ウエイト
マスミはかなり小さい。実際に体が小さい、背が低い、そして雰囲気が小さい。存在が小さく柔らかくまとまっている。マスミを見ると小さくまとまった綿毛を思う。小さいぶん、緻密で陽の光に輝くきれいな綿毛。
スリムを超越して病的ね、という者もいるが、私は病的だとは思わない。ただ、小さく華奢だ。顔のパーツ一つ一つも小さく整っている。もし、誰もいない早朝、がらんとした部屋の隅に彼女がうずくまっているのを見たら、妖精的存在と思うかもしれない。生成りのふんわりした布をまとったようなワンピースのせいもあるだろう。靴はバレエシューズのようなぺたんとしたものを好む。髪は天然のウエーブで伸ばしてゆるく結んでいる。確かに世俗的人間離れしている。
マスミと人間社会をつないでいるのは、バックパックだった。それだけはひどく実用的なもので横に長く四角い。A4サイズも十分に入る。マスミが中高と通っていた塾から支給されたものだそうだ。どう見ても学生の実用的バックパックで、ファッション性は皆無だった。
マスミはこのバックパックを気に入っていた。外側にいろいろポケットがついていて使いやすいのだという。あるとき私はテーブルの上にあったバックパックを少し動かそうと持ちあげてみて驚いた。重いのだ。あり得ないくらい重いのだ。思わず何が入っているか開けたくなった。周りに誰もいなかったし、本当に開けたくなったのだが、ぎりぎりのところでプライバシーの侵害だとやめておいた。
機会があって、おにぎりをほおばるマスミとランチタイムが一緒になったとき、聞いてみた。重さの秘密を。
ああ、マスミはおにぎりを急いで飲みこもうとして少し咳込んだ。
「これよ」
マスミが出して見せたのは、手や足にもつけることができるトレーニング用のウエイトだった。
「何キロあるの」
「ひとつ2キロ」
「じゃあ、4つだから8キロってわけ」
「そういうわけ」
マスミは小さいけれどくりっとしている目で私をみて、にっこりした。
「バネッサって知ってる?」
「スペイン語教えてるよね」
「そう、彼女、かなりの山を制覇してるの。今度、初心者でも登れる山に私も連れてってくれるって」
「へえぇ、そう。それでトレーニングしてるんだ」
「そう、バネッサがね…」
そう言い、あれやこれや山についてバネッサについてマスミは話してくれた。私は担当のクラスがもうすぐ始まるので気になって仕方なかったが、熱く語るマスミを見ているとどこでとめていいのかわからなかった。
マスミはバネッサに恋をしていた。マスミが本当に登山をしたいのかはわからないが、バネッサが好きなことを一緒に出来るならという意味で山登りをしたいのは確かだった。
マスミはしばらくするともっと本格的なリュックサックを背負ってくるようになった。リュックに入れるだけではなく手首と足首にもウエイトを巻くようになった。夜のクラスの後などかなり疲れているのだろうに、マスミは一歩一歩踏みしめるように歩き、時々よろけた。
無理をしない方がいいんじゃない、と言いたかったが、何の権利があって言えるのだろう、と黙っていた。私は特にマスミの友達でもなければ、たんなる同僚の講師の枠を出ていないのだ。マスミの容姿の特異さと、山登り好きな女性に恋をしていることにちょっと好奇心を持ったにすぎない。
バネッサはグラマラスタイプでアスリートタイプには見えなかった。子役でならした子が思春期を過ぎると肉づきがよくなってエンジェリックだった顔がありきたりになってしまうってケースがよくあるが、バネッサもそんな不遇な子役の十年後という容貌をしていた。けれど、笑顔がとびっきり明るく翳がなく、いつも陽気な笑い声を響かせていた。彼女は生徒たちにも人気があった。授業も例文が多くてわかりやすいと評判だった。
バネッサとマスミねえ。
スクールではバネッサとマスミが一緒にいるところを見たことがないし、噂話も聞かなかった。バネッサはフランス語教師のブルーノと仲がいいという話を一、二度聞いたが、ブルーノはマリコ先生に気があるという話だった。
マスミのことはみな「異形」「異様」のカテゴリーに入れ、蓋をしてしまったようで、ほとんど話題にのぼらなかった。
バネッサが国に帰ることになり、お別れ会を開いた。私は参加できなかったが、バネッサがカラオケでプロ並みの美声で日本のポップスから演歌まで歌ったことなど、興奮気味に話してくれる者もいた。誰もマスミのことには触れなかった。お別れ会にいたのかも、私にはわからずじまいだった。
バネッサがいなくなって数カ月経った。マスミは相変わらずウエイトを巻いて大きなリュックサックを背負ってスクールにやってきたが、そのうち気がつくとウエイトをつけて来なくなっていた。
大きなリュックサックも気がつくと以前の中高の塾で使っていたという四角いものに戻っていた。
私はマスミのパックパックをもう一度持ちあげてみたい、と思った。
まだ重いのだろうか、それが私の純粋な疑問だった。
その疑問を抱えたまま、チャンスは来ないまま、数か月が経った。ある日、夜のクラス前に講師室に入ると、誰もいない部屋の隅にマスミのブルーのバックパックがあった。
私はほとんど駆け足で置いてある椅子まで行き、バッグを手にとった。
軽い…。
軽かった。
以前持ったときと同じくらい膨れてはいたが、ただどうにも軽かった。
バッグを開けてみたい、という欲求で体ががたがたするほどだった。ウエイトがないのはわかっているのに、どうしてそんなに開けてみたいのか自分でもわからなかった。
わたしは次の瞬間開けて中を覗き込んでいた。
生徒に返す答案の束がいくつか、ニットのセーター、歯磨きセット、街頭でもらったティッシュが4、5個、タオルハンカチ数枚…。コンビニの菓子パンが入っていただろう空きビニール袋2枚。
私はバッグを閉じながら、自分が探していたのは、どうしてマスミがバネッサと山登りをする夢を諦めたのか、自分から諦めたのか、バネッサの心変わりで諦めたのか、それとも最初からマスミの独りよがりだったのか、という、バッグの中身からは到底わかるはずない答えだった。
私は自分の疑問を持てあましていたのだと思う。
次第に小さかったマスミはそれほど小さく見えなくなった。体重が増えているのは誰の目にも明らかだった。講師室のすみでよく菓子パンを食べては、他の講師のジョークにヒステリックなほどの勢いで笑ったりした。
マスミが変わっていく…。
そんなマスミを見ていると心がひんやりした。ウエイトをつけて重たいバッグを背負って歩いているマスミは痛々しかったが、私は応援していた。マスミのハッピーエンドを願っている自分がいた。
どこの山に登りたかったのか、バネッサはどの山を一緒に登ろうと言ったのか知らないが、その岩肌からふっくらと太り筋肉がなくなったマスミがスローモーションで落ちていくのが見えるような気がした。
私は自分がどうしてマスミに興味を持ったか、その理由をわざと避けているのを知っていた。
それは…マスミが似ていたからだ。それがわかってからも自分で認めたくないのか考えないようにしていた。
でもマスミはカヨちゃんに似ていた。
小学校5年で転校した私は広島訛りを笑われた。友達もできなかった。その頃の私は太めでおとなしく、どこかぼんやりした印象の子だった。どんな転校生だろう、と期待された分、皆がっかりしたようだった。学校へ行くのが苦痛だった。親を心配させたくはないから、無理に通った。校庭でも教室でも一人だった。
ある日、遅刻して学校へ行くとやはり遅刻したのか隣のクラスの女の子と下駄箱で一緒になった。小さな子だった。同じ学年とは思えないほど小さかったが、眼差しがどこか大人びていた。それがカヨちゃんだった。カヨちゃんは私が仲間はずれのことも知っていた。「大変だよね、転校って」カヨちゃんの言葉は優しかった。隣どうしの教室まで何も言わずに歩いたが、私は転校して初めて誰かと一緒にいるという気持ちになれた。
それからしばらくして私の上履きの中に光る石が一つ入っていた。1.5センチほどの大きさの少し緑がかった透明な石は真ん中に糸が通せるように穴があいていた。カヨちゃんがランドセルにつけていた石をつなげたストラップが綺麗で、思わず口にしていたのを彼女は覚えていてくれたのだ。
ありがとう! 廊下ですれ違うカヨちゃんに小さく口を動かし声には出さずに伝えると、カヨちゃんはにっこりした。
偶然だろうが、それから私の運は上がっていった。体育はバスケの授業になり、以前近くのコートで弟とよく遊んでいた私はクラスバスケのエースになり、丁度体型も縦に伸びる時期でふっくらからすらりへの方向へ傾き、快活で人気者の女の子たちのサークルへ少しずつ入り込むようになった。
廊下で会うのが楽しみだったカヨちゃんのことは少しずつ忘れていった。気がつくとカヨちゃんは学校に来なくなっていた。とても小さく痩せていたのは生まれつき健康に問題があったからで、今は学校に通える健康状態ではないと誰かが言っていた。お見舞いに行きたい、カヨちゃんの家へ行って何か綺麗なものでも渡したい、そんなふうにも思ったが、実行に移さないまま、楽しくなってきた学校で仲間から弾きとばされないのに必死だった。
大学卒業後、有志が小学校の名簿を作り直し、希望者に送ってくれた。それをぱらぱらと見て、仲良しだった子の住所や勤め先を見ていたが、ふと「死亡」という字が目に入った。
カヨちゃんだった。いつとは書いてなかったが、カヨちゃんは死亡していた。
私は唖然とした。動けなかった。複雑な感情をしっかり分析しようともてみたが、どう分析しようとあるのは後悔だけだった。
何の後悔か…。自分だけ助けてもらい、用がなくなった彼女に注意を払わなかったこと。病気だと知りながら、お見舞に行かなかったこと。うまく自分の世界が回り出してからは、優しげながらもどこか寂しげな彼女が少しだけうっとおしかったこと。自分勝手な嫌な人間になり下がったこと。真の友情を育てられたかもしれないのに、少しの努力もしなかったこと。
私は彼女がくれた石を探してみた。小学校中学校時代の大切なもの、当時の宝物を入れていた宝石箱を開けてみたが、みつからなかった。どこにやったんだろう。
そう、マスミはどこか眼差しがカヨちゃんに似ていた。似ているのは眼差しと小柄な外見だけだけれど、太りだす前のマスミとカヨちゃんは確かに似ていた。マスミを見るとどこか既視感とともに居心地が悪さが私を浸した。
それでは、今、マスミのことが気になり何かしなければと思うのはカヨちゃんに対する贖罪なの?
暑すぎる夏が終わり、朝夕だけは少し秋風が吹くようになった休日、私は出掛けた。以前小物ショップで見た洒落たウエイトを買いにいこうと思ったのだ。
それはエスニックなブレスレットにようにも見え、かつウエイトにもなるという優れものだった。シャンパンゴールドの布製で、6、7センチの幅だった。ナイロンのような光沢の布は汗にも強そうで、ところどころに水晶のような透明な石がとりつけてあった。布にはファスナーがついており、そこに細かい砂の入った小さな袋を入れることでウエイトとしても使えるのだった。腕用と足首用とあった。最初それを見た時ボリウッドの踊りを思い出した。そしてシャンパンゴールドのそのウエイトはとても上品で美しいと思った。
何より心惹いたのはウエイトとして中に入れる砂だった。透明な弾力のあるビニールに入った砂は産地が書いてあった。ピンクがかったもの、銀色がかった灰色のもの、黒く光っているもの。サウジの海岸、死海、ペルシャのどこか、私はブレスレット二つと中にいれる砂として6袋、すべて産地が違うものを買った。
カヨちゃんはあの石を私の上履きにいれてくれたが、私はどうやってこのギフトをマスミに渡すべきなのだろう。マスミのバックパックに入れるべきなのだろうか。結論が出ないまま、講師室へ向かっていた。マスミと一番顔を合わせるのが多い曜日の時間帯に私は意を決して講師室へ向かっていた。
講師室では、マリコ先生が鼻歌を歌いながら教材をコピーしていた。彼女がばたばたと出て行き、そのあと、マスミと彼女のクラスのチェンさんが入って来た。チェンさんはマスミから休んだ日の教材をもらうと、「ありがとございまーす」と可愛い声とともに階段を駆け下りていった。
私はマスミと二人きりになった。私が肩にかけているカバンはブレスレット風ウエイトのためいつもより重かった。
私は肩だけでなく体中、緊張させていたと思う。マスミもそんな私に気づいたのか、少し不思議そうに私のほうへやってきた。
「ちょっとすわらない?」
マスミは椅子を小さな丸いテーブルの周りに二つ並べて言った。わたしがすわるとマスミが言った。
「大丈夫?」
大丈夫? 何が?
「ヨウコ先生大丈夫なの?」
マスミが私のことを心配しているのか? どんどん太って活気がなくなって精神すら崩しかねないマスミを心配して、バネッサのためでなく自分のためにトレーニングしたら? 健康のために、って言うためにブレスレット風ウエイトを買って、今日渡すつもりの私…。なのに私がマスミから心配されている。私は急に裏と表がひっくり返ってしまったようで、戸惑った。
「何が? 大丈夫って何が?」
マスミは小さくため息つくとバッグの外側のポケットから小さな四角い鏡を取り出し、パカッと開けた。そして私の顔の前に差し出した。
開くタイプの鏡は片方が拡大鏡で、右側には拡大された私の顔、左側には拡大されていないにしてもどこか歪んだ私の顔が映っていた。
「どこか悪いのよね。心だけの問題? 体にもきてるでしょ?」
確かに鏡の中の自分の顔はひどく不健康に見えた。でもそれは最近化粧をやめ、朝、起きにくくなり時間がないので朝食をぬき、なんだかやる気が起きないから、笑顔も減り、胃も痛い、それだけのことだった。
「オブライエンのせい?」
マスミは聞いた。
オブライエンか。お互いほとんど結婚する気だったが、彼の父親が亡くなってイリノイ州に帰ってから連絡が間遠になった。けれど、それはそれでいい。長過ぎた何とかになる予感は前からあった。
「そういうわけでもないと思うけど…」
「他に思い当たることある?」
「特に…」
そう言ってマスミを見ていると私は大きな勘違いをしていたのかも、という気になった。
「バネッサはどうしてるの?」
「元気よ。しばらくしたら、また日本に来るわ」
マスミは拍子抜けするほど明るい顔で言った。
「じゃ、彼女と山登りっての、どうしてやめたの?」
私は恐る恐る聞いてみた。彼女はにっこりした。
「するわよ。そのうち。でも今はできない」
「えっ?」
「ほら、これだから」
彼女はそう言って自分のお腹を指した。太り過ぎでふっくらしている。
ふっくら…。太りすぎ?
「彼女と家庭を持とうと思うの。で、今そのために…ほらね」
天と地が逆転した。彼女は幸せなのだ。幸せだから、ウエイトをつけてのトレーニングも止め、太ったように見えたのだ。
「いつなの?」
「あと4カ月半。つわりもないので、食べ続けてしまうの。コーヒーとワインは辞めたんだけど、菓子パンだけがどうにもやめられなくて」
「そうなんだ…。父親は?」
「それは問題じゃないの。バネッサと私の子よ。二人で子供を持とうって決めたの」
「おめでとう! そうなんだ」
私は無理やり元気よく言ってみた。化かされたような気持ちだった。
「それよりヨウコ先生が元気がないのが気になってたんだ」
「言われてみれば最近いろいろあったかも…。生活たて直さなくちゃね」
クラスの準備があるというマスミを残して、私は、慌てるように部屋を出た。階段で足がもつれて転びそうになった。肩のカバンが重かった。
カヨちゃん、私バカだよね。マスミとカヨちゃんは結局あんまり似てなかったんだね。ちょっとは似てる気もするけど、それは外見だけで…。私の思いこみだったんだね。カヨちゃんとのことがあったから、マスミを助けなくちゃって思ってたなんて独りよがりもいいものよね。滑稽だよね。
カバンの中のウエイトは自分で使ってみようと思った。ボリウッド風のウエイト。ついている石の一つはカヨちゃんがくれたものに似ている気もする。
明日はきちんと起きて朝食をとってみよう。そうして出来ればウォーキングも始めよう。そうすればウエイトをつけ、颯爽と歩ける日もくるかもしれない。
ちょっとした希望的観測だけど。