コトダくんは公園のベンチに座っていた。

 

 秋になったばかりだった。その割りに落ち葉がパラパラと舞っているのは風が強いからだろう。

 

  僕のボルゾイヘアも襟足がパタパタするのを感じていた。

 

 コトダくん…。 声をかけようとしてやめた。もう少し公園のベンチに座るコトダくんを見ていたかった。

 

 何だかいつもよりコトダくんが寂しそうに見えた。いつもは凛と空間を切り取ったように存在しているコトダくんの背中が寂しそうに見えた。

 

 コトダくんは首を下にむけて、つまりうなだれて座っていた。コトダくんは首をカクカクさせることはあっても、うなだれる、ということはまずなかった。

 

 けれど、後ろからコトダくんにそっと近づくにつれ、何だか大きな勘違いをしていることに気がついた。

 

 コトダくんはうなだれているのではなく、集中しているだけだった。

 

 コトダくんは何かを見ていた。角度からいうともちろん地面だ。なーんだ。僕はかなり安心した。だから見守りモードから大股で近づく、というモードに切り替えた。

 

 僕の足音が聞こえても、ベンチのとなりに座っても、コトダくんは動かなかった。

 

 何見てるの?

 

 蟻だよ

 

 ああ、蟻か…。

 

 僕もコトダくんが見ている地面を見つめた。けれど蟻らしきものは見えない。メガネを掛け直してみたり、目をくしゅくしゅしてみたりしたが蟻は見えない。

 

 どこ?

 

 さっきまで行進してたんだ。餌を運んで。もうあの辺りかな。

 

 コトダくんはかなり離れた木が数本集まっている辺りを指した。それはコトダくんが見つめていたところとは全く違っていた。

 

 えっ、蟻ってそんなに歩くの速かったっけ?蟻って駆け足できたっけ? 

 

 僕は、頭の中で駆け足をする蟻ってのを描いてみた。アニメやカッツゥーンの蟻は何だってできる。駆け足はもちろん、ボクシングだって喧嘩だって料理だってできる。けれど、実際の蟻は走れただろうか。足を速く動かせば、早足だ。駆け足ってことは足が地面から浮かばなければならない。早足と駆け足の違いだ。けれど2本足の人間と違って6本も足があるってことは6本ともが地面を離れなきゃならない。それってジャンプしかないじゃないか。

 

 そんな考えに没頭し過ぎて、コトダくんが僕を見ているのに気づかなかった。

 

 どうしたの?

 

 いや、蟻って走るのかと思って…。

 

 ふむ…。

 

 コトダくんはちょっとだけ口の右端を上げた。おもしろいと思ったときのコトダくんの癖だ。

 

 ま、ここにいた蟻たちは普通に歩いてあの辺まで移動したよ。

 

 それって凄くない?凄いスピードだよな。

 

 いや、どれだけかかったかによる。速さは距離÷時間だからね。30分かかってこの距離なら普通に歩いていける。

 

 30分も見てたのかい?

 

 いや、ちょっと考えてた。

 

 何を?

 

 コトダくんは言おうかどうしようか考えているようだった。そんなコトダくんを見ると、コトダくんは僕に理解能力があるのか考えているいるのかなって思う。

 

 じゃ、わかりやすく説明しよう。

 

 コトダくんはふっきれたように言った。

 

 歩いている蟻の列に砂粒をぶつけるか、金の粒をふりかけるか、どっちかしよう。蟻はどう思うと思う?

 

 砂粒ってあたって痛いのかい?

 

 いや、たいして。あ、砂粒だなって思う程度でどうってことない。

 

 じゃ、金の粒って嬉しいのかな。

 

 いや、普通の蟻だったら、特には…。光ってて綺麗って思うものもいるかもしれないけど、けっ、食べ物じゃないって思うかもしれない。

 

  ……。

 

 その砂粒や金の粒をふりかけてみたりしてるのは人間っぽい蟻でね。人間にしてもいいんだけど同じ蟻同士ってほうが、この場合いいからね。その蟻が人間っぽい思考をしていて、さあー、金粉だよ、嬉しいだろ~とか、ほーら砂粒だよ、つまんないだろ~とか言ってパラパラと蟻たちに振りかけてるんだ。

 

 うん。

 

 そのうち、わー金だ、すごーい、って思う蟻が出てくるかもしれないし、け、砂粒だって思い出す蟻もいるかもしれない。黙々と歩いてある到達点まで行こうとしてるだけの蟻たちの中に、投げつけてる側に共鳴するものも出てくるんだ。そして金粉にはわおっ!って嬉しげに頭を振って体を揺らして、できるだけ身に纏おうとしたり、砂粒は必死で避けようとして、当たったりしたら凄く惨めな気持ちになったりする蟻も出てくる。けれど、それまでと変わらずにどっちでも関係ないって直実に進み続けることができる蟻もいるんだ。

 

 それって影響を受けず歩き続ける蟻がえらいってこと?

 

 いや、一概には言えない。金粉に喜ぶようになり、体中きらきらさせた蟻が増えて、きらきらしていることが素晴らしい、という価値観が浸透すると、それを達成したとき、凄く嬉しくなり、黙々と行進していたときと違う精神の高揚感が得られる。

 

 蟻たちがだよね。

 

 うん、蟻たちが。けれど、金粉がうまくまとえなくて、凄く悲しくなったり、劣ったりする気持ちの蟻も出てくる。これは黙々と目的地を目指して歩いていたときの静かな安らぎと比べてネガティブな気持ちだ。

 

 うん…。

 

 砂粒をぶつけられた蟻たちにも個体差がある。痛い…いやだ、どうして僕ばっかり、私ばっかり…って思う蟻もいれば、これは何かの試しか…自分はこんなくだらない妨害には負けないぞ、ってかえってパワーが出てくるものもいる。そうかと思えば、全く金でも砂でも損にも得にもならないと淡々と進み続けるものもいる。ボルゾイさん、どのタイプ?

 

 えっ、僕?

 

 コトダくんは珍しく両方の口角を均等に上げて微笑んでいる。

 

 金粉って、賞賛とかお金とか? 何かのご褒美にもらえるもの?砂粒って失敗の痛手とか中傷とか人からの蔑視とかそういうもの?僕はどっちにもある程度影響されると思うな。

 

 ふーん、ある程度ね。

 

 コトダくんは別に皮肉を言っているわけでもなさそうだった。

 

 けれどね、蟻たちにできることは何だと思う?もちろん蟻にも性格があるわけだから、周りからの働きかけに影響を受けやすいもの、そうじゃないものがいるわけだよ。

 

 蟻にもね。

 

 うん、蟻にもさ。でも蟻たちには自由があるんだ。二段階のね。

 

  二段階?

 

 そうだよ。まず最初の自由は、金粉と砂粒を自分にとっていいものか悪いものか決める自由。二番目の自由は、それに影響を受けるか受けないようにするかを決める自由。

 

 コトダくん、なんで蟻見てそんなこと思ってたのさ。

 

 そっちでさ。

 

 うん。

 

 そっちで、いろいろあるだろ。

 

 こっちで何が…

 

 だからそっちで。

 

 こっちてどこさ?

 

 そちで。

 

 ああ…ソチで。

 

 コトダくんはオリンピックの話をしているのだった。

 

 パラパラ降りかかってくる砂粒の中にも意味深いものがあるのかもしれないのにそう言えなくて、取り敢えず金粉がふってきたらいいなと思ってても、風の流れや、自分のつるっとした体の状態とかあってさ。でも、金粉が降ってこなくてもいい。だってそこで時間はとまるわけじゃないからね。今まで歩いてきた道がある。

 

 蟻の道がね。

 

 いや、彼女の場合は違う。他の蟻よりもっと一歩一歩歩いてきた道があるんだ。けど、人はさ、あ、金粉もらいそこねた。頭に砂が食い込んでる、とか言うんだ。

 

 誰それ?

 

 あ、ちょっとした選手のことが頭に浮かんだ。

 

 コトダくんは、結果を残せなかったメダル候補のことを言ってるのだろうか?あるスポーツ選手のことを蟻を見て思ったってわけか。

 

 なんだか蟻を見てたらさ、ふと思ったんだ。メダルをもらって何か変わりましたかって聞かれた選手がいてね…少し真剣に考えたあとで、いや別に…って答えたんだ。全く変わりませんねって。その選手は目標に向かってたゆみなく行進した結果、メダル貰ったわけだけど、メダルが象徴しているものに興味がなかったんだ。だから、第一番目の金粉が価値があるかないかを決める自由で、価値がないって決めたんだ。あと、それによって人が賞賛したりすることにも影響されないよって、第二番目の自由に関しては決めたんだ。それって今の世間の大多数からすると奇妙なことだから変なやつって思われたりする。でも彼は彼らしさを口にする自由ってのを行使しただけなんだよね。だからさ、もし、僕は彼女がこのベンチの隣に座っていたとしてさ…ボルゾイさんじゃなくってさ、そしたら君は立派に歩いてきたんだから、思ってたものが降ってこなくても、周りがどう言おうとすごいことなんだって思いを伝えるよ。

 

 そのとき蟻の説明するの?蟻と金粉、蟻と砂粒の。

 

 そうだね。

 

 金粉は金メダル、砂粒は良くない成績ってわけじゃないんだよね。

 

 違うね。

 

 コトダくん蟻見てて彼女のことを思ったんだ。可哀想に思ったんだ。

 

 いや、全然。ただ、落ち込むことはないよって思った。

 

 でも落ち込むのも彼女の自由じゃないかな。

 

 うん、他の選択肢もあるって分かった上でならね。

 

 感情的には選べないこともある。

 

 うん、確かに。

 

 蟻の行進見てもいろいろ思いをめぐらすくらいコトダくんの思考に影響を与えたわけだから、それって…。

 

 うん。

 

 それって凄いことだよな。すごいパワーだよ。

 

 うん、そうだね。傍観してる蟻にも選ぶ自由があるんだよね。けなすより輝きを見つける優しさ。金、銀、銅とメダルのある3位までと4位の違い、入賞の8位までと9位の違い。それを気にする、気にしないっていう自由をみな持ってるよね。それにさ選手とそれを見る一人一人には化学反応が起きてるわけだし。

 

 うん。僕はコトダくんの言うことがわかる気がした。僕は背が高いからフィギュアのある背の高い選手のをことを親しみを持って見てたけれど彼はSPで転んでしばらく動けなかった。けれどLPで吹っ切れた顔で滑り出した。点数も自己ベストだったけれど、そのとき彼にとって順位や点は問題じゃなかったんじゃないかな。滑り終えた時の感情の溢れ出る表情、一言で言えばやるだけやった、失敗があったからこそその心情でやるだけやった…っていう不思議で美しい空気感があって…見る僕の心にも化学反応が起きた。何年も経って思い出すのは、金銀とかメダルを取ったスケーターじゃなくって彼のことだろうなって思う。それってコトダくんの言う頭に食い込んだ砂粒を取り外して、行進を続けたことなのかもしれない。

 

 ま、何にしても蟻の行進からいろいろ考えてたんだ。

 

 ボルゾイさん、蟻の研究したことある?

 

 いや、ないよ。

 

 僕の小学生の頃は今みたいな蟻の研究セットとか蟻の巣セットとか売ってない時代でね、透明な入れ物がいいのはわかってたけど丸いのがいいのか四角いのがいいのかいろいろ試行錯誤したんだ。ただ、透明ケースから分かる蟻の実態ってのはほんの一部でね、

 

 どうやら、今度はコトダくんは純粋に蟻について話し始めたようだった。