「君、昆虫好きだよね」コトダくんが言った。
えっ? 正くんは平べったい目を丸くした。
「好きですけど、どうして分かったんすか?」
「本からだよ」コトダ君は言った。ぺらっという感じで言った。あまり意味をつけないぺらっとさだった。
だから正くんは警戒心を持たずに済んだ。
本? そう言って本棚を見た。
「うん、昆虫の本、正確には北京クワガタとナナフシの本だけど、2冊あるよね。この2冊ってのはかなり昆虫に興味がないと持たない。ちょっとの興味の人は、もっと一般的っていうか総合的な昆虫の本を持つよね。昆虫図鑑とか、虫の眼とか、昆虫の世界とかね」
「そうっすよね。僕、そういうのはもう片付けちゃって今はこの2冊だけです」
「かなり賢明な選択だよ、その本2冊は。とくにナナフシの方は古典的だけど古くない」
「そうっすよね」
正くんは心から嬉しそうな笑顔を見せた。
「君、蝉は好き?」
「蝉ですか? 僕、羽が柔らかいのは苦手なんすよ」
「ナナフシも羽があるのもあるよ。それに蝉の羽、柔らかいって思ってる?」
「硬くはないっすよね」
「うん、硬くはないね。でも柔らかいって表現も違うよね。かさかさしてるけどね。ただね、けっこうっていうかかなり柔らかい時もあるんだ」
「はい?」
「羽化したときだよ。羽が緑がかってて、それは綺麗で柔らかなんだ。このときに羽を触ったりしたら大変だよ。何年も土の中にいてやっと出てきたんだからね。そして木に向かって進むんだ。ねえ、君はどのあたりだと思う。もし、蝉だとしたら?」
「蝉だとしたらすか?」
「うん、もし君が蝉だとしたら、まだ土にいる?それとも地上に出てきたばかり? それとも羽化の直後?それとも少しずつ羽がしっかりし始めて木を目指して歩いてる? それとももう木にとまってる? かなり高いところで鳴いてる? 木から木に自由に飛んでいろんな木にとまってる? どの段階だと思う?」
正くんは、コトダくんがあんまりしっかりと、けれど大した抑揚なく言うものだから、ちょっと反応に時間がかかった。
「さあ、どの段階かな…。土の中かな。殻から出ようとしてるところかな。殻から出れなくて困っているところかな」
「違うね」コトダ君はきっぱりと言った。
「君はもう、緑の柔らかい羽の時期は過ぎたんだ。木に向かって歩きださなければいけないのに、あっちの木は遠すぎる、とかこっちの木は細いとか、いろいろ文句付けてるんだ。蝉なんてさ、木がないときは電信柱に向かって進むんだよ」
正くんはふくれた。実際のところ、正くんは外見はりっぱな大人で、角度によってはりっぱなおじさんに見えたから、ふくれた、といってもかわいいものではなかった。
「君はもう緑がかったあの繊細な羽の時期は過ぎたんだよ。なのに、その時期みたいに扱ってくれないってぶつぶつ言ってるんだ。そりゃしばらくはどの木にしよーかなって、見回してててもいいよ。でもそれも限度があるよね。どれかに向かって進むんだよ」
「そういうことが言いたかったんすか」
「そういうことって何だろかな」
「説教ぽいことすよ」
「いや、全然。だってボク、全く説教する権利なんてないもん。される方だよね。どっちかって言ったら絶対的に」
「僕の親に頼まれたってこと、ないんすか?」
「いや、全然。ただ、ボルゾイさんが君はまだ飛び立ってないって親が嘆いてるって言うもんだからさ。何もしないってお母さんが嘆いてるって聞いてたからさ、昆虫好きなら、なんとなく話せるかなって思ったんだよね」
「わけわかんないすよ。蝉って土の中に何年もいるんですよね。でも土の上に出てきてからは2週間くらいすか? じゃ、僕はまだ土の中にいる状態でしょう。飛べてなくても全然いいはずっすよね」
「Wrong! 」違うね!コトダくんは人差し指を立ててきぱっと言った。
正くんはちょっとすねた。
「時間ってのは一定に進むって思ってない? 違うんだよ。時間は一定に進んでるようで、そうじゃない。ま、その話は別のときに。とにかくさ、君はもう土から出てるんだよ。きっちりとしたわけがあってね」
「そうすか。それって変えれないのかな」
「変えれないね。うん。僕もまさにそんな感じだったからね。でも、僕には誰も説明してくれる人、いなかったよ。あ、でもほんとはいたんだろうね、実のところ凄くたくさんね。でもボク、理解してなかったよね。何年も。だから、ぐだぐだしてたな。まだ柔らかい緑の羽でいるって思いたかったんだろうね。実際、ものすごーく長い間、その状態だったよ。実を言うとね、今でもそうなんだ。ボクはある意味ミュータントだからね。だから、お説教じゃなくってね、昆虫好きの君ならわかってくれるって思ったんだ。僕よりずっと早い時期にね。君はミュータントじゃなくって未熟なだけだからね」
正くんは褒められてるのかけなされてるのかわからなかった。
「でも、ミュータントって突然変異すよね。どこが突然変異なんすか? 見かけ普通そうですよ」
「ま、見かけはね」
コトダくんはにっこりした。
「ミュータントと話してると思うと、腹もたたないよね。これから、腹が立ったときは相手がミュータントだと思うといいよ」
正くんは、それがいいアイデアかどうか決めかねているようだった。
「電信柱に蝉の殻を見つけたときは、僕、けっこう可哀そうな気がするんだよね。僕が切なくなる数少ないことの一つなんだよ。だから、抜け殻を大きな木らしい木につけてあげたりするんだ。いつかは手に持ったまま転んで、あれは悲惨だったな。蝉のいいとこはさ、昆虫皆そうだと思うけど、なんだと思う?」
「なんだろな。飛べるとこ?」
「いや、理屈をつけないことだね。一直線なんだよね。昆虫って」
「蜂って8の字に飛ぶっていいますよね」
「うん、でも8を引っ張れば一本の糸だよね」
正くんはコトダくんの屁理屈にちょっと呆れ、ちょっと笑った。
「ま、とりあえずさ、飛ばないにしても歩いてみるっての、どうかな」
散歩に行くにしても体が重いなって正くんは思った。100キロ越えになって久しいけれど、少しだけ散歩でもしてみるか。蝉の季節までにはとりあえず。このミュータントが言うなら。
正くんが何かをやってみようって積極的に思うのは随分久しぶりのことだった。随分、随分、久しぶりだった。
横では、コトダくんがナナフシの本を手にとって、嬉しそうに何やらブツブツつぶやいていた。