輪くぐり:ロコ

 

 その日、私はちょっとだけ憂鬱だった。掃除のとき聞いたんだ。遠足のとき、ケンタロウがユキちゃんに告白するんだってさ、って。

 

 私は黒板拭きを持ったまま、立ち尽くしてしまった。そんなのってずるいって思った。何がずるいのさ、って聞かれれば、よくわからないけれど、とにかくずるいって思った。

 

 ユキちゃんみたいに可愛いほうがいいのかな、可愛いほうが得するのかな。

 

 いつも、ボーイッシュでかしこそう、って言われる。私の顔を覗き込んで、どっちかな?って顔をする大人もたくさんいた。男の子にも見えるってわけだ。

 

 二歳半までは、髪が薄くて、ママは「ニコルソン禿げですの」って言っていたらしい。「ニコルソン禿げってなあに?」と聞くと、ママは描いて説明してくれた。「こうなっててね、髪の毛のここのところが薄いのよ。男でこうなったらもう生えてこないのよ。ジャックニコルソンって俳優さんがこんなこんな感じだったの」

 

 私は今はシャラシャラの超ロングヘアになれるほどふさふさだ。けれど生まれてからずっとショートヘアで通してる。

 

 なぜ?って聞かれても困るけど、ショートは手櫛でといたとき気持ちいい。親友のミチの髪は胸のへんまである。ショートだと指の間をあっという間に通り過ぎる。そのはやさがいさぎいいんだ。

 

 もともと私のモットーが「いさぎよく」だ。漢字でだって書ける。「ショートヘア」と「いさぎよさ」の関係。ショートヘアはきっぱり潔い。これが男の子みたいといわれてもショートで通している理由だ。

 

「あんた、久しぶりに見る時なんかさ、わー、ハンサムーって思うんだわー。いわゆるきれいな男の子に見えるんだわさ、あんた」

 

 ミチは言う。見かけはバリバリの女の子のミチだが、中身はいい意味でさっぱりきっぱりしている。ミチには悪い意味での女っぽさがない。ひそひそねっとり悪口いっぱいの内緒話やあなただけ特別よ、だから私に一目おいて、といったわがまま度合いが全くない。だからミチとは仲がいい。見かけは対照的だけど仲がいい。

 

 私は自分らしさに誇りを持ってるけど、それがすこうし揺らいでいた。やっぱ可愛らしいほうがいいのかなって。

 

 だって、ケンタロウがユキちゃんを好きだっていうんだから。

 

 誰だってユキちゃんのことが好きだ。優しいし、可愛いし、ユキちゃんに可愛い声、可愛い目で話しかけられると、誰だって口調が優しくなる。間違っても、違うよ、なんて言えなくなる。

 

 

 

 

 遠足当日は前日降った雨で、草の下の土が柔らかかった。ぎゅっぎゅっとつま先を土に食い込ませてみる。

 

 顔をあげるとミチとイッチーがおいでおいでをしてクスクス笑っている。きっと誰かがこんなことしたよってな、聞いても聞かなくてもよさそうなことなんだ。いいよ、いいよ、行かない。何だか気のりしないもん、てな顔をしてみせる。

 

 ケンタロウとユキちゃんは2メートルばかり離れて立っている。その距離はだんだん縮まっていく。時々ケンタロウがユキちゃんを見て笑いかけ、ユキちゃんがケンタロウを見て笑いかけ、お互いに顔を見合わせ笑い合い…。

 

 何だか歩くたびふてくされた気持ちになる。柔らかな地面が沈むのも気に入らない。いつもならキュッキュッてご機嫌で歩くのに。

 

 けれどそれでも歩くたびに視界の中で柔らかく揺れる緑の美しさが気持ちよかった。葉っぱの緑はすてきだな。これには逆らえない。なんで雨上がりの緑ってこんなに綺麗なんだろ。

 

「じゃあ、12時まで自由行動!」わ~~~~~っとみんな駆けだした。あっちこっちで男の子のグループと女の子のグループの声が玉のようにまとまってころころころころ転がっていく。

 

「ねえねえ、ロコ! ロォコォってったら~~」という声に軽く振り向き、笑ってみせるけど、一人で小高くなっていくところに一本生えているヤマボウシの木のもとに歩き始めた。

 

 引っ張られたような雲の隙間から太陽が射していた。木漏れ日がくっきりと地面を影と日向に分けている。土に落ちている葉っぱが光を弾いている。

 

 きれいだな…。

 

 何だか胸がキュッとした。木の枝の間で何かが見えたような気がしたんだ。

 

 息をこらして目を細めてみる。

 

 木の枝の間を何かが動いている。

 

 輪?

 

 輪…。

 

 あ 輪だ! 輪だ! 天使の輪だ!

 

 

 

 それは2メートルほどの高さにある枝に引っかかっているように見えた。けれど、どの枝にも触れていない。浮かんでいる。そして、生き物のように微妙に振動していた。

 

 ドキドキした。近くに小鹿でもいるかのように息をひそめる。輪はその場所から動かない。やがてすーっと横に動きだし横に動きながら、時々カクンと下にずれる。地面から1メートルくらいのところまで下がったかと思うと、またすーっと2メートルくらいのところに上がっていく。そうかと思えば結構ゆったりとした動きで動く。

 

 いきなり風が吹いた。

 

 突風に一瞬目を閉じて開けると、輪はそんな中でも、ほとんど動かず、そこにいた。軽くて薄くて私の息ひと吹きで吹き飛ばされそうな半透明な輪なのに、葉が揺らぎ小枝がしなる突風をまるで気にしないように、凜として浮かんでいる。

 

 風が止んだ。

 

 輪はスイーっと降りてきた。手を伸ばせば届きそうなところまで。

 

 手を伸ばしてみようか

 

「ローコちゃん」

 

 トミちゃんが満面笑みで走ってきた。

 

「ほーら」

 

 差し出した手はトカゲのしっぽをつかんでる。

 

 トミちゃんは女子の中で私以外で唯一トカゲやヤモリを手で掴める子だ。

 

「最高記録だよ。この尻尾の長さは。ほーら」

 

 いつもなら「わぁ~、すっご~~い」って目を輝かせるんだけど、今は一人にしてほしかった。

 

「ほ~~ら、掴ませてあげる。このトカちゃん、目、緑なんだよ。しっぽだって弾力あってすっごく強い。普通のトカちゃんなら、もうとっくに切れて逃げ出してるとこだよ」

 

「う…うん」

 

「ほーら、いいからさ。遠慮しないでさ」

 

「う…うん」

 

 そのときダニーが少し離れたところにいるのに気がついた。ダニーは瞬時に状況を察したようだった。小走りして私とトミちゃんがいる小高いところに駆け上がってきた。

 

「わあ、すごいなあ。僕に見せて」

 

 ダニーにそう言われてトミちゃんは少し赤くなった。やっぱ、ダニーはもてる。ケンタロウにせまる勢いだ。タイプは違うけど。

 

 トミちゃんがダニーにトカゲを見せている時、ダニーが私に目で合図した。やっぱりダニーはわかってたんだ。私がやっと輪を見つけたってこと。ほら早くって感じで合図してる。

 

 早くってったってさ。

 

「君、ヒトミちゃんだっけ?」

 

「うん。みんなトミちゃんって呼ぶよ」

 

「トミちゃん、これさ、他の子にも見せていい?」

 

「うん。でもロコちゃんほど喜ばないよ」

 

「喜ぶさ。ちょっと見せたい子がいるんだ。おいでよ」

 

 ダニーがトミちゃんの半袖のTシャツを引っ張ると、トミちゃんはまんざらでもない様子だった。

 

 ありがと、ダニー。

 

 私は「輪」に集中した。

 

 輪はするりと下りてきて、私のつい鼻先まできた。

 

 私はそっと手を伸ばした。触ろうとした。そして人差し指で少しだけ触れた。

 

 不思議な感覚だった。何も触っていないような。それでいて指先は確かに何かを感じてる。

 

 振動? かすかな振動っていうのかな…。

 

 熱くもなければ冷たくもなく何にも触ってないようで。それでいてそこには確かに何かがある。

 

 意識を集中した。

 

 人差し指で感じる空気は、弾力なのか、濃度なのか、確かに何かが違っていた。

 

 今度は人差し指だけではなく、指全体をくっつけて、出来るものなら手全体を通そうとかまえた。

 

 すると指をそんなにちぢこめる必要もなく、輪が少しだけ広がった。

 

 えっ…。

 

 さっきは7、8センチの直径だったのが、今は10数センチはある。

 

 腕を通してごらん。

 

 ダニーの声がしたように思った。くるっと振り向いたが誰もいない。トカゲを持ったトミちゃんもダニーもいない。

 

 私はそのするりんと広がった輪に向けて腕を通してみた。おそるおそる…。

 

 そして息をとめ、目をつぶり、一気にくいっと腕を前に押すように出した。

 

 目を開けると肘より少し上、肩よりは下のところまで輪に入っている。輪は微動だにしない。

 

 やだ、どうしよう。でもきつくもなければ痛くもなんともない。熱くもない、電流も感じない。

 

 私は左手で、まるではめた輪ゴムを引っ張るかのように引っ張ってみた。すると物をつかんでいるという感覚もないのに、その輪は全く抵抗なく広がった。

 

 私は広がった輪に頭をくぐらせた。そして体も…。

 

 輪は広がり、腰のところに来ていた。やはり圧力も何も感じない。

 

 それをさらに広げ、足を一本ずつ抜いた。まるでフラフープから抜け出るように。

 

 抜け出ると輪はすーっとまた最初見た時の大きさになって宙に浮かび、二、三度上下すると、平行に動き、木の幹の陰に行った。ついて行ってみたが、木の裏側に来た時には輪は見えなくなっていた。

 

 な、なに? これで輪をくぐったわけ? ダニーが言ったみたいに? 

 

 で、どうだっていうんだ? 何かが変わったの? 

 

 射す日の量? 空の青さ? 緑のきらめき? 

 

 何が、何が違うんだろう。

 

 存在しているものはいっしょ。木は同じところにあり、雲の位置だって同じ。少し向こうで揺れていた小さな白い花も同じ。

 

 なのに、何か違った気がする。違いゆく予感?がする。

 

 光の量が少し増えたのかな? きらめきが増えた、そんな気もする。

 

 私はじっと立っていた。幸い誰も周りにいない。

 

 自分の視界に集中した。

 

 、きらめきが見えたきた。集中するときらめきが見えてきた。

 

 ところどころ、かすかに光の粉をまぶしたように光っている。

 

 光の粉…。ミクロの光の粉…。そんなのがあるとしたら、ほんのわずかな量にしても視界が少しだけきらめいて見える気がする。

 

 気のせい?

 

 ティンカーベルの光の粉…。そんな言葉が浮かんだ。絵本でも映画でもティンカーベルの周りはいつも黄金色に輝いていた。映画ではそれに合わせて、チラチラリンという澄んだ音も流れてきた。

 

 今、実際に目にしているのは、黄色く輝く光の輪でもないし、チンチラリンという音も聞こえてはこないけど、気配とでもいうのかな。実際に光の粉なんか見えないのだけど、その気配。

 

 何なんだ…。

 

 一番光の気配のする一本の木の下へ歩いて行ってみた。

 

 それは生い茂った木で、地面に近いところから4、5本の幹に分かれていて、葡萄の葉に少し似た葉が幾重にもなっていた。木漏れ日がまぶしかった。

 

 けれど、光の気配は木漏れ日からではなかった。葉っぱの陰になった奥の奥。日陰なのに、光の気配がした。気配は匂いにもなっていた。鼻で感じず、直接体で感じる匂いがあるとすればそんな感じ…。

 

 胸がどきどきした。

 

 嬉しい予感…。

 

 そしてその予感は的中した。

 

 半透明の薄い膜が幾重にも重なったようなふわふわした物体が三つほど浮いていた。その物体は風にあおられふわりふわり翻っている。水族館でみた白くて薄いひだがある輝くクラゲにもちょっと似ている。

 

 何? 

 

 その三つの物体は木の周りを大きくふわりふわりと周り始めた。

 

 どれくらいそこに立っていたんだろう。魅せられて…。

 

 やっと柔らかな踊る三つの存在に慣れてきたとき、何かに見られてる…そんな気がした。

 

 木の幹に近づいてみた。

 

 いた、いた…。

 

    私の背の高さくらいの枝に何かがいた。一番奥の方の枝に何かがいる。

 

 それは体調30センチほどで、木と同じ質感だった。腕のようなものがあり足のようなものもある。頭のようなものもあるが、顔はないように見えた。でもじっと見ていると目や口も見えてくる、そんな気もする。

 

 生き物じゃない…よね。

 

    もし生き物っていうのが、血が流れてて、食べて、排泄とかもして成長していくものだとしたら、そういうものではないんだろうって思った。生き物でなくても意志と心がある存在ってあるのかな?魂とか。そういうのって何ていうんだっけ。

 

 スピリット? 妖精?

 

 クラゲのように浮かぶ物体、木で荒く彫っただけのような物体、これが妖精だとしたら、本で見るのとは随分違う。可愛らしい子供のようでもなきゃ、人間を小さくした感じでもない。でも確かに生きてる、そう感じた。心や精神が生きているって意味で生きてるって。 

 

   私はもう一度、木の枝に腰掛けているその存在に近づいてみた。

 

 何色? 木目?  うん、木目だ。

 

  そのウッド坊やは少しだけ透けてるような気もした。透けて向こうが見えるかっていったら、そうじゃないけど、でもなんだか木目でありながら、少しだけ透けていて、それでいてしっかり触ることもできそうで

 

  触ってみたい

 

  恐る恐る近づいた。ウッド坊やも私を見てる、そんな気がした。

 

  ウッド坊や? ウッディくんってどうかな。

 

  最初は表情なく見えたウッディくん、今、確かに私を見ている

 

  木の中に彫り込んだような小さな黒い玉、二つ。瞳かな? 

 

  ウッディは足をぶらんぶらんと二回揺らした。

 

  そっと手を伸ばしてみた。ウッディくんは少しビクッとしてぶらんぶらんをやめ、体を反らし、チッ  でも  シュッ でも  スッでもない声を発した。

 

  大丈夫だよ。今度は小声で言ってみる。

 

  ウッディは首を傾げた。

 

  突然、首筋に気配を感じて振り向くと、さっきの不思議な踊る物体が、頬のすぐ横で舞っていた。白いといっても真っ白じゃなくって、半透明で、光の粉をいっぱい凝縮したみたいでひだが幾重にもなっていて、一見てんでバラバラに開いたり閉じたり空中を美しい花びらが舞っているようだ。しばらくしてスッと私から離れ、こんどはかなりの速さでくるりくるり。大きさは小さい頃持ってたマフラーについてたボンボンより少し大きいくらいかな。

 

  ひらひらと幾重にも幾重にも…。風のスカート

 

  風のスカート?  もしかして風? なのだろうか?

 

  私は手を出した。あの時、ダニーが校庭で見知らぬ何かに手を出したように。

 

    すると、踊りがゆっくり止まり、私の方にやってきた。流れるように。

 

   そして、ふわり、と下りた。

 

 私の手の中に。

 

  美しくて柔らかくて、手に乗っているようで、乗ってなくて、触れてるようで、触れてなくて

 

  手の上でゆったり数回回転し、動きを止めた。

 

  心で念じるように目を細め集中してみると、見えてきた。うん、見えてきた。一見表情のない、静止画のような顔。大人のようで、子供のようで、ある瞬間は確かにパーツの整った顔に見え、でも少しずつ顔らしき気配をもった物体に溶けていき

 

  何?   何?

 

  君って風?

 

  心で問うと小さな口を開いて、ヒューって私に息? 風? をかけてくる。

 

   フュェーイ小さな小さな音が幾つか聞こえた。

 

  辺りを見渡した。

 

  

 

  あちこちに、いろんなところに風はいた。光の気配が強い辺りには必ずくるりくるり回っている。幾つも。幾つも。

 

  ウッディのいる樹の周りにも幾つも舞っていた。ウッディは片足で枝からぶらりぶらり。その周りを風がくるりくるり。

 

 輪をくぐったら見えない何かが見えてきた。

 

   光の気配を感じるところに彼らがいる。それがわかると楽しくなった。天使の輪をくぐるって、妖精が見えることなのかな。妖精伝説って創作じゃなくって、輪をくぐった人が実際経験したことだったのかな。これからもっともっといろんな存在が見えてきたら

 

  体がぶるっと震えた。嬉しさと期待と、ちょっとだけ恐れのようなものもあった。

 

  輪、輪、輪 天使の輪くぐったんだ、それだけは確かだった。

 

「ロコ!」

 

 振り向くとダニーだった。

 

「輪をくぐったね」

 

「ダニーも?」

 

「僕もさっきくぐった」

 

「ねえ、くぐったってどうしてわかった?」

 

「そりゃわかるさ」

 

「どうして?」

 

「ほら、僕、どう見える?」

 

「どう見えるって

 

「どこか違わない?」

 

 うん  ダニーはダニーだ。可愛らしさは同じ。その巻き毛も。あざらしような目も。

 

 でもなんだか光をたくさんはじいてる気がする。前より。でも、輪くぐり後の世界はなんだか全部が少しだけにしても多く光を含んでる。

 

「なんだかくっきり見える気がする」

 

「後光が射して見えない?」

 

「それは見えない」

 

「あは、冗談だよ」

 

「やだ、こっちは真剣に考えてるんだからね」

 

「でも、なんとなくさ、うすーく光の粉のベールをかぶったような、光の粉の砂場とかあるなら、そこでゴロゴロ転がったような、そんな感じしない?」

 

 私はまじまじダニーはを見た。くぐってない他の子と比べてそうなのかはわからない。今は周りにダニーしかいないから比べようがない。

 

「じゃ、あたしもそう? 

 

「さ、どうかな」

 

 ダニーはにこっとした。「言わないよ」

 

「ねえ、あの輪、不思議だよね。最初見たとき思ったんだ。天使の輪だって」

 

「僕はさ、前は輪っこって呼んでたんだけど、なんだかどこにでもある輪ゴムみたいでつまんないだろ。いいね。天使の輪か。うん、天使の輪ってのいい」

 

「でしょ?」

 

「輪ってさ、くぐると凄く不思議なんだ。くぐっても同じ世界なんだけど、それまで見えなかったものが見えてくる」

 

「妖精みたいなやつ?」

 

「うん、それと

 

「それと?」

 

「あ、それは自分で見つけなきゃね。僕が言ってしまったらつまんないよ」

 

「そうかな、教えてほしい気がするんだけどなあ」

 

「僕なりにこんな風に考えたんだ。普段見えない不思議な存在…それって普段は妖精ベールとでもいうのかな、そんなので保護されてて、普通の人間の目からは見えない。けど、ベールにはところどころに奥の世界につながる輪のようなものがあるんだ。ベールにあいたほころびの輪。それが見える人間って、僕とかロコとかあんまりたくさんはいないみたいなんだけど、輪が見れてくぐれちゃった人間にはそれまで見えなかったものが見えてくる」

 

 そういうことなの?…。

 

「でもさ、すべてが最初から見えるわけじゃないんだよ。くぐってもさ、次第に能力が高まるっていうのかな、フェルルとしての」

 

「フェルル?」

 

「うん、天使の輪をくぐれる人間だよ」

 

「誰が言ったの?」

 

「前に会ったフェルルの人さ」

 

「ねえ、あの木にぶらんぶらんしたり、すわったりするのがいるんだけど、あたし、ウッディってつけてみたんだけど」

 

「ああ、僕はモクベイくんって呼んでる」

 

「モクベイ?」

 

「モクは木で、ベイはほら、与平とか昔の名前についたりするよね」

 

「和風だね」

 

「名前はとにかくさ、彼ら、しっかり存在して僕らがどんな名前つけようとまったく構わないと思うんだ」

 

 そうかな。

 

「さあ、行こ」

 

「どこへ?」

 

「やっぱね、聞こえなかったんだろ、笛の音」

 

「あ、笛の音した? 高浜先生お得意の集合笛だよね。ってもう集合?」

 

「お弁当の時間かな」

 

「あ、やだな。そんなに時間、経ってたんだ。ねえ、輪くぐりした世界って時間経つの早くない?」

 

「ううん、同じさ」

 

「そうか。じゃ、行きますか、ね」

 

「嬉しくなさそ

 

「だってこんなすっごいこと起きたのに、お腹空いたぁ〜なんて言ってられないよ」

 

「だよね。でもさ、きっともっと驚くぞ」

 

「驚くって何?」

 

「それは言わない。だってプレゼントの中身、開ける前に知っちゃったらつまんないだろ」

 

「うん…」。

 

 何だか楽しくなって、私はダニーの腕を組んだ。ダニーは別に嫌でもなさそうだったから、そのまま、早足でみんなのところへ向かって行った。

 

 私はフェルルになれた嬉しさで他のことは何も考えられなくなっていたらしい。だからみんなの前にダニーとルンルン!とスキップ風に近づいたとき、その視線の多さににびっくりした。

 

 みんななんだか不思議な目で見てた。

 

 なんで?

 

 ミチが近づいてきた。

 

「あんたさぁ、いくら自分が男の子っぽいからって、だっめだよぉ〜、そんなことしちゃあ」

 

「え、何? 

 

 私はミチにひっぱられてダニーから剥ぎ取られた。

 

 何?  何よぉ。

 

「ダニーくんと腕組んだりしちゃ、ダメだよ。妬まれるんだからさあ。ダニーくんのファンって多いんだからさあ」

 

 あそうか、ミチもその一人だ。わたしはちょっと慌てた。

 

「やだ、そんなんじゃないよ。保育園のころから知ってるんだ。そんなんじゃないよ」

 

 みんなまだこっちを見ている。じーっと真剣に見てる子が20人くらいいる。みんな女の子だ。っつうことはダニーファンクラブか。ダニー、やだな、あんたそんなに人気者?

 

 私をじーっと見てるのが女の子だけかと思ったら、いた、一人だけ例外が。男の子で私を見てる子。

 

 ケンタロウだ。ユキちゃんの隣りにいるケンタロウが、私を見てる。けっこう真剣な眼差しに見えるのは気のせい?

 

 私が一応女の子だってやっとわかったのかな。

 

 私は何だかくすぐったく思いながら、後ろから3番目に入り込んだ。

 

 5年生は3クラス。

 

 私は52組で、担任は例の週明けの二日酔いが玉にきずの高浜先生。

 

 1組は新任三年目で最近ではおっちょこミスが減ったと先生仲間からも生徒たちからも温かく見守られてる小柄でモモンガみたいな目をした山中先生。

 

 3組は年齢不詳、ぬぼっとしててちょっと不思議な、先生としてはベテランの域に達してるだろう北川先生。

 

 5年になった時の組み替えで、担任三人の名前を見たとき、北川先生ならいいなって思った。ぽっちゃりデブって口の悪い女の子たちは言ってるけど、3年のころだったかな、担任の先生が休みだったとき、代わりにやってきた北川先生、ちょっと間違えば親父ギャグってバカにされそな小話がなかなかほんわか楽しかったんだ。

 

 それにその目はけっこう物の本質ってのか、そんなのを見抜くような気がした。

 

 ある時廊下で私を呼び止め、三好ヒロコちゃんだね、僕のダジャレに一番笑ってくれたの君だよって言ってくれた。

 

 今、3組の前に立つ北川先生。先生を見て驚いた。驚いたってのはちょっと違うかも。

 

 感銘を受けた?  感動した?

 

 とにかく

 

 とにかく

 

 北川先生は

 

 羊人間だったんだ。

 

 これしか言いようがない。確かに北川先生は羊人間だった。

 

 体は北川先生のままで、なで肩でお腹周りの方が胸周りよりもずっと広そうで。いつもよく着ているグリーン系のポロシャツ。幅広のベルト。

 

 けれどその顔

  

 顔には大した毛は生えてないけれど、耳のところに羊のようにくるりとした見事な角がついていて、鼻から口にかけてが羊にそっくりだ。優しそうな目は大して変わってない。

 

 北川先生はいつにもまして優しい目をして私を見ている。先生は私がいずれ輪をくぐるだろうって知っていたのかな。知っていて私を気にかけてくれたのかな。もしそうなら、どこでわかるんだろう? 私が特別なサインを出してたってわけ?

 

 ダニーも私がフェルルだって最初からわかってたわけだから、きっと北川先生も知ってたんだ。そして今、輪をくぐった私が、北川先生の本当の姿を見てるってことも知っている。

 

 北川先生は、見られたなぁ〜ってな顔じゃなくってとっても優しい目をしていた。

 

 その目はどこか動物的で。あ、動物的って言っても、野獣って意味じゃなくって、動物にしかできない無垢な目ってことなんだ。打算とか、自分の都合のよさとか、そんなのがない、まあるいきれいな目。

 

 別にワニやヘビだって、目が丸くなくたって、無垢な目ってできるのかもしれないけど、一番思い浮かぶのは月並みすぎるところでは仔犬で、それにアザラシ。馬もそう。

 

 こりゃ人間にはできないや〜っていうような不思議にピュアな目をしている動物って多いと思う。

 

 今見る北川先生の目はとっても優しそうで、見かけはばりばり羊人間なんだけど、ちっとも怖くなかった。

 

 北川先生は自分の組の子供たちにあれこれ指示していた。あっちには行かないように、とか、ゴミは拾いなさいとか。その手も指も人間のものなんだけど、どこか違って見えた。

 

 そうか北川先生は羊人間だったんだ。

 

 やっぱり驚きってより、感動だ。

 

 うん、感動だ。

 

 私はひどく感動していた。