みらを抱き上げて

 

 

 僕には娘がいる。

 

 名前を考えているとき、陽子が言った。

 

「ライラかレイラはどうかしら」

 

 エリック・クラプトンの名曲のタイトルだと言う。

 

「人によって発音が違って聞こえるのよ。レイラだったり、ライラだったり」

 

 まるっきり英語が駄目な僕はLとRの違いもよくわからない。

 

 陽子はライラとレイラの発音を何度か繰り返してみせたが、僕の理解力のなさを早々に理解し、ほとんど表情を変えず、ポツンとやめた。

 

 別に怒ったわけではない。陽子は無駄だと思ったときにスイッチを切るようにいきなりプツッとなり、それが人に唐突に思われることがある。でも、僕は慣れていたし、別に嫌でもなかった。

 

 陽子はしばらく考えているようだったが、「名前としてはライラの方が発音しやすいわよね」と賛成を求めるでもなく、つぶやいた。

 

「クラプトン、好きだったっけ?」

 

「別に。でも彼の曲の中ではレイラは名曲だと思うわ。You look wonderful tonight は甘すぎるしね。でも、ま、ギターだけじゃなくて歌も歌ってみたのは正解よ。いい味だしてるし」

 

「別にクラプトンが特に好きじゃなくても、娘の名はライラだかレイラがいいんだ」

 

 すると陽子は少しびっくりしたような顔で僕を見た。

 

「だってホテルの名じゃない」

 

 ………

 

「ほら、あそこの夜景が綺麗な国道下ったとこにある赤い屋根の」

 

 知らない人だったら、陽子が平坦に言ったと思うかもしれない。けれど僕には彼女がかなり呆れているのがわかった。

 

「思い出の場所を覚えてないとはね」

 

僕じゃない」

 

「えっ?」

 

「そこ行ったの多分僕とじゃないと思う」

 

 多分じゃなくて確かだった。

 

「えっ?」

 

 陽子は少しだけ見開いてた目を細めた。陽子が考えているとき、もっと具体的に言えば、記憶の細い細い糸をたぐりよせているときの目だ。

 

 ああ。彼女は納得した。

 

「違ったわね。ごめん。ケンジとはエメラルドなんとかってとこだったわね」

 

 そう、僕とはエメラルドキャスルだ。

 

 けれど、陽子はその記憶の糸にはすでに興味をなくしていたようで、静かにコーヒーを飲み始めた。

 

 彼女を知らない人なら、気まずいからだと思うだろう。そうではない。陽子を理解している僕ならわかる。じゃ、名前はどうしようか、と次の段階へ思考を進めているのだ。

 

「じゃ、レイラはなしね」

 

 陽子の中で結論が出た。「レイラは結構いいけど、でもやっぱりやめにするわ」

 

 

 

 

 結局僕たちは娘に「みら」と名づけた。「みらいはどう?」と陽子が言い、未来がある、未来に向かって、の未来かなかなかいいね、と思った。けれど、みらい、ミライ、未来、書いてみると今ひとつぴんとこなかった。

 

 じゃ、平仮名で「みら」にしたら。陽子が言った。みらいい名だ。「みら」の「ら」がLなのかRなのかわからなかったが、そんなの関係なかった。未来のみらだ、ミラとすると鏡のミラーのようだから、「みら」にしよう、そう決めた。

 

 

 

 

 陽子と会ったとき、僕は一目惚れだった。いや一日一緒に過ごしたあと完璧に魅了されていたから一日惚れか。

 

 僕には彼女との未来が見えた。陽子と未来を持ちたいと思った。

 

 ギター同好会の新歓合宿、彼女は女の子の中で、一人だけどこか不思議な雰囲気を醸し出していた。

 

 群れになってさえずる華やかでかわいらしい女の子の一団。その中に一人、異種がいる、そんな感じだった。

 

 一人すくっと立っていた。周りと馴染めてないといってしまえばそれまでなのだろうが、普通そういう時に醸し出す落ち着きのなさ、そわそわ感、不安感、そんなのは彼女にはなかった。すくっと立っている、僕は思った。美人だろ、でも惜しいな、愛想がないんだ、話が噛みあわないんだ。つき合いだしてからも僕の彼女だと知らないうちは知り合いから彼女のことをそんな風に言われたりもした。

 

 その日、新幹線の席はくじで決まった。みんなは席を向かい合わせにして四人で自己紹介やらわいわいやっていたが、僕と陽子は二人だけだった。もともと三人だったが、もう一人の女の子がもう一つの三人席へ行って話しこんだまま帰ってこなかった。

 

 僕と彼女は二人で向かい合うことになった。二時間の間。

 

 気まずさより、期待が勝り、彼女を見た。                        

 

 しばらくどちらも何も言わなかった。実際は、「いい天気になってよかったですね」と僕が言い、「そうですね。ほんとうに」と彼女が言ったのかもしれない。

 

「眉どうかしたんですか?」

 

 聞いてから自分で驚いた。いつもだったら失礼だからと聞かなかっただろう。彼女は明らかに右、つまり向かって左の眉の三分の一を剃り落としていた。それはファッションとかの理由があってではなく、単に失敗したんだろうな、という感じだった。

 

 彼女はふっと笑い、ああ、これ、と言い、左の眉を触り、間違えたと右の眉を触り直した。

 

「父の電動カミソリで顔のうぶ毛を剃ってたら、間違えて剃り落としちゃったんです」 口元に軽い笑みを浮かべている。

 

 僕はなぜか楽しくなり、そうですか、僕は酔いつぶれたときに友達に片方の眉を剃り落とされたんですよ、と言った。彼女はけっこう楽しそうに笑ったあとで、「どうせなら両方がよかったですよね。どんな顔になったんでしょうか」と言い、頭の中で想像したのか、フフッとハハッの間で笑った。

 

 僕は彼女の頭の中の僕を想像しようとして、彼女の頭の中の眉のない僕と僕が対面しているような感じになった。

 

「時間がなかったものですから」

 

「は?」

 

「今朝、眉を描く時間がなかったものですから」

 

 

 

 

 僕たちは何の話をしただろう。何だか初対面の女の子といるのに、ひどくリラックスした気分だった。ずっと黙っていたわけではないから、何か話したんだろう。話がはずんだとも思わないが、人と人が心を通わせるのに話がはずむ必要もないんだ、と思った気もする。

 

 その日、同好会の仲間と坂を上った。かなり登ったあと、寄り合い場所のようなカフェで休んだが、出発の時間になり、立ち上がった瞬間、スニーカーの底のゴムが踵から土踏まずのあたりまでパカパカしているのに気がついた。

 

 わぁ〜、それじゃ歩きにくいよね~。女の子たちが面白そうに声をあげる中、僕が当惑していると、陽子がやってきた。手に何か持っている。

 

 ガムテープだった。

 

「布製だから大丈夫」

 

 そう言うと、陽子はスニーカーを脱いでと言い、呆気にとられている僕に、底がパカパカしている方の靴を脱がせた。そして、ピシッ、ピシッ、ピシッと三回ガムテープをちぎっては、靴の裏に貼りつけ固定した。

 

「布製テープだから歩いても大丈夫」

 

 そう言い、さあ、とスニーカーを履くように言い、立ち上がるときよろけた僕に手を差しだした。

 

 そのとき僕には陽子との未来が見えた。

 

 僕を引っ張りあげる陽子。未来へと引っ張ってくれる陽子。

 

 僕には陽子との未来が見えた。

 

 

 

 みら と名づけようと決めたとき、陽子との未来を思った自分を思い出しながら、いい名前だと思った。クリプトンだかなんだか知らないが、レイラやライラより僕たちの子には合っている。

 

 未来を抱き上げる。

 

 いつからか僕の頭の中で居場所を見つけたフレーズ。みらを抱き上げながら思った。みらを高い高いしながら、未来を抱き上げているんだ、と思った。そんな僕の横で陽子は静かに見つめていた。わー、みらちゃんすごいわ~とか高いね~とも言うことなく静かに微笑んで見つめていた。

 

 最初高く高く抱き上げたのは首がすわってすぐの頃だろうか。三カ月そこそこのみらは丸々とした顔で、大声を出して笑った。

 

 三カ月のみらは一才になり二才になった。何才まで自分の頭よりずっと上に抱き上げ高い高いをすることができるだろう。みらの丸っこい体を抱き上げるたびに思った。

 

 未来を抱き上げる。そんな期待と幸せ。陽子がいてみらがいて未来を抱き上げる。

 

 

 

 二年後には悟が生まれた。みらとつけたとき、何か言いたげだった父が、次の子が男の子だったら「悟」がいい、と言った。孫悟空が好きだった父だから、それと関係あるのかな、と思ったが聞かなかった。

 

 子供の名前は自分たちで、と陽子は言うんじゃないかと思い、おそるおそる父の希望を言ってみた。「いい名じゃない」彼女はきっぱり言った。

 

 その時僕は気がついた。陽子が目をつぶったときに彼女から感じる静けさそれが「悟り」に似ていると。

 

 陽子は怒ったり、泣いたり、悔しがったりがほとんどないように見えた。それは、そう見えるだけで、ただ表情に出さないだけだったのかもしれない。

 

 陽子は僕より、衝撃を受け止める面が大きかった。

 

 僕が衝撃を受ける面は浅く小さい。石が投げ込まれれば、ぽちゃんと水面を揺らしすぐ底につく。逃げ場がない。陽子は水面全体で受け止める。衝撃は静かに伝わる。だからといって衝撃が弱いわけではない。悲しみは僕より静かに続くのかもしれない。ただ何かあったときの表面に出る動揺が僕なんかよりずっと少なく思え、僕は時々陽子には不思議な力があるのでは、と感じた。それが「悟」というのかもしれない。

 

 みらが、感情を素直に出す、いわゆる子供らしい子供で考えていることがわかりやすかったのに対し、悟は陽子の静けさを受け継いでいた。

 

 もちろん幼児のときは愛らしい表情、動作がないわけではなかったが、僕は密かに悟のことを静かなる傍観者と呼んだ。

 

 まだ随分幼い頃から周りの人間の感情の動きがわかっているように思えた。親からいわゆる子供らしい子供だったわよ、と言われた僕としては不思議な子だった。

 

 悟は抱き上げると、みらがきゃっきゃっと喜んで底抜けに嬉しそうな顔で笑ったのに対し、喜んではいるのだろうがその目はみらがしたように周りを見るのではなく、抱き上げる僕の目を見ていた。僕の眼の中に映る景色を眺めるかのように。僕は悟に上から父親としての度量を測られているような気になった。

 

 悟に悟られる。

 

 ふとそんなフレーズが思い浮かんだ。

 

 悟られるのが自分の何なのかはわからなかったが。

 

 

 

 静かな傍観者は姉のみらとの関係になると静かな世話人となった。二年弱ほど上のみらの方が、転んだり落ちたり目が離せないことが多かった。悟は転んだみらのところに行って泣いてるみらを静かに起こした。またある時は落ちる前にさっと走っていって止めた。

 

 やがて14キロの悟が転んで足を擦りむいた20キロのみらをおんぶしたりもした。

 

 陽子はそんな二人を静かに見ていた。お姉ちゃんなんだからしっかりしなさい、とかあれこれこごとを言うわけでもなく、必要なことは言ったがそうでなければ静かに見守っていた。

 

 僕はといえば、みらが怪我をしたり転んだり泣いたりするたび、おろおろした。腰回りが太り始めた大きな男がおろおろし、すっとんきょうな声を出すのに対し、川辺に咲く野草のような陽子が静かに僕と二人の子を見守り、必要なことをする。

 

 親戚に言われるまでもなく、みらは僕に似、悟は陽子に似ていた。外見もみらは僕の小さい頃に似ていて、悟は陽子の整った知的外見を受け継いでいた。陽子も女性にしては背が高かったが、悟はぐんぐん背が伸び、185センチを超えた。髪を肩の下まで伸ばし、ポニーテールにした。別にファッションコンシャスではなく、ただ、顔に髪がかかるのが、煩わしいようだった。

 

 僕は幸せだった。陽子は雑念を払い落してくれた。ふらふら揺れがちな僕をしっかり支えてくれた。僕のスニーカーのぺらぺらしていた底を直してくれたように。

 

 陽子の思考の流れは僕とは違っていた。僕の友達の中には、僕と陽子の会話を不思議に思うものもいた。僕自身、陽子の平坦な反応に戸惑うこともあったが、特別気にはならなかった。

 

 僕と陽子はさほど大きな問題もなく子育てをし、家族で行動した。極々平凡だけど幸せだった。

 

 僕は未来を抱き上げるのに成功したんだ、時々幸せを噛みしめた。

 

 

 

 みらは中学からお行儀のよさで知られる一貫校に行き、そのまま女子大に進み、卒業し、インテリア関係のメーカーに就職した。勉強はあまり得意ではなかったが、明るい女の子に育っていた。おっちょこちょいのところがあり、物事を深読みしないのはいいが、人を信じやすいシンプルすぎるところがあった。

 

 大学卒業から4年が経った。いい人と結婚できれば、僕は時々口にした。

 

 みらがつき合った子は何人かいたが、さほど長くは続かず、まだしばらくはそんな状態だろう、と思っていた。だから、今度はかなり真剣に付き合ってる人がいるの、相手はあたしより若いけど…と聞いた時は正直驚いた。

 

   そして相手の名を聞いた時はさらに驚いた。

 

 ルネだ。

 

 ルネ…陽子はつぶやき、動きを止めた。悟が固まったのもわかった。いつものごとく一番動揺したのは僕だった。ただ、いつもは冷静な二人の心の水面がかなり揺れているのを感じた。

 

 ルネは悟の友達だった。いや友達というより知り合い、というか、高校の同級生だった。大学は違う。

 

 見たところは感じのいい青年だ。ルネはかなりよい大学を出ており、かなりよい会社に入り、家族的にも問題ないように思えた。

 

 しかしいつもは動揺しない悟が動揺していた。そして、あいつだけはダメだ。しっかりとみらを見て言った。

 

 陽子は黙っていた。黙っていたが、その目が揺らいでいた。そんなことは珍しかった。

 

 みらはそんな二人を見て泣き出した。「ルネのこと、みんな知らないでしょ?」

 

 「ルネは姉ちゃんにふさわしくない」悟はきっぱり言った。

 

 

 翌日、悟は「話してきたよ」と言った。「喧嘩にならなかったの?」陽子が静かに聞くと、悟は淡々と答えた。「それはどうだろう。でも事実を言い、彼にチョイスを与えた。追い込むんじゃなくて、自分が窮屈な状況から脱出できる機会を与えられたんだと思わせる。かぶっていた皮がとれたわけではなく、皮をかぶったまま、場違いだったと自分から出ていく、そんな方向に向けようとした。成功したんじゃないかな」

 

「みらは傷つくだろうな」僕はつぶやいた。

 

「たぶんね。でも長い目で見たら、姉ちゃんのためだよ。転んでいいときと転ばないほうがいいときがある」

 

 そのとき僕は悟の右手の甲から血が出ているのに気がついた。小さい頃から悟が喧嘩をした記憶はほとんどない。争いは無駄だ、小さい頃から悟はそんなふうに言っていた。

 

「大丈夫だよ」

 

 僕の視線に気づき、悟は言った。

 

「多分、やっかいなことにはならないと思う」

 

「相手の怪我は?」

 

「大したことはない。手が出たよ。生まれて初めてかもしれないな」

 

 悟は少し笑った。

 

 悟と陽子と僕。しばらく誰も話さなかった。僕の心の水面は揺れていた。ひどく揺れていた。陽子の水面も揺れていたと思う。

 

 

 

 それから数ヶ月後、事件は起こった。ルネが刺された。刺したのはケイタだ。ケイタは悟の親友だった。

 

 ケイタは事情聴取を受けた。ルネがかなり深い傷を負っているらしいことだけわかった。しばらくは重症なのか、重体なのかもわからなかった。

 

 ミラは事件を聞き、とびだしていった。みらと連絡が取れなくなり2日経ち、僕は発狂寸前になった。

 

 陽子が僕の手を取って言った。

 みらが帰ってきたらね、未来をもう一度抱きあげましょう。

 

 高い高いをされ、きゃっきゃっと笑っていたみら。笑いながらもどこか静かに僕を見下ろしていた悟。穏やかな目で見ていた陽子。

 

 僕の心は揺れていた。みらはもっともっと揺れて戻ってくるだろう。

 

 僕は決めた。もう一度みらを抱き上げよう。未来を抱き上げるのに、いつだって遅すぎることはない。