澄江さんとの食事:タキ
澄江さんと二人で食事をすることになったとき、別に嫌ではなかった。決して楽しみではなかったけれど、別に嫌ではなかった。
どうしたものか…とは思った。
澄江さんのことをまだよく知らなかった。型どおりの情報はあったけれど、私の中でまだ澄江さんははっきりとした形になっていなかった。小さい頃、食卓の上であやとりの紐でいろんな形を作ってみたけれど、たとえば犬とかキリンとか、難しいところではオウムとか…澄江さんの形は、紐で描いた形くらいにしか出来あがっていなかった。
スミエ、と初めて聞いた時、墨絵、を思った。祖母の家の土壁にかけてあった墨絵。実際に墨絵に何が描かれていたのかは覚えていない。ただ、筆でかかれた濃淡の絵として記憶にある。
スミエってどんな字ですか?
澄んだ空気の「澄む」に揚子江の「江」よ、ほらサンズイに片仮名のエの…。
ああ、澄江…。いい名前ですね。
澄江さんは、この年齢の人特有のあたたかいながらも詮索じみた視線、というのをもっていなかった。澄江さんはほとんど平坦な無表情に近い顔で私を見た。ごくごく平均的長さの視線…というのがあるとしたら、それよりはかなり長かった。
ほぉーーーーーら、あのじ~~~~っとした無表情な視線、あれが苦手なのよ。まったく何考えてんだか。どっかおかしいんじゃないかしら。
たまちゃんは言った。
たまちゃんは数少ない私の友達だ。いや、友達ではないか。私には友達がいない。
たまちゃんは数少ない知り合いで、知り合いの割には話す人だった。そして、これからは親戚になる。スズキくんを紹介してくれたのがたまちゃんだった。
友達の友達の友達でいい人がいるからと紹介してくれた。
私がごく最近まで大酒飲みでアルコール依存症から回復する努力をしていることなど、たまちゃんは知らなかった。私も言わなかった。たまちゃんは私のことを、めんどくさくないさっぱり系女子と思ったらしい。
たまちゃんが、スズキくんだよ、って紹介してくれたスズキくんは、実際は鈴木という名字ではなかった。
たまちゃんがニックネームはスズキくん、と言ったとき、それって名字でしょ、という私に、ううん、顔がスズキに似ているのよ、ほら、魚のスズキと言った。スズキの写真をネット画像で見てみたけど、特に個性的な顔の魚とも思えなかった。
なぜ、スズキなんだろう、どんなふうにスズキなんだろう、と疑問を抱えながら会ったスズキくんは、ほんとうにニックネーム、スズキ君なんですか、と聞く私に、いや若干一名、これがたまちゃんなんですけど、それ以外にはミュウと呼ばれてます。
ミュウ?ポケモンのミュウですか?
と聞くと、そう、そうですよ、ととても無邪気な顔で笑った。
私は、スズキにもミュウにも大して似ていないけれど、この聡介という人物が気に入った。
澄江さんの前で、たまちゃんが聡介くんのことを思わずスズキくんと言ったとき、澄江さんは、どうしてスズキくんなの?と聞いた。
たまちゃんは、にっこり笑って、あ、それは…最初鈴木さんって人と間違えて覚えてしまったので、ふざけて呼んでるうちにスズキ君になっちゃったんです、と言った。澄江さんは特におもしろくも不快にも思わなかったのか表情を変えなかった。
友達の友達の友達なのに、どうしていい人だって言えるの? にっこりよりにやりに近いだろう顔で聞いた私に、友達も友達の友達もそう言うからよ、と真顔で答えたたまちゃんは、たまちゃんワールドを持っていて、たまちゃんのルールに外れた人には少しばかりきびしい性格だった。私はそのたまちゃんワールドに弾かれなかったたみたいで、たまちゃんから相談を受けたり、たまちゃんのショッピングに付き合ったり、まあ私にしては無理をしてなかったとは言わないけれど、アルコール漬けの世界からもがいて抜け出し、少しでも普通ってのに近づきたい動機が強かった時だけに、その頑張りが実ってたまちゃんの友達としてカウントされるまでになった。
もう、無理。澄江さんとは無理。あ~~~憂鬱だ。
たまちゃんは髪をかきむしった。かきむしるたまちゃんを見ながら、あ~~~たまちゃんとはもう無理!と言った共通の知人の顔が浮かんできたけれど、なかなか名前がでてこなかった。
まあとにかく、無理!というたまちゃんのかわりに私が澄江さんと食事をすることになった。たまちゃんはいろいろあって、円形が出来たというので、少しでもストレスになることはやめたいというたまちゃんに代わって私が澄江さんと会うことになった。
待ち合わせ場所に5分早めに着いたのだけれど、澄江さんは既に来ていて、黒っぽい傘をたたんでいるところだった。明け方からゆっくりと、けれど着々と振り続けた初雪は5センチ近く積もっており、今は一応止んでいたが空の具合を見るとまだまだ降るかもしれなかった。
けれど澄江さんはきっぱりとした様子で明らかに湿っている傘をたたんでいた。傘はちゃんと広げて乾かしてからたたむのですよ、小さい頃に言われた母の言葉を思い出した。
澄江さんは、私を見て、あら、タキさん、と微笑んだ。実際口角も上がってなければ、目の形もいわゆる笑っている形ではなかったけれど、私は澄江さんが微笑んだ、と思った。澄江さんに初めて会ってから半年ばかり経っていて、私は少しだけ澄江さんがわかってきたような、少なくとも澄江さんが微笑むときがわかるような気になっていた。
お昼を回っているとあり、スズキくん兄弟の名付け親の方の喜寿のお祝いを買う前にどこかでランチをしましょう、ということになった。どこにしましょう、さあ、どこがいいんでしょう、そんな風に言いながらしばらく歩いていたが、「ここは?」と指さす澄江さんに「あ、韓国料理好きなんです!」と私が声をはずませ、まだ客がまばらな店に入ることになった。
案内されたのは窓際のテーブルで、窓ガラスと隣のビルとの間が一メートルほどだったが、そこは小さな無国籍風空間に仕上げてあった。石と竹、ヤシっぽい人工の緑の間に小さな石像がおかれており、モアイ像のミニチュアのようにも見えた。
澄江さんと私はお茶をすすって金属の箸で一つ二つと小皿を空にし、メインが運ばれるまでまたお茶をすすったが、澄江さんと私の間に会話は進まなかった。
考えてみれば私と澄江さんの間に会話が進んだことなどなかったし、不思議なことに、ほんとうに不思議なことなのだけれど、普段は気のおける人との沈黙が苦手で無理に話したはいいが空回りをしてしまう私なのだけれど、澄江さんといて私の居心地は決して悪くなかった。
確かに普段の私なら、ははっと無理に笑ってみたり、そわそわ肩を回してみたり、指を組んでみたり、妙にくちびるをなめたりするのだけれど、澄江さんといてもそんなふうにならず、肩も動かさずくちびるもなめず静かにすわっていることができた。
思えば澄江さんと二人になるのは短い間を除いて初めてのことかもしれなかった。
「あなたはどうしていつもそうなの? もうちょっと愛想よくできなかったの? ゆうくんママ困ってたでしょ!」
一つ離れたテーブルから大きくはないのだけれどキーンと通る声がし、私と澄江さんは思わずその方向に目をやった。
声の主は二人の子を連れた母親だった。肩にかかる手入れの届いたカールが美しく、ネイビーブルーのワンピースが上品だった。
叱られている子は、ほとんど無表情に斜め下を見ていた。無表情だったが、怒っているように見えた。どちらの女の子も7、8歳に見えたが、もう一人の子は、母親と怒られた子を交互に見ながら、なんとかこの場を取り繕えないか、という感じだった。
「もっと人の気持ちになりなさい。失礼でしょうが!無表情でぼんやりしちゃってお礼を言うわけでもなく有難そうな様子もせずで。ゆうくんママがどれだけミユのこと考えて今日招待して下さったかわかってるの? リナだって困ってたわよ。妹がこうじゃ、リナだって安心して遊べないでしょ」
「大丈夫だよ。リナは別になんともないよ」
小さな声でそのリナちゃんは言ったが、怒られているミユちゃんの方は口を固く結んでテーブルの一点を見つめていた。
ウエイターが来て母親は笑顔を作り、間のテーブルには大学生風の3人組が案内されてすわり、私たちから親子の姿は遮られた。
それからも私と澄江さんは耳を澄ませていたが、大学生の声ばかり響き、親子連れの声は聞こえなかった。
私は、叱られているその子に、昔の自分を重ねていた。だから両手を組み、顎のところにあて目をつぶった。何かに祈らなれければと思ったが、できたのは大きく息を吐くことだけだった。
やがて2種類のビビンバが運ばれてきた。
澄江さんは二つを見比べて、何か言いたそうに口を開いたが、結局言わずに閉じてしまった。
「美味しそうですね」
「え、ええ…そうね」
どうやら澄江さんにはあまり美味しそうに見えないようだった。
「ちょっと思ってたのと違うわね。ほら写真とも違うし」
澄江さんはそう言ってメニューを開いた。
「そう言われればそうですよね。こっちの方が美味しそうですよね」
「なぜだと思う?」
「えっと。なんだろ…」
「肉の分量と玉子のここんとことそれに器も随分高級そうじゃない? この写真の方が」
「そういえばそうですよね」
澄江さんは説明責任を果たして安心したようにメニューをパタッと閉じた。私は間違いさがしのようにもう少し比べていたかったが、唐突に閉じられたメニューを再び開ける気にもならなかった。
「でも、私のの方がまだ美味しそうね。あなたのは違いすぎるわよね。残念ね」
澄江さんはもう一度メニューを開いた。今度こそしっかりと間違いさがし、と意気込み私は写真を見た。
すると「あ、ごめんなさいね」そう言って澄江さんはメニューを閉じた。
「え、何がですか?」
私はフレームレスの中の澄江さんの目を見た。その目が誰かに似ていると思った。少し考えると誰でもないスズキくんの目に似ているのだ。やだ、今まで気がつかなかったのかしら。でも似てても当たり前だ。親子なのだから。だけど気づかなかった…。思えば面と向かってしっかりと澄江さんを見たことがなかったのだ。
「思ったことを口にする癖がこの歳になっても治らないの。気をつけるようにはしてるんだけど。うまく失礼のないように言えないのよ。思ったことしか言えないのね」
澄江さんは言った。
「嘘がつけないってことですよね。それっていいですよね」
「よくはないわね。嘘がつけないと、会話に苦労するわ。だから必要無ければできるだけ話さないようにしてるの」
澄江さんはもともと口数が少ないわけではなかったのだ。話さないようにしているのだ。
「でも…私には思ったこと言って下さい。私もそうですから。私も会話っていうか、コミュニュケーション、苦手なんです。実は石みたいにぶっきらぼうなのが私の素なんです」
澄江さんは静かにうなづいた。私は何か言わなければと思った。焦ってその場をとりつくろうというより、自分の気持ちをうまく伝えなければと思ったのだ。
「あ、人から見たら石みたいにぶっきらぼうに見えるってだけで、もちろん私は自分が石みたいだ、なんて思ってませんけど」
賢明かはわからなかったが、私は自分が言いたいことに関連した過去の出来ごとをさがそうとした。
「あの、つい正直に言ってしまう人に対して怒る人ってたくさんいて、まあ、その気持ちもわかりますけど、私は自分がそうですから、怒らせるほうの人が全く悪気がないってのもわかったりして…。そういえば、スズキくんの…あ、聡介さんの友達に松原さんっていて、彼、随分周りの人怒らせたりするって聞いていたんですけど、聡介さんは悪気のないいいやつだって言ってて…。ある日その彼がふらりやってきて、私を見て、あ、パジャマですよね、すみません、寝てたんですかって。私、パジャマじゃなくて一応部屋着ですし、これで買い物にも行くんですって言ったんですけど、でも、どう見てもパジャマですよって言われて、そうかなって。で、聡介さんと松原さん、飲み始めたんで適当におつまみ作って出したんですけど、抹茶をまぶした肉団子をしげしげと見つめていたんですけど、これって、何とかっていう、あれ、なんだったかなって考えた末なんだか長い横文字の学名っぽい昆虫の名前言って、それの卵にそっくりだっていうんです。私はへえ、そうなのってしげしげと見つめて、これが昆虫の卵に見えるってなんだかユニークだなって思って…で、小さい頃マッチ箱にアマガエルやポケットにてんとう虫を入れて大切にした話ってのをしてみたんですけど、なんか共通性があるかなって思って、でも受けなかったんです。帰りがけに、その彼、聡介さんに大声で言うんです。いやぁぁぁ、聡介、許容範囲だよ、いい奥さん見つけたな、十分許容範囲だよって。私、ありがとうございますって笑いながら頭を下げて、彼にとって許容範囲ってすごい褒め言葉なんだなって思ったんです」
澄江さんは特別に表情を変えずに時々小さくうなづきながら聞いていたが、「で、聡介はどう言ったの?」と言ったときには少しだけ頬が緩んでいた。
「彼が帰ったあと、言ったんです。タキなら、母さんとも話し友達になれるかもって」
これって言ってよかったのかな、と言ってしまってから思った。
澄江さんの頬の柔らかさはそのままだったので、私はちょっと嬉しくなった。で、話し続けた。
「高校時代の友達なんですけど、その子といると何もしゃべらなくても大丈夫って思える子がいて、なんかとても居心地のいい子だったんです。6人ぐらいでお弁当を食べる仲間がいて、彼女は軽く微笑んではいるんですけどほとんどしゃべらなくて、私はもっぱらうなづいてそうなんだ~とかへえ~とかいうのに徹していて、よく話す子たちがわいわい楽しそうな雰囲気を作り出してくれていて…。ところがある日、インフルエンザでよく話す子たちが一斉に休んじゃって、私とその子と二人でお弁当食べたんです。驚くほど二人とも何も話さなかったけれど、なんだか全然気づまりじゃなかったんです。話したことは、今でも覚えているんですけど、彼女が私のお弁当見て、あ、梅干しが入ってるね、って。私も、うんって、彼女のお弁当見て何かコメントしようとしたんですけど、特に言うことも見つからなくて…。普段だったらそこでもっと努力すると思うんですけど、その時は、ま、いいかって思って頭の動きを止めてもなんか気にならなくって…。お弁当食べたあとは二人横に並んで椅子の背にもたれてすわっていて…何も言わずに。それがなんだか、今でもとってもくつろいだひと時だったって覚えてるんです。それと彼女が言ったことがとっても印象的だったんですけど、ある時、帰りの電車の中で、私たち二人とも無口だよねって私が言ったら、違う種類の無口だよねって。どう違うのって言ったら、私は人に気を使おうと思えばできる能力のある無口、彼女は口を開くと本音しか言えないから言わない無口、って言うんです。そうなんだって。社会人になってからなんだかいろんな人と話してて合わせるの疲れたなって思うとき、彼女のことよく思うんです。どうしてるかな、って」
澄江さんはちょっと考えていたが、「そうなの」とだけ言ってうなづいた。そしてしばらくして「珠美さんはよく話すタイプね。タイプが違う二人でも友達になれたの?」
「たまちゃんは…いい友達です。ええ、タイプ違いますけど」
「一緒にいてくつろぐ?」
「くつろぐ…ですか」
たまちゃんと一緒にいてくつろぐか? そんなに疲れないのは確かだ。よく話してくれるし、たまちゃんの考えもよくわかるから、たまちゃんを怒らせないようにすることもできるし…。
「くつろぎますよ」
言ってしまってから、なぜか嘘をついてしまったような気になった。
「それはいいわね。義理のきょうだいだしね。翔にはとても合っているって主人が言っているわ」
澄江さんは嘘がつけないから自分が思っていると言えないのだ、と思った。
思いながら、ふと翔くんの方がスズキに似ているのでは、と思った。そりゃ兄弟だから、スズキくんが似ていたら翔くんが似ていても不思議はないわけだけど、そもそも私は聡介くんがスズキに似ていると思わないし、未だに心の中でスズキくんと呼んでいるわけは、会う前にたまちゃんがスズキくん、スズキくん、スズキくんと言い続けたので、初めて会ったときにはすでにスズキくんだと頭に刻まれていたからだ。未だに自分の夫の名がすぐには聡介と出てこない。
客観的に見たら翔くんの方がハンサムだろう。背も高い。愛想もいい。より社交的である。でも、私はスズキくんが好きだ。寛大であり、嘘がない。優しいふりはしないが根が優しい。
「なぜ、聡介はスズキくんなの?」
えっ…。
「それは…」
私は本当のことを言おうかと考えた。言いたくなった。けれどたまちゃんは困るだろうか。言っても澄江さんは怒らないと思う。
「魚のスズキ?」
「え…」
「スズキと言えば魚のスズキを思うんだけど、なぜ聡介が魚のスズキなの?」
「よく私もわからないんですけど…」
「スズキに似てるのかしら、聡介が…」
「さあ…」
「珠美さん、大したものよ。スズキって人にニックネームつけられるほど魚の顔を見分けられるとしたら」
澄江さんは皮肉を言っているようでもなく、ほんとうに感心しているように見えた。
「たまちゃんがつけたわけでもないかもしれません」
「でも聡介が言っていたわ。スズキくんって呼ぶのは珠美さんだけだって。あ、それとその影響であなたもって。会ったときにはすでにスズキくんだって思われてたって」
澄江さんはククッと笑った。はっきりとククッと笑った。
「スズキの画像だせる?」
「はい?」
「スズキの画像。携帯で」
「あ、はい・・・」
「じゃ、食べてから見せてね」
澄江さんと私は、ビビンバを食べ始めた。お腹も空いていたし、見かけはメニューと違うとしても、とっても美味しいと思った。澄江さんも満足げに小刻みにうなづきながら食べていた。
私たちはほとんど同時に食べ終わり、ほとんど同時に少し反りかえり、ふーっと息を吐いた。澄江さんはとても無防備に見えた。なんだか子供のように見えた。
澄江さんはしばらく私を見ていたが、あ、そうそう、と言うように口を開いた。
「タキさんはハーヴェイって映画知ってるかしら?」
ハーヴェイ?
「古い映画だから知らないでしょうね。ジェームズスチュアートさんって俳優が出てるの。善良な市民の役をさせたら、彼の右に出るものはないでしょうね。でもその映画ではちょっととぼけたいい感じを出してるの。大きなウサギのプーカが常に彼と一緒にいて彼にだけ見えるの。プーカってね、元はケルトの伝説とかに出てくるいたずら妖精って感じかしらね。映画ではその姿は見えないけれど、ハーヴェイって名付けれられたその大きなウサギの形をしたプーカは常にジェームズスチュアートさんが演じるエルウッドさんと行動を共にしてるの。エルウッドさんは大酒飲みだけど、とっても紳士的な人なの。映画を見てるとね、人には見えないウサギが見えるのは風変わりだけど、見えてないいわゆる普通の人の中にずっと性悪な人もいるんじゃないかって思えてくるの。人によって見えるものが違ったっていいんじゃないかなって思える、そんなちょっと風変わりなコメディなの」
「おもしろそう…。私、見てみます。ジェームズスチュアートさん好きだし。歳をとってから飼い犬のことを詩にして朗読するジミーさんの映像テレビで見たことあるけど、とってもあたたかい気持ちになりました。そりゃ裏窓とかカッコイイ役も素敵だけど、素晴らしい哉、人生!It’s a wonderful life なんかの善人を絵に描いたような役も素敵だけど、その大きなウサギの映画見てみたいです。ハーヴェイ?ですね」
「そう、ハーヴェイ。タキさん、映画好きなのね」
「大好きです。どっちかっていうと、ハリウッド系大作じゃなくって、インディーズ系の映画とかオープンエンドの映画とか好きです。より人生に近い映画って、夢はそんなにないかもしれないけど、好きです」
好きな映画の話になり、思わず早口になった。澄江さんはそんな私を少し口角を上げて嬉しそうに見ていた。
そういえばカフェ ハーヴィの名前の由来、聞いたことがない。もしかしたらハーヴェイって映画から名付けたのかもしれない。今度マスターに聞いてみよう。
映画の中でジミースチュアートさんはハーヴェイっていう大きなウサギが見えるのだ。誰にも見えないものが。これって普通の人に見えない人の姿が見える者と通じるものがある。
「澄江さん、あ、お母さんはハーヴェイ的なもの見えたりすることあります?」
「ハーヴェイ的?」
「ええ、人に見えなくても自分には見えるものとか人とか」
「あるかもね。…あったかもね。タキさんはどう?」
「あるんじゃないかって思います」
「そうなのね」
「私の友達で時々ウォンバットに見える人がいるんです。大好きな友達です」
「そう、そういう人がいると世の中、より素敵になるわね。どう見えようと品格がある限り問題ないわね」
澄江さんは、それ以上何も聞かず、うなづきながら静かに私を見つめた。
その後、澄江さんと私は韓国のお菓子とお茶を追加注文して、ゆったりと時を過ごした。ほとんど話さなかった。
「そうだ!そうだわ。」
突然、澄江さんが大声で言った。
「見てみましょうよ。スズキを」
澄江さんは珍しく満面の笑みを浮かべていた。
私はうなづきアイフォンを取り出した。
画像検索のアイコンを押し、スズキ、魚、と打った。
何枚も出てきた画像のうち、一番顔の分かりやすい写真を拡大し、澄江さんに見せた。
「これ…なの? 似てるかしら?」
澄江さんはじーっと画面を見つめた。頭を横に振りながら
「真正面からの写真ある? 真正面からなら似てるかしら?」
スズキ、魚、真正面、と打った。
何枚か出てきた。どれを見せるか迷ったので、次々と見せた。
「似てないわね。正面からのも」
「ええ、目が離れすぎてますし、口が大きすぎますし…」
「もう一度横からのに戻して」
「はい」
再び前の写真に戻すと澄江さんに見せた。
「やっぱり似てないわね。聡介下くちびる出てないし。だいたい聡介、魚顔じゃないわよね」
「そうですよね。わたしもそう思います」
「でも珠美さんは似てるって思ってるのね」
「ええ、何度聞いても、だって似てるじゃないって」
「珠美さん、翔にもニックネームつけた?」
「翔さんにはつけてないと思います」
これは嘘だった。スズキくんの弟の翔くんに一目惚れしたたまちゃんは、シャッチー、ステキ!とその後かなりの長期間に渡って私に叫び続けた。シャチに似ているというのだ。とてもよい意味でだ。精悍な海のエリート。シャッチー。たまちゃんのことをそこそこ面白いと思っていたスズキくんは翔くんと彼女の中をとりもち、たまちゃんは婚約にまでこぎつけた。
「もう一度見せて」
澄江さんはアイフォンを手にとりじっくり魚のスズキくんと対面した。
「どうやって画面動かすの?」
「こうやると横に動いて次の写真が見れるんです」
澄江さんは指先を動かしてスズキの写真を何枚も見続けた。わたしも一緒に見た。
澄江さんは飽きずに見た。指先の動きもスムーズになってきた。
気がつくと澄江さんの頭と私の頭はくっつきそうになっていたが、私はとてもリラックスしてそのまま、澄江さんとスズキの写真を見続けた。ちがうわね~と言ったり、ときどき同時にふふっと笑ったりもした。
これなんか目の感じ、ちょっと似てるかもね。今度珠美さんに見せてみましょう。似てるわって。
そういうと澄江さんはいたずらっぽい口元になり、ふふ、と、くくの中間のような声で笑い、私もつられてははははと大声で笑ってしまった。
私は澄江さんのとのランチを楽しんでいる、ということに気づき、嬉しくなった。帰ったらスズキ君に報告しよう。スズキ君の写真もいっぱい見たって。
私はなんだかとても愉快な気分になっていた。