僕とコトダくんとの付き合いは、ときどき仕事をまわしてくれるヤズミさんの電話を受けたのが始まりだった。

 

  ヤズミさんは庭の紅葉がそろそろ色づくだの、水盆で飼っているメダカが一匹死んだだの、弱々しいとも思われる話し方であれやこれや言っていたが、それがヤズミさんの話し方だった。

 

  僕は石に生えた苔を愛でるような、若いともいえないけれど、悟りを開くほどには年老いていない、今どきの男には珍しいタイプだったので、些細でありながらヤズミさんの毎日の中ではかなり意味深いそれらのできごとを、ほおぉ~そうですか、といたく感心したり残念がったりした。

 

 と、ヤズミさんは突然聞いた。

 

「ところで川沿くんはゲイだったっけ?」

 

 それは全くヤズミさんらしくない問いだったので、僕は口をぽっかり開けて、えっ、何ですか?と聞き返した。僕の聞き違いだろう、と思ったのだ。

 

  ヤズミさんは一段と声を高く明るく、声で再び聞いた。

 

「川沿くんはゲイでしたっけ?」

 

  今度は僕の聞き違いではなさそうだった。そこで僕は

 

「えっ、僕ですか? ストレートですよ」

 

  僕にしてはキピキピと言った。コーヒーにお砂糖とミルク入れますか、と聞かれ、いいえ、ストレートでお願いします、と言うような感じでだ。

 

  ちなみにヤズミさんには、優しそうな奥さんと今風な極めていい子が一人いる。

 

「そうですか。いや、そうだと思ったんですが、一応聞いてみました」

 

 

 

 ヤズミさんは、コトダくんと組んでくれる物書きを探していた。コトダくんはvulnerableで、合う人が少ない上に、いろいろな人に誤解を与え、つい最近はとても感じのいいヤズミさんの友達のゲイの人を傷つけてしまったらしい。コトダくんに悪気はなくたまたま素直に感想を述べたのがゲイの人だっただけだから、別にコトダくんの仕事仲間としてゲイの人を避ける必要はないのだろうが、ヤズミさんはそのことに妙に慎重になっているようだった。

 

 ヤズミさんが言うには、コトダくんはちょっと変わっていて…その…コミュニケーション方法が変わっていて、違ったサインを出したり、受け取ったサインの意味を取り違えたりするらしい。コトダくんはそこそこ整った容貌で、体格はいいのに、どこか幼い雰囲気だと言う。

 

  ヤズミさんはコトダくんの親戚でコトダくんに仕事を与えてひとり立ちさせたいらしいが、なかなか難しいとのことだった。

 

  ヤズミさんの「vulnerable」 って発音はなかなかのもので、なんとなく意味は知っていたけれどはっきりしなかったので、あとで調べた。  vulnerable...傷つきやすい、非難などを受けやすい、感じやすい、隙だらけな… こんなところか…。

 

  ま、そういうわけで、コトダくんに会うために、ヤズミさんのオフィスへ行った。

 

 

 

  満面笑みを浮かべてコトダくんは入ってきた。好青年、という感じだった。ドラえもんのできすぎくんを大人にしてワイルドにした感じでもあった。コトダくんは首をちょっと傾けてお辞儀をした。笑顔にふさわしいパーフェクトな形の口で笑った。目も完璧な形で微笑んでいる。ちょっと硬い感じではあったが。

 

  コトダくんは青年というには年が上に見えたが、なんとなく入ってきた様子が青年然としていた。

 

「お待たせしました」

 

「あ、いえ、今来たところです」僕が言うと、「そうですか。天気はどうでした?」と聞く。

 

「あ、いい…と思います」

 

  窓からは晴れ上がった空が見えている。

 

「そうですね、いいですよね」

 

  彼はにっこりした。

 

  奇妙な感じもしたが、決して感じが悪いわけではなかった。

 

  そのあと、彼は何も言わず微笑みを浮かべていたので、僕は聞いた。

 

「コトダさんっていうんですよね」

 

「 ええ、コトダマシイです」

 

「コトダマシイ?」

 

「ええ、コトダマシイです。ペンネームです」

 

  ヤズミさんが入って来るまでの間、10分か15分か、僕はコトダくんと話をした。コトダくんは背筋をピシッと伸ばして座り、電車は混んでました?とか、すっかり春めきましたね、とか、ボルゾイさんというニックネームはやはりボルゾイ犬に似ているからですか?と聞いてきた。

 

   僕が「似ているからです。ヒョロリと背が高い、顔が細い、目と鼻の感じが似ている、髪型もボルゾイ犬に似ているからです」と答えると、ピシッと背を伸ばしていたコトダくんが、弾けるように笑った。

 

   ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ! とヒョッ、ヒョッ、ヒョッ、ヒョッ!の間のような笑いで、そのあと前に屈んで息を吐くようにククククッと笑った。

 

  そこにヤズミさんが入ってきた。微笑みながら。ヤズミさんの笑顔はひどく本物っていう感じだった。もしゃもしゃのヒゲ、もしゃもしゃの髪、とんがり帽子をかぶせたらいいんじゃないかっていう風貌が合まって、ヤズミさんはとても温かな感じだった。ちっとも威圧感がなかった。190センチはあり、体重は120?130?はあるだろう男としては稀有なことだった。

 

  ヤズミさんはコトダくんを見てこめかみを中指で掻いていたが、「コトダくん、川沿さんとは短期の仕事じゃなくって長い付き合いになると思うよ」と言った。

 

   コトダくんはほとんど無表情でヤズミさんをかなり長い間見ていたが、「あ、短期じゃないんだ。じゃ…」と言うと、深呼吸をした。

 

  それはまるでシャドウというか皮がさ~っととれて足下にポトッと落ちる感じだった。好青年シャドウ、好青年皮がシュワっと取れた。

 

  コトダくんは改めて自己紹介をしなおすように「コトダです」と小さくボソッと言い、僕を穴のあくほど見つめていたが、やがて小さなため息をついた。僕はなんだかコトダくんをがっかりさせてしまったのかなって思った。

 

「僕は付き合いが長くなるだろう人に対しては素の自分を出させてもらうことにしてるんです。無理をするとなんやかんやデメリットがあるもので」

 

「もちろん、構いませんよ」 僕はニヒッと笑った。僕も力を抜いてニヒッと笑えた。普段は感じの良い微笑みを浮かべることにしていたから、ニヒッと笑えた自分が嬉しくもあったし、コトダくんのことをもっと知りたくもなった。

 

  こうして僕とコトダくんの付き合いが始まった。