4 章 裁判
夢を見た。ポーニチャック弁護士に連れられて、終身刑で刑務所に入ったアンに会いに行く夢だった。アンは随分やつれていた。ノーメークの顔は、華やかだった彼女とはまるで別人だ。
「アン。…元気?」
「まあまあよ。ゴールディの方こそ疲れて見えるわよ。生活はどう?」
「まあまあね」
「ゴールディ、早く自由になりたいわ」
アンの目の下の血管がぴくりと動く。スロ-モーションでピ・ク・リ…と動く。
「まるで、この街全体があたしを憎んでいるみたいよ。亡きパワーズ夫人の生存中からアンドリューがあたしにうつつをぬかしてたなんてでたらめの噂が流れて、結婚当初からあたし憎しみのまとだったでしよ。ほんとにあいつら、あることないこと言っちゃってさ。でも負けないわ。負けないわよ。…たから。ゴールディ、力になって。判決を覆すのよ」
アンは手を差し出す。二人を隔てているぶ厚いガラスをすっと通して、手を差しだし、ゴールディの手を掴むのだ。握るのではなく、掴むのだ。暖かい手だ。熱いくらい暖かい手だ。
「ゴールディ、あたし無実なのよ。あたしは無実なのよ」
夢の中でアンは叫んだ。
リズの店に入ろうとしたときだった。少し先の路地から男が出てきた。細身で長身。パーカーを着ている。ミラーレンズのサングラスが光をはじいている。パーカーはダークブルーだ。カーキー色のカーゴパンツを履いている。
灰色の男だ。
ふとそんな気がした。夢に出ていた灰色の男だ。そんな悟りに似た感覚があった。ゾクっとした。体の芯が、文字通りゾクっとした。
金縛り…まさにそんな状態だった。怖いのに動けない。
スローモーで男が近づいてくる。
ただの男だ。このへんにうろうろしている男の一人だ。ごくごく普通の男だ。落ち着いて! そう言い聞かせる。
なのに、灰色の男だ!灰色の男だ! 心の中でそう叫ぶ自分がいた。
「ゴールディ」
店から出てきたデニースが微笑みながら声をかけたが、その瞬間、彼女の顔が凍った。あっ…。小さな声をあげ、お腹を押さえた。押さえた手の周りから血が溢れる。
「デニース!」
ゴールディはデニースに手を伸ばしたが、その瞬間ゴールディの腕にも痛みが走った。
「気がついたかい?」
目を開けるとヴィンスが見つめていた。
ああ、枯れ木…。長い間枯れ木なんて思いだしたこともなかったのに、ヴィンスを見て、枯れ木だ、と思った。昔、気を失ってソファに寝かされていた自分と重なったのかもしれない。
ヴィンスはゴールディの手をとった。
「もう大丈夫だよ。弾は腕から貫通していたし。ショック状態だったんだよ。案外、弱虫だな、ゴールディは」
「何が起こったの?」
「狂った男がヒットマンを雇い、逃げた恋人を撃った。その恋人は腹にあたり、近くにいたウエイトレスの腕にもあたった。そして犯人は今だに逃走中…。表向きはこんなところさ」
「表向き…? じゃ真実は?」
「あくまで可能性だけど…ゴールディ・ミラーを証人台に立たせないためヒットマンが雇われた。一人だけ撃ったのでは狙いがわかる。そこで男ともめてるダンサーを先に撃った。そして証人も撃つ。殺すつもりではなく、ただ脅すつもりで…」
痛み止めが効いているのか、さほど痛みは感じなかった。それより頭がズキズキした。
あたしを撃たせたのは誰?あたしに証言させたくないやつってわけ?怒りがゴールディに広がっていった。
「ヴィンス、ありがとう。そばにいてくれてありがとう」
ヴィンスはてれたように鼻の頭を掻いた。
☆
裁判が始まった。コリンズの証言とその他の状況証拠で、裁判はアンに不利に進められていった。その中には、アンがパワーズの死をのぞんでいたという知り合いの証言、パワーズがアンとの離婚を考えていたという離婚弁護士の証言、凶器の22口径と同じ型をアンが半年前に購入しそれを無くしたと言っている事実や、事件の二日前のパーティでのパワーズとアンの言い争いを聞いた者の証言、パワーズがオフィスを出るとき、今夜彼女と話し合うと言っていたという秘書の証言などがあった。
「ミラーさんの証言がまさに鍵となります。ミラーさんが誠実で正直者だという印象を与えるか与えないかがこの裁判の流れに大きく影響を与えると思うんです。いいですか、打ち合せどおりに落ち着いて証言をして下さい」
ポーニチャックは穏やかに言った。ゴールディの自信を高めさせようとしているかのように。
証人控え室で待っている間にも緊張感はどんどん高まっていった。
法廷に入り、証人台にすわったゴールディは、大きく息を吸い込んだ。落ち着かなければ…落ち着かなければ…。
「真実のみ語ることを誓いますか」
「はい、誓います」
被告席には、グレイのスーツを着たアンが座っている。
「名前を述べて下さい」
「ゴールディ・ミラーです」
「被告のアン・パワーズとミラーさんの関係を述べて下さい」
「2002年から2007年までアン・パワーズさんとはアパー卜が隣同土でした」
「それ以後の関係を述べて下さい」
「6月18日に偶然見かけるまでは、長らく会っていませんでした」
「6月18日はどこで被告を見かけましたか」
「ボストンのマデリーンホテルのエレベータで偶然一緒になりました。夜の10時ごろでした」
「ミラーさんは一人でしたか?」
「いいえ。ロバート・アレン氏と一緒でした」
「ミラーさんはどうしてエレベーターに乗ったのですか?」
「アレン氏とチェックインした部屋に行くためです」
「見たのがアン・パワーズだったのは確かですか?」
「確かです。話もいたしましたから」
「どんな話ですか?」
「ただの挨拶です。久しぶりね、という…」
「6月18日夜10時ごろボス卜ンのマデリーンホテルのエレべーターでー緒になった、それに間違いありませんか?」
「間違いありません」
「以上で質問終ります」
検事のシェーファーが立ち上がる。浅黒く整った顔で、かなりの長身だった。
「ミラーさん、アパートが隣同士だったとき、ミラーさんと被告との仲はいかがでしたか?」
「友達です」
「姉妹のようだったと言う人もいるようですが、それについてはいかがですか?」
「姉妹にもいろいろあるでしょう」
「毎日のように顏を合わせていましたか?」
「週数回は」
「一緒に食事をしたり、買物に行ったり、映画を見たり、互いの秘密を打ち明けたり」
「親しくはしていました」
「アパートが隣同士だった間、ミラーさんの一番の助けになったのは誰ですか?」
「さあ、一番と言われても…」
「ミラーさんを妹のようにかわいがったのは?」
「アンとは大人と大人同士、気の合ったものが友達になったという感じです」
「パワーズ夫人の結婚後、全く会わなくなったのはどうしてですか?」
「特別な理由はありません。ただアパートが隣同士であったころのように、しょっちゅう顔を合わせるわけにもいきませんし、距離があれば次第に疎遠になります」
「ミラーさんの職業を述べて下さい」
「飲食店で働いています。エリザベス・キャバレロさんが経営しているレストランでです。あと、新聞、雑誌に短い記事やエッセイを書いて報酬をもらうことがあります」
「数多くいるライター志望のわけですね。でも収入はほぼウエイトレスとしてですね。ウエイトレスだけで食べていけますか?」
ポーニチャックが立ち上がった。
「裁判長、その質問はこの事件とは関連ありません」
「証人の証言の信頼性に深く関わる質問です」
シェーファーも負けずに叫んだ。
「質問を認めます」 裁判官は言った。
しぶしぶポーニチャックは腰を下ろした。
「ではもう一度繰り返します。ウエイトレスの収入で生活していけますか?」
「はい」
「ミラーさんは首のヘルニアの持病を持っていますね。けれど医療費は保険でカバーされていません。どうやって治療費を捻出しているのですか?」
「私はよい友達や雇い主にめぐまれ、エリザベス・キャバレロさんの店で従業員として一生懸命働いています。体の具合が悪いときはいつでも休んでよいとキャバレロさんは言ってくれます。治療費が足りないときはお給料の前借りもできます」
ゴールディはしっかりと陪審員席を見つめ、シェーファーを見つめ、裁判長を見つめた。よしよし…ポーニチャックがうなづいていた。
一旦、ゴールディは下がった。次にボブが証言台に立ち、ゴールディとは食事をしたが、一緒にエレベータにも乗っていなければアンにも会わなかった、と証言した。
そのあと再びゴールディが証言台に呼ばれた。今度はポーニチャックが質問した。
「ゴールディさん、6月18日ロバート・アレン氏と会ったときの様子を説明して下さい」
「はい。八時ごろからホテルの中のシーフードレストランで食事をして十時ごろ、アレン氏の部屋に向かうため、エレベーターに乗りました。エレベーターは二階で止まり、アン・パワーズさんが乗ってきました」
「ロバート・アレン氏は食事はしたという事実は認めていますが、そのあと一緒に部屋に行った事実は否定しています。これについて何かありますか?」
「わたくし、確かにアレン氏とエレベーターで十二階へ向かいましたし、アレン氏もアン・パワーズを見ました。その証拠と言いますか、パワーズ氏殺害二週間後の7月5日にアレン氏が、私の働くミセス・キャバレロの店に来たのです」
「何をしにですか?」
「自分の名前は出さないでほしい、ということでした。自分は証言できないので、と」
「証言しないと?」
「はい、だから自分を巻きこまないでほしいと」
「その事実を証明するものはありますか?」
「はい、そのときの会話を録音してあります」
法廷内はどよめいた。シェーファーは意表をつかれたように一瞬ポカンとしたが、立ち上がって叫んだ。
「そのような証拠物件の提出の阻止を要求します」
「静かに。証人に説明する権利を認めます。ポーニチャック弁護士、質問を続けて下さい」
「はい。それではミラーさん、どうして録音などしたのですか」
「説明しがたい…のですが、ボブ…アレン氏だと思ったとき、何かとても重要な話をしに来たのだと思いました。ポーニチャックさんからアンの事件を聞いた後だったので、アレン氏も彼女の無実を証言できる一人のわけですから、会話を録音しておくほうが、あとあとのためにいい…そんな気がしたのです。聞いていただきましたら、アレン氏が私に口止めをしようとした事実も明かになります」
「しかし、その声がアレン氏だという証拠はありません」
立ち上がるシェーファーに、ポーニチャックは言った。
「裁判長、ここでエリザベス・キャバレロを証人台に呼びたいと思います」
ゴールディと入れ替わりにリズが法廷に入っていった。うまくやってね、リズ! ゴールディは、気後れせぬリズのどっしりした様子を頼もしく思った。
最初はリズを証言台に立たせることに乗り気ではなかったポーニチャックだったが、リズに会ってみて気持ちを変えた。
「思いの他、切れますな」
それが、ポーニチャックのリズに対する感想だった。
リズの証言は大成功だった。マーヴィンは興奮さめ止まぬ様子で、ゴールディに話してくれた。
「いやー、リズさん、よくやってくれましたよ。法廷が笑いの渦でした。まず『七月五日にゴールディ・ミラーさんと話していた男を覚えていますか?』に対しては、『よーくよーく覚えてますよ。あたしは頭は悪いけど、顔を見分けるのだけは人より優れてるんです。これまで三人の指名手配者を通報したんですからね』ですよ。リズさんはロバート・アレンの写真を見事に選び出しました。検察側か用意した数十枚の写真の中から、見事にアレン氏三枚選び出したんですよ。一枚はサングラスを着けたもの。一枚は髭を生やしてるアレン氏。そして一枚は今と同じアレン氏をです。リズさんはこう言ったんですよ。『そのアレンさんとやら、あたしが前の日に見た映画の殺人鬼に似てましたしね、二間隣のバ一バラの息子の誘拐犯にも鼻と口がそっくりだったからよーく覚えているんです』『テーブルは離れていたんじゃないんですか?』に対しては『狭い店ですからね、反対側の壁にとまった蝿だって見えますよ』と自信たっぷり。『どうして客の一人をそんなによく観察してたんですか』については、『ミラーさんの顔色がその日悪かったから心配してたんですよ。ミラーさんのことは娘同然に思ってますからね。だからあの日も、店に場違いの見なれない男がミラーさんと話し始めたのを見て、気になって一時も目を離さず見てたんです。耳も澄ませてね。もっとも何言ってるかは、聞こえませんでしたけどね』です。いやーぁ、リズさんほんとによくやってくれましたよ。男がアレンだというのもほぼ証明できました。声分析の結果も、その事実をサポートしています。これでロバート・アレンが嘘の証言をしている印象が強くなりました。ポーニチャック氏がアレンに対して、証言したがらない動機を浮き彫りにさせるような質問を執拗にしていきましたし…。アン夫人の使ったという偽名キャサリン・スミスという名の人物がホテルにチェックインした記録もあります。あとは執事のコリンズの証言とミラーさんの証言、陪審員がどちらを信じるかにかかっています」
「正直なところ、どうでしょう?勝つ見込みは」
「ミラーさん、とにかく祈りましょう」
ポーニチャックは弁護士としては曖昧な表現で締めた。
法廷の待合室では、みな堅い表情で、判決を待っていた。
「いよいよだぞ」
陪審員たちが、戻ってきた。
「陪審員のみなさん、判決は出ましたか」
裁判長が口を開く。
「はい、裁判長」
陪審員の一人、白い髭の男が判決を書いた紙を、裁判長の手元に持っていった。
裁判官は表情を変えずにその紙を見て、白髭の男に返した。
「それでは被告、起立しなさい」
アンが立ち上がった。ポ一ニチャックも立ち上がった。
白髭は一瞬ポーズを置き、口を開いた。
「無罪と決定しました」
☆
ゴールディがポーニチャックに呼ばれたのは、判決の翌日だった。
「ミラーさん。ここはアドバイスなんですがね、しばらく、アン夫人とは会わない方がいいと思います」
「どうしてでしょう?」
「控訴される可能性もまだありますし、それに人の目、人の耳、いたるとこにありますからね」
「だからどうなんでしょう?」
「ミラーさんが余分なことをおっしゃらないのは、重々承知です。でも、つい会うと、言わないつもりのことを言ってしまう、聞くつもりのないことを聞いてしまうってことがありますからね。検察側が尾行する可能性だってあります。だから、ほとぼりが冷めるまでは会わない方がいいのではと思うのです」
ポーニチャックはメガネを人指し指で押し上げながら、ゴールディを見た。
「アンはどう言っていますか?」
「実は…これはアン夫人の希望なんです。彼女はとても疲れたと言っています。しばらく姿を見せないでしょう」
「わかりました。ご心配なく。会おうとしたりしませんから」
そう言いながら、アンがこのまま自分に何も言わず姿を消すはずがない、と思った。
しかし、その後、心待ちしていたゴールディに、アンからは何の連絡もなかった。