ルネビル

 

 ルネビル。

 

 33番地3号に建つこのビルは、数字がサンサンサンと続くことから「太陽がいっぱい」という映画を連想させ、その映画監督のルネクレマンからルネビルと呼ばれるようになった。いつ頃からのことだろう。太陽がいっぱい、という映画名が一般常識だった頃から、もう何十年も経っている。

 

 三階にはアンディ学習塾と humain というNPO。

 

 humain を仕切っているのはシルバだ。

 

 シルバがフィーラーだと気づいてから随分時が経っている。 humain設立は、心理カウンセラーのマサミのアイデアだった。シルバとマサミはボストン時代からの友人でマーサ、カオ、と呼び合う仲だった。

 

 humain とはフランス語で human 、つまり人間。「レイヤー族のカウンセリングが1番進んでるのはフランスなの。フランス語で人間ってつけたらどう?」マーサは言った。レイヤー族にしてもフィーラーにしてもフェルルにしてもこの名前を見た者は勘が働くとマーサは考えた。

 

 実際、相談者の3割はレイヤー族、フィーラー、フェルル関係だ。これは実際の人口割合が1%に満たないのを考えると驚異的とも言えた。マーサの勘は当たった。

 

 humain、 human 、人間 の意味を問い続ける者…彼らの多くは悩みを抱えていた。一時的パニック状態なら必要な情報、解決策を提示するだけで収まるだろう。けれどもレイヤー族、フィーラー、フェルルの中には、自分の存在意義、存在目的に悩む者も多く、その闇は深く哲学的であり、実践例で解決できるケースは限られていた。

 

 新参者のフィーラー、フェルルは価値観の揺らぎにさらされる。未知のものに触れ、人間であることの意味を問われたとき、時として頭と心はフリーズする。

 

 人としてのインテグリティは何か、それを保つためにどうしたらいいのか。

 

 その答えを考え、具体的解決案を考え実行する、それがインテグリティグループの目的であり、ルネビルはそんなインテグリティグループのひとつだった。

 

 humain には様々な職種の者が協力していた。そして相談内容に応じて適した解決法の模索と実行に尽力した。

 

 相談者の中には、人間関係の悩みのカウンセリング提供を求めてホームページから来る者もいたが、実際の依頼者からの評判、または直接アドバイスを受けて相談に来る者も少なくはなかった。

 

 シルバは必要に応じて、二階のブルースカイ調査事務所に調査依頼をした。主に未成年のレイヤー族支援はマーサの経営する学習塾アンディが担当した。メタ族、又の名を変身族への状況に応じた援助には一階の「ペットショップ のんた」の協力も大きかった。

 

 活動に関連した財務処理は、二階にオフィスを構える雨訪税理士事務所が引き受けた。雨訪とは「雨の訪問者」というルネクレマンの映画から取ったオフィス名であり、実際に経営するのは、玉井譲二という税理士だ。

 

 

 

  レイヤー族とコモン族は違ったレイヤーに存在する。といっても、それは認知、認識のレイヤーの違いだ。実際は同じ世界に住み、同じ空間を共有している。

 

 レイヤー族は各レイヤー内での自分たちの姿を知っている。それに伴う悩みを抱える者もいるが、それは物心つく頃から少しずつ大きくなる場合が多い。

 

 それに比べて突然フィーラーになったものは、自分の精神状態を疑わずにはいられない。統合失調症、双極性障害、そのほか自分がかなり重い精神疾患にかかっているのではと悩む者も多い。

 

 彼らは病院に行くべきかと思い悩む。しかし何かが病気とは違うと感じさせる。そんな時 humain の存在を知れば幸運だ。フィーラーか否かを確かめることができ、フィーラーだとわかれば話は早く、適切で必要な知識が提供される。

 

 レイヤー族同士の結婚より、レイヤー族とコモン族の結婚の方が圧倒的に多い。まず、レイヤー族の数が絶対的に少ないことも理由だが、レイヤー族はコモン族に対する偏見を全くと言っていいほど持っていない。自分たちはコモン族の一形態であり、どちらが優れているわけではないと思っている。違いは認識するが、その違いを尊重している。

 

 レイヤー族がコモン族と結婚する場合、レイヤー族は相手に何も説明しない場合が多かった。精神状態を疑われ、不気味だと思われることを避けるためには仕方ない状況がある。また、コモン族の中で知的で理性的な人ほど、レイヤー族の存在を信じないという傾向もあった。

 

 レイヤー族の配偶者は、そのまま、子どもを作り平和に暮らし、死ぬまで知らない者もいる。

 

 しかし、割合は微々たるものだが、フィーラーとして目覚める者もいる。共感力、第六感が強い人、スピリチュアルな世界を信じやすい人がなりやすい、という説もあるが、確固たる統計結果は出ていない。

 

 コモン族とレイヤー族の間の子供がどれくらいの確率でレイヤー族になるかの統計も取られていない。感覚的には四人に一人くらいだろうか。それも生まれた時から必ずしもわかるわけではない。確かなのはレイヤー族の人口は減りつつあることだった。

 

 レイヤー族の中には赤ん坊の時はどちらの層でもコモンな外観だったのが、3、4歳くらいからレイヤー内では狼の特性を増してきたり、プレーリードッグ風になったり、黒豹に近くなったり、その他、種々の自然界の生物に似通ってくる場合もある。

 

 そんなとき、コモン族の母親は見えない変化を感じることがある。漠然とした不安を抱くこともある。見えた場合は対処ができる。見えないのにただ心がざわめくのは、ストレスになる。

 

 シルバは絶えず、力不足を感じていた。絶望の淵まで来て深い谷を見下ろしている、そんな気持ちになることがあった。けれどかつての彼女のように自暴自棄にはならない。彼女には守るべき娘、ヒロコがいる。

 

 活動には優れた人的資源が必要だった。だからインテグリティのメンバーは絶えずリクルーターとしてアンテナを張っていた。 

 

 フィーラーの川野タキを見つけたのはシルバだ。タキは今、ブルースカイ調査事務所に籍を置いている。タキは玉井譲二の知り合いで、彼に雨訪税理事務所を開くよう説得した。玉井はレイヤー族だった。

 

 

 

 

 この度タキの隣人の山岸の夫マモルが甲虫系メタになったことで、安全な場所への移送計画の緊急性が増してきていた。

 

 メタモルフォーシスの例はかなり前からある。ただ、最近になって増えてきている。原因はわからない。

 

 メタモルフォーシスした人間はコモン層でもメタの形をさらすことになる。物理的変化もあるので、実際に甲虫系は人間と虫の間のような形態に変化する。

 

 メタの中にはコモン族つまり一般的人間の姿に戻れたものがいない、これが当事者やその家族に一番伝えにく事実だった。今までに戻れたケースの報告は一つもない。インテグリティグループにできることはメタを悪意、偏見から守り安全に住める場所を提供することだった。

 

 レイヤー族は、様々な形態、外観を見慣れている。人間の心があればどんな外観でも人間であるとの信念を持っているので、メタに対し、共感を示し協力的である。残念なことだが、それはごく一般的なコモン族には当てはまらない。

 

 未知のものへの恐怖は過激な行動へつながりかねない。それは歴史が証明している。

 

 山岸マモルの生活と家族をいかに守るか、それが今、ルネビル内で緊急問題だった。