五丁目に会ったとき、起こるはずのないフラッシュが起きた。パシュン、体の中でフラッシュが起きた。
私は三日三晩鬱状態で、とても危ない状態だった。fragile…壊れやすいというべきか、vulnerable...傷つきやすいというべきか...自分を描写しようとしたけど、fragileでは割れ物みたいだし、 vulnerableではあまりに高尚すぎた。
とにかく、私はとっても微妙な状態だった。そんな状態を弱領域を持ってると自分で呼んでいる。心の一部がソフトすぎる状態だ。弱領域は害あるものでも受け入れてしまうか、害なきものでも落とし込んでしまうか...どちらかだった。
そんなとき、自分があるにおいを発散させているのを感じる。臭いと書くより、匂いと書きたい一種ミステリアスなにおい。弱さのにおい…。善人なら躊躇し、悪人なら利用しようとするだろうにおい…。
それは刺のあるにおいでもある。刺のない人間なら、触らぬ神に祟りなし、と上滑りの挨拶だけ残し、またそのうちになんて言って去っていくだろうし、反対に自分も刺を持つものなら仲間意識で近づいてくる、そんなにおいだ。
私は出会ったばかりの男に何丁目に住んでいるかを聞き、彼を五丁目と呼ぶことに決めた。もちろん心の中でだ。
そのころの私といえば、2丁目とのつきあいに後ろめたさを感じ始めていた。2丁目はいわゆる弱さを優しく包み込み、刺には気づかぬふりをするタイプの人間で、私は2丁目といて、ときどき自分だけクリスマスプレゼントを買い忘れたような居心地の悪さを感じた。
そんなわけで、私が5丁目に会ったのは、自己嫌悪感の蔦が私をネット状に包み込んだときだったし、自分みたいな優柔不断な女がざこざこ登場する本を読み終え、陽射しの中、見たくない皺を鏡に映しだされたみたいに憂鬱な気分になっていたので、やはりいい加減な人間という同族意識に惹かれてしまった。というより安心したのだ。
5丁目は気が向けば多種なアルコールを飲み続け、時おりヒステリックに笑った。気がのれば、ここ数年で見た映画の感動的シーンってのをなりきって演じてみせた。2丁目とは裏表ひっくり返したようにタイプの違う男だった。
けれど5丁目はどこか「奇」だった。たとえばだ。5丁目と見に行った映画はストーリーは大したことなかったが、最後ヒロインが若くして死ぬ時の表情が悲しくて、私は涙ぐみながらバックをかき回しハンカチを探した。その夜、家に帰り5丁目は大好物の茶碗蒸しを食べた後、私をしばらく見ていたが、椅子にもたれかかって、目をつぶりこう言った。
「僕が何してるのかわかるかい?」
「ん、何?」
「わかんない? ロベータの真似してんのさ、ほらラストの」
ロベータはその日見た映画のヒロインだ。ヒロインが死ぬ時の真似をしているのだ。ジョークにせよ真面目にせよ、悪趣味だった。それを伝えようかとも思ったが、5丁目は なんで?って言うだけだろうし黙っておいた。
それから時々、私は5丁目のその時の目をつぶった様子や、その夜の夕食の出来の悪かった茶碗蒸しのぶつぶつした上面を思い出した。その度、心がざらっとした。
5丁目といると2丁目を思った。2丁目はとても優しいので、とりたてて喧嘩もせずとてもピースフルに時を過ごせた。
5丁目には毒がある。その毒はスパイスに似て舌にチクリとくるが、その影響は長くは続かない。たいていの場合は。
5丁目のどこがいいんだろう。そんな疑問に行き場を失う度、5丁目の好きなところを挙げようとした。けれど具体的には何も思いつかなかった。感覚的に冷えたビール缶を手にもち、ぺこぺこ指で押してみる、その程度の快感が漠然と頭によぎるだけだった。
5丁目とは表面上はコミュニュケートできても、もろもろのシリアスな問題をディスカスするには互いに知識もやる気も接点もない、そんな関係だった。けれど5丁目は言う。
「僕たちは似てるよ」
「そう?」
「うまくやっていけると思うよ」
「似てるってのがうまくいく秘訣とは思えないけど...」
似ているといえば私にはちょっとずるいところがあって5丁目にもあり、私はなまけもので5丁目もそうだった。
それは記録的に暑い日が4日続いた4日目の夜だった。
私は大きな音をたて、ビールをグラスに注いでいた。それが最後のビールになるかもしれない、5丁目との。漠然とそんなことを感じていた。ビールが好きなのは5丁目で私じゃない。けれどそれが別れるのにもっともな理由だとも思えなかった。
息苦しいほど蒸し暑い日だった。嫌いなビールでもおいしく感じてしまうほど蒸し暑い日。こんな日が続く限り、私は5丁目とやはり別れないのかもしれない、とも思った。
5丁目の横を通り、鏡の前にすわり髪をとかした。髪はひっかかり、ブラシは苛立った音をたてた。立ち上がるとくらりとした。そのままテレビをつけるが、音は出さない。画面はなんだかオレンジ色に染まっていた。オレンジ色の服の女優、オレンジ色の花瓶、大皿の上のオレンジ。いくつものオレンジ色が画面全体を染めていた。
外へ出ようとして気がついた。白いヒールの飾りが片方なくなっていると。パチッと挟む取り外し可能な菱形の飾りが気に入ってこのヒールを買ったのだ。それがなきゃ単に平凡な靴だ。
どこで落としたんだろう。飾りを無くした右足の靴はそこだけ白くのっぺりして見える。
私はため息をつきながら、左の靴からもシュークリップを外した。そしてクリップを手で握り締めて外へ出た。
空は限りなく黒に近い灰色だった。少しだけ出てきた風が生暖かかった。
シュークリップを握りしめ、歩き出すと、頭の中でもつれていた糸がなんだかするりするりと解け始めていく…そんな気がした。
私だけじゃないのだ。女たちはしょっちゅうヒールの飾りを落としてる。新品の時ならちょっとしたブローチにも見えるシュークリップ。ハート、菱形、フラワー、リボン、いろんなシェイプで多様な色のシューアクセサリ。私たちの足から滑り落ち、そのまま持ち主のとこへ戻ることなく、埃をかぶって街のゴミとなる。
足を止め、手のひらのシュークリップを見つめた。すると5丁目とのアフェアも2丁目とのつき合いも、無くした靴の飾り程度に思えてくる。そう思うと、5丁目から2丁目に向かう自分の存在すらあやしくなってくる。シュークリップを落としたように自分自身も落としかねない。
よく見ると菱形の飾りの真ん中にゴールドの線が二本入っている。
こっちも投げ捨ててしまおう。そう思った。思ってから、無くした片方が見つかる可能性を思ったが、そんなのは天文学的確率だろう。失ったシュークリップは戻らない。自明の理だ。
人影の見えない小道で、大きく腕を後ろに引き、ボールを高くほおるように投げ上げた。
思いっきりほおりなげたつもりだったが、ふわっと頼りなく上がった飾りは、大した音もたてずにそっけなく地面に落ちて、そのまま森閑とした。