲み干しながら、帰った。

 

 私が住むのは3階建ての小さなマンションの2階。一人で鍵を開けて入る。今日は鍵が妙に重い

 

 家の中からいっぱい見知らぬ何かが飛び出してきたらどうしよう。ほら何とかの箱。パンドラだっけ。でもそれから飛び出したのは嫌なものや悪いものだったはず。

 

 今日は今までに見えなかったものが見えた。今まで見えなかった姿が見えた。北川先生にミロちゃんは、今まで見えなかった姿

 

 輪くぐりをして見えるのは他になんだろ。悪霊とか、妖怪とか、そんなもの?

 

 一気にドアを開ける。

 

 バーンと開けたけど拍子抜けだった。しーんとして何の気配もない。

 

 妖精って見え出すとどんどん見えてくるんだと思ってた

 

 部屋は薄暗かった。横っちょに高層マンションが建ってから、うちのちびマンションは3時過ぎには暗くなる。建設反対運動もしてたみたいだけど、効果なかったみたいだ。

 

 いつもならすぐ明かりをつけるんだけど、それも億劫だ。

 

 ソファにすわって今日の出来事を思い出してみた。何だかみんな夢みたい。みんなみんな夢みたい。

 

 呼び鈴が鳴った。

 

 誰だろ? 東洋海送なんとかって会社の社宅だったこのマンション、誰でもドアの前まで来れてしまう。随分ママも心配している。ロコ怖くない?ってママに聞かれるたび、ぜーんぜんって言ってたけれど、本当はピンポーンって鳴るたび、ドキッとしている。

 

 でも大体わかってきた。人となりっていうのかな。ママが決して出ないようにって言うから、のぞき穴からのぞいたりしてたんだけど、最初は何だか悪いことをしてるのがこっちの方って気がしてずいぶんいやだった。こっちだけがそっと相手を見てるってのが何だか後ろめたかったんだ。

 

 今日はのぞくのも何だか気が進まなかった。でも好奇心の方が勝って立ち上がった。音のしないように。中に人がいるのがわからぬように

 

 のぞいてみたら、

 

 ダニー!

 

 開けるなり手をとった。

 

「どうしたの。さあ入って!」

 

 ダニーは思わぬ歓迎に私に手を引かれるまま入った。

 

「ここすぐわかった?」

 

「黄色のマンションで隣がクリーニング屋さんとパン屋さんで大きなマンションの裏って言ってただろ」

 

「うん。ねえ、帰りに寄ったの? ってわけないかリュックも持ってないしね」

 

「あのさ、輪くぐり済みのロコには、言っといたほうがいいことがいっぱいあるなって。で、とりあえず言いに来た」

 

「うん?」

 

「肩の力抜けよってさ」

 

 は?

 

「輪くぐりするとさ、みんな興奮してドキドキして、未知の世界がここにもあそこにもあるんじゃないか、目をもっと見開けば見えるんじゃないかって血まなこでさ、疲れてしまって病気になるやつだっているんだ」

 

「ほんと?」

 

 びっくりしたみたいに言ってみたけど、私にはわかっていた。だってもうひどく疲れていたから。

 

「だからさ、ロコにもメンターが必要だと思ってさ」

 

「メンター?」

 

「うん、指導者っていうのかな。先生っていう感じより、もっと深く精神的なところで指導してくれるような」

 

「ふーん。メンターね。そりゃさ、そんな人がいたらいいけどさ。いる?」

 

「いい人がいるよ。僕も小さい頃から知ってる。パパの友達なんだ」

 

「ふーん。でもダニーでもいいよ。私より随分知ってること多いんだから。ダニーはちびメンター。ちびメンだ」

 

「ちびメン? やだな、なんかカップラーメンみたいだ」

 

 ハハハハハ。

 

「じゃ、そのメンターからのアドバイスであります。今日はぐちゃぐちゃ考えずに寝ること」

 

「はい。ちびメン、わかりました」

 

「それから、明日からレッスン開始」

 

「明日から?」

 

 明日は日曜だけど、私は習い事も何もしてないので暇だ。

 

「うん。何か予定ある?」

 

「特にないよ。ママと出かけるかもしれないけど、でも最近ママ忙しいから多分ないと思う」

 

「じゃ、決まりだ。マスターの店にいこう。マスターはね、カフェやってんだ

 

「どこにあるの?」

 

「ここからあんまり遠くないよ。歩いていけるよ」

 

「なんてカフェ?」

 

「ハーヴィ」

 

「そんなカフェあったかな。それよりね、どうしたら、輪の外に出るの?」

 

「心配しなくても弾き出されるよ」

 

「えっ?」

 

「たいていは寝てるときみたいなんだ。輪って、見えたり見えなかったり、でもいっぱい流れてるみたいなんだ。その輪が流れてきて余分なものはポンって弾きだしちゃう」

 

「寝てる間に?」

 

「寝てなくても妖精パワーとでも言うのかな、自分のパワーが弱くなると弾き出されちゃう。一旦外に出ちゃうと、輪が流れてきても入れないこともあるんだ」

 

 いろいろ複雑なんだ、私はため息をついた。

 

 

 

 その夜、寝るのを待つ必要もなく、私は輪から弾き出された。

 

 お風呂上がり、ぼんやりしているとゆったり一つの輪が流れてきて、私のそばまでくると、ポワーンと広がり、私の頭から足へするり、と落ちた。

 

 皮膚に少しだけ圧力を感じたような気もする。感じたと思ったら、周りが少しだけ光を失った、そんな気がした。

 

 

 

  日曜日、ハナミズキ公園で待ち合わせした。

 

「輪をさがそう」会うなりダニーが言った。

 

 さがそうって言ったって、そんなに簡単に見つかるものなのかな。

 

 あ、ダニーは小さな声を出すと、少し離れた木のそばまで行き、何かを引っ掛けるように指を動かした。そして両手、頭、肩を少しくねくねさせ、足も通し。どうやら輪をくぐり抜けたようだ。

 

「ロコ、来て!」

 

 私は駆け出していった。

 

 あ

 

 すくっと立ったダニーの足元に一瞬だけどダニーが通り抜けただろう輪が、ほんの薄っすらと見えた。

 

 私はすばやく、その地面から30センチばかりのところで細かく揺れている輪に手をのばした。

 

 と、すっと輪は私の手に貼りつくように馴染んだ。

 

 私は輪に両手の親指を入れ、地面にゆっくり下ろし、足を入れた。するとふわっと輪は体を包み、頭の上でシュッと小さくなって見えなくなった。

 

 周りが少しだけ前より明るくなったような気がした。

 

 それはとても静かな明るさだった。朝陽に照らされた湖面みたいだなって思った。いつかママと行った山陰の湖面みたいだった。

 

 私はダニーと顔を見合わせた。やった!って感じで拳を小さく握ると、ダニーは笑った。冒険はどんな冒険でも、木登りひとつでも一人より二人の方が楽しい。それに心強い。

 

 なんだか既に大きなことを成し遂げたみたいで、私は地面を蹴って歩き始めた。

 

 風クラゲが三つひらりんひらりん優雅に舞っていた。今日の風は穏やかだ。

 

 木の枝に大きなナナフシみたいにぎこちなくつかまっているのはウッディに似ていたけど、昨日見たのより、手足がずっと長かった。

 

 足元を何かがパタパタと走った。小さな裸ん坊? 何だろ、これ?

 

 赤ん坊より小さいけれど、手足のバランスは人間の大人みたいだ。30センチくらいかな。これくらいのキューピー人形見たことある。キューピーは笑ってるけど、今パタパタと走っているのは笑ってない。かなりのしかめっ面だ。全然子供っぽくない不思議な顔をしている。顔は丸くて、髪らしきものはほとんどなくって、何も着ていなくって、男か女かもまるでわからない。

 

 何なんだ、これ?

 

「あ、ぼくはチータンって呼んでる」

 

「チータン?」

 

「うん」

 

「チータンって何? 何かの妖精?」

 

「わかんないんだ。見るとたいてい駆けってるか、隠れてるか、睨んでる」

 

「なんでチータンなの?」

 

「なんだかチータンって感じだろ」

 

「そうかな。なんだかなぁ

 

「どうしたの?」

 

「妖精ってもっとわかりやすいものだって思ってた。花の妖精とか。ほら、絵でよくあるじゃない。蝶みたいな羽つけてたり、てんとう虫みたいな帽子かぶってたり、可憐な女の子やいたずら天使って感じの可愛い妖精」

 

「残念だけどそんなの見たことないよ」

 

「チータンと風クラゲとモクベイさんだっけ、その他にも見たことある? 妖精みたいなやつ」

 

「そりゃあるさ。でも名札つけてるわけじゃないからね。あれ何だろ、って思ってるうちにいなくなったりする。百以上見たって人もいれば、風ルリだけの人もいるんだ」

 

「そんなもの?」

 

「うん。フェルルの中でも個人差ってけっこうあるしね。でもさ、ロコ、見えるの妖精だけじゃないだろ」

 

「そうだよね。ミロちゃんのほんとの姿も見れたしね。あ、ほんとの姿って言うのおかしいかな。どっちがほんとの姿かわかんないものね。違った姿っていうべきかな。それに北川先生も」

 

 私は何だかちょっと不安になってきた。

 

 他に何が見えてくるんだろ?

 

 見えるものが全て素敵だとは限らないはず。

 

 

 

 カフェ ハーヴィの扉の前には風知草の鉢が一つあった。フウチソウっていうのよって、ママが冬になる前、1つ買ってきた小さな鉢。根元から3センチほどに切られてて、正直、茎が密集した枯れ草にしか見えなかった。見ててごらんなさい。春になったら驚くわ。ママは言ったけど、私は、ほんとかなって感じだった。でも春になってぐんぐん葉っぱが伸びてきた。緑色の細長い葉の勢いは確かに驚くほどで、風が吹くと時にはさらさら、時にはふわふわ、時にはザザザザ、と揺れた。「フウチソウ」は、「風知草」になった。

 

 店の前のはママのとは比べものにならないくらいそりゃ大きく茂ってる風知草の鉢だった。葉は長く密に茂っていて、鍵とかはもちろんシャベルとかも隠せてしまえそうだ。

 

 その横にかなり大きな睡蓮鉢。花はないけれど睡蓮の葉が重なり、水面が見えないくらいだった。

 

「めだかとかいるのかな?」

 

 私は覗き込んだ。何だか不思議な魚がいたりしてね不思議な?そう思ったら、輪くぐりをしたことを意識してしまった。

 

 そうか、この店にマスターがいるんだ。どんな人だろ?楽しみなのか、不安なのかわからなくなってきた。

 

「どうしたの?なんか固まってない?」

 

 うん

 

 私はきっと大の冒険好きとか、怖いもの知らずっていうんじゃないと思う。小心者?っていうのかも。

 

 その時どこから現れたかのか、うっすらとした輪が私の周りをゆらゆらし始めた。

 

 輪くぐりあとに輪が見えてるってことは、これをくぐると、戻っちゃうんだ。

 

 あって思ったけど、輪が一瞬にして広がり、頭から足元にするりと落ちてツッと水平移動して行ってしまった。

 

 あ……

 

 私は輪から弾き出されてしまった 

 

 

 

「輪くぐりできてなくたっていいからさ」

 

 ダニーがなだめるように言った。「とにかく入ろうよ」

 

「やだ」

 

 なんだかすねた気分だった。存在を拒絶されるってこんな感じかな。なんで輪から弾かれちゃったんだろ。ちょっと不安になったり怖がったりしたのがいけなかったのかな?

 

 睡蓮の鉢の中に小さい魚が見えた。メダカだった。

 

「さあ、ロコ」

 

 うずくまるようにしてメダカを見てる私の袖をダニーが引っ張った。

 

 

 

 『ハーヴィ』の木の看板は、本当に古いのか古っぽい感じにしてるのか、文字が黒く焼きつけたようだった。扉を開けると鈍い金属音が響いた。カランカランでも、ガランガランでもない音。足を踏み入れるなり、空気が変わった。

 

 確かに空気感が変わった。

 

 ある場所に入って空気感が変わる、そんな経験、誰にもあるんじゃないかな。たいていは自分の心の状態が場所によって変わっただけなんだろうけど。

 

 たとえば、体育館での夏休みの研究発表。ステージの上からずらっと並んだ生徒見て、いつもと空気が違うって感じてしまう。空気が密で押し寄せてきて。あのとき細かく揺れてどうしようもなく落ち着かなくなってしまうのは空気のせい? それとも心? 多分、自分の心の空気感。心の密度。脳内の何かの密度。

 

 これまでは空気感が違ったと感じた原因は自分にあったんだと思う。でも確かにこの場所は空気感が違っていた。純粋に。

 

 カウンターの向こうで、グラスを布巾で拭いてた男と目が合った。見事な白髪だ。小柄な人だった。カウンターが高すぎて、ちょっと不釣り合いに見えるくらいだ。

 

 その顔は年齢不詳だった。つやがあって若々しくも見える。銀髪を今風の髪型に変えたらぐっと若く見えるに違いない。

 

 そして不思議なことなんだけど、なんだかその人の周りの空気はひんやりしていた。

 

 いい意味でのひんやり感だ。暑苦しい人、っていうの真逆のひんやり感。冷たい、とか冷淡とか人間味が感じられない、とかいうのとは全然違ったひんやり感。

 

 そのひんやり感は「きっぷがいい」って感じにちょっと似てるのかもしれなかった。正直、きっぷがいいって意味、よく知らないんだけど。

 

 その人は私に焦点をあてた。あまりにシュッと焦点が合わされたもんだから、一瞬、呼吸が止まった。

 

 でもきっと客観的に見たら、普通の目、普通の視線なんだと思う。ごくごく普通の。目も大き過ぎも小さ過ぎもせず、離れ過ぎもくっつき過ぎもせず。

 

 ただ、強い視線ってのがあるとしたら、正にこんな視線なんだと思う。

 

「よお、ダニー」

 

 男の顔がくしゃっとなった。

 

 

 

 テーブルは4つ、客は7人だった。

 

 ダニーと入った時、テーブルに二人ずつかけている六人が皆なんとなくこちらを見た。静かな風のような視線だった。まるで風に吹かれて少し揺らいでいた葉がふっと動きを止めるように、皆なんとなくこちらを見て、その後はまた自然に揺らぎ始めた。

 

 ワイシャツを着たノーネクタイの二人は何やらブラウン封筒から書類を出して片方が説明している。長年連れ添った夫婦風の二人は、ゆったりとカップを動かして、多分コーヒーを飲んでいる。

 

 それにポニーテールの二人。大学生かな? 片方が女で片方が男。男の方が少しくせ毛でポニーテールが少し長い。

 

 カウンターには一人。腰かけてた高校生風が、くるりとカウンターチェアを回転させてこっちを向いた。

 

 随分整った顔だなって思った。ハンサムとかイケメンとかかっこいい、じゃなくって整った顔だなって。アイドルだったらあまり整いすぎててかえって人気が出ないタイプ。いるよね、そんなタイプ、どんなグループにも一人くらいは。

 

「ダニィィィー!」 そのおにいさん、カウンターチェアから、とび下りてやってきた。声が高くハイテンションだ。手足が長く背が高い。長〜い手を振り回すように広げて歓迎してくれている。笑うと大きな前歯が見え、整った顔はぐっと人間味を増した。みごとなすきっ歯のところが愛嬌がある。

 

「よお、ダニーの彼女かぁ?」

 

「友達だよ」

 

 ダニーはくすくす笑った。わたしもつられて笑った。

 

「ヨウちゃん背高くなったね、マスター」

 

 カウンターの銀髪の男は、ダニーの言葉に大きな口をさらに大きくした。

 

 やっぱりこれがマスターなんだ、私はなぜか安心した。ゴールの旗を見つけたような気分だった

 

「ダニー、見ろよ。ピアス開けたんだ」

 

 ヨウちゃんが言った。

 

「あ、ほんとだ」

 

 長めの髪を耳にかけると、黒い石のピアスが見えた。

 

「なに、それ。ブラックダイヤモンド?」

 

「コクタンさ」

 

「コクタン?」

 

「そう、コォクゥターン!」

 

「コクタンって炭? 

 

「だろうな。コクタンピアスって店員ちゃんが言ってたからさ。コックゥターン!」

 

「ヨウイチ、それはさ、木の種類の黒檀だよ。英語でエボニー」

 

 マスターが言うと、会話が聞こえていたのだろう。一番近くのテーブルの夫婦が笑った。

 

「あ、そうだ、そうだ、そんな歌あったな。エーボニー〜アイボニー〜とかさ」

 

 ヨウイチさんはけっこう音程がよい。

 

「それを言うならばアイボリーだろ。アイボニーじゃなくってアイボリー」

 

 マスターが笑った。

 

「わかってるって、パパ。愛嬌愛嬌。ポールマッカートニーとマイケルジャクソンだよね。ちゃんと知ってるって」

 

 え?

 

 きっと私が戸惑ってるのがわかったんだ。マスターの目が、言ってごらん、って言ってる。

 

「スティーヴィーワンダーじゃなかったかな?」

 

 ちょっと遠慮がちに言ってみた。ママが教えてくれたんだ。随分長い間黒人系の大統領が選ばれるなんて考えられない時代でね、オバマさんがなった時、ママすごく感動したわ。ホワイトハウスでエボニー&アイボリーって歌が歌われてね、これは黒人のスティーヴィーワンダーさんと白人のポールマッカートニーさんが作って一緒に歌った曲なのよ。もう三十年以上も前の曲だと思うけど。

 

 その時ママはポールマッカートニーがビートルズのメンバーだったことや、スティーヴィーワンダーは今はすごく背も高い大きな人だけど、子供の頃はリトルスティーヴィーって呼ばれて凄い天才少年だったこととか教えてくれた。そんな話をするママはなんだかとても楽しそうだった。

 

「物知りだなー、ダニーの友達は。なんて名?」

 

「ヒロコです。みんなロコって呼びます」

 

 そのあと、絶対マイケルジャクソンだと思ったんだけどなーってヨウイチさんはブツブツ言っていた。それはきっとブラックオアホワイトって歌と勘違いしてるんじゃないかなって思った。いつかユーチューブで見たマイケルジャクソンのブラックオアホワイト。ダンスも歌も映像もすごい迫力だった。

 

「食べる?」

 

 マスターがサンドイッチとアイスコーヒーをカウンターに置いた。

 

「カフェイン抜きだから安心していいよ。ロコちゃん、こいつ、カフェインとるとめちゃめちゃハイパーになるって知ってた? こいつの父さんが間違ってコーヒーゼリー食べさせた時なんかもう大変で。数覚え始めたころだったからさ、ひとちゅ、ふたちゅ、みっちゅ、ここのちゅ、って1、2、3からいきなり9にとぶんだけど、もう一晩中跳ねまわって、ひとちゅ!ふたちゅ!みっちゅ!ここのちゅ!ってさ」

 

 はははは、私は笑った。笑いながら緊張がとけていくのを感じていた。

 

「コウちゃん、元気?」ダニーはなんとか話題を変えようとしてるみたりで、少し声を甲高くして聞いた。

 

「おお、コウイチも元気にしてる。ぐっと背も伸びた。前から4番目くらいになった」

 

「へーえ。じゃ僕くらい?」

 

「ダニーよりはまだ低いかな。ダニーは新しいクラスではどれくらいなんだ?」

 

「真ん中よりはだいぶ低いよ」

 

「コウイチももうそろそろ来るはずなんだけどな」

 

「じゃ会えるね」 ダニーは嬉しそうだった。

 

 私は、もう一度なんとか輪をくぐりたくってしょうがなかった。くぐってこの場所や人たち見てみたい。もっともっとカラフルに違いない。マスターの他にもダブル人間っているのかな。マスターはきっとダブル人間だよね。

 

 でも一体どんなダブル人間なんだ?

 

 

 

 

「おう来たか」

 

 その子はカウンターの裏の調理場につながる裏口から入ってたらしい。気がつくとすくっとマスターの横に立っていた。

 

「コウちゃん!」

 

 ダニーが走り寄った。ヨウイチさんがオーバーリアクション、ハイパーだったのと対照的だ。丸いふんわりした顔でほとんど無表情に見えた。ちょっとウーパールーパーに似てると思った。

 

「ダニー」コウちゃんはつぶやくようにカウンターから出てきて、ダニーの手を引くと空いているテーブルに連れて行き、二人同時にちょこんとすわった。ほんとにちょこん、という感じだった。

 

 私も行こうかと思ったけど、なんだか二人の世界を邪魔しちゃいけないなって気がしたから、カウンターにもたれて見ていた。

 

「ダニーはコウイチのいい友達でね」

 

 マスターは言った。

 

「コウイチはほとんど話さない。話せないわけじゃないんだけど話さない」

 

 エボニー、アイボ二ー、ってあいかわらず歌いながらエアギターしてるヨウイチさんと随分違うねって思った。

 

「ロコちゃんはデッサンって好き?」

 

 デッサン?

 

「柔らかめの鉛筆で物の輪郭描くだろ? 強く描くと濃くなって、薄く描くと薄くなる」

 

 はい…?

 

「そんな風に…」マスターはいつ手にしていたのか輪ゴムを一本持ち、それは普通の輪ゴムより幅のある平べったいやつで、「しっかり見える時と」と平たく太い面を見せ、「薄く見える時と」と細い方を私に見せるようにして「あるんだよ」

 

「それにね」マスターは続けた。「画用紙や描くものの種類によってしっかり描けるものと描けないものがある」

 

 うん…?

 

「このカフェはね、画用紙で言ったら、しっかり描ける画用紙なんだよ。しっかり輪ゴムがね。輪がね」

 

 あ…。

 

 マスターは輪のこと言ってるんだ。私が輪くぐりできてないってことも、フェルルだってことも知っている。

 

 私は目を見開いてマスターを見た。マスターの目は一見濃い普通の目。でもとても深い目だった。奥行きを感じる目。その目の奥にいろんな世界が広がってる目。

 

「ダニーは転校する時ちょっと緊張してたからね。今はロコちゃんがダニーの面倒見てくれてるんだよね。ありがと。ロコちゃんはいい子だね」

 

 マスターの両頬に深いえくぼができた。

 

 不思議なんだけど、子供扱いされたって気はしなかった。マスターの「いい子だ」はいい人間だね、って感じで、なんだか私の存在をしっかり認めてもらえたって感じだった。

 

「背は私の方が高いけど、ダニーの方が大人だと思います。経験も私よりはいっぱいあるし…」

 

「経験ってどんな経験?」

 

 マスターはからかうって感じじゃなくて、真摯な目をして聞いた。

 

 真摯って最近のお気に入りの言葉だ。教科書に載ってたけど、覚えなきゃいけない漢字じゃなくって、ルビがふってあり、読めればいいって漢字らしい。

 

 でも、「真摯」の意味を知って、なんだかすごくすごくいい言葉だって思った。「誠実」とか「優しさ」とかと同じように世の中にもっとあふれればいい言葉だって。

 

 で…マスターの真摯な目に向かって言った。

 

「あの、輪くぐりとか…の」

 

 ああ、マスターはうなづいた。

 

「知ってるよね、ロコちゃんには能力はあるんだよ」

 

「能力?」

 

「そう。たとえば、今まで走り幅跳びあんまりやってきたことない子が、いきなり跳んで…で、やっぱり大した記録は出ないとするよ。でも何回かに一度かはすごくいい距離が出る。能力はあるんだよ、その子。ただコツがつかめてないんだな。でもね彼女は、100回跳んで98回いい記録出す選手より、潜在能力的には上なんだよ」

 

 一瞬、びゅっと広がった輪に運動服を着て、それも学校指定のじゃなくって国際大会で選手が着るようなウェアを着て踏み切って体全体で跳びこもうとしてる自分が見えた。

 

「マスター、実はね、ここに来る前、せっかく輪くぐりできたのに、店の前ではじき出されちゃったんです。…どうしてかなあ…」

 

「ま、そんなこともあるさ」

 

 マスターは微笑んだ。

 

「あまり深く理由を考えず、そんなこともあるさって考えたほうがいいこと、結構あるもんだよ」

 

 私はひどくがっかりした顔をしてたんだと思う。マスターはしばらく両手の指先を合わせてクイクイしながら考えていたが、ま、しょうがないか、って顔で頭を二、三度横に振った。そして奥のキッチンに入ると金魚鉢を持ってきた。

 

 わ…ぁ…。こんな大きな金魚鉢見たことない。

 

 形は普通のガラスの金魚鉢。でも、幅も高さも普通に売られているのの2倍はあった。ってことは体積的には2×2×2で8倍だ。いつだったかママとお祭りですくった金魚を入れるため、金魚鉢を買ったんだ。ママが「どのくらい水入るのかしらね」って計量カップで入れたら3リットルだった。ってことはこのどでかい金魚鉢 3×8なら24リットル。1リットルは1kgだから24kgだ。

 

 それをマスターは、小柄なマスターは、指先や手を微動だにさせないしっかり度合いで持ってきた。重いから一刻も早くカウンターに置きたいって風でもなく、ゆっくりと軽やかにカウンターに置いた。ドン!とか ガシュッ!って感じじゃなくって、軽やかに ひゅわん って感じで置いた。分厚さの割に妙に軽い紙質の本や、空になったクッキー缶、くらいの感じで、ひゅわんって。

 

  金魚鉢の中には、確かカバンボとかマツモって言うんだと思うけど、5、6本の水草と金魚が一匹入っていた。

 

 金魚鉢が大きい割に、金魚は極々普通の大きさで、リュウキンだ。赤とオレンジの中間の色。

 

 私はじっと金魚を見つめた。

 

 特に変わったリュウキンにも見えなかった。色もお世辞にも鮮やかって言えないし、尾びれも見事とはほど遠く、一部がくっついたような尾びれをパシュパシュさせて泳いでいる。しばらく見てると、動きがピョコピョコ見えてきた。別に調子悪そうとか、空気不足、とかじゃなくって、単に癖みたいな感じでピョコピョコしてる。

 

 と……目が合った。

 

 金魚と目が合った。なんだか不思議な気持ちだった。だって金魚と目が合ったんだから。

 

 犬とは目が合う。マンションの別所さんのところのトイプードルとはいつもしっかり目が合う。

 

 猫とも目が合う。時々マンションの螺旋階段の一番下にすわって足の裏を舐めてるミケ猫ちゃんとも目が合う。そのミケちゃんは目が合うとニャーとミャーの中間の声を出す。私もミャーォとか言ってみると、ミケちゃんもしっかり目を合わせたまま、またちょっと諦め感に満ちたニャーとかミャーを返してくれる。

 

 けれど正直、れい子ちゃんが飼ってる黄色いポワポワしたハムスターのヨヘイちゃんや、理科の島崎先生が一度持ってきて見せてくれたシマリスのシーマちゃんとは目が合ったって感じがしなかった。目は丸くてくりっとしてて可愛いんだけど、ヨヘイちゃんにもシーマちゃんにも餌をやったりするんだけど、目が合ってるって感じられなかった。

 

 目が合うって一瞬にしても心も合う、ってことなのかもしれないな。相手の気持ちがわかる、とか、わかろうとする瞬間がある、とかそんなことなのかな。

 

 で、凄く不思議なんだけど、そのリュウキンくんと目が合ったんだ、確かに。

 

 目が合った…。私はつぶやいた。

 

 目が合った…。私のつぶやきが聞こえたのか、大学生風の二人がカウンターにやってきた。ポニーテールの二人組。すわってた時はわからなかったけれど、立つとおにいさんは見事なほど背が高かった。細いし優しそうだから威圧感とか全くないけれど、190cmくらいあるのかも。おねえさんの方は私と変わらないくらい小柄だ。

 

 おにいさんのポニーテールはおねえさんよりちょっと長く癖っ毛だ。二人ともとても静かにカウンターのとこまでやってきて、マスターと目を合わせてにこっと笑った。

 

「目が合ったんだって」おにいさんが言った。話す声に丸い小石がいくつも入って転がってる感じだ。小石が心地よいリズムで転がりながら、音を作っている。

 

「目が合ったの?」おねえさんも私を見た。丸い小さな顔のおねえさん。額を出してポニーテールにしている。全ての髪をかなりの勢いでひっぱった潔いポニーテールだ。

 

 目が合ったのね、そう言うおねえさんの声は小さくささやくようだけど、くっきりしっかりしていて、その目の奥が深いこと…。奥行きがある不思議な目はマスターと同じだ。おにいさんの目も見ようとしたけれど、マスターの方を向いていて柔らかな、それでいてシャープな線を描く横顔しか見えなかった。

 

 

「ポポは僕たちのレイヤーでは意思が通じるんだよ」

 

 おにいさんが小声で言った。

 

 私を見るおにいさんの目もおねえさんみたいに何種類もの光が混ざったような不思議な目だった。

 

「レイヤーってのは層ってことでね。ほら、何層にも重なってる、とかの」

 

「はい、髪でも使いますよね、レイヤーを入れて下さいって。昔の髪型はやたらにレイヤーを入れたものよ、ってママが言ってました」

 

「そうそう、そのレイヤー」 マスターが言った。

 

「どっちが上下ってわけじゃないし、左右ってわけでもないよ。ただ、ある層にコモン族、つまり輪をくぐれない人間たちの非トランスの世界層があって、そこにロコちゃんやダニーみたいに隣の層にトランス…つまり渡ることのできる能力のあるフェルルたちがいるんだ。輪はフェルルたちが感じて見れるトンネルみたいなものなんだ。いや、トンネルっていうような大げさなもんじゃないな、もっと薄い膜かベール…いや、それもちょっと違うか…。とにかくレイヤーが違うと同じ世界だけど見え方感じ方が全く違うんだ」

 

 3Dメガネみたいなもの? 同じ世界であっても違って見える。

 

 うんうん。マスターが微笑んだ。金魚鉢のリュウキンのポポを見ると、やっぱりしっかり目が合った。そしてそのパクパクしている口がちょっと笑っているように見えた。

 

「ここはね、レイヤー族フレンドリーっていうのかな。レイヤー族のたまり場みたいになってるカフェなんだ。だれでも、マイノリティからメジャーになる空間でちょって息抜き出来るときあるよね。そんな感じかな。レイヤー族ってのはね…そうだな、百聞は一見に如かず、かな。とりあえずロコちゃんも輪くぐりした方がいいな。ほんとはね、無理に輪くぐりするのは奨励されてないんだ。自然な状態でできない時は無理しちゃだめなんだ。けれど、何事にも起こりやすいところって案外あったりするんだよ」

 

  起こりやすいところ?

 

「そう。幽霊屋敷で霊を感じれるところとか、あとミステリーサークルが多いところ、不思議な現象がよく見られるところ、UFOが現れやすいところ…ま、真偽のほどはわからないし、大抵は科学的に説明がつくんだけど、そういう場所ってあるだろ。輪に関して言うと、水があるところ、それもポポのようなレイヤー内変化のある生き物のそばで見つけやすいんだ。なぜだかはっきりわかってないけどね」

 

 そのときエアギターしていたヨウイチさんがやってきた。

 

「パパ、この金魚、随分大きくなったよね。最初メダカくらいだったよね」

 

「いやあ、メダカほどは小さくなかったよ」

 

「よく死なずにいるよな。たいして餌もやってないのにさ」

 

「ちゃんと大切にしてるよ」 マスターは静かな目をして言った。

 

 ヨウイチさんがどこかカクカクした動きでダニーとコウちゃんのところに行くとマスターが微笑みながら言った。

 

「ヨウイチはフェルルじゃないんだ」

 

 そうなんですね…。

 

「ロコちゃん、ポポの周りに意識を集中させてごらん。ポポの動きを見ててごらん」

 

 私は金魚鉢に近づき、じっとポポを見た。ピョコピョコ動くポポのひれ。やっぱりしっかり目が合った。

 

 と、ポポが動きを止めた。ひれも微動だにしなくなって私を見ている。「知」のある視線だった。心、をもった生き物特有の、そんな視線。ポニーテールのおにいさん、おねえさん、そしてマスターの目にも通じる深い目。私はポポの目に魅了された。

 

 ポポがちょっと微笑むと急にひらりと一回転とした。と…空中から泡のようなものがいくつかできて、水面に小さく弾けた。

 

 あ……。

 

 水面の上、数センチの所に、小さな1センチくらいの直径の輪が浮かんできた。

 

 輪だ。輪ができた。

 

 輪はすーっと上がり、私の方へよってくる。

 

「いつもは念じれば現れる、なんてことないから今度だけは特別だよ。それからもう一つ教えておこうね。この店は他の場所より輪が出来やすい。レイヤー族が多いところにはちょっとバランスが崩れるのか、輪が現れやすいんだよ」

 

 私の前に来て細かく揺れている直径10センチばかりになった輪…。

 

 私は両手を合わせ、祈るように輪に手を通した。

 

 

 

 

 体が輪を抜けると、なんだか体の芯がシュッとした。背筋が伸びるっていうのかな、背筋もシュッとしたんだ。

 

 カフェ ハーヴィの空気は確かに変わっていた。空気とか空気感とかに硬い柔らかいってあるなら、確かに柔らかくなっていた。呼吸がしやすいっていうか、肺いっぱい空気が吸えるっていうか 

 

 そしてカフェにいた人たちの変化に目を見張った。

 

 どう変化したかっていうと多彩になったっていうのかな。

 

 随分昔のことなんだけど、ママが外国行った時の写真を見せてくれて、世界はもっと多彩なのよ、って言ったことがある。多彩って言葉が、保育園で出たターサイって野菜と関係ないってことはわかった。カラフルなのよって言い直したママに、カラフル?って聞くと、色んな色があるってことなのよって答えてくれた。

 

 今ではカラフル、多彩ってことが単に色だけの問題じゃなくって、存在や生き方や、いろんなことが多彩であり得るんだなってわかってるけど、人間がここまで多彩になれるって、このカフェの人たちを見るまで想像もしなかった。

 

 つまりヨウイチさんとコウちゃんとダニーを除いて、皆、輪くぐり前より多彩になっていたんだ。

 

 

 

 カウンター内のマスター。マスターは顔はかなり変わっていたけれど、雰囲気は輪くぐり前と同じだった。何に似てるかって言われたら狼人間ふうだけど、顔がそのまま狼ってわけじゃない。

 

 随分前にママとテレビで見た狼男って映画で、特撮っていうのかな、どんどん顔が狼に変化していくのがあったけど、その段階を10に分けるとしたら、マスターの顔は5段階目くらいでまだ十分に人間の顔で、笑顔もとっても素敵だ。さっきまでのきっぷがいい感じも一緒で、マスターの周りがさっぱり気持ちよくひんやりしている感じも一緒。緑のエプロンが似合ってるのも輪くぐり前と一緒。

 

 マスターは私に微笑んだ。口は裂けるように大きいけれど、その表情は微笑みというのがふさわしい。

 

 何だか不思議だなって思った。

 

 みんな変わっているけれど、輪くぐり前の雰囲気そのままで。当たり前かな、同じ人たちなんだから。

 

 ポニーテールのおにいさんは強いていうならトカゲ人間だ。それともワニ? イグアナ?皮膚の感じや、目。それにトカゲ風のしっぽもついている。うーん、一番似てるのはなんとかっていう爬虫類。なんて名だったかな。器用そうな長い指もどこかトカゲっぽい。背の高さは同じだ。くせ毛のポニーテールはないけれど、頭のてっぺんから首にかけてゴワゴワとした癖のある長いヒレににた質感のものがついている。

 

 ポニーテールのおねえさんはミロちゃんに似ていた。猫人間? 顔は小さくて耳はピンとたっていて、長いポニーテールはそのままだ。ふさふさとしている。ただ色は銀色に近い白だった。小さな手は人とさほど違わないように見えた。ただ身のこなしが一段とやわらかくなっている。しなやかだ。

 

 どう? 私たち、ちょっと驚きでしょ。ネコおねえさんは柔らかい声で話しかけ、ふふふって笑った。とても素敵なふふふだった。

 

 ダニーと私が入ったとき、トカゲおにいさんや猫おねえさんと同じように、ゆったり静かな風に吹かれるように何気なく、それでいて優しげに見てくれたあと二組の人たち。ワイシャツをきた仕事仲間のような二人のうち一人は鳥系に見えた。顔はダチョウに似てるのかな。首が細くて長くて、でも手があるから翼はないのかな。よく翼の生えた人間ってアニメとか絵に出てくるけど、あれって不思議だよね。だって翼も腕も前足の変化したものだから、どっちもあるっておかしいんだよね。そういった意味ではケンタロウスも同じだね。前足もあって手もあるんだから。

 

 ワイシャツのもう一人の若い男の人は熊と猪の中間の顔に見えた。目はちっちゃいんだけど、笑ってるような優しい目だ。ブラウン封筒から書類を出して説明していたのはこっちの人で、相変わらず、真剣な様子で何やら説明し、ダチョウ風の人がうなづいている。

 

 長年連れ添った夫婦風でゆったりとコーヒーを飲んでいた二人は、やっぱり雰囲気はそのままゆったりしていた。男の人は水をゆっくり飲んでいたけれど、その顔は北川先生に少し似ていて羊風だ。でも北川先生より肩がいかつい。似てるもの同士知り合いって可能性が高いなら、北川先生のこと知ってるのかな。北川先生、結婚して子供いたはず。奥さんも羊人間なのかな。北川先生に兄弟がいたとしたらやっぱり羊人間なのかな。子供はどうなんだろ。

 

 とにかくその北川先生に似た男の人は、角度によっては羊より山羊に似ても見えた。長い白い髭のせいかな。目の周りに深い皺がいくつも寄っていて角はくるんと二本ある。

 

 女の人の方は何に似ているんだろう。いろんな動物に似ている気もする。顔中茶色の毛で覆われれて、口もとが優しい。上品につぼめるように話してる。強いていうならプレーリードッグかな。

  

「どう思う?」 

 

 トカゲおにいさんは声はそのままで小石が転がるような不思議に優しい声で聞いた。トカゲおにいさんと猫おねえさんはどちらも私を見つめ、その不思議な光を放っていた瞳は一段と輝きに満ちている

 

「なんだか素敵だなって。こういうの多彩っていうのかなって。ママが世界はもっと多彩なのよって言ってましたけど、『世界』を『輪くぐりすると』に変えると、ほんとに多彩なんだなって。あ、すごくいい意味でなんですけど」

 

 「見てごらん」 マスターに言われて見てみると、金魚鉢全体が輝いて見えた。晴れた日、家に差し込んだ日の光にガラスの置物とかが反射して眩しいほど光っていることがあるけど、金魚鉢は眩しいほどではなかったけど、繊細かつ神秘的に光っていた。

 

 さっきまでとは違って今見るポポは何らかの魚には違いなかったけど、今まで見たこともない魚だった。少なくとももう全くリュウキンには見えなかった。紫のビロードのようなヒレが体の真ん中辺りからたっぷりと広がっている。同じなのは目だった。目の表情は同じだった。目が合ったポポの口元が今度ははっきりと微笑んでいるのがわかった。

 

 その口がゆっくり動き、お役に立てて嬉しいわ、って言った。声は聞こえなかったけど、私の頭にその言葉が広がった。

 

 ありがとう、ポポ。

 

 ポポは水中から頭を出し、軽く頭でうなづいた。

 

「マスター。ポポさんの声が聞こえたんです」

 

「どんな声だった。男? 女?」

 

「え? 女。ちょっとママの声に似てました。私の考えてることもわかるみたい。これってテレパシー?」

 

「まあ、その一種かな。でも聞こえる声とか言い方とか、たまには内容まで聞いてる人間の影響を受ける。フェルル度が低ければ低いほど、正確さも欠くんだ」

 

 そうなのか。じゃ、ママの声に似て聞こえるのは私だけで、ほかの人にはポポの声は違って聞こえるのかな。

 

「コミュニュケーションってね、どうしても自分の思いが相手の答えに重なって色合いを変えていくんだよ。わかるかな」

 

 うん。私はうなづいた。

 

 ポポさんってきっとすごく頭も性格もいいんですよね。ポポに心で問うと、ポポはヒレを大振りに動かした。

 

 わたしは思わず笑った。

 

 トカゲおにいさんとネコおねえさんも顔を見合わせて笑ってる。

 

 でも、こんな小さい金魚鉢にいて狭っ苦しくありませんか?

 

 すると、やっぱりテレパシーもどきでわたしの心を読めたんだろう、トカゲおにいさんが教えれくれた。

 

「心配ないよ。今だけマスターに呼ばれてロコちゃんのために助っ人にきたんだよ。ほらここの裏側に川が通ってるだろ。カウンターの裏の床を開けると川につながる通路があってね、たまにやってくるんだ。今日は輪くぐりしたいロコちゃんのためにポポちゃんに来てもらったんだ」

 

 ポポはどんなものよってかんじで垂直になりくるりと回ってみせた。フィギュアスケーターのスカートがふんわりするみたいで、素敵だった。

 

「最初は驚きの連続よね」

 

 ネコおねえさんが言った。ゆったりした動作の中で目だけがよく動く。やっぱりミロちゃんに似てる。ミロちゃんもここにいたらいいのに

 

「私の友達におねえさんによく似た人がいるんです。ミロちゃんって」

 

「ミロちゃんねえ。話したことはないと思うわ。出会ったりはしてるかも。でもどこが似てる?」

 

「あのちょっと猫みたいな雰囲気があるところとか

 

「ねえ、あたしやそのミロちゃんのこと、ゲゲゲの鬼太郎の中の猫娘みたいなもんだと思ってない?」

 

「あ、いいえ。猫娘ってあたし、あまり知りませんし。ママは好きなんですけど、ゲゲゲの鬼太郎の再放送見たりして。猫娘って妖怪なんですよね。ミロちゃんは人間だしあ、でもあたしよりはずっと能力あると思いますけど。とにかく、ミロちゃん、動物の中では猫に似てますけど

 

 私はしどろもどろになった。

 

「大丈夫よ。そんな真剣に答えなくても。猫に似てるの重々承知よ。あたしたちみたいなの、レイヤー族っていってね、ロコちゃんが入ってきたこのレイヤーだと本来の姿になれるの。でも人間なのよ、立派な。だけど、普通の人間にないパワーを持ってるものも多いわね」

 

 私はうなづいた。

 

「コモン族は、あ、コモン族って一般人ってことなんだけど、コモン族は普通私たちのレイヤーが見えない。私たちは輪から出ない限り、つまりこのレイヤーにいる限り、安全なの。レイヤー族はロコちゃんたちからしたら、あたしみたいに猫っぽかったり、トカゲっぽかったり、狼っぽかったりするかもしれないけど、必ずその動物に対応した特性や能力があるわけじゃないのよ」

 

 えっ?

 

「ほら、人間でも外見や性格が違う二人の親から生まれるわけだから、あ、ここは父親似だとか、あ、ここは母親そっくりとか、ここは母方のひいおばあちゃんに似てるとかあったりするでしょ。それにちょっと似てるかな。私も外見で一番近い動物って言われたら猫だけど、能力的にはより犬に近い。あと、渡り鳥にも」

 

 え

 

 なんだか混乱してきた。

 

「似てるってのは今までの知識の中で似通ったものにつなげて考えてしまうからなの。私が猫っぽく見えるとこって、耳と目が主だよね」

 

 そう言われれば。

 

「ちょっと動きも猫っぽいかな。それも認めるわね」

 

 猫おねえさんは困った様子の私を見て柔らかく微笑んだ。

 

「覚えといてほしいのはね、レイヤー族は似て見える動物との半人間じゃないってこと。ダブル人間って呼ぼうって動きもあるけど、これもほんとはおかしいと思うの。半分でもダブルでもなく、個性ある一人の人間ってことだよね。いろんな要素が混ざってるだけ。ただ外見だけ見ると目立つ特徴が何かの動物に似てる場合が多いってことなの」

 

 そばでマスターはお皿を拭きながら、トカゲおにいさんはしっぽで時折音をたてながら、ネコおねえさんの話を聞いていたが、「あ、そういえばね、見かけはレイヤー内でもほとんどコモン族と変わらないレイヤー族もいるんだよ」マスターが言った。

 

「どこでレイヤー族かコモン族かを区別するんですか?」

 

「まずは常にこのレイヤーにいるかどうか。でもコモン族でもフェルルになるとかなりここにとどまれちゃうものもいる。コモン族かレイヤー族かを分けるのはね

 

 はい?

 

「宿題にしとこうかな。考えてみて」

 

 え? 教えてくれないんだ

 

「ねえ、おねえさんのお母さんもレイヤー族なんですか?」

 

「うん。でも見かけは猫っぽくないよ。コモン族がみたら、熊と馬の間みたいって言うかも」

 

「お父さんは?」

 

「コモン族だよ」

 

「えっ?そうなんですか」

 

「ちっとも驚くことじゃないわよ。親も子もレイヤー族って方がうんと珍しい。結婚だってレイヤー族とコモン族同士がずっと多いよ。あたしはママがレイヤー族でラッキーだった。疑問にすぐ答えてくれたから」

 

「親がどっちもコモン族だった場合はどうするんですか?」

 

 私は人種の違った子を養子にした時、文化、外見などでいろいろ慎重に考えなければいけないってドキュメンタリーを見たことを思い出した。

 

「その場合はしばらく疑問を抱えて生きるかも。でもたいていコミュニティの誰かがメンターになってくれる。不思議なんだけどね、レイヤー族って、コモン族には決して自分たちの違いを口にしないの。親であろうとね。これって長い歴史で遺伝子に刻まれてきたことなのかもしれないけど、あたしが自分の小さい頃を思い出してみると、言わないほうがずっとナチュラルなんだったのよね。相手がレイヤー族で安心できるってわかるまでは」

 

 おねえさんはカウンターに置いてあるお皿からアーモンドを二つつまみ、口に入れ、カシュッカシュッって噛んだ。

 

「厄介なのはね」おねえさんはいたずらっぽく笑った。「ダニーやロコちゃんみたいな子かな」

 

 え?

 

「結構大きくなってからフェルルの現象が出てくる人」

 

「もっと小さい頃からこっちに入れちゃうコモン族は、結構フィーリングがレイヤー族に似てるのよ。レイヤー族に共通してるのはね」おねえさんはもう一つアーモンドを口に入れた。

 

「静かな熟考型が多いってことかな。あたし、よく思うんだ、レイヤー族だけなら、世の中戦争ってないだろうなって」

 

 そういうおねえさんはちょっと悲しげだった。そんなおねえさんを見てトカゲおにいさんが肩をポンポンと優しく叩いた。

 

 二人って恋人なのかな?

 

「じゃ、マスター。また来ます」

 

 トカゲおにいさんが言った。

 

「サトルくん、卒業いつだっけ? 博士号取るってすごいよね」

 

「来年です。大学に残るか就職かで考え中なんです。今OB訪問とかもして結構忙しいんですよ」

 

「建築だっけ、専門」

 

「はい。ほんとは世界の建造物見て一年くらい回りたいんですけどね。ま、とりあえず就職して親を安心させなくっちゃって。月並みですかね」

 

「いや、いいと思うよ」

 

 マスターはうんうんとうなづいた。

 

「マリカ、行こう」

 

 おにいさんはネコおねえさんの重たそうなバッグを持った。

 

 ネコおねえさんの名はマリカ、トカゲおにいさんの名はサトルなんだ。

 

 マリカおねえさんはサトルおにいさんに腕を組み、二人は出ていった

 

「大学生なんですね」

 

「うん、マリカちゃんは医学生でね」

 

「お医者さんになるんですか?」

 

「研究者になるか臨床するか…つまり患者さんを診る医者になるかはまだ決めてないらしいよ」

 

「そうなんですね」

 

 お医者さんってレイヤー族の? コモン族の? それともどっちも診るのかな。

 

 思っていることがわかったのかマスターが言った。

 

「ロコちゃんも疑問が多いよね。そのうち徐々に分かってくるから焦らないことだね。ここにいたお客さん、今日はみなレイヤー族だったけど、レイヤー族ってのは結構割合が少なくてね。100人に一人もいないと思うよ。でもうちに来るのはレイヤー族がほとんど。何も知らずに入ってくるコモン族もいるけど、めったに常連さんにはならないな。ダニーやロコちゃんみたいなフェルルも来るよ。レイヤー族もフェルルもうちが特別だって入る前からわかるからね」

 

「どうやって?」

 

「そうか。ロコちゃんはフェルルとフェルルじゃない人間の見分け方とか、レイヤー族の気配とかまだはっきりしてない?」

 

「はい…」

 

「焦らなくていいよ。そのうちわかるようになるよ」

 

 ゆったりコーヒーを飲んでた夫婦が立ち上がった。奥さんの方はやっぱり立ち姿もどことなくプレーリードッグに似て愛嬌のある微笑みを浮かべている。旦那さんは北川先生に似てはいるけれど、北川先生より頑固そうだった。角も大きい。「じゃ、マスター、また!」という声に弾力がある。

 

「またお会いできるかもね」 私を黄金に近い丸っこい薄茶色の目で見つめ、プレーリードッグ風奥さんが言った。

 

「最近フェルルさんたちに出会う確率がぐっと減った気がしてたの。さすがマスターの店ね、今日は可愛いフェルルさん二人に会えてよかったわ。ダニーくんは前から知ってるけど、あなたは初めてね。あ、私たち山田っていいます。よろしくね」

 

 山田さんは優しく私の手を握ってくれた。「はい!」私は少し緊張しながら、感じのいい微笑みってのをやってみた。なぜか山田さんに本当に性格のいい子だって思われたかったんだ。

 

 山田っていうごくごく普通の名字の二人の後ろ姿をしばらく見ながら、私はぽかんとしてしまった。大柄なご主人に小柄な奥さん、どこにでもいる夫婦と言えなくもないけれど…やっぱりどうにも不思議な外見で、でもやっぱりちょっと素敵だなって思ったんだ。