2章 アンと指輪

 

 

 フラワースタンドの横を曲ると、かすかにほこりのにおいのする初夏の風が頬をかすめた。

 

 今年の夏は暑くなりそうだ

 

 その「暑さ」は「海」や「クールドリンク」の似合う「暑さ」ではなく、ビルの谷間に淀む妖気に似た「暑さ」かもしれない。焼けて欲しくないものがじりじりと焦げていくそんな暑さ

 

 ボストンコモンの公園を中心とした観光メッカは、カラフルなフラワースタンドや風船売りで賑わい、甘い香りに満ちている。

 

 ゴールディはその「爽やかなエリア」に背を向け、「焦げつくにおいのするエリア」に向かって歩いていた。ジジ、ジジ、頭の中で小虫が羽を合わせ始める。

 

 ダイナー「キャバレロ」。看板の文字は日に焼け、ほとんど読めなくなっている。キャバレロのピザ屋、今は「リズの店」で通っている。リズの夫は随分前に亡くなったと聞いた。

 

 店内には、12ほどのベージュのテーブルとオレンジ色のカウンターがある。日毎に太みを増すリズが、掃除、ウエイトレス、客の相談相手から、占いまで何でもやる。昼間は比較的閑散としているが、夜は様々な人で賑わう。

 

 この界隈の者たちは、みなリズに一目置いている。リズのきっぷのよさと寛大さがそうさせるのだ。しかしリズは誰にでもナイスというわけではなかった。「あの子は気がいいからね」一旦見込まれると、とことんかばってもらえたが、「ありゃ根性腐ってるよ」など言われたあかつきには、僅かばかり残っていたつきも逃げていくようだった。

 

 シェフはステファンという初老の男だ。ステファンの笑顔を見るのは博打で百万ドルあてるより難しいというくらい、無愛想なしかめっ面だ。単にシャイなのさ、リズは言う。

 

「なんだか不景気な顔してるね」

 

 モップで掃除していたリズが言った。

 

「やっぱり?」

 

 ゴールディはため息をついた。

 

 ストリップバ一、呼び込みバーが法の目をくぐって点在するいわゆるレッドライト区から2ブロックしか離れていないこの店との出会いは二年前だった。会社をレイオフされたゴールディが求人のチラシを見て訪ねたのだった。

 

 レッドライト区の反対側から歩いてきたし、昼間だったから、どんよりしたほこりっぽい店だと思ったがごく普通のダイナーに見えた。しかし、夕方から夜、真夜中へ、と時間が移るにつれ、客層、雰囲気は変わっていった。ゴールディは決して格別上品に育てられたわけでも、その手の人々に知り合いがなかったわけでもなかったが、その濃さには戸惑った。

 

 一週間して賃金もらったら止めよう、そう思っていたが、五日目にひどい腹痛で動けなくなった。リズが救急車を呼び、保険が切れていたゴールディに代わって大金ともいえる治療費と入院費を払ってくれた。

 

 金はある時でいいから、とウエイトレスして働いて早く返せ、とも言わないリズに大きな借りができた。

 

 リズは以前、東洋系のジェンという子を引き取って育てていたらしい。ある時、姿を消し、それ以来連絡がなくなったという。愛想も要領も悪いゴールディを雇ったのも、ジェンにどことなく似ているからだと辛口の常連客から聞かされ、求人を見て来ました、というゴールディの顔を食い入るように見つめたリズの表情を理解した。

 

 ゴールディは、ウエイトレス、簡単な調理、掃除、使いっぱしり、リズの知り合いからの頼まれ仕事、なんでもやった。リズは、温かい人間だったし、ゴールディは次第に店に来る人々にも慣れていった。一旦タイプを見極め、慎重に対応すればなんということはなかった。

 

「どうしてそんなに冴えない顔してんだい?」

 

「友達が捕まったの」

 

「なんで?」

 

「ちょっとした容疑で

 

「ちょっとしたって?」

 

 言ってごらん、リズはうながした。

 

 リズにはほとんど隠しごとをしなくなっていたゴールディだから、名前や詳細はふせてざっとなりゆきを話した。

 

 リズはうんうんと頷きながら聞いていたが、話し終わると言った。

 

「ゴールディの友達ならごうつくばりの殺人鬼ってことはないんだよね」

 

「それはないと思うわ」

 

 ごうつくばりの殺人鬼

 

「ゴールディの友達じゃなかったら、感覚的にはやったね、って思うね」

 

 あたしの感はいつだって正しいのさ、リズは言う。

 

 あたしの感、外れたことないからね。考えてもごらんよ。年の離れた大金持ちと結婚した女。その金持ちが殺された。しかも女を殺人現場で見たという者までいる、こんな話、どこに疑いようがあるってのさ。

 

 アリバイが自分にかかっていると言おうとしたがやめておいた。

 

 日が暮れるには、まだ間があった。男が二人が入ってきた。どこかで見た顔。そうか、グラススリッパーズの呼び込みだ。

 

 ゴールディがメニューを持っていくと、「ヘイ、ベイビイ、俺たちに気があるのかい?」

 

 小柄の方がのたまった。スパイダーマンのTシャツを着ている。

 

「特にありませんけど」

 

 言いぐさがおかしかったのか、スパイダーマンシャツはヒヒッと笑った。

 

 男たちが呼び込みをしているグラススリッパーズは、もとは小さなレビュー館を目指していた。パリのクレイジーホースとまではいかないにしても、一流のダンサー揃えて、ちょっと小金のある遊び上手のクラシィな客のためのくつろぎの場最初はそういう場所を目指していたらしい。入口には、シンボルとして、グラススリッパーこと大きなガラスの靴が取りつけられ、その靴の中でライトが華やかに点滅し、シンデレラナイトには奇抜で華麗な催しが開かれた。ヒールに触ると幸福が来るというジンクスも生まれ、客たちは少し背伸びをしてヒールに触った。ところが、ある晩、酔った男が力まかせにヒールを折ってしまった。運悪く感電して倒れ、打ちどころが悪く、かなりの期間入院する羽目になった。以後ヒールは取り外され、今ではグラススリッパーズというその名さえ忘れられがちだ。パレスのジョイントの隣、そんなふうに呼ばれている。

 

 スパイダーマンシャツがにやりとウインクした。ゴールディを見る彼らの目に仲間意識が流れている。おいおいねえさん、俺たちゃ同じ穴のなんとやらじゃねえか。そんな馴れ合いの笑い

 

 店は徐々に込み始めていた。

 

 デニーズが入ってきた。薄すぎるほど透き通ったブルーの目が美しい。

 

 一度ゴールディにダンサーにならないか、と誘ってきた。オリエンタルのダンサーが止めたときだ。この手のダンサーとしてのノウハウなら教えてあげる、と言う。スカウトするといくらか貰えるらしい。

 

 デニーズは、オフオフオフブロ-ドウェイ崩れだった。足首を痛めて以来、一流はもちろん二流、三流どころでも使いものにならなくなり、北に流れ、ぎりぎりのところグラススリッパーズで妥協した。左右をうかがう視線の鋭さは、一流どころでダンスをしていたのでは、決して身につかないものだった。昨日、ちょっとしたごたごたがあり、目から頬にかけて腫れている。

 

 コーヒーポット片手に、デニーズにお代りは?と聞くゴールディは、入ってきた男に目をとめた。

 

 サングラスをかけていたがすぐにわかった。ボブだ。あの夜、ここのおもしろい客の話やリズのことを興味深そうに聞いていたボブが、今うつむきがちに立っている。

 

「話せるかい?」

 

「ちょっとならね」

 

 ゴールディは入り口近くのテーブルにボブとすわった。真正面から見つめるサングラスの中の目が鈍く光っている。

 

 鼻の頭ににじみ出た汗、剃り損ねてスッと頬に残ったカミソリの傷。顎のところの小さなくぼみ。左のこめかみには、血管が浮き出ていた。

                      

 夕陽を浴びているボブはあの夜のボブとも以前のボブとも違って見えた。

 

「ゴールディにお願いがあるんだ。出来れば出来れば僕の名前は出さないでほしい。僕ははっきりとパワーズ夫人を見たわけじゃないし。離れていたし。だから、僕の名前は出さないでくれると有難いんだ」

 

「でも、ボブのことを言わないとエレベータに乗った理由やあのフロアで降りた理由がないでしょ。それに実際、エレベータに一緒に乗ったわけだし、ボブもアンを見たでしょ」

 

「そこはなんとかごまかせないだろうか」

 

「ごまかす?」

 

「パワーズ夫人らしき人を見たから、あとを追ってホテルに入ったとか

 

「エレベータにはカメラもついてると思うけど

 

「あのエレベータにはついていないんだ。というかついてなかったことになるんだ」

 

「調べたの?」

 

 それには答えない。

 

「嘘はつけないわ」

 

「嘘じゃなくて言わないだけだ」

 

「全てを正直に言わなければほころびが出るわ。アンが殺人罪になるかもしれないのよ」

 

「でも一緒に部屋に入ったことを言う必要ないだろう。僕の名は出さないでほしいお願いだ」

 

 僕の未来がかかってるんだ、その目は言っていた。

 

 

 

 

「さっきの男、大丈夫だったかい?」

 

 いつの間にそばにきたのか、リズがゴールディの顔を覗き込んでいる。

 

「うん、ちょっとした知り合いよ」

 

「ならいいけど。そっくりなもんだからさ」

 

「そっくり?」

 

「昨日テレビで見た殺人鬼にだよ」

 

「よくある顔かもね」 ゴールディは力が抜けたようにふふっと笑った。

 

「いや、あの手の顏はそうざらにゃいない。近所のバーバラの子が、少し似た顔してだけど、今じゃ幼女誘拐で手配中さ。バーバラかわいそうにさ、風船みたいだった体が今じゃ干上がった魚だよ。あの手のルックスのいい男は要注意だね」

 

「それより、きのうあたしが帰ったあと大変だったんだって?」

 

 ゴールディは話を変えようとした。

 

「ああ、デニーズ浮気がばれて男が殴り込んできたのさ」

 

「ここに?」

 

「そうさ、ここ、ここだよ。よりによってこんなしけた店、痴話喧嘩の場所に選ばなくってもいいのにさ。デニース馬鹿だから男とホテル出るとこ見られたらしい。ホテルってのはくせもんだよ。ったく。出入りに気いつけなきゃろくなことはない」

 

 ふ確かにホテルってのはくせものだ。

 

「今日はもう帰って休んだがいいよ。手は足りてるからさ」

 

 

 

 

 観光客で賑わうダウンタウンの中心に向かって、チャイナタウンを通り抜けた。

 

 歩くエリアが違えば、すれ違う人も違う。ゴールディはこの国に乱在する差別を思った。貧しい者、富める者、WASP、スパニッシュ、アラブ、オリエンタル老人子供。ファイターにルーザー。政治家。ロビイスト。ゴールドディッカ一、コバンザメ。モブスターにドラッグアディクト。すれ違うだけなら摩擦はおきない。目が合い、言葉を交わし、握手をしたり抱き合ったり。接触が増えれば増えるだけ事は複雑になっていく。ゴールディは幼い頃父と歩いた田舎道が無性に懐かしかった。

 

 

 

 

 アパートは全くひどい乱れようだった。掃除らしい掃除をしてないから無理もないか。立て続けにワインを四杯飲んだ。

 

 ベッドに倒れ込んだ。少しのつもりが気を失ったように眠りについた。

 

 

                

 

 目が覚めると朝だった。ゴールディはアパートを見渡した。くすんだアパート。小さなアパート。貧しいアパート。十代、二十代のかけだしなら、何かの目的のため今は貧しい暮らしでもいつかはという夢と一緒に暮らすこともできる、そんなアパート

 

 けれどゴールディに時間は残されていない。もう若いとはいえない女が一人で住むには、あまりに淋しいアパートだった。

 

 マサチューセッツ州では酒が飲めるのは二十一以上だ。ゴールディは二十代半ばまで、身分証明書提示なしでは酒を売ってももらえなかった。それが時々、何も聞かれなくなり、それからは求められなくなって永遠に思える時が経った。時は着実にゴールディを変えていた。外見、表情、動き、全てを

 

 ゴールディの父はアイリッシュ系のアメリカ人、母は4分の3東洋の血が入っている。ゴールディが13の時愛する父が亡くなり、ゴールディは母と数年暮らしたが、うまくいかなかった。高校卒業を機に家を出て、それ以来母とは時折メールでやりとりをするくらいだ。母のことは気にかけている。けれど、母に会わなければと思うと胃のあたりがキュウとなる。

 

 高校を卒業したとき、母は言った。母の小さな手芸店。少し店を改装したいので、その改装費としてゴールディの父が残してくれた一万ドルの小切手をくれないか、と。それは出来ない、ゴールディは言った。これはパパが私に残してくれたお金だから。母は目をつり上げた。今までの恩を忘れたの。食費に生活費、これまであんたを育てるのにどれほどかかったと思うの? 

 

 もちろん母の言うことには一理あった。けれどゴールディもできる限り家事、店番、ベビーシッターと遊ぶ間などなく母を手伝ってきた。父が残してくれた一万ドルの小切手だけは渡す気にはなれなかった。それはただの金ではなく、父からゴールディへの贈り物だったからだ。ゴールディはコミュティカレッジに行きたかった。

 

 ゴールディは母に感謝の手紙を残し、小切手と身のまわり品を持って家を出た。

 

 いつかあたしはボストンへ行く。絶対にボストンに行く。ゴールディはずっと思ってきた。ボストンは父と母が新婚生活を送った街だ。ボストンでその街に住んでいた頃の父の面影にふれたかったのかもしれない。死んでしまった父の息吹を少しだけでも感じたかっただけかもしれない。

 

 ボストンに来て三日目、取り敢えず口座を作ろうと、近くにある銀行に出かけた。銀髪の上品な婦人が、どういった御用件ですか、と話しかけてきた。胸に名札をつけている。顧客サービス係なのだろう。この小切手で口座を開きたいと見せると、わかりました、と彼女は小切手を手に取り、これは他の州で作成されたものですので、お手数ですがあちらの窓口で一度現金に替えてから、こちらの窓口で口座を開いて預金して下さい、と二つの窓口を示した。ゴールディはうなづき、女が最初示した窓口で身分証明書を見せて換金した。次に示された窓口に行こうとしたとき、女が再び、すみません、と声をかけてきた。

 

 はい、とゴールディが振り返ったその瞬間、女は金をもぎ取り、すさまじい勢いで走り去った。だ、だれかぁ!追いかけようとしたが、出口でつまづき、転んで膝を打った。ガードマンが走って来たが、間に合わなかった。

 

 同じような事件は他行でも数件発生していたと後で知った。犯人たちは捕まらぬまま、ゴールディの金も戻らなかった。

 

 行員や警官の前では泣かなかったゴールディも、一人になったとき、溢れる涙をどうすることもできなかった。なんて馬鹿だったんだ。換金したあとはあの窓口で、と女が示した窓口は、出口に一番近いものだった。女は逃げるのに都合のいい窓口をゴールディに示したのだ。銀髪の割に顔は若々しかったあの女。あの逃げ足の速さ。何も疑わず女に従い、父の残してくれた一万ドルを取られた自分が情けなかった。人という人を恨みたくなった。そんな大金をいっぺんに下ろすのですか、と聞きもせず、機械的に金を数えて渡した窓口の女、一度は真剣に女を追いかけたが捕まらなかったと戻ってきた後は、しきりに靴についた傷を気にしていたガードマン。こちらも全力で犯人逮捕に協力します、と妙ににこやかに微笑んだ銀行マネージャー、ゴールディには全てが憎らしかった。

 

 人を信じちゃ損をするわ。ゴールディにとって痛いレッスンだった。有り金無くして学んだレッスンだった。ゴールディの心の一部は欠けてしまった。

 

 小切手の他に600ドルほどあったのが幸いだった。これがなかったら、家を出て数日目にしてゴールディは無一文になっていただろう。

 

 特に特技のないゴールディに思わしい仕事などなかった。少しでも金を貯めようと思ったが、ウエイトレスかパートの店番がいいところだった。物価の高いボストンだ。それから数年間、小さなアパートを借り、食べていくのがやっとで、金はちっとも貯らなかった。

 

 アンと会ったときには、ボストンに来てすでに八年が過ぎていた。その間には数知れぬ失敗や情けない思いもした。そしてボブとの恋もあった。

 

 当時、ゴールディが借りていたのは、安い割に治安もまあまあの古い小さな五階建ての四階で、エレベータなど高尚なものはなく、急な階段は駆け上がるとめまいがした。辺りは中国系、東洋系が比較的多く、そのアパ一卜は半分以上の住民がアジア系かヒスパニック系だった。そのゴールディの隣の部屋に越してきたのがアンだった。

 

 東洋の血が半分は流れている、そんな顔立ちだった。ダークブラウンの髪にダークブラウンの目。

 

 最初は挨拶を交わす程度だったが、アパート内の小火がきっかけで、親しくなった。火事だぁ!の声に住人は慌てふためいて跳び出し、ゴールディも跳び出した。氷点下だというのに スリップ一枚に短いガウンを羽織っただけのゴールディに、「これ使いなさいよ」振り向くと、アンが大きなマフラーを差し出していた。「ありがとう」広げて腰に巻くと、毛糸のスカートのように見えなくもなかった。

 

 アパートはしばらくの間立ち入り禁止になり、仕方なく二人は近くのカフェに入ってコーヒーとクロワッサンサンドを注文した。

 

「アン・ノリスよ」

 

「ゴールディ・タナカよ」 ゴールディは思わず母の旧姓を使った。父との約束通り、大学に行き、きちんと職に就けるまでは父のミラーという名を使わずにおこう。なぜだかわけもわからずそう思った。

 

 何を話しただろう。アンは親戚はいるが家族はいないと言い、あたしもよ、偶然ね、と言うゴールディに、アンはその大きなダークの瞳で見つめ、この国じゃ、ちっとも珍しいことじゃないわ、と言った。淋しい国よね、ゴールディは言った。でも考えようによっては仲間が多いってことよ、そう言い、アンは微笑んだ。笑っていてもどこか寂しげだった。

 

 

 

 

 昔を思い出していると、どんどん落ち込んでいく。10ドル札数枚をジーンズのポケットに入れ、外へ出た。

 

 公園を横切って行きつけのパン屋に歩く。朝9時には開くはずだ。

 

 倒れたごみ箱に二羽の鳩が首を突っ込んでいた。噴水の前に二人の小さな子供がポケットに手を入れ、立っている。格好からは男の子か女の子か区別がつかない。四才と六才くらいだろうか。「二人きり?」声をかけると「パパがパンを買ってきてくれるの」「クッキーもだよ」争うように舌足らずの声が返ってきた。

 

 子供の視線の先に、短パン、Tシャツで紙袋を抱えた男が急ぎ足でこちらに歩いて来るのが見えた。

 

「そう、いいわね。朝ごはん?」

 

「朝ごはんかな」と小さい方が首を傾げ、「朝ごはんだよ」大きい方がきっぱり言った。

 

 男は人の良さそうな赤ら顔で、子供たちに「ほーら」と紙袋を渡した。

 

「グッドモーニング」

 

「グッドモ一ニング。可愛いお子さんたちね」

 

「機嫌のいいときはね。だだをこねるともう大変で」

 

 お母さんは?と聞こうとしたがやめておいた。片親の子は、公園に群がる鳩ほどいる。

 

 あたしはもう母親になることはないのだろうか。あんな小さな子供たちに朝ごはんを作り、昼には公園で遊ばせ、疲れたら昼寝をさせ、お風呂に入れ、ベッドに寝かしつけそんな平和で平凡な幸せを感じるチャンスは、もうないのだろうか。

 

 公園の柵に蚤の市のチラシが貼ってあった。蚤の市。以前はよく行ったものだ。

                     

 そういえばあの指輪どこにやったんだろう。蚤の市でアンと一緒に買ったお揃いの指輪。アンティックな指輪

 

 指輪を売っていたのは髭のある老婆で、親戚の子が集めてた指輪だけれど、急に遠くに言ったので処分することにした、と言った。急に遠くへ行ったって死んだのかしらね、アンが小声で言った。

 

 それはつや消しの銀でできた指輪だった。翼を広げているのは鳥ではなく魚に見えた。翼魚か…ゴールディは思った。三十ばかりの指輪が黒いビロ-ドの上に並べてある中、それだけ同じものが二つあった。目玉を型取った指輪やくねくね蛇の指輪風変りな指輪が並ぶ中、翼魚の指輪は控えめに二つちょこんと並んでいた。

 

 翼魚か…。ゴールディは昔のディドリーミングを思い出していた。

 

 魚が跳ねる。小さな輪が広がり、光を受けてきらめく。そしてその魚は突然、翼をはためかせ、水面から飛び立つ。

 

 そうだ、翼の生えた魚になりたかった。最初はどこまでも飛べる渡になれたら素敵だなって思った。でも翼だけじゃダメだよね。海にぽっちゃん…。疲れて落ちちゃったらお終いだ。だから翼の生えた魚になることにした。強靭な翼を持つ…そう強靭な…そうとってもとっても強靭な…。

 

 最初に翼を持つ魚の話をしてくれたのは父だった。

 

 光の粉をまぶしたような薄いけれど輝く翼を持った魚なんだよ。

 

 その翼、ハトさんのみたい?

 

 違うよ。一枚の透明な翼なんだ。

 

 透明? ミンミンゼミみたいな?

 

 違うよ。もっと大きくて薄くて、でもとっても強靭な羽なんだよ。

 

 キョージン?

 

 そうだよ強靭。雨や風にも負けないってことだよ。どこまでも止まらずに飛べるってこと。

 

 初めて飛び魚を見たとき、ひどくがっかりした。父の話してくれたどこまでも飛べる魚とは似ても似つかなかった。目だけがぎょろりとまん丸で体つきには優雅さがなかった。馬鹿面だ、ゴールディは思った。

 

 ゴールディは穏やかな顔をした神秘的で美しい翼魚の姿を想像し、時々、地平線の彼方まで飛んでいく様を想像した。

 

 今、売られている二つの指輪。想像した翼魚をなんとなく彷彿させる指輪。アンとゴールディ、どちらからともなく、指輪を手に取った。値段を聞くと、老婆は一つ20ドルだが二つ買うなら30ドルにすると言った。蚤の市で買うのには高すぎたが、ゴールディもアンもその指輪がひどく気に入った。

 

 その夜、アンのアパートで小さな木のテーブルで向い合い、ワインを飲んだ。小さなテーブルの上に二つ指輪を並べて置き、ワインを飲んだ。ドライな白だった。

 

 二つの指輪を並べてみると、指輪そのものの大きさは変わらなかったが、翼は片方が少し大きかった。

 

「ゴールディに大きな翼の方をあげるわ。大きい方が無理がきくでしょ」

 

 アンはゴールディのディドリーミングを知っているかのように微笑んだ。

 

 アンは指輪を手にとり、しばらくみつめた。

 

「ゴールディ、翼って大切よね。翼ってチャンスを具現してるって思うの。翼で風を受けて、飛ぶのよ、そしていろんな種まくのよ。そしたら、風に乗ってチャンスって名の幸福がやって来るかもしれないわ」

 

 夢物語りね、アンの視線はそう思うゴールディを通りこし、どこか遠くを見つめていた。

 

 アンはまだあの指輪を持っているだろうか。パワーズ夫人になりどんな宝石でも買える身分になった彼女には、無用になっただろうあの指輪。

 

 アンが突然アパートを引き払ったとき、ゴールディはちょっとした仕事で内陸に流れていて不在だった。夏が明けるころ連絡があった。

 

 ゴールディ、どこにいてもあたしはあなたの味方よ。忘れないで。

 

「友達よ」ではなく「味方よ」というアンの言葉が、なぜかひどく嬉しかった。

 

 アンが電話でアンドリュー・パワーズと結婚すると告げたとき、短い沈黙が流れた。富裕層になるアンと相変わらず貧困の領域に残るだろうゴールディ。沈黙が流れた。おめでとう。ゴールディは言った

 

「どんな人、パワーズ氏って?」

 

「お金はあるけど淋しい人よ。あたし、よき理解者になってあげれたらと思うの。それがせめてもの

 

 せめてもの何? 何なの? 金めあてに結婚するせめてもの罪滅ぼし?

 

「会ってみたいわ」

 

 アンは婚約パーティに、友人として招待してくれた。電話口で、是非来てねと言いながら、少し言にくそうにつけ足した。

 

「男性はタキシードなの。一応着るもの、それなりに

 

 パーティの前日、ゴールディはデパートの地下の安売りコーナーに行った。そこは高級デパートやブティックの売れ残りを集め、大幅に割り引いて売るところだった。売れ残ったのも無理ない趣味の悪いものや、90パーセント引きでもまだ手の出ないもの、それに様々な欠陥商品もあった。ゴールディは汗だくになりながら、やっとのことでベルベットの黒いシンプルなドレスを見つけた。脇のところに1センチばかりのきずがあり、それで75パーセント引きになっていた。それでも95ドル、ゴールディにとっては大金だった。

 

 アパートに帰って、買ったドレスをベッドの上に広げながら、ため息をついた。金もうけをしようと思えば、もっとましなことできるはず。でも、計画なしにぶらりぶらり。そこそこ食べていけたらって、あまりに野望がなさすぎた。心理カウンセラーになりたいという漠然とした夢はあったにしても。人を観察し、深く考え込むたちのゴールディはいつか心理カウンセラーになって悩める人を一人でも救えたら、など夢を持っていた。ゴールディはベッドの上のドレスを親指の腹でゆっくり撫でた。

 

 95ドルのドレスを着て行ったパーティでは、ドレスが揺れ、ネックレスが、イヤリングがきらめいていた。シャンペングラス片手にタキシードで微笑む男たち、光の粉をまぶした美しい女たち。光とゴールドのベールで幾重にも包みこんだような見慣れない輝き

 

 アンがときおり気遣って幾人かに紹介してくれたが、それ以外は誰もゴールディに話しかけてこなかった。いや、そう言えば一人の女がパーティも終りに近づいたころ、話しかけてきた。首の長い女だった。

 

「背中がすてきね、ふふ」

 

 女は意味あり気に笑った。

 

 背中? 化粧室に行って鏡に映してその意味がわかった。商標のタグがはみ出していたのだ。はさみが入れられたタグだった。安売りコーナーで売られる商品には、タグにはさみが入っている。やーだ、と笑いとばせず、恥ずかしさで呼吸が乱れた自分に腹が立った。虚栄心は自分にもある…ゴールディは思い知らされた。

 

 パーティ会場に戻ると、楽しそうに笑っているアンが見えた。脱色ブロンドが多い中、ダークなつややかな髪をアップにし、シンプルなドレスに、パワーズのプレゼントなのか、ダイヤに囲まれたエメラルドのイヤリングをつけたアンは、輝いていた。ただただ美しかった。それに比べ、自分は顔は東洋系なのに地髪は艶のない灰色がかかったブロンド、サイズが合っていないドレスを着て、きつめの靴に足を入れて立っている。

 

 アン、翼を手に入れた? 微笑むアンを見ていると、心からよかったわね、と言ってあげたかった。

 

 ゴールディの視線に気づいたのか、ゆっくりと少しだけ首を傾け、なあに?というようにアンは微笑んだ。

 

 あのパーティでのひとときが、ゴールディとアンの間を遮る流れの始まりだった。ほんの一筋の流れがすぐに大きな急流となり、巨大な滝となる。どうにも飛び越し不可能な巨大な滝になる。

 

 以前アンと行ったナイアガラの滝。想像を越えた雄大さに圧倒されているゴールディにアンは言った。

 

「この国はね、貧しい者はとことん貧しく、富める者はエンドレスに富むのよ。でもね、この国の社会構造がこの滝と違うのはね、滝なら一方向しかないでしょ。上から下へで、下から上へは這い上がるなんて不可能。一旦落ちたらそれこそ凄い勢いで、上から下へ流されるわ。でもね、社会には不思議な抜穴があるのよ。不思議の国のアリスやエッシャーの絵じゃないけど、有り得ない道があるのよ。上へ上がってたと思ったら、実は下に下がってたとか、下がってたと思ったら、実は上がってたとかね。不思議よね」

  

 ボストン下町に住む東洋系の女が二人。一緒の安アパートに住み、一緒にバーゲンに行き、値段の割には高価に見える服を買ったりするのが些細な楽しみでそして、サイドウォークカフェで、柔らかな陽の光を浴びながらコーヒーにクロワッサンをセルフサービスで買って食べる週末のひとときが、生活に追われる毎日の中で唯一の安らぎ。ゴールディはスピナッチクロワッサンにカフェオレ、アンはラズベリークロワッサンときにはショコラクロワッサンだったりしてそれにエスプレッソ。ゴールディ、ポパイみたいにスピナッチ食べてどんな馬鹿力出そうっていうの、なんてアンが言って、ゴールディが笑い、カリカリなクリスピーなクロワッサンをアンは長くきれいな指先でつまんでは口に入れ、意味なく笑い。街を歩くとスタイルがよく美しいアンに男の子たちが声をかける。アンがふざけて、消えちまいなよ、なんて言うのがおかしくて。あのころは親友というより、同志とでもいう感情の流れがあった。

 

 ゴールディは、アンの結婚後も心のどこかでアンから頻繁に電話がかかってきたりすることを願っていた。

 

 しかし、そんなことは起こらなかった。

 

「ねえゴールディ、この世の中ね、人間は二つの種類に分けられるのよ。ファイターとルーザー。闘うものと負けるもの。闘うものはとことん戦う。そして勝つのよ。でもね、負け犬って決めたら終わり、その時点で負け犬になる」

 

 そう言ったアンの目を、ゴールディははっきり覚えている。大きな茶色の瞳が、空中の何かをとらえようとするかのようにくいっと止まり、動かなかった。

 

 

 

 

 文字通り、アンと一緒に闘ったことがある。真に闘った。二人で闘った。アンがハンドバッグの紐で首を締め、ゴールディが思いきり引っ張る

 

 夕暮れ時、二人でダウンタウンの裏通りを歩いていたときのことだった。

 

 メイン通りの店は閉まっており、裏の小道は人影もなく、どことなく不穏な空気が漂っていた。ファーストフードの紙包みやタブロイド紙が散在し、廃墟ビルと間違われんばかりの古ぼけた建物が並んでいる。ゴールディ一人だったら時おり後ろを振り返りながら小走りしたかもしれない通りだった。けれど二人だという安心感があったのだろう。男が一人、ヤク中のようによたよたしながら角を曲って現れたときも、さほど気にとめなかった。

 

 突然男はパタリと倒れ、助けを求めるように片手を上げた。

 

 二人は顔を見合わせ、おそるおそる近寄った。すると男は、充血した目をわずかに開き、道の向こうを指し、何か言おうとした。

 

「何?何なの?」

 

 男はとぎれとぎれに、角を曲ったところに友人がいるから助けを求めてくれ、そんな感じのことを言った。

 

「関わらない方がいいわ」

 

 アンはゴールディの手を引き、さっさと行こうとした。

 

「でも

 

 気になったゴールディは男の顔を覗きこんだ。男は瞼をぴくぴくさせていたが、突然目を開け、糸で引っ張られたかのように起き上がった。そしてそのまま両手を突き出し、ゴールディにかぶさってきた。

 

 な、何なの!

 

 男の重みと衝撃に電流のようなしびれが走った。重みに耐えかねず、ゴールディはアスファルトに両膝をついた。鋭い痛みが膝に走った。

 

「止めろよ! ゲス野郎!」

 

 アンが叫んだ。

 

 ゴールディは膝の割れるような痛みと闘いながら、必死で男の手を振り払おうとしていたが、壁に頭を打ちつけ、気が遠くなった。

 

 気がついたときには、アンが顔をのぞき込んでいた。男は4、5メートル離れたところに倒れていた。舌でも噛んだのだろうか。男のくちびるの端から血が流れていた。

 

「アン!」

 

 ゴールディはアンにしがみついた。立ち上がろうとしたが、膝が真っ二つに割れたかのような痛みに動けない。そのとき、男がピクリと動き、目を開けた。顔を歪ませ、体を起こしかける。アンはすばやく男の首にバッグの紐をからませ、力いっぱい引っ張った。

 

 ゴールディは痛みに歯を食い縛りながらも、男の足を両手でつかんだ。足をとられて男は地面に倒れ、後頭部を打つ鈍い嫌な音がした。そして人間の声とは思えぬうなり声とともに動かなくなった。アンは、這うような姿勢で男の首を締め続けていた。

 

「ア、アン

 

 アンは目を固くつぶり手を緩めようとはしなかった。

 

「許さないよ! こんなやつ! 死ね!死ね!」

 

 吠えるように叫んだ。

 

「ア、アン」

 

 肩をゆすぶると、彼女はやっと手を放し、ゆっくり立ち上がった。ゴールディも膝をかばって立ち上がり、二人で黙って男を見下ろした。

 

 殺したわけではない。アンがバッグの紐を男の首からはずした後も、男の胸は上下していた。救急車を呼ぼうとは、どちらも言い出さなかった。救急車を呼ぶときの電話は録音される、もしも男がこのあと死んで誰が殺したのか調べられたら男の仲間が復讐しに来たらそんな冷静な考えからではなかったと思う。怒りに従い、行動しただけだった。自業自得だ。地獄に堕ちろ!二人の胸にこんな共通の思いが渦巻いてなかったとは言えない。

 

「アン、ありがとう。逃げようと思えば逃げれたのに。助けてくれたんだよね」

 

「これがあったから助かったわ」

 

 アンは地面からレンガのかけらのようなものを拾い上げた。

 

「これで、男の頭を殴りつけたのよ」

 

 男の血のついたその武器を、アンはバッグに入れた。

 

「処分しとかないとね。ゴールディのためなら人でも殺すわ」

 

 あたしもよ、ゴールディは言いたかったが言えなかった。誰のためでも人は殺せないよ特にそんな風に思ったわけでもなかったと思うが

 

 ゴールディはアンの肩をかりて歩いた。

 

 あのときの荒涼とした光景と気持ちを今でもクリアに覚えている。

 

 あたしたちは誰も頼れるものがない幼い姉妹のように歩いたんだ、ゴールディは思った。

 

 その後、男のことは新聞でもニュースでも見かけなかった。ことさら全ての新聞に目を通したりニュースを追いかけたりしたわけではないから、記事に載っていても気がつかなかったのかもしれない。二人とも男のことは一切口にしなかった。二人の間には共犯意識があった。あのとき二人は、心の中では殺人を犯していた。

 

 その後、ふと思った。あの男はほんとうに悪人だったのだろうか、と。ドラッグか精神の病かで、頭の中で声が聞こえたのかもしれない。悪魔が二人いる、襲え!そんな声がして夢中で襲ってきたのかもしれない。男のことは生い立ちもどうしてあの場所にいたのかも、強盗する気があったのかも何ひとつ知らない。痛みとショックと怖さの中、猛獣のような敵と戦って勝ったつもりだった。高揚感に包まれていた。二人で力を合わせてやっつけたと思っていた。

 

 ほんとうにそうだったのだろうか

 

 あの男。あのあと息をひきとったということはないだろうか。たんに心の病気だったのかもしれない。心配する家族がどこかにいたのかもしれない。子供だっていたのかもしれない

 

 男は時々夢に出ててきた。夢の中では狼男のようにゴールディの首を食いちぎろうとすることもあったが、哀れな痩せた男になって、すまない、すまない、頭がおかしくてすまないとつぶやいていたりもした。