フィッシュボールスイマー。

 

 それには何ともいえぬ輝きがあった。音に輝きがあるならその響きはまさに輝きだった。

 

 フィッシュボールスイマー。

 

 その言葉を聞いた瞬間、彼女はゆらっと揺れた。その言葉に向かって引っ張られたようだった。その言葉には妙な後ろめたさと大胆さと華やかさと小さな恥じらいがいっぺんに感じられた。

 

 フィッシュボールスイマー募集。その言葉を見たのは、買い物帰りの道だった。どんな中古でもいいから車を買ってほしいという彼女の数年来の願いは、いつも夫の困ったような微笑みとともに叶えられぬまま、部屋の片隅にぺたりと貼りついたままになっていた。車があったらどんなに素敵だろう。始終思った。明るい気持ちのときはその便利さゆえ享受できる素晴らしさをうっとりするように考えた。どんなに激しい雨の日でもその気になればちょっと出かけようかしら、とポシェット片手に遠くのショッピングセンターまで出かけることだってできる。小さな車ならそんなに燃費はかからないだろうから、晴れた日にはお弁当を作って、隣町の岸辺でピクニックと洒落ることだってできる。暗い気持ちのときはほとんど泣きそうに、車があったら、と沈み込んだりもした。

 

 車のない彼女にとって唯一の交通手段は歩く意外は自転車だった。極度におっちょこちょいだと信じて疑わない夫はミニバイクに乗る許可を出してくれそうもなかった。だからどこへ行くのも自転車だった。その日、彼女は10キロ離れた大きなスーパーのバーゲンに、かれこれ一時間近くこいでやってきた。かなりの吟味のあと、数点買った彼女は、人型をした山が見える屋上に上がってみた。彼女の好きな山だった。

 

 屋上では遊具は動いていなかった。深閑としていた。時に忘れ去られたような寂しくて不思議な光景だった。パンダの遊具だけが少しだけ動いたような気もした。良く見るとその陰で掃除をしているユニフォーム姿の者が動いただけだった。

 

 ウーロン茶を買ってベンチにすわった。飲みながら人が横たわった形に見える山を見た。鼻のところに以前は気がつかなかった木が密集して生えているように見えた。

 

 あら…。何だろう。

 

 お腹の部分あたりに建設中の建物らしきものが見えた。ここから見ると小さいが、近くにいくとかなり大きな建物だろう。彼女はペットボトルをペコペコさせながら、しばらく口を少し開けて見ていたが、時計を見て時間を確認した。夕方にはまだ何時間もある。あそこまで自転車で行って帰るには2時間あれば十分だろうか。あの建物が何か確かめたい…彼女はかなりの切迫感でそう思った。

 

 

 

 それは周りになにもないところにトンと建てられていた。パチンコ店? それにしてはひんやりとした建物だった。かなり金をかけて建てたもののように思えた。何らかのショーを行うような造りにも見える。テキサスにトンと建てられたレビュー小屋。彼女はテキサスどころかアメリカに行ったこともなければ、レビュー小屋の意味もよく知らなかったが、なぜか、テキサス、レビュー小屋 の二つの言葉が頭に浮かんで、そのまま漂った。

 

 そしてそこに看板があった。フィッシュボールスイマー募集。

 

 フィッシュボールスイマー? 

 

 それは白地にグリーンがかったブルーで書かれていた。大きな立て看板であったが、どこかさりげなかった。その看板は彼女にとって未知の世界への入り口のように思えた。

 

 木のドアを押して入ると、チャイムのかわりにフクロウの鳴き声がした。

 

 シロフルロウの鳴き声ですね。

 

 ほおー、よくわかりましたね。

 

 オーナーと思われるコバルト色のエプロンをつけた男が言った。

 

 鳥の声、聞き分けられるんです。かなり。フクロウは特に好きですから。

 

 コバルトエプロンはひどく野性味を帯びた顔をしていた。アメリカあたりのTVドラマでバンパイヤか狼男ものをやっているとしたら、いずれ狼に変身するだろう、そんな顔つきだった。

 

 しかしよく見ると目が普通よりちょっと上がり、寝不足か酒を飲み過ぎてか目が充血し、口が大きく、犬歯2本とも八重歯となって出ているだけだった。

 

 それにしても風変わりな店だった。入り口のドアはしごく普通の木製だったが、店内はぐるっと円のカウンターだった。ドーナツ型で真ん中の空間にマスターのコバルトエプロンがいる。一見つながって見える円状のカウンターだが、オーナーは一か所パタンと開け閉めできる場所から出入りをしていた。

 

 ドーナツの真ん中部分にはシンク、ビール、エスプレッソのマシン、カウンターの下の部分に冷蔵庫、食器、その他調理器具などがあるようだった。

 

 ちょっと好奇心で入ってきてしまったんですが、フィッシュボールスイマーって何ですか?

 

 コバルトエプロンはじっと彼女を見た。じろっとではなくじっと見た。彼女の外見ではなく彼女の思考を見ようとしているかのようだった。

 

 僕はアメリカに住んでたことがありましてね、かなりの山奥なんですが、一軒のバーがありました。そこでフィッシュボールスイマーを募集していたんです。僕は水泳が得意でしてね。フィッシュボールスイマーって何だろうってひどく心ひかれたわけなんです。で聞いてみるとカウンターでグラスを洗ってた男が、ダメダメ、しけた男じゃダメっていうんです。しけた男で悪かったなって思って、英語も大してできませんでしたから、すねて出たんです。

 

 そのあと、さあ、どれくらいでしょうか。もう一度行ってみたんです。

 

 結局なんだったんですか?

 

 水槽に人魚の格好をした女の人がいるんです。人魚のようにくるりくるりと回ったりするんです。客の方に来て、投げキスをしたり。

 

 本当に水の中にいるわけではないんですよね。

 

 違いますね。水槽の裏にピアノ線で吊るされた人魚の衣装を着た女の曲芸師がいて、空中でくるりくるりと回ったり泳いでるふりをするんです。ウィンドマシーンで髪の毛はふんわり浮き上がらせて。

 

 でも客たちにはまるで水の中で人魚が踊っているように見えるんです。ちょっと夢々しいっていうか、結構感銘を受けたわけです。で、いつか日本でビジネスとして飲み屋を作ったらやってみたいなって思ったんです。

 

 で、フィッシュボールスイマー募集ってわけですか?

 

 ええ、あっちの壁一面、今はロールカーテンで隠されてますが、水槽なんです。

 

 あのー、私じゃ、なれないですか? そのフィッシュボールスイマーに。

 

 男は少し目を見開いたが、馬鹿にすることなく言った。

 

 大抵のものが想像している人魚って、結構スレンダーじゃないかなって思うんですよね。

 

 お相撲さん体型の人魚じゃ、おかしいわけですよね。

 

 彼女は120キロあった。

 

 客商売ですから。一般的イメージに合わせる必要があると思うんです。ただ…男は少し考えるように上目遣いになった。

 

 コミックリリーフがあってもいいかもしれませんね。ショーとショーの間に。

 

 コミックリリーフ…ですか?

 

 ええ、真面目なショーの中でわざと笑いをとるような要素を入れるんですよ。例えば、人魚のショーが終わった後、お相撲さんの格好をしたあなたが出てきてシコを踏んで見せるんです。

 

 四股を踏むんですか? まわしをつけて?

 

 ええ、胸のところは人魚と同じ貝殻のブラジャーをつけても面白いかもしれませんね。

 

 彼女は馬鹿にされているのか、男が真剣に彼女にできることを考えてくれているのかわからなかった。男は真面目に考え、想像しているようだった。

 

 男に連絡先を聞かれたが、彼女は渡さなかった。

 

 外に出て、フィッシュボールスイマー募集の看板を蹴った。何度も何度も蹴りを入れ、最後には蹴り倒した。怒りに似た思いがあったと思う。ただ、何に対しての怒りなのか明白ではなかった。

 

 まわしをつけて胸には貝殻ブラをつけてシコを踏むですって。馬鹿らしいというより滑稽だ。そこが狙いか。実際誰かがしたらかなり面白いのかもしれない。

 

 彼女は最後にもう一度看板に蹴りを入れると自転車に乗って、来た道をこぎ始めた。時間を無駄にしたのか、建物の用途を知って多少満足をしたのか、自分でもわからぬまま、坂道を転ばないように、ブレーキを加減しながら、自転車をこぎ続けた。