8章 翼魚の持ち主
ヴィンスが翌日やってきた。二日酔いのような顔をしている。
「どうしたの? また飲みすぎ?」
「ちょっと、ジントニック飲みすぎた」
「ヴィンス、いつまでも若くないのよ。ほどほどにしなさいね。なんて言えた立場でもないけどね、あたしも」
ゴールディの顔をしばらく微笑むようにヴィンスは見ていたが、静かな口調で言った。
「ゴールディ、コリンズって出身どこだと思う?」
「出身?どうしてそんなこと聞くの?」
「彼さ、まるでアナウンサーみたいな標準語だろ。でも、なんかの拍子にふっと感じたんだ。南部のにおいを」
「南部の?」
「そう」
南部…。コリンズのニューイングランド然とした様子から、らしくない、ゴールディは思った。
「で調べてみたんだ。彼の母親、ルイジアナ出身なんだ」
「ど、どこよ?ルイジアナのどこよ?」
「15才でボストン郊外に住む税理士の養子になるまで、いろいろ転々としてたらしいけど、出身はルイジアナで、ニューオリンズから6、70キロのところらしい」
「そうだったんだ…」
「これがさ、調べるの結構大変だったんだ。なんせ彼、名前を変えてたもんだから」
「名前?名前を変えてたの?」
ゴールディは一瞬耳を疑った。
「そう。アルバートをジェイムズってね」
アルバート…。アルバート…。ニックネームはバートだ。パティ、キム、バートに捧げる、のバートはアルバートことジェイムズ・コリンズだった…。そんなことが有り得るのだろうか…。
「続けて」
「で、その名でたどると、10才ごろまでルイジアナの田舎街で育ったらしい。そのあと15才くらいでボストン郊外のアーリントンの住宅街で犬に足を噛まれて頭を打ったらしい。で、一時的に記憶喪失になって、その家にいる間に子供のいなかった夫婦に気に入られたんだ。で、記憶が戻って、両親がいないと彼が言うものだから正式に養子になったんだ。十五にもなった男の子を引き取るってのは周りの反対もあったらしいけど、大人しく高校へも行き、次第に頭角を表したらしい」
「名前を変えたのはいつ?」
「養子になったときだよ」
「よく調べたわね」
「専門だからね」
ブラックネズミのフランキーがバートだったのだろうか。デルベッキオは三匹をわかりやすく三つの人種に分けた。でもだからといってモデルになった子どもたちがその人種だったってことにはならない。ストーリーににいろいろ手を加えた。ホワイトのバートをモデルにすばしこくってハンサムなブラックネズミを創りあげた。ブラックネズミだから黒人だろう、というわけではないのかもしれない。
「コリンズって何才?」
「それが結構若いんだ」
パティは生きていれば何歳だっけ? パティとコリンズは知り合いだったのだろうか…。
「ちょ、ちょっと電話かけるわ」
ゴールディはマディに電話した。
「マディさん、キムと誰かが来た、の誰かですけど、アルって名前だった可能性あります?」
「アル…」
マディは口の中で二、三度つぶやくと言った。
「キムとアル…。キムとアルが来てるの…ですか…。随分前のことなので、なんだか、そうかもしれない、そんな気もしますがはっきりしません」
いろいろ名前を聞いた中で、そうかもしれない、とマディが言ったのは初めてだった。
パティは言ったのかもしれない。キムとアルが来てるの、と。もし、パティはアルバートのニックネームとして、バートではなくアルの方で呼んでいたとしたら。
つながる…。もしそうならつながる…。ブラックネズミがホワイトのコリンズ…。
そして…東洋ネズミのトム…そのモデルが東洋系だったという保証はないが、しかしそれより重要なのはトムという名から当然男の子だと思ったが、女の子だったかもしれないということだ。
キムがアン…。東洋ネズミはアン…。そんなことは本当に僅かな僅かな可能性に思われた。けれど、ゴールディはその僅かな可能性を無視できなかった。
アンは、ニューオリンズにいたことがあるのだろうか…。
シシイから連絡があった。マイク・デルベッキオの居場所がわかったというのだ。
「彼、入院してたんです。持病の糖尿病が悪くなって。でも、重症ってほどじゃなさそうですから、会えると思います。向こうが会う気になれば話ですけど…」
ゴールディははやる心で再びルイジアナに飛んだ。
その病院は薄いクリーム色のまだ新しい総合病院だった。面会時間になるのを待ち、ゴールディは看護婦に言った。
「三匹の子ネズミのキムが会いに来たと、デルべッキオさんにお伝え願えますか」
看護婦は怪訝な顔をしたが、三匹の子ネズミのキムですね、と繰り返し、病室に入って言った。
彼女はしばらくして戻ってきた。
「会われるそうですよ」
病室に入ると強い消毒のにおいがした。
ベッドに横になっていてもデルベッキオがかなりの大男だというのがわかった。薄くなった銀髪を襟足まで伸ばしている。入っていくと、デルベッキオは眉間にしわをよせ、ゴールディをじっと見つめた。
「ほんとにキムかい?」
デルベッキオは目を細めた。あまり目がよくないらしい。ゴールディは近づき、ベッドサイドに座った。
「ええ、キムよ」
ゴールディは彼の手をとった。
「ほんとにキムなのかい? 何年になるだろう」
デルベッキオをゴールディをじっと見つめた。
「見える?私のこと、わかる?」
「キムなのかい? 面影があるようで…。いや、ほんとにキムなのかい?」
これでキムが東洋系で女だということがわかった。
「デルベッキオさん。わたし、ゴールディ・ミラーと言い、パティさんの友達なんです。お願いですからまず私の話を聞いて下さいますか」
ゴールディは、パトリシア・スナイダーの娘、シシイ・スナイダーに頼まれて調査をしている、と言った。
「調査?」
「ええ、パトリシアさんが亡くなったとき、デルベッキオさんはニューオリンズにいらっしゃいましたか?」
「いや、三年ほどヒューストンに行ってたもんでね。だから、パティが死んだのもしばらく知らなかったんですよ」
デルベッキオは静かにぼそぼそと呟くように話した。
「シシィさんは、パティさんがあなたにお世話になったと言ってましたが…」
その言葉に彼の顔が一瞬歪んだように思った。
「シシィはどんな調査を依頼したのですか?」
「パティさんが死ぬ前に、キムとバートが来てるの、と言ってとび出したそうなんです。もちろん、パティさんはあんな病気でしたから、意味があってのことではないかもしれませんが、シシィさん、その言葉が気になって、キムとバ一卜って誰のことなのか調べて欲しいって言ったんです。何でも母親のパティさんから、キムって人のことは東洋系だとだけ、聞かされてたそうで、それでちょっとあんな風に言って、面接取り次いでもらったんです。デルベッキオさんは、キムという人を知ってらっしゃるんですね。子ネズミ同盟に、パティ、キム、バートに捧げる、ってあったものですから」
「…それで何を知りたいんです?」
「デルベッキオさんと三人とはどのような知り合いだったんでしょうか?」
「話せば、長いことです」
デルベッキオは遠くを見つめる目になった。
「聞かせていただけませんか?」
「いや、特に話すようなことはありません」
「どうしてもキムのことを探したいんです。シシィさんの希望でもあります。知っていることを差し支えのない範囲で教えてもらえませんか。もうパティさんも亡くなっているわけですし」
「シシィには母親のことをあまり言いたくないんですよ。それにもう随分前のことです。今でこそニューオリンズは犯罪が多発してますが、その頃はまだ今ほどじゃなかったんですよ。とは言ってもドラッグの売り買いはありました。子供に売らせるってのもこのころから始まりました。子供なら捕まってもムショ行きってこともありませんからね」
ゴールディは真剣な目でうなづいた。
「シシィさんにはパティさんのいいことしか言わないようにします」
「信じていいんでしょうかね。…私の管轄で目立つ子供の売人が三人いました。なぜ目立ったというと、たいてい三人一緒だったし、一人はホワイト、一人も肌の色は比較的明るく、一人は東洋系だったからです。そのころ売人はブラックの子供がほとんどだったから、三人は目立ちましたよ。リーダー格が当時十三、四才だったバートです。東洋系はキムです。父親がベトナム人だという噂でした。あとは、赤毛のパティです。三人ともすばしっこかった…。バートはどこかでしこまれてたようで、売人としてのノウハウをキムとパティに教えたんです。何度捕まえても、ブツを持っていないんです。おとり捜査にも決してひっかからない」
「どうやって、三人は知り合ったんでしょう?」
「三人とも家庭に恵まれなくて家出をした口でしたよ。そんな関係で知り合ったんでしょう。そのうち取り締まりが厳しくなって止め時だと思ったのか、バートとキムは姿を消しましたよ。パティは一人で細々とやってましたが、縄張とかで、子供同士の売人で争いがあったようです。そのうち捕まりました。捕まえたのは私です。そしてそれから相談にのるようになったのです」
「じゃ、デルベッキオさんはキムとバートのことはあまり御存知ないんですか」
「顔は知ってたし、何度か話してはいますよ。あとはパティから聞いて知ってるくらいです。でもパティも仲間を思ってか、ほとんど言いませんでした」
「そうですか…。 じゃ、キムってのが本名かも知らないわけですよね」
「本名じゃないと思いますよ。あるとき、パティが言ったんです。バートは大胆で、キムは慎重派で、自分は臆病だったって…。慎重な子なら偽名を使うでしょうから」
「あの…バートとキムの今の写真見たら、わかると思いますか?」
「いや、わからないでしょう」
「でも、これ見ていただけます?」
ゴールディは、かつてアパートで撮ったアンの写真と、新聞に載っていたジェイムズ・コリンズの写真を見せた。
「はっきりとはわかりませんがね、バートが大きくなったら、こんな顔になったかもしれませんね。キムの方は違うと思いますよ」
「どうしてでしょう?」
「キムはえらが張ってたんですよ。それにいくら大人になったからといって鼻筋がこんなに通るはずがない」
「…でも、もし、えらを削り、鼻筋を通したとしたら?」
「整形したってことですか?あなたを見て、えらを削ったのかなって思いましたよ。目、額…。似たところもありますよ。この薄いくちびるもそうだな」
写真を返すデルベキオは少し疲れたように額を押えた。
「すみません。あと二、三、いいですか? あの、パティさんが入れていたという刺青ですが、何かいわれを御存知ですか?」
「ああ、あの魚のやつですか? そう言えば、あれはキムのアイデアなんだそうです。何でもアジアのどこかの地方の伝説で、空を飛ぶ魚がいるのだと。飛び魚どころではなく、半永久的に飛び続けられる魚…。そしてそれを捕まえると夢がかなうんだそうですよ。でも肝心のキムは入れずに、パティとバートだけが肩のところに入れたって言ってましたよ」
ジェイムズ・コリンズに刺青はあるのだろうか…。
「あと、死ぬ前、ビタミンもらわなきゃってパティ言ったようですけど、何か意味あると思います?」
「三人で使ってた暗号ですよ。ドラッグを売った金のことです」
「亡くなる日、パティさんはどうして二人の名を言って飛び出していったのでしょう」
「さあ…。バートは彼女の初恋の相手ですし…。キムとも仲がよかった。なんとなく思いだしたんじゃないですか」
デルベッキオは遠くを見る目になった。と、その瞬間、ゴールディは理解した。デルベッキオの目が誰に似ているのかを。
シシィだ。その瞳、濃い眉、広がった鼻、シシィは父親似だ。
14、5の娘に手を出したことをデルベッキオは悔いて生きてきたのだろうか。
そんなゴールディの思いを感じたわけでもないだろうが、デルベッキオは深くため息をつき、目を閉じた。
ボストンのローガン空港に着いたのは夜九時だった。
コリンズに会わなければ…会って刺青があるのかを確認しなければ…。もしなければ、そこで全てをやめよう。空想だったと思おう。アンはキムなどではなく、コリンズもバートではなく、二人が共謀してパワーズを殺害したりもしなかった、と。そうだ、そうしたら、私も楽になる…ゴールディは思った。
翌日、ゴールディはコリンズの家に向かった。ヴィンスについてきてもらうことも考えたが、一人で行くことにした。危険があるかもしれない…ぼんやりと思った。コリンズがバートなら危険があるかも…と。
それは小さな四角い家だった。家の裏側には小さな庭。ガーデン用の白いテーブルと椅子が二つ。微風が頬を撫でた。
あのままボブとゴールディがつき合っていたら、将来持ったかもしれないささやかな家だった。ボブが大学など行かず小さな店に勤めて、ゴールディがやはり小さな店に勤めていて、結婚後15年目くらいには持てたかもしれない小さな家だった。
どのくらいそこに立っていただろう。ドアが開いた。男が出てきた。コリンズだった。チェックのシャツにジーンズ。手にはグラスを持っている。美しい男だと思った。
「コリンズさん」
ゴールディの声に少し驚いたように、コリンズは顔を上げた。
ゴールディは歩いていった。シュッシュ。草のすれる音がした。
「すみません。聞きたいことがあってまいりました。ゴールディ・ミラーです。アン夫人のアリバイを証言したものです」
コリンズは少し顎を引いてじーっと彼女を見ていたが、無表情でグラスを置き、白い椅子を勧めた。
「コリンズさん、一つだけ聞かせて下さい。あなたの証言は真実でしたか?」
コリンズの瞳が少し揺れたように思えたが、感情は読みとれなかった。
「真実です」
「本当にアンを見たんですね」
「見た、と思いました。アン夫人に似た女性を。神に誓ってアン夫人だと思いました。ただ、今思いますと、顔をはっきり見たわけではなかったと思います。でも、背の高さ、服装、髪型、歩き方、全てがアン夫人にそっくりでした。少なくともそう思ったんです」
ゴールディは深く息を吸った。
「失礼は承知でお願いします。あの…肩を見せていただけませんか。私、ニューオリンズまで行ってきました。バートという男を探しています」
「ニューオリンズ?」
「ええ、バートという男のことを知りたいんです。その男は肩に刺青があるんです」
「私をそのバートだと思っているんですか?」
「コリンズさんは名前を変えていますね」
えっ?という顔をしたが、ああ…と少しうなづき、「何にしてもなにか勘違いしてますよ、ミラーさんは」と言った。
「お願いします。肩を」
ゴールディは深く頭を下げた。
コリンズはしばしゴールディを見ていたが、ゆっくりシャツのボタンを外し、左手からシャツを脱ぎ、彼女に見せた。
ゴールディは身をのりだした。盛り上がった筋肉の左肩…。ない。ない…。
右肩は?ない…。
何もなかった。左肩の小さな二つのほくろの他は、左肩にも右肩にも何も、なかった。
刺青を消したあともなかった。
☆
ゴールディはポーニチャックのオフィスを訪れていた。
アンが寄付を申し出ているので書類に署名してほしい、とポーニチャックに呼ばれていた。ここ10年間、毎年10万ドルずつゴールディの名で基金を作り寄付するという。ゴールディにとっては夢のような金額だった。治療費のため、という名目だった。
「あの、アンに会って話をしてからにしてほしいんです」
「お気持ちはわかりますが、アンさんは今誰にも会わないんです。ミラーさん、遠慮なさることはありません。もう裁判は終わっているのですし…」
ポーニチャックはなだめるように微笑んだ。
「でも、やはり…。それよりアンの連絡先、教えてもらえませんか?どうしても一度話がしたいんです」
「お教えしたいんですが、本人の了承を得ないと出来ないんです。実は二、三日以内にアン夫人から連絡が入ることになっています。その時ミラーさんの気持ちをお伝えしましょう。ミラーさん、失礼ですが、どうかなさいましたか? 顔色がひどく悪いですよ。何日も寝てないような…。そうだ、ちょうど昼休みを取ろうと思っていたところです。コーヒーでもいかがですか?」
ゴールディはうなづいた。
10万ドル…なんという金額だろう。これが毎年入るのか…。もう働く必要もない。小切手帳を前に、通帳を前にため息をつくこともない。
ポーニチャックとアーリーアメリカン調のカフェに入った。店に入るとすぐにポーニチャックの携帯が鳴り、彼は何やら細々と指示を与えていた。
「すみませんね。ちょっと難しいケースを抱えてましてね」
「アンの裁判も苦労なさいました?」
「そうですね、楽な裁判とは言えませんでしたね。まあ、どの裁判も同じですが…」
ポーニチャックは少し考えているようだったが、実は、と口を開いた。
「ロバート・アレン氏とは同じ大学でしてね。法学部の先輩後輩ですよ。彼の方が随分後の期ですが。だからちょっとやりにくかった。知人を通じて以前から顔見知りだったので、ミラーさんから名前が出たとき、正直びっくりしましたよ」
「そうだったんですか」
「ええ、バートとこんなふうに縁があるとは思いませんでした」
「バート?」
「アレン氏のことです。大学ではバートって呼ばれてました」
「ボブが? あたしはボブって呼んでましたけど」
「そうですか。大学ではバートでしたよ」
ポーニチャックは少し首を傾げた。
確かにバートはロバートのニックネームでもある。しかし、ボブはボブ。バートと呼ばれ得る…こんな簡単なことに、ゴールディは今まで気づかなかった…。
アンとボブ…。ゴールディがボブとつき合っている間、ボブはアンとも何度か顔を合わせたはずだが、二人が世間話以上の話をしているのを見たことがない。ボブを美しいアンに奪られるのでは、と恐れたこともあるが、ボブはまるでアンに興味を示さなかった。そう、不自然なほど…。
まさか…。
一つの恐ろしい考えがゴールディを襲った。アンに不利な証言をしたのはコリンズだけではなく、ボブもだ。そう、ボブもじゃないか。ボブが偽証罪を恐れず、アンと会ったのを否定したのは、ウェンディとの婚約が破棄されるのを恐れたから、本当にそれだけだったのだろうか。デルベッキオは言った。バートは不思議な輝きの瞳をしていました。案外いろんな血が混ざっていたのかもしれない、と。
本当はボブとアンはずっと以前からの知り合いで…そう、キムとバートのように…。
そういえば、あの夜、ボブとエムがエレベータでアンとばったり出会ったのも偶然といえば偶然すぎる。それに刺青…。ボブの肩のスコルピオのしっぽ…ひっぺがしたのはスコルピオではなく、翼の生えた魚だったのではないだろうか…。
まさか…。
「大丈夫ですか? 顔色悪いですよ」
「すみません。でも、出たいんです」
胃のところが突き上げるように痛んだ。胸がどくどくしていた。息が苦しかった。
外は雨が降り始めていた。大粒の雨だった。遠い日、ボブと出会ったのもこんな日だった。
「これを」
ゴールディの様子に怪訝そうに、ポーニチャックがジャケットを脱いでかけてくれた。
「ありがとう。でも大丈夫です」
ジャケットを返そうとしたが、ポーニチャックは雨粒で水玉模様になったメガネを外すところだった。分厚いメガネを外すと、意外なほど大きな涼しげな目が現れた。
「ずぶぬれですね。タクシーを」
ポーニチャックの言葉にゴールディはうなづいた。早く一人になって考えたかった。
「タクシー!」
ポーニチャックは腕を上げた。雨で薄手のシャツが腕に貼りついている。オフホワイトの上品な光沢のある薄手のワイシャツ。
最初は染みがついているのか、と思った。肩のところに。…違う。それが何かわかった瞬間、息をのんだ。
ゴールディは固まった。文字通り固まった。瞬きもできなかった。まぶただけがぴくぴくしていた。
下から浮き出たその模様…。オレンジ色の翼、ブルーグリーンの魚。どこまでも飛べる強靭な翼を持つと言う伝説の魚…。
ポーニチャックは振り向いた。メガネをかけ直した彼は、もとの思慮深い弁護士の顔に戻っていた。
キキーッ! タクシーが止まった。
「さあ、どうぞ」
タクシーのドアを開け、ポーニチャックが言った。
「ありがとうございます」
ゴールディはジャケットを返し、彼を見つめた。
「ジャケットをお返しします。濡れてしまいました」
「いえ、構いませんよ。じゃ、アン夫人から連絡があり次第、連絡します」
ポーニチャックは優しげに微笑んだ。
ゴールディはうなづいた。口元に笑みを浮かべて。固まった表情の中で、口元だけが動いて笑みを作った。その余裕が自分でも不思議だった。
「ポーニチャックさん、ディビッド・H・ポーニチャックのHは何のイニシャルですか?」
「ハーバートです」
「じゃ、あなたもバート?」
「そういやそうだ。誰もミドルネームでなど呼びませんがね、ハハッ」
ポーニチャックは短い乾いた笑い声をたてた。メガネの奥の視線が一瞬鋭くなった。
タクシーに乗ると吐き気がした。撃たれたところの腕も痛んだ。しばらくは感じなかったが首のヘルニアの痺れと痛みも強い波のように襲ってきた。
弾が貫通した腕。撃ったのは誰だったんだろう。撃たせたのは誰だったんだろう。ずっと頭から離れなかったこの問いが、ぱっくり口を開けている。確かなのは一度は信頼した人間にやられた、それだけだ。
やられた…。この響きがよく似合う、それだけが確かだった。
二匹の子ネズミ、キムとバート。
どうすればいいのだろう。もう気力がなかった。抜け殻だ…。裏切りは心を枯れさせる。自分を哀れむ気力もなかった。
虫の好かぬやつだが、検事のシェーファーに言うしかないか。彼は今度こそ赤っ恥をかかないように慎重に捜査を勧めるだろう。キムとバートことアンとポーニチャックの関係、殺人の日のポーニチャックのアリバイ、小柄な彼がコートとかつらでアンに変装した可能性…。
スポットライトを当てるべきところに当てれば、暗がりの中うごめいていた何かがみつかる…。
タクシーを降り、アパートに戻った。ひどく疲れていた。ソファに倒れこんだ。とても眠れないと思ったが、不思議なことに少し眠れた。
夜明け前に目が覚めた。
スニーカーを履いて外へ出た。静かだった。怖いほど静かだった。タイムカプセルで『静の国』に連れてこられたような静けさだった。
どれくらい歩いただろう。
ウインターストリートとトレモントストリートの交差点でゴールディは立ち止まった。右へ曲ればオフィス街、左へ曲ればボストンコモンの公園が見えるはずだ。
公園に足を向け、花壇に腰かけた。少し向こうではホームレスの女が毛布にくるまっている。
ボブと手をつなぐ、かつての自分が見える。アンと笑いながら鳩に餌をやる自分が見える。
翼魚の指輪。子ネズミ同盟。オレンジ色の翼のブルーグリーンの魚。
目を閉じると瞳が揺れる。ボブの瞳。アンの瞳。ポーニチャックの瞳。瞳の美しさと行為との哀しいほどの隔たり。
夢をかなえたかったんじゃないの? 翼を持った魚のように、どこまでも飛んで幸せになりたかったんじゃないの? 人間になった出来そこないの翼魚…。
人通りは少しずつ増えてきていた。ゴールディは再び歩き出し、レッドライト区の方へ向かった。
強靭な翼を持ったどこまでも飛べる魚…。
それはドリーム…の・よ・う・な・も・の…。
象徴するのは何?
金…
愛…
権力…
名声…
そして夢…
アンはきっとパワーズ殺人に関係している。冷酷に計画を練って夫を殺した。ポーニチャックはゴールディが思っていた人物とはかけ離れた何かだ…。
ゴールディは流れた血に染まり…もう息もできない…。
世の中、善人と悪人、そのどっちかなんて単純に分けられるものなのだろうか。金持ちと貧乏、そう分けるのは簡単にしても…。
傷つくもの、傷つけられるもの、この分類はどうだろう。それもやっぱり無理な話。人はたいてい前者であり後者である…。
ただ……。ゴールディは思った。アンはやっぱり 悪人 なのだと。
悪人…。
ヴィンスに会いたい、と思った。枯れ木のころのヴィンスを思い、段々若くなったヴィンスを思い、そしてまた、少し疲れてきた最近のヴィンスを思った。ヴィンスの温かい手に触れたら、少なくとも今日を乗り切れるかもしれない。
カサカサカサ…どこかで音が聞こえる。
細い道を通り抜け、ビルの谷間に入ると、聞こえるのは乾いた風の音だけだった。