銀色のバラ:ミヤとデグー

 

  私が住んでいるのは池上線の駅から15分ほど歩いたところで、夫と小さな一軒家を借りて住み始めて随分になる。

 

 一年に2回か3回、近くの中学生の制服の女の子たちが、3、4人一組で手作り感のあるクッキーを売りに来る。リボンで結んだビニール袋に入ったクッキー詰め合わせだ。学校あげてのボランティア活動の一環なのだという。

 

 私はいつも買ってあげる。1000円でちょっとお釣りがくるが、「あ、お釣りはいいですよ」と言う。すると女の子たちは決まって大きく目を見開き、にっこり笑い、「ありがとうございます!」ときれいに揃って頭を下げる。

 

 それで、ドアを開ける前よりはかなりいい気分になってドアを閉める。

 

 ただ、その日はちょっと違っていた。1000円を渡し、「お釣りはいいですよ」と言うと、「すみません。ちょうど1000円なんです」と受け取った子が申し訳なさそうに言った。「あ、そうなんですね」と言う私に「ありがとうございます」と3人の子が頭を下げたが、いつものようには揃っていなかった。

 

 そのあと、先輩格に見える子が「あの、これ」といって差し出した物を見て、私はちょっと動きを止めてしまった。

 

 それは一本の造花だった。銀色のバラだ。花の部分はパリッとした銀色の布でできている。

 

「あの、このバラ、花の部分だけがこうやって外れて、ここのとこに安全ピンがついているので、ブローチにもなるんです」

 

 一番幼く見える子が説明した。

 

「ちょっとクッキー値上がりしちゃったものですから、あのおまけをつけたらってことになって。バザーで残った品なんかを」

 

 真ん中にいたおっとりした子がそれなりに必死に言ったところ、両側からつつかれた。

 

 バザーの残り物だなんて言っちゃだめ、という小さな声が聞こえたが、私は聞こえなかったふりをして、「綺麗ですね。ありがとう」と出来るだけ自然な笑みを浮かべてみせた。すると今度は三人きっちり揃って「ありがとうございます」とお辞儀をした。

 

 私がドアを閉めようとしたとき、

 

「あれ、ひょっとしてデグーですか?」

 

 おっとりした子が言った。

 

「ああ、そうよ。でもよくわかったわね」

 

 置いてあるリビングの端のケージまでは玄関からかなり距離があるにもかかわらず、ケージで丸まって昼寝をしている生き物がデグーだとわかったその子に私はとても感心した。正直かなり嬉しくもあった。

 

「あたし、デグーほしいんです」

 

 そう言って話を続けようとする子に、先輩格の子がつついた。無駄話はしないように、という指導なのだろう。

 

 デグー好きの子は、あと小さく言い、少し後ろに下がった。そして三人は顔を見合わせ、再び「ありがとうございました!」と頭を下げた。

 

 私はクッキーの袋と造花のバラを持ったまま、デグーのケージのところに行った。バラと名前もデグーのデグーを見ながら、随分前の会話を思い出していた。

 

 

 

 

「嘘でしょ?」

 

「えっ?」

 

「あたためてるストーリーがあるなんて嘘でしょ?」

 

「嘘じゃないよ」

 

 デグーは寄り目になった。

 

「まず、男と女が出会う」

 

「それで?」

 

「それで、女はデザインブックかなんか広げて客のまばらなカフェのカウンターで、脚を組んでるんだ。黒いシャツに黒いパンツ、太いバンドのメンズウォッチ・・・。こんなところかな。よくあるタイプさ。自分は人と違うんですよ、の意気込みで装ったつもりなのに、全くよくある格好だねって感じになってしまう、ちょっと悲しいタイプさ」

 

 そこまで言うとデグーの顔は明るくなった。ほんとうにアイデアが浮かんできたらしい。

 

「それで?」

 

「うん、小学校いっしょだったよねって男は言うんだ」

 

「知り合いなんだ」

 

「ほら、雑賀小学校でいっしょだった。バスが同じだったよねって。ああ、って、女も笑顔になる。男はデザイン関係の仕事をしていると言ってから、手伝おうか、よかったらって、彼女のデザインブックを見ていうんだ。すると彼女、ちょっと眉間にしわをよせたまま口だけスマイルの形を作って、いいえ、大丈夫よって答えるんだけど、目はイエスなのさ」

 

「うん」

 

「小学校時代の知り合いってところから、男と女は時々会うようになる。お茶飲んだり、ランチしたりするくらいなんだけどね。ある日さ、女が男に言うんだ。あなたとだとまるで空気といるみたいでしょ。ぜんぜん気取らなくていいから楽だわって。男が、どうしてさ、僕は背も高くて凄いグッドルッキングじゃないかって冗談めかして言うと、彼女、その濃い瞳で見つめて言うんだ。わかるでしょってね」

 

「わかるでしょ?」

 

「そうさ、で、男は思わず目を伏せてしまう。まるで意気消沈してね」

 

「どうして?」

 

「彼女は気づいていたのさ」

 

「何に?」

 

「彼の特性にさ。彼は恥に思ってないにしても彼女といるとちょっと気おくれしてしまう、つまり・・・そういうタイプなのさ」

 

「ふ~ん」

 

「そんなにおいを女はかぎとったんだよ。男のすばらしきルックスや、誇らしげな栗色に染めた髪や、引き締まった肩から腰にかけての筋肉なんかひっぺがし、その瞳で、わかるでしょ・・・って男を見つめたんだ。つまり心理的バイオレンスさ」

 

「なにそれ?」

 

「男にとって精神的ラブは孤立しているんだ。肉体的ラブは精神的ラブにつながるけど、精神的ラブは肉体的ラブにつながらない。一方通行なんだ。わかるかな?」

 

「わかんないわ」

 

「つまりこういうことさ。男が一人の男をピックアップしたとしよう。いわゆる男のタイプで、背中の筋肉がびーっと緻密に張りつめ、それでいて顔はエンジェリック・・・。で、何度かメイクラブすると、肉体的ラブはツッツッとハートにまでのぼってくる。で、男は男に惚れていく。ところが悲しいことに、その反対ってのはうまくいかない。小学校時代からちょっと気になり、ソールメイトって言えそうな友達になっても、ハートから始まった女性へのラブは上半身でとどまり、下へは下りていかない」

 

「そういう特性なら仕方ないわ。生まれつきでしょ。別に悪いことじゃないし」

 

「もちろん、それはそうだ」

 

「けれど、男は申し訳ない気がするのさ。女が恋人を欲しがっているのを感じているからね」

 

「その男ってハンサムなわけね」

 

「そりゃハンサムさ。すっごいゴージャスじゃなっていわれるくらいハンサムでグッドルッキングなんだ。ボディだってGQのモデルといい勝負するくらい、いわゆる見られる体なのさ」

 

 デグーとは大違いね、って言おうと思ったが、やめておく。

 

「じゃ、もちろん、その男にはボーイフレンドがいるわけだ」

 

「その通り。名前はロックとでもしておこう」

 

「なんでロックなの」

 

「さあ、ロックじみてるからかな」

 

「で?」

 

「ロックは背の高い一見シャイなハンサムガイで」

 

「シャイだけどロックじみてるんだ」

 

「ま、そうだな。で、ジムで鍛えている筋肉がご自慢なんだ。ある日男はロックからバレンタインにプレゼントをもらうんだ。・・・何だと思う?」

 

「何かしら?」

 

「バラさ」

 

「バラ?」

 

「銀色の七本のバラなんだ。銀色のバラだよ。本物のバラにシルバーの液を吹き付けて作ったものでさ・・・。男は鼻をつけて匂いを嗅いでみたんだ。すると・・・」

 

「すると?」

 

「不思議な匂いがしたんだ。もちろん、吹きつけた液体っぽい匂いや、多少その他のケミカルっぽい匂いもするけど、その他に何か不思議なにおいがするんだ。何だろ・・・・って男はずいぶん考えた。ずいぶん考えて、そしてわかったのさ」

 

「何?」

 

「無・・・さ」

 

「無?」

 

「そう、無の匂いだって気がついたのさ。匂いってものが全くない。そのくせ 無って匂いがあるんだよ。そんな存在に接したのは初めてだったから、男はしばらくぼうっと見てた。シルバーの被膜の中の花びらはほんとは何色だったんだろ、赤かな、案外オレンジ色かもしれない・・・なんて考えながらね」

 

「うん」

 

「男はそのバラ、好きになれなかった。ロックが本物のバラだよ、って差しだしたとき、どこの博物館でか、猫のミイラやアヒルのミイラってのが薄いブラウンに変色したきれでぐるぐる巻かれてガラスの中に展示されてたのを思い出して・・・急に息苦しくなったんだ。で、夜になると、このバラ、光るんだ。蛍光塗料かなんか混ぜてあったんだろうな、きっと。真夜中に通り過ぎる車のライトに照らされてバラがぼーっと光ってるんだ。昼間は全く死んだ存在なのに、夜はバラたちの一人舞台さ。そのバラを見てると、奇妙な気持ちが色を失った波のように押し寄せてくるんだ。荒々しく掴み、窓から花瓶ごとほおり出してしまえばどんなに気持ちがいいだろうって、思うんだ。道路に花瓶が砕けるガッシャーンっていう音を想像してみたりもするけど、やはりできなかった」

 

「なんだか不気味なバラね」

 

「うん・・・。ミイラ化されたバラは、そのうちシルバーの花びらをパラリパラリ落とし始めるんだ。花びらとのジョイントには液が十分吹きつけられてなかったらしくてさ、花びらはシルバー色の被膜分重くなってたわけだから、散るのも早かったのさ。男は花びらを集めて手の中で押し潰してみた。思いっきり力をこめてさ。するとどんな音がしたと思う?」

 

「ぱりぱりってパン粉のような音かしら」

 

「ちょっと違うな。かさかさした悲しい音さ。足の長い細いバッタがちっちゃな紙袋の中で必死に暴れてるような・・・そんな音さ。花びらが小さく手の中で砕け、指の間からぽろぽろこぼれ落ちても、男は手を開かないんだ。砕けた花びらを握りしめたまま、長い間、椅子に座ってるんだ。背を丸めて足を抱え込んでさ。干からびた自分が砕けた自分自身を抱きしめてるような、そんな気持ちでね」

 

 そこでデグーはカップをつかみ、目をつぶってごくりとコーヒーを飲んだ。

 

「それで?」

 

「うん、それからね」

 

「最初に出てきた女はどうなったの?」

 

「ああ、そうだった。つまり、男が女に会ったのは、男が自己嫌悪のサークルをゆっくり回り始めたころだったのさ。男は二日酔いで目が腫れ、胸やけでそりゃひどい気分だったけど、女の小学校の頃とさほど変わらない眼差しや肩のあたりに漂う力の入った真剣さってのがどこか気になったんだ。気になったっていうより懐かしかったんだな。自分もちょっとタイムスリップしたみたいで、ファミリードラマで気のいい美青年って役どころを与えられたような我ながら微笑ましい気持ちになったのさ。二人は言葉やルックスを超えたところで何か波長が合うんだ。限りなく広い海を泳いでる何億匹の魚の中で同時に跳びあがったたった二匹の魚・・・そんな不思議な共感なのさ」

 

「そんなフィーリング、持てるだけで素敵だと思うわ」

 

「うん・・・・。男は女といてセクシャルな欲望ってのはまったく感じなかったけど、なぜか安らぐんだ。古い写真に入り込んだような安らぎさ。自分の呼吸の音だけ聞いて時を過ごす贅沢さを与えられたような、そんな安らぎ」

 

「それから?」

 

「それからか・・・まだ考えてないな」

 

「それ短編でしょ? あたし小説ってのよく知らないけど、ドラマには何か山がないとだめなんじゃないの?」

 

「山か・・・。よーし、山を作ろう」

 

 デグーは顎に手をあてた。

 

「こういうの、どうかな。ある日、男はロックと、女といつも会うカフェの前を通りかかるんだ。カフェの前での男の妙な緊張を感じたのか、ロックは喉が渇いてるから入ろうと言い、やめとこうよ、ここのコーヒーは凄くまずいんだぜ・・・反射的に男は言う。でもロックは将軍さながらの残虐さを目に漂わせ、入ろうときっぱりと言い切るんだ。女が来てなきゃいいと男は祈る。よりによって今日、この時間に偶然いるはずはない、そう思いつつ入ると、男の恐れていた通り女はいたのさ。ほとんど無表情で口元に少しだけ笑みを浮かべ、女は男を見る。男はぎこちなく視線を返す。少し微笑みを浮かべたりもする。ロックは男の肩に手をかけ、カウンターにすわると、男の肩に頭をのせる」

 

「なんだか、気まずいわね。女もわかってたとしても、実際に恋人といる男を見るとちょっと複雑かな」

 

「うん。それでそのあと、男は随分長い間、女と会うことができない。ある日思い切って待ち合わせをすると、この前は無視してごめんって言うんだ。すると女はそれまで見せたこともない大げさなほどのスマイルを作って言うんだ。いいのよ、全然気にしてないしって」

 

「それほどの山にも思えないけど」

 

「まあ、聞きなよ。それからしばらくして、女は珍しく明るい色のワンピースかなんか着てすわってるんだ。ハーイっていう女はどこか寂しげでね。どうしたのさ、元気ないねって言うと、うん、田舎に帰ることにしたわって言うんだ。えっ、帰っちゃうんだ。うん、ここにいても先は見えてるし、なんだか疲れちゃった。男は、そんなことでどうするんだ、もっと夢を持てよ、なんて言うべきかな、なんて思ってもみるけど、そんなこと、とても男には言えない」

 

「そうよね。男にも大した夢らしいものないんでしょ?」

 

「まあね。だからかわりに小さな声で聞いてみるんだ。ほんとは何がしたいの?って。するとね、女はじっと男は見て言うのさ。いろんなことよ。ここにいて満足のいく仕事がしたいわ。ペイがよくってやりがいのある仕事がね。生活もエンジョイしたいわ。・・・それにできたら心の通う人と恋人になって、普通の生活がしたい。落ち着くとこに落ち着いてって。どこか遠い夢物語でも語ってるみたいにさ。男は思う。普通の生活って何だろうって。ベージュの壁の小さな家。赤い車が一台。週末には二人揃ってショッピング。おはようのコーヒー。そんな光景が頭に浮かぶんだけど、それはつけてもつけてもパラパラ落ちていく貼り絵みたいなものでさ、昔々プリンスとプリンセスがいて末永く幸せに暮らしました、みたいな現実離れで、男には次元の違う遠い光景なのさ」

 

「そうよね」

 

「今度は女が聞くのさ。ねえ、じゃ、あなたは何がしたいの? ってね。そう聞かれて男は必死で考えるんだ。ドリームらしいものを必死で探そうとね。何か言わなきゃって男はひどく焦るんだ。逃げ出したいのに、逃げ出したくてしょうがないのに尻尾を掴まれている子猫・・・男はそんな状態なのさ。自分から悪臭放つ泥沼にでも跳び込んでもがいてももがいてもどんどん足が引きずり込まれる、そんな絶望感で息はつまり、顔は熱く、目はうるみ・・・」

 

 デグーはぬるくなったコーヒーを飲んだ。ゆっくりと。半分目を閉じながら。

 

 初めて見たときからデグーマウスに似ていると思ったデグー。そのデグーは目をつぶるととても静寂な顔になった。

 

「そのときさ、男の頭の中で、あの銀色のバラがぼーっと光り出すんだ。それでロックがくれたあのバラの話を始めたのさ。バラを見て・・・匂いをかいで・・花びらを手の中で砕いて感じた、あの奇妙な気持ちのことを話してみた。自分でもなんでそんな話をしたのかわからないけれど、男が自分のこと・・を語ろうとしたとき、あのバラたちを思い出したんだ」

 

「うん・・・それで?」

 

「うん、そうだな・・・。女は、何も言わずに、男の手に自分の手を重ねる。小さく冷たい手さ。男も、女の手にもう片方の手を重ねる。二人にできるのはそれだけなんだ。うん、二人に出来るのはそれだけなのさ」

 

「それで終わりなの?」

 

「そうさ。短編だからね。どうかな?」

 

 ほんの少しだけだけど、細かいサンドペーパーで心をこすられたような感じだった。大して不快というのではなかったが、感動というのでもなかった。強いていうなら、既視感に似た奇妙な動揺だった。

 

「なんだか、どっかでこんな話、読んだってそんな気がするわ。・・・ねえ、この種の話ってすっきりしたハッピーエンドにはなんないわよね」

 

「ハッピーエンド? まず無理だな」

 

 デグーは笑った。

 

「そうだ、このストーリー、ミヤに捧げよう」

 

「くれるの?」

 

「もし、きちんと書きあげたらね」

 

「約束する?」

 

「するさ」

 

「これって…デグーの話でもあるよね」

 

「そのデグーってのそろそろやめてくれないかな。この前ペットショップで見たんだ。どうにもさえないネズミだよな」

 

「頭いいのよ。社交性もあるし。人間によく懐くの」

 

「でも顔が似てるからつけたんだろ。特性関係ないだろ」

 

「まあそうね。・・・ねえ、出来上がったら送ってよね」

 

「送るって?」

 

「うん、あたしもね、しばらくここを離れるつもりなの」

 

「戻ってくる?」

 

「多分ね。とにかく出来上がったら見せてね」

 

「もちろんだよ」

 

 デグーはそう言い、ウインクまがいに片目をつぶった。

 

 

 

 私はあのときデグーが、小学生の時は少し太めだったデグーが、デグーマウスに似てると思ったデグーが、客観的に見てもうちっとも似ていないって気がついた。

 

 私はデグー創作の銀色のバラを想像した。

 

 銀色のバラは、かなりの存在感で私の頭に広がっていった。

 

 あのときはデグーの中ではまだバラは花びらを落としていなかったのだろうか。

 

 私の中では、散る日も近いのかもしれない。あのときの私はそんな予感を感じていた。

 

 あれから随分と時が経った。結局私は田舎からも離れ、わけあってここに住んでいる。近くの商店街のペットショップの店じまいで、デグーと出会って飼い始めて4年になる。最初はスギッチと呼んでいたが、すぐにデグーと呼ぶようになった。

 

 デグーのデグーと私は仲良く暮らしている。

 

 人間のデグー…杉山は結局、出来あがったストーリーを送ってはこなかった。