タエコ先生
大抵の人はタエコ先生を変わっていると言う。
フリルのついた丸襟、ボタンが細かい感覚で並んだ提灯スリーブのブラウス、グリーンのたすきのひだスカート。茶色の紐付きシューズにレースのソックス。
タエコ先生は名だけ講師室、実際は物置部屋でインスタントコーヒー片手に、他の講師たちの馬鹿話や噂話に眉をピクリとも動かさない。隅っこの椅子で両足を揃え、文庫本を読んでいる。そして昼12時半になると本の間に赤いブックマーカーを挟み、出かけていく。
タエコ先生が結婚すると聞いたとき、みんな興味津々だった。
だれ!?
相手はアルだった。中級クラスの生徒だ。
最初見た時、きれいな子だと思った。正真正銘のハンサムね、とミエ先生は言った。He's so gorgeous! ナンシーは言い、体が筋肉質すぎる気もするけど今どきはこれで普通なのよね、とジーンは言った。
アルの完璧に見えるスマイルと物腰はそれだけで警報を鳴らす。大抵の女性には。
アルが何人なのか知っているものは少ない。モロッコで生まれ、パリで育ったと言うものもいる。目はグリーンがかっている。ぱっと見にはブラウンだが、覗き込んでみれば緑の色彩が増してくる。
アルの容貌は日本では有利に働いた。机に向かっての勉強は今いちでも世渡りには自信がある。仕事のため、至急日本語を学ばなければならない、とアルは言い、このスクールに通い始めた。
アルは最初にミドリ先生を誘った。ミドリ先生はほら吹きだったが、教え方がうまく、かなりの美人だった。セクシーなというありきたりの形容詞がありきたりに似合うタイプだとも言えた。けれど、ミドリ先生はアルに興味を示さなかった。
アルは次にマミコ先生を誘った。マミコ先生は特別目立つ美人でもなければ、クラスでの教え方もはちゃめちゃだったが、声がとても愛らしかった。マミコ先生はアルを結構気に入ったが、母親が外人と聞いて軽い脳貧血を起こしたといって、やめにした。マミコ先生はとてもヘルシー志向だったので、母親の貧血は耐えられないようだった。
アルはそれからも何人かに声をかけたらしい。そしてその何人か目がタエコ先生だった。
アルは映画のあとで、イタリアンレストランにタエコ先生を連れていき、やたら陽気なおじさんがサービスでカンツォーネを歌いだすバーで時間を過ごした。アルは大声で笑い、片目をつぶってワイングラスを片手にタエコ先生に言う。
Here's looking at you, kid.
ボガードがバーグマンにささやいた言葉だ。カサブランカで。
アルがタエコ先生のマンションに移ってきたと聞いたのはそれから2週間後のことだった。二人は結婚すると言った。
スクールはアルとタエコ先生のために小さなパーティを開いた。紙コップ、ポテトチップスがとびかっていた。アルは光沢のあるジャケットを着て、タエコ先生はピーチ色のワンピースだった。タエコ先生はパサパサのストレートだった髪にウェーブをあて、パール入りのアイシャドーをしていた。ノーズシャドーも入れていた。
二人はそれなりにハッピーに見えた。
けれど講師仲間は心配した。アルの素行を心配した。
アル、少し横柄になったみたいね、とそのうち誰かが言うだろう。アル、見たわよ、モデルみたいな子の腰、ぴったり抱いてさ、とか、アル、すっごく綺麗な子と一緒だったわよ、と言う者も出てくるかもしれない。タエコ先生はどんどん元気がなくなっていくだろう。もう休憩時間に講師室の隅で文庫本を読むこともなくなり、ぼんやり壁にもたれるようになるに違いない。みんなそんな風に思っていた。多かれ少なかれ。
数か月が経った頃だった。私が講師室兼物置への階段を上っていくと、大きな泣き声が聞こえてきた。男の声だということはわかったが、誰の声かはわからなかった。
入るとアルが泣きじゃくっていた。目が真っ赤だった。肩を震わせてそれは悲しそうに泣いていた。悔しそうでもあった。
タエコが……タエコが……。
聞くと、タエコ先生が姿を消したのだという。アルの預金通帳と現金、それに国から持ってきた宝石の原石の入った袋、すべてを持って姿を消したのだという。タエコ先生が出したはずの婚姻関係の書類は手続きが全くされていなかったらしい。部屋にはタエコ先生のひらひらした服だけが残されていたという。
タエコ先生、いったい何者? 私たちは唖然とした。自分たちが人間の読みを間違ったのをタエコ先生の不気味さのせいにした。
タエコ先生、今はきっと誰が見てもわからないように黒い服を着て、髪はショートに切っているのかもしれない。
もともと顔立ちは悪くはなかったよね、タエコ先生ってさ。
変人の振りをして、何かに復讐しようとしていたんだよな。
タエコ先生はストリートスマートだったのに隠してたんだ。
大きな犯罪がからんでいるかもしれないわ。
みな口々に好き勝手なことを言った。
私はタエコ先生が読んでいた文庫本のタイトルを思いだそうとした。けれど赤いブックマーカーは思い出せてもタイトルは一つも思い出せなかった。ブックカバーはしてなかったはず。なのにタエコ先生が読んでいた本が何一つ思い出せなかった。
講師室ではアルの泣き声はしばらく止みそうになかった。
今ではアルは完全に悲劇の人になっていた。