何か怖がってるのかい? 男は聞いた。
大きな髭が顔を覆っていた。大きな…という形容は不思議かもしれないが、長い、でもびっしり、でもなく大きな髭だった。
髭がどれだけ顔、喉元、胸元までを覆い尽くしていても、濃すぎる、長すぎると感じさせない男もいる。男はまさにそんな感じだった。
彼はとても静かな男だった。
私は焦っていた。これだけはきちっとやり遂げなければ、自分が存在することすら許されない、そう感じていた。
元々はいい加減な人間だ。いい加減に人生を過ごしてきた。根は悪くはないのだ。悪くはないのだが、弱い人間だった。クリーンな農地で、或いはビニールハウスの中で大切に育てられたら、重い穂をたれたかもしれない、傷一つない実をつけたかもしれない。
けれど私はそうはなれなかった。周りは荒地で鋭いギザギザの葉をもつ雑草が生い茂っていた。空気も悪かった。茎を伸ばし、葉を大きく開こうにも、許されなかった。
結果、私は身体中に葉や茎を巻き付け、戸惑いと不安とかなりの攻撃心を蓄えた。
実は小心者だった。殴られるのは痛いから嫌いだった。忌み嫌っていた。殴るのも嫌いだ。相手が痛い思いをするからだ。自分を相手に置き換える共感力は持っていた。少なくとも子供の頃は。それが邪魔になると知り、心の壁に塗りこめ、閉じ込めた。
痛い思いをしないには、痛い思いをさせないには、どうしたらいいか。
誰も相手にしてこない、そんな容姿、容貌、態度、それを手に入れたかった。
なぜなら、それは武器になる。ナイフやガンのように使う必要もないビジュアルの武器。
サンクス、ゴッド! 私は体が大きかった。子供の頃はさほどでなかったが、思春期を過ぎる頃から、急に大きくなった。膨れ上がったという感じだった。その膨れを筋肉に変えるため、トレーニングした。空手、柔道を習った。この国では、空手、柔道はちょっとした武器として重宝された。実の所、それは、素手の時、いかに自分に痛手なく相手をやっつけるか、のハウツーものだった。
仕上げはタトゥだ。その男に会いに行った時、私は確信していた。
私が寝ぐらとしていたアパートメントもどきからスリーブロック先にその男、日本の彫師モリがいた。日本ではタツゥはヤクザしか入れないと聞いていたが、それは少し前までで最近ではファッションタトゥとして入れてる若い人も多いらしい。
初めて訪れた時、大きな髭のモリは私をじっと見つめた。私もモリをじっと見た。
私とモリはよく似ていた。外見がだ。私が幼かったら、手を繋いで歩いたら、親子と思われたかもしれない。アジア系同士が初めて会った時、必ずどちらかが、出身はどこか? 或いは 何系か?と聞いたものだが、モリは静かに私を見ただけで、何も聞かなかった。
壁には様々なタツゥ見本が貼ってあった。母が亡くなる数年前、小さな私を絵画教室の先生の家に連れていった時のことを思い出した。壁いっぱいに子供たちの作品が貼られていた。母は先生に私の絵を見せた。先生はそれを見てにっこりした。才能があるかもしれません、と甘ったるく言った。そして、月謝の金額を言った。それは母の顔を曇らせた。こんなとこ、来るの嫌だよー、絵なんか描きたくないよぉー、私は大声を張り上げた。
モリはどこにタツゥを入れたいのか聞いた。
身体中に。私は答えた。
モリは静かに私を見て言った。
まずは、一つ入れてごらん。小さいのを。
モリってforestって意味ですよね。私は聞いた。
モリはやはり静かに私を見た。日本語ができるのか?日本人か?とは聞かなかった。
いや、protectという意味のモリだ。こういう漢字だ、とモリは薄い紙に一つの漢字を書いた。
守
守る、のモリか…。私は思った。
forest.. 悪くはないな、モリは言った。どんな森もまずは…。
モリは私の足首の内側に一本の小さな木のタツゥをいれた。タツゥとさえ呼ぶのもおこがましいくらいの小さな木。枝か…。挿木か…。
モリはひどく満足そうだった。実際表情はほとんど変わっていなかったが、私はモリが満足しているのがわかった。満足、というより、小さな穏やかな波動がモリを包んでいた。
帰り道、私はひどく情けない気持ちになった。決して馬鹿にされた、とは思わなかった。モリなりのひとりよがりの哲学的教育的押し付けをさほど嫌だとも思わなかった。少なくともモリからなんらかのエネルギーが私に流れた。善意の何かだ。私はその時、善意を必要としていたのだろうか。正直、あの頃、私は何一つ分かっていなかった。
やがて私は違うタトゥパーラーに行き、身体中にタトゥを入れることにした。その数ヶ月前に私は大した訳もなく顔見知りの一団にひどく殴られていた。肋骨は三本折れ、足も骨折した。怪我は治癒していたが、心に荒れ狂う疾風を持て余した。全身の表層に痛みを感じることで、怒り、情けなさ、そして日本語で言う 恥 を忘れたかった。
背中に蜘蛛のタツゥを入れる。身体中に蜘蛛の巣と大小様々な蜘蛛を入れたかったが、背中に一匹のタツゥを彫り終わったと時、気が変わった。何かが違う。私は足首の小さな緑の木のタツゥを見た。モリ。守。森。
その時、悟った。身体中にタツゥを入れても自分は痛みから逃れられない…。
背中の蜘蛛は一匹だけ、蜘蛛の巣の家もなく、孤独で寂しそうだったが、私はそれ以上、タツゥを入れなかった。
ジムに通った。体を鍛えた。ナイフもガンも体の一部のように使いこなせるようになった。悪夢は少しずつ減っていった。
アパートの隣にはラティノ系の女が住んでいた。一人暮らしだった。何歳なのか、考えたこともなかった。時折、紙皿に盛った料理をくれた。女の料理はどれも美味だった。ファーストフードの立ち食いで、それも一日2回食べればいい方だったから、有り難かった。
女は詮索好きでもなく、無口だった。前歯が2本なかった。前歯がなくても、気品すら感じられる顔だちをしていた。顔立ち、というか女の雰囲気が穏やかな水面のようだった。静水という日本語はあるのだろうか、ふと思った。
しばらくして私は父になった。Forest と名付けた。
私は Forestの手を引いて、散歩をした。至福の時とはこんなことを言うのだろう。私は初めて、至福 の存在を確信した。
Forestの小さな手は少しずつ大きくなっていった。
ある日、彫り師モリの店の前を通った。モリが立っていた。大きな髭はそのままだったが、体が柔和に見えた。太陽を浴びて、お腹に手をそえているモリは柔らかく、静寂だった。
モリが私を見た。
おい、ちっちゃいの、何て名前だい? 呟くようにモリは聞いた。
目を丸くしてモリをみているForestの代わりに私は答えた。
Forest …森です。
モリは右の眉をわずかに上げた後、両方の口角をほんの少しだけ、ほんのほんの少しだけあげた。
私は自分の足首に彫られた枝が芽吹いたのを感じていた。
私とモリはほんの僅かな時間見つめ合い、その後、私はForestの手を引き、歩き始めた。