もしも:カズト

 

   僕は石巻カズトという。現在ルネビルのオフィスに勤めているが、以前は小さなメディア関係の会社で働いていた。

 

 その会社に入るのはなかなか大変だった。かなり真剣に就職活動にも取り組んだ。そのころは父はまだ退職前で都内に勤めていた。母は日々不思議感を増していたが、まだ父母の間に会話が成立していたと思う。

 

 ある日、僕は立て続けに不合格通知をもらい落ち込んでいた。一次は合格した会社七つのうち、三つは二次面接に進んだが、最終面接の前に二つ落ち、残っているのはたった一社だけだった。その面接を翌日に控え、僕はどうにも落ち着かなかった。

 

 もっとどっしり構えろ、子供の頃から父にしょっちゅう言われてきた。僕は父が理想とする物事に動じないタイプとは大きくかけ離れているようだった。

 

 父は、古いタイプの人間だったが、二度の転職の後、同世代の中では抜きんでた成果を残していた。新卒のリクルーターをしていた経験もあり、その日は夕食後、面接の練習をしてくれた。聞かれそうな質問をいろんな角度から投げかけ、模範的答え方も教えてくれた。

 

 これで心配ないな、父は機嫌よさそうにビールを飲み始めた。 

 

 あがり症の僕は練習ではうまくいっても本番では焦って早口になったり、自信なさそうにぱちぱち瞬きをする癖がある。大丈夫だろうか内心ひどく不安だった。

 

 父はおいしそうにビールを飲んでいたが、僕の不安はつのるばかりだった。

 

 その時、それまでじっと黙って椅子の上で膝を抱えてすわっていた母が口を開いた。無表情で、時々丸まった猫のように欠伸をしていた母が、かなり元気よく言ったのだ。

 

 ねー、カズ君、ダイオウグソクムシって知ってる?

 

 それって何年も食べなくてもへいきなやつ?

 

 僕は弱々しく聞いた。

 

 そう、それ!

 

 母はまたまた勢いよく言った。

 

 写真見たんだけどね、シャコとダンゴ虫の中間みたいよね。50グラムのアジを食べて以来、5年1カ月の間、何も食べなかったんだって。体調29センチっていうから結構大きいわよね。

 

 父と母は同じ空間にいてもその頃はほとんど接点がなかった。食事も二人の時は別々のようだ。僕がいると母は、全く気儘に、たとえば酢豚にうどんにヒレステーキに苺スフレとかをいっぺんに並べたりしてくれた。

 

 いきなりダイオウグソクムシの話をしだした母を、父は異星人でも見るような目で見た。少しびくついているようにも見えた。

 

 目は複眼でね、3500もの個眼からなりたってるっていうけど、近くで見るとすごい迫力らしいわよ。写真、見る?

 

 いや、いいよ。だいたいグソクムシの形知ってるし。

 

 ダイオウグソクムシをほんとに知ってる? オオグソクムシと間違えてたりしてない?

 

 オオグソクムシもいるんだ。

 

 いるのよ。それは15センチくらいにしかならないの。

 

 うん

 

 もしね、ママが朝起きるとダイオウグソクムシになってたら、どうする?

 

 父がビールを口から吹いた。

 

 母はちらっと見ただけで、

 

 ねえ、カズ君、もし朝起きるとママがダイオウグソクムシになってたら、どうする?

 

 母とは物心つくころから、この「もしも」ゲームをよくやった。

 

 もし、カズ君が蝉になっちゃったら、どうする?

 

 もし、カズ君が頭は犬で体は猫になっちゃったら、どうする?

 

 もし、カズ君が足が6本になって、そのうち1本とれちゃったら、どうする?

 

 僕は自分のことをカズ君と呼び、思いつく限りの「もしも」を母に投げかけた。

 

 母はどんなときでも、丁寧に答えてくれた。

 

 そうね、蝉になっちゃったら、蝉さんの生態を調べて、カズ君が弱らないようにして、どうしたら人間に戻るか真剣に考えるわね。

 

 そうね、頭が犬で体が猫なら、食事は犬用か猫用かって真剣に考えるわね。それから、どうしたら、人間のかわいいカズ君に戻るか研究するわ。

 

 そうね、足が取れたところが傷になってたら消毒して、そのあとで、どうして足が6本になっちゃったんだろう、どうしたら、もとに戻るか考えるわね。

 

 もし、そのままで一生もとのカズ君に戻れなかったら?と聞くと、

 

 そうね、じゃあ、そのままのカズ君を大切にしましょうね、と母はにっこりしたものだった。

 

 思春期になると僕はふさぎこみ、母とあまり話をしなくなった。僕と母との「もしも」ゲームはなりを潜めた。けれど、思春期を脱した僕は自他共に認める好青年になり、この頃になると、母が「もしも」と聞く方になった。

 

 もしも、お風呂に水が張ってあって、そこにタコがいて、刺身にして食べちゃったら、それが変身したママだって分かったら、どうする?

 

 など、かんべんしてくれよっていう「もしも」もあったが、好青年になった僕は、時間があるときは、昔母がつきあってくれたように、母の「もしも」に辛抱強くつきあった。

 

 そうだね、ダイオウグソクムシがママだって分かったら、生態を調べて大切にするよ。食べなくても長い間生きるわけだから、食べ物のことは心配しなくていいよね。

 

 でもダイオウグソクムシは深海にいるのよ。それが朝起きるとママのベッドにいるわけよ。死ぬでしょ。

 

 じゃあ、深海の生き物をよく知っている人に相談するよ。

 

 そんな時間はないわよ。で、カズ君が見てると、殻がメリメリって割れて中から何か出てくるわけ。

 

 うん。

 

 僕はここでちょっと興味を持った。父もメガネを拭いていた手をとめた。

 

 中から出てきたのは一回り小さくなった、やっぱりダイオウグソクムシなわけ。

 

 うん

 

 でもね、輝きが違うの。ちょっと前のダイオウグソクムシより輝いてる感じがするの。そして「ママよ」って確かにママの声がするの。

 

 じゃあ、確かにママなんだ。

 

 そう! それで、さらに見てるとね、出てきたばかりのダイオウグソクムシの殻がまたメリメリって割れて、また一回り小さなダイオウグソクムシが出てくるの。輝きはさらに強くなっているの。で、また「ママよ」って言うんだけど、声がちょっと小さくなってるわけ。

 

 うん

 

 ダイオウグソクムシはメリメリってやつを何度も繰り返すの。しまいには米粒くらいの大きさになって、「ママよ」って声も耳を近づけないと聞こえないくらい小さくなって、それでも脱皮を続けてもっと小さくなって、脱皮をしてるのかすらわかんなくなって、ピカって輝きは強くなってるんだけど、最後は塩の一粒くらいになって、でも輝きは物凄いわけ。「ママよ」って声は聞こえるような気もするけどほとんど聞こえなくって、で、最後は目に見えないくらいになってパシュってフラッシュのような輝きを残して、存在が消えるの。そしたら、どうする?

 

 父も僕も一瞬動きをとめて、一見無表情だけど結構楽しそうに話す母の口元を見ていたが、父はグラスを持って台所へ立ち去り、僕は、凄いね、ママ、その話、久しぶりの傑作だよね、と言った。

 

 でしょ。人間の存在を問う傑作でしょ。

 

 母は誇らしげだった。

 

 でね、もし、そういう結果が分かっているとして、朝起きるとほんとうにママがダイオウグソクムシになってたらどうする?

 

 

 

 その夜は結構よく眠れた。一人になってから、自然にくくくくっと笑ったからだろうか。母のその日の「もしも」は母と僕の長い「もしも」ゲームの歴史の中でも最高傑作だった。

 

 翌日、面接の番を待つ時間、どんどん緊張し、呼吸が浅くなり、動悸がし始めた僕はどうにかリラックスしようとした。母の「もしも」って話を思い出したら、少しはましになるかもって思った。だからダイオウグソクムシになった母が次々脱皮していく様を思い描いた。名前を呼ばれて、部屋に入っていく僕の頭には、父の想定質問とダイオウグソクムになった母とがごちゃ混ぜに存在していた。

 

 

 

  最近、僕はこのダイオウグソクムシの話をよく思い出す。あり得ないと思っていた母との「もしも話」がルネビルに勤め始めてから実際に起こりえることなのだと知った。どのように姿を変えるかは様々にしても…。

 

 姿は変わっても人としての本質は変わらないし、中身はより崇高になることだってあるだろう。けれど直面する身の危険…。メタモルフォーシスするメタ族のことを考えるとき、その存在を考えるとき、「ねえーカズ君」の母の「もしも」を思い出す。