ベランダには小さな蔦のプラントが置かれていた。蔦は灰色のマンションのベランダから垂れさがり、風に揺れていた。先端は枯れて茶色になっている葉もあった。
一瞬自分がどうしてここに立っているのかを忘れた。空白状態の頭で、蔦の葉をカッパの水かきのようだと思った。小さな鉢。小さな葉。並んで連なる水かきのような葉っぱ。蔦の先はひょろりと伸びて下がり、空中で揺れていた。巻きつくものも見つからず、ひょろりと揺れていた。壁にぶつかる微風に揺れていた。
なぜかそんな蔦に共感して僕は立っていた。
もっと素直に言おう。僕はしょんぼり立っていた。何とも頼りない気持ちで立っていた。ここまで抱えていた怒りやどうしようもない腹立ち、苛々がシュッと消えたような味気なさで立っていた。僕に残ったのはその蔓のような、頼りない、よりどころのない気持ちだった。
僕はズボンのポケットを探った。右手で右のポケットを、左手で左のポケットを探った。同時に左右対称の動作で探った。
左手に紙の感覚があった。取り出してみると探していたものではなく、何かのレシートだった。
本屋のレシートか…。日付は8月27日だった。8月27日…。暑い日だった。暑い暑い暑い日だった。朝と夕方、二度雨が降ったが、暑さは少しもやわらがなかった。
忘れようにも忘れられない日だった。その日を境に僕の時間は性格を変えた。カチッカチッと威勢よく響きながら両腕を大きく振りきっぱりと過ぎて行っていた時間は、その日を境にどんより糸を引きながら這うなんとも薄気味悪いものに姿を変えた。僕自身が時間の中でその得体の知れない物体のように過ぎていくのか、時間自体が僕の周りで過ぎていくのか、僕には区別がつかなかった。
塩を撒けたらどんなに楽だろう。昔祖母が威勢よく塩を撒いたように、パアッと。祖母にとっては消滅させるべく物体がはっきりしていた。壁に貼りついたナメクジども。僕も小さな手で塩を振りかけたものだ。手いっぱいに塩をつかみ、振りかけた。するとナメクジはしゅるしゅると小さくなった。
あの頃の僕には善と悪、美と醜がはっきりしていた。世の中はもっとシンプルだった。未知のことだらけにしてもシンプルだった。そして、まだ何かを「失う」という恐れも虚しさも知らなかった。
消滅させたい物体がはっきりしない今の僕には、どれだけの塩があっても役に立たない。コントロールを失った僕自身なのか、僕の周りで澱みながら過ぎてゆく時間なのか、それともあの蒸し暑い日を境に、僕の目の前から消えた京子の思い出なのか。京子そのものなのか…。今から会おうとしている男なのか。
本屋のレシートをくしゃっと丸めてポケットに戻し、右のポケットをもう一度探ったが、やはり何も手にあたらない。そこで胸ポケットを探ってみた。あった。ちぎってメモを書いたクリネックスの箱の一部。ハツキコーポ202とある。頭にしっかり貼りついている住所だったが、なぜかもう一度確かめたかった。
202。外階段で2階に上がり、2つ目のドアだった。僕は頭がくらっとして、階段を降り、再びベランダの蔦を見上げた。
ブルースカイ調査事務所のキツネから連絡があったのは朝5時半だった。わかったら真夜中でも時間に関係なく連絡してくれ、そう言う僕を、ほとんど無表情の目で見ていたキツネだったが、時間に関係なく連絡、の部分だけはしっかり聞いていたようだった。目が鋭く細面のこの男をキツネと心の中で呼んでいたが、決して醜いわけではなく、整った精悍な顔をしていた。キツネの部下はキツネよりは若い目の丸い男で、実際に動くのはこっちだろう。害のなさそうな雰囲気を全身から出している、どこといって特徴のない男だった。彼のような男こそ尾行や聞き込みの成功率が高いのかもしれない。キツネの横で、うなづきながら、僕の話を真摯な感じで聞いてくれていた。フリだけだったのかもしれないが。
そのキツネの声を聞きながら僕は携帯を握りしめ、二度ほど言ったのだ。わかりました、と。携帯を力いっぱい握りしめる僕の大きな四角い爪が巨大に見えた。
京子は僕の手が好きだった。特に僕の四角い爪が好きだった。ピキュリアーな爪をしている、彼女はそう言った。ピキュリアー、それは彼女がいともたやすく口にする横文字の一つだった。ピキュリアー…僕はしばらくの間、その意味を知らないままだった。何度か辞書で引こうとしたがスペルが分からなかった。だから京子が、ピキュリアーと口にするたび、僕は不自然でない笑いを口元に浮かべるのに必死だった。
ピキュリアーがpeculiarだと教えてくれたのはマコトだ。海外教育組の彼は垢ぬけした顔の配置をしていた。留学帰りは顔の配置まで違うのかと思った。そのとき、京子はこんな顔の男との方が似合うのではないか、と思ったりした。
僕はpeculiarなものを考えてみた。たとえば、テレビのトークショーに出ていた監督のかぶっていた帽子。たとえば、前衛彫刻のようなウエディングケーキ。たとえば角のCDショップの店員の左右形が違う世紀末の武器のようなイアリング。たとえば…僕と京子の関係…。
キツネとの会話は一語一句はっきり覚えている。キツネのかすかな訛りのある息遣いすら。
これは確かな情報です。男について詳しいことはまだ調査中ですが、どんな僅かなことでもわかったら、たとえ夜中の何時であっても連絡するように、との言葉通り、電話をとりあえず差し上げました。
男について住所以外にわかったことはありませんか?
今のところ居場所だけです。その住所に行けば住んでいるのは、マルヤマリュウジロウという男とあなたの奥様のキョウコさんです。
わかりました…。
心を決めて2階に上がった。202号室の呼び鈴を押す指にためらいがあった。深呼吸をした。マルヤマリュウジロウの顔を想像してみた。帰国組のような整った顔か。マルヤマリュウジロウ…。なんとも間が抜けて聞こえる気もしたし、颯爽とした名前のようにも思えた。
ドアを前にして気がついた。自分がマルヤマリュウジロウに対しては意外なほど何の感情も持っていない、ということに。
不思議なことだった。京子の恋人だから憎いはずだろう。けれど、顔も体つきも職業も、何一つ情報がないのだ。マルヤマリュウジロウという名前以外。マルヤマリュウジロウ、マルヤマジュウジロウ、と繰り返しているうちに、アルマジロ、アルマジロと言いそうになり、バカバカしさに、ふん、と鼻を鳴らした。
心配と心労の中、真実がわかる直前、奇妙な安堵感と高揚が、交互に顔を見せることがある。怒涛のようなパニックと不安の間であらわれる不思議なユーフォリア。僕も一瞬だけど、すべてどうでもいい気がして心が解放される気すらした。それでもやはり緊張からか、呼吸は早かった。
呼び鈴を鳴らした。返答がない。もう一度鳴らす。留守なのか?
ドアに耳をつけると中でことこと音がするようだった。
ドアが開いて、姿を見せたのはひょろりと高い、長髪の男だった。
マルヤマさんですか?
あっ、そうです。
ちょっと話ができますか?
男は、あ、話ですか。と言い、ちょっと待って下さいと一旦ドアを閉めた。再び開けたときにはマスクをしていた。そして手にも一枚マスクを持ち、僕に差し出した。
すみません。どうも、ノロウィルスに感染しちゃったらしくて、けっこう胃腸症状がひどくて、体にもきちゃいまして…。うつったら大変ですから。
僕は改めて男を見た。マスクで顔半分が隠れてしまったが、眉と目元はすっきりしている。けれどなんとなくイメージしていた顔とは大きく違っていた。その顔はあっさりしすぎていた。ぼんやりとも言えた。
確かに男の顔色は悪かった。腰を少しかがめ気味なのも腹に力が入らないからかもしれない。
僕はマスクをつけた。そしてマスクつけたまま、京子の夫です、と言った。
男は目を丸くした。小さかった目が柴犬のようになり、あ、そうですか。そうですよね。と言った。
中に入っていいですか?
あ、構いませんが、ノロウィルスが…。
男を無視して、僕は2DKと見られる住みかに入っていった。ダイニングキッチンは狭くて、物が積み重なっている。二つあるドアのうち一つが開け放しになっており、そこには京子の送ったと思われる段ボールが3つばかりあった。中身が散在している。そこにあったのは京子の最近のおしゃれ着、バッグ、靴、などではなかった。古いトレーナーや昔の制服、手作りのように見えるぬいぐるみに古い手芸品や木彫りの人形。
京子は生活用品を持って出たのではなかった。自分の過去の思い出だけ箱に詰め込み出ていったのだ。
キッチンにしても部屋にしてもその荒れ方に僕は驚いた。僕たちのマンションはいつも整然としていた。
京子も病気なのか? 気配を感じないが、ここにいるのか?
京子も具合悪いんですか?
ええ、僕がうつしちゃったみたいなんですけど…。僕、看護師してますから、気をつけてるつもりなんですけど、ウィルスが強すぎたのか、彼女もかかっちゃって…。めったにこんなことないんですけど、今年は僕の免疫力も下がってたみたいで、キョウコさんにもうつしてしまったんです。僕より症状がひどくて、点滴もした方がいいと思うんですが、大丈夫だってけっこう頑固なものですから。本当にすみません。
男は、京子を僕から奪ったことより、京子にノロウィルスをうつしたことを真剣に謝っていた。僕は振り上げた拳を下ろせないでいた。いや、もともと振り上げてもいなかったのかもしれない。
で、京子は?
トイレです。上からも下からも出ちゃって脱水状態なので、心配しているんです。
マスクをつけているのが原因でもないのだろうが、なんだか息苦しくなった。この展開は何なのだ…。
ノロウィルスって空気感染しないはずじゃありませんでしたっけ? 僕は聞いた。
ええ、ノロウイルスは埃にのって漂い、口に入ると感染するんです。だから、患者の触ったものを触らなければいいっていう人もいますが、それは間違いなんです。
マルヤマは男にしては高い声で、弱々しげに言ったが、病気だからというより、もともとそんな話し方なのだろう。
トイレを流す音がした。男は、キョウコちゃん、大丈夫? ご主人が来てるよ。とそっと戸に口を当てるようにして言った。
あの~、宅急便が来てるんだけど、とでも言う口調に僕はむかっときた。
中からは声がしなかったが、数分後に、京子が胃と腹を押さえて出てきた。
ほら、キョウコちゃんもマスクして、男はマスクを差しだした。
京子はマスクを持ったまま、もう一つの閉じていたドアを開けながら、ごめん、横にならせてもらうわ、と言って、青白い顔で腰を曲げながら、ベッドルームに入っていった。
ベッドの周りには服や本やスナックなどが散らばっていた。
大丈夫かい? 点滴した方がいいんじゃないか? 僕は言った。
まだ、大丈夫。吐き気がとまらないようだったら、点滴に行かなきゃね。タイミングはリュウジンがついてるから大丈夫。
うん。思わず、それはよかったと言いそうになった。
ポカリスエットがきれちゃって…。濃度の高いイオンバランスの飲み物が薬局で買えるんですよ。ちょっと出かけますが、一緒に行きませんか。どこかでお話も聞けますし。それとも、京子さんと話しますか?
ごめん、私、今、話せない。ごめんね。だるくて痛くて、もうぎりぎり。
なんで出てったきり連絡もしないんだよ。心配しないでって書き置きすればいいってもんじゃないだろ。僕は何度も心で繰り返していた言葉を結局言えず、じゃ、病院いけよって強めに言った。
行くわよ。そのうち。
彼女は弱々しく言った。消えそうに小さな声だった。
僕とマルヤマは、カフェに入った。カウンターとテーブル席が4つばかりの小さな店だ。
丸いテーブルだけが、パリのサイドカフェしてる一昔前の趣の店だった。オーナーなのだろうか、緑色のエプロンをつけた銀髪の小柄な男が、マルヤマに、久しぶりですね、と声をかけた。そして僕に、こんな日は強いコーヒーも悪くないですね、と僅かばかり微笑んだ。僕はなぜか、全ての事情を彼に悟られてしまった気がした。僕はハウスブレンド、マルヤマはカモミールティをオーダーした。
マルヤマは僕を真っ直ぐに見た。ご心配かけて申し訳ありませんでした。深々と頭を下げた。膝に両手をのせている。
ご心配かけて、っていうのは表現が違うだろ、と思ったが、黙ってうなづいた。
僕が看護師をしている病院の売店にキョウコさんが来て、休み時間とかに話すようになって、結構興味とか読んでる本とか、共通点があって、なんだか、きょうだいみたいに居心地いいねって笑ったりするようになって…で、お付き合いとかしていないんですが、ある日、キョウコさんが荷物を持ってうちに来たんです。
何も約束もしないのに突然に?
ええ、突然でした。なんだか、すごーく疲れたって言って、しばらく置いてほしいっていったんです。
何にそんなに疲れたって言いましたか?
僕は聞きながら、驚いていた。京子は突然置き手紙を置いて家を出た。どこへ行くかも書いてなかった。
熱にうかされたような恋をしたのか、歳をとっていくことに対する焦りで魔がさしたのか、平凡な僕がつまらなくなったのか…いろいろ原因を考えた。
しかし、疲れていたっていうのは驚きだった。
今、この男のアパートの乱雑な空間に住んでいるのだ。京子と僕のマンションは品よくイタリアンモチーフに北欧のシンプリシティを取り入れ、それは居心地のいい空間のはずだった。整理が苦手なの、という度に、僕は君はやればできるさ、と言った。そして出来たときは、ほら君はやればできるんだ、と褒めた。
何にそんなに疲れたんでしょうか。
僕が思いますに、男は膝に手をのせたまま言った。木谷さんとの生活じゃないかなって思うんです。キョウコさんの話からは木谷さんは正義感に満ちた、物事をきっちりこなしていく、計画性も常識もあり、博識で、とてもいい方だということがわかりました。でも、キョウコさんは木谷さんの奥さんならこれくらいはすべきだっていう、きちんと主婦するっていうのを、自分でも気づかないうちに無理してやろうとしてたんですね。だから、家に入ろうとするとひどく動悸がする、とか不安になる、とか言っていました。
そんなことを…言っていましたか。
僕は、ずぼらですから、筋ってものがなくふらふらしてますし、あ、もちろん看護師の仕事の時は責任感を持ってしっかりやってますけど、その他のときはこっちにふらふらあっちにふらふら風に吹かれる雑草のごとくです。このいい加減なところがキョウコさんは気が楽で、まあ話が合うってこともありますが…避難所として僕のところを選んだんじゃないでしょうか。
じゃ、マルヤマさんは単に泊めているだけだというんですか。
僕は、キョウコが案外民宿がわりに使っているだけだったら、と少し期待を持った。
男はうつむいた。マスクをしたままうつむいた。
最初は、同じベッドで寝ていても、きょうだいのように、添い寝っていいますか、そんな感じで、それ以上はありませんでした。けっこう長い間です。でも、正直に申しあげて今は違います。あ、ノロウィルスにかかるちょっと前くらいからのことなんですが。
僕は溜息をついた。怒れたらどんなにいいだろう。罵倒できたらどんなにすっきりするだろう。人間としての常識をとくべきか、いかに二人の行動が僕をふみにじったかを言いきかせるべきか…いろんな思いがあったのに、どれも実行する気にはならなかった。
それより男の言うことが本当ならば、非は自分にある気がした。謝らなければいけないのは自分なのか。
京子はお宅ではどんな様子ですか? 家事とかもするんですか?
あ、まったくしないです。でも、それで、僕は構いません。キョウコさん、今はリハビリの時期だと思うんです。
じゃ、これからどうするべきですか。
今度は男を心理リハビリ士として扱っている自分に呆れた。
ストレスをかけないように、見守ることでしょうか。まずは感染症を治さないと。健全な体があっての心ですから。
そうですね…。僕は苦いコーヒーを飲みほした。
僕の携帯の番号です。いつでもご連絡下さい。勤務中はとれないことありますけど、留守電残せますから。こちらからもキョウコさんの様子ご報告しましょうか。
そうですね。お願いします。
僕は頭を下げながら、やっぱなんかちがうんじゃないかって思った。
僕は自分の番号を教えた。
で、マルヤマさんはこれからどうするつもりですか? キョウコとのこと。キョウコのこと好きですか?
好きです。自然体のキョウコさんが好きです。今のままのキョウコさんが好きです。
ぼんやり顔のマルヤマが少しきりっとなった。
京子はマルヤマさんのこと真剣に好きなのでしょうか。
好きかどうか本人でなければわかりませんが、僕といると楽なのだと思います。僕はキョウコさんが嬉しそうな笑顔を見せたり、ちょっと様子がよかったりすると、本当に嬉しいんで。単なる少し見かけがいい女の人がおしかけてきたから、調子に乗って利用している、なんてこと決してありません。これからふたりで話し合って決めていきたいと思います。木谷さんには本当にご心配をおかけしたと思います。申し訳ありませんでした。
マルヤマはテーブルにつくほど頭を下げた。
わかりました。
僕は大きく息を吐いた。マルヤマが穏やかな目で僕を見ていた。相変わらず顔色は悪い。ティを飲むときも、マスクの下をわずかにあけてすするように飲んでいる。
勝ち組ではないかもしれないが、よい男なのだろう。いやそもそも、勝ち組、負け組って一体、誰が何の基準で決めるんだ。マルヤマはマルヤマらしく生きているというスケールでは勝ち組なのかもしれない。
カフェを出ると、じゃ、僕、薬局に行きますから、というマルヤマに、よろしくお願いします、と頭を下げた。以前、母を介護ヘルパーに頼んだ時の気持ちに似ていた。
僕は京子を疲れさせたのだ。ぼくはきちんとするのを好んだから。物はあるべきところにないと落ち着かない。食器の入れ場所が違っていると注意しているつもりはないけれど、口にした。京子はその度、そうね、ひろ君、気をつけるわね、と言った。プレゼントもし、ときどきディナーにも行った。でも確かに京子は少しずつ元気がなくなっていた。
ちょっとしらばく家を出ます。心配しないで下さい。探さないで下さいね。ちょっとリハビリが必要です。
なんのリハビリかと思った。ドラッグとアルコールは考えられなった。だから、恋人ができたんだと思った。
僕はもう一度ハツキコーポに戻り、京子が腹痛で寝ているだろう2階の部屋、2階のバルコニーを見上げた。蔦は相変わらず風に揺れていた。あの蔦、自分かと思ったけど、京子だったんだ。
どこかくっつくところ見つけられるといい、足場が見つかるといい…ぼんやりそう思った。
蔦だった京子を季節になると花を咲かせる観賞用植物と勘違いしていたのかもしれない。京子は随分長い間僕に合わせてくれていたのだ。やればできるじゃないか、の言葉がどれほどプレッシャーになっていたのだろう。
もう、京子は戻ってこない。
僕は仕事もそこそこうまくこなしているし、友人もいる。京子が戻らなくても、持ち前のきっちり度で生活に大きな変化はないのかもしれない。
僕にとって京子はそこまで必要じゃなかったのかもしれない。恋愛結婚だったしいないと淋しい。京子は優しく、よい人間だった。英語は出来たが、勤めは長く続かなかった。どこかふわふわ、時おり落ち込んだ。僕にとって京子はいて当然だったが、京子にとって僕は一緒にいて心地よい存在じゃなかったのだ。だから、京子の精神は揺らいだ。その結果、非難所がマルヤマの家だったってわけだ。
早く治るといい。マルヤマとは連絡を取り合おう。蔦の行く先はどこなのか。あのアパートに根をはるならそれでもいい、僕にもう一度からませてくれるなら、それは凄く嬉しい。けれどもうそれはないだろう。けれど、二度目のチャンスがあるなら、僕はもう二度と、やればできるじゃないか、なんて言わない。彼女を見てただただ微笑もう。僕だってやればできるんだ。あ、今度は自分に言っている。人間、やればできることだけじゃないはずだ。でもまあ、それはそれでいいだろう。僕はこれで頑張ってきたわけだし。
僕はハズキコーポを後にゆっくり歩き始めたが、ふっと振り返った。誰かに見られている気がしたのだ。いや、見守られている気か…。
誰だ…? しかし誰もいなかった。
不思議な、とても不思議なことなのだが、キツネ、丸山、そしてさっきのカフェのマスター、何故かこの何の繋がりもない三人が僕を見守っている気がした。まさに藁にでもすがりたいくらい、僕はよりどころを失っているってわけか。ただ人が放つ静かな佇まいというのがあるなら、それを一時的にしても感じれるようになったのかもしれない。僕は感じていた。キツネから。丸山から。カフェのマスターから。
empathy...
英語が苦手なはずの僕に浮かんできたこの単語。日本語で言うと何だっけ。共感? 共感か。いや、ちょっとニュアンスが違うか…。
そうだ。そうだ。そうだった。いつか、京子が教えてくれた。今、人に必要なのってempathyよね。日本で言う単なる共感っていうのじゃないのよ。empathyってもっと心の中心、奥底からわいてくる感情だと思うの。今、私たちに必要なのってempathyよね。
僕はどう答えたんだろう。一体何の話をしていた時に京子は言いだしたんだろう。はあ?とでも答えたんだろうか。
丸山からの連絡を待とう。こちらからも丸山に電話しよう。そして二人が早く良くなることを祈ろう。そして、またあのカフェに行ってみるのも悪くないかもしれない。あのハウスブレンドのコーヒーを頼もう。苦かったコーヒーだが、コクがあったし悪くなかったのかもしれない。