息子の恋人

 

 息子が会ってほしい人がいるという。

 

 やっとか、と思った。finallyとなぜか英語で思った。 英語が得意なわけじゃない。けれどfinally…と思った。 ファイナリーと発音もしてみた。エフとエルの音に気をつけて。

 

 妻を亡くしてとんでもないほど長い時を過ごしていた。…それでいて昨日のことのように全てがクリアに思いだされる…。傷にまだ薄皮さえできていない…そんな思いがあった。

 

 さほど仲はよくなかった。取り立てて気が合っていたわけでもなかった。 結婚自体に必然性があったのかと聞かれると、あったとは言えない結婚の始まりだった。そして10年近くが過ぎ、二人の生活はますます慣れ合い的無関心になり、一緒にいる必然性をほとんど感じなくなったころ、息子が生まれた。

 

 息子は不思議だった。子供として特に変わっていたわけではないと思う。初めてだから普通なのか普通でないのかもわからなかった。けれど、妻と自分の関係をすっかり変えた、という意味で不思議だった。

 

 妻との間に会話が生まれた。 妻と顔を見合わせ、笑い合うようになった。 妻と顔を見合わせ、心配した。 妻が息子を抱き上げる姿を愛した。妻を愛していたかと言われるとわからなかったが、息子を愛しそうに抱く妻を愛した。

 

 妻との間に会話が生まれた。 妻も僕も息子を愛して、初めて自分以外の人を愛するという意味を知った。そして互いの心が 近づいた。

 

 息子が生まれ、それまで整然としていた家は雑然としていることも多くなったが、心の雑念は消えた。大切なことがわかりつつある…そんな気がした。目的ができた。 起きる目的、食事をする目的、互いに一緒にいる目的…生きる目的…。

 

 あるとき、息子は熱を出した。私は夜勤だった。一人で息子を救急病院に連れて行ったあと、エレベーターが壊れていたので、マンションの11階まで、妻は息子を大切に抱えながら、その熱で赤くなった顔を見ながら、のぼった。股関節が痛んだ。妻は生まれつき、股関節が悪かった。

 

 僕が翌朝帰ると、灰色の顔をした妻がいた。息子は熱が40度近くあった。今度は二人で病院に連れていった。点滴をしてもらい、抗生物質も強いものにかわった。 6日後、やっと熱が引き、息子が笑った。その顔を見て、ずっと顔が灰色だった妻も笑った。泣き笑いだった。灰色の顔の妻が笑っている…疲れきっていた私はぼんやり思った。 そのとき、私は本当に、心から、妻を愛おしいと思った。

 

 その日、会社へ行き、夜帰ると、息子の泣き声がした。子供部屋で妻がうつぶせに倒れていた。

 

 妻が生まれつき悪いのは股関節だけではなく、心臓もだということを後で知った。どうして教えてくれなかったんだ、心で妻に問った。そして泣き崩れた。

 

 

 

 息子を一人で育てた。妻だったらどうするんだろう、悩みながら育てた。心の妻に問いかけた。

 

 妻は一緒に暮らしていたときよりも、ずっと穏やかで優しい顔で答えてくれた。

 

 私は心の中の妻を愛した。

 

 

 息子はあまり手のかからない子だった。どちらかというと静かで穏やかで、人の気持ちを思いやり、それでいてちょっと頑固だった。友達はあまりいなかった。

 

 息子が反抗期らしきものを過ぎると、大人と大人として話すことができるようになった。当時流行っていた性格テストというのをやってみると、二人ともかなり内向的だということがわかった。一対一で深い会話をする方を大勢で社交的に振る舞うよりも好むタイプだ。

 

 母さんはどういうタイプだったの? 息子が聞いた。

 

 その目は妻によく似ていた。妻が懐かしかった。ひどくひどく懐かしかった。 あまり話し好きじゃなかったな。よく話したのはお前の様子だよ。会社から帰ると、お前の様子をすごく雄弁に話してくれたよ。

 

 母さんに会いたいな。息子は言った。 息子には全く母親の思い出がない。

 

 おまえも案外母さんに似た人をつれてくるかもしれないな、ある日。いや、外見じゃなくて雰囲気がね。

 

 どこがよかったの?

 

 どこだったんだろうな。お前が生まれてだんだん絆が深くなったよ。そこまでいうと急に涙が出た。長い間涙なんか出たことないのに、随分久しぶりに、涙が出た。

 

 息子はちょっと困ったように、僕を見ていた。優しい目だった。

 

 

 

 息子が連れてきた、いわゆる恋人を見て、僕は息をとめた。前もって少し情報をくれてもよかったじゃないか、と息子をにらむ目つきになってしまった。

 

 息子の恋人はスギヤマシゲルといった。

 

 僕はその日、妙に陽気に振舞った。 シゲルは悪い男ではなかった。とても優しい人間だと感じた。

 

 妻とは結婚してしばらくはお互いあまり理解してなかったと思うよ。 妻の話になり、そういう僕に、シゲルが聞いた。何が変えたんですか?

 

 子供だよ、とは言えなかった。二人の間に子供ができることはないわけだし。

 

 妻はどう言うだろう。どう思うだろう。

 

 妻がこういうことにどういう考えを持つのかわからなかった。心の中の妻に聞いてみたが、いつもは穏やかに優しくアドバイスをくれる妻が、まるで人工知能のように無表情だった。電池切れのように。

 

 そうか…。 妻は妻であって妻でなかった。心の妻は、妻であって妻でなかった。自分が作り出していただけだった。

 

 当たり前のことだった。考えてみると。自分の心が作り出した妻。それは妻であって妻でない。僕のマリオネットだった。操っていた僕がまるで迷走しているわけだから、マリオネットも動きをとめた。

 

 共に年を重ねた君がここにいて、この状況を一緒に受け止めたかったな。

 

 僕は自分が寛容な正義心強い人間だと思っていたけれど、はっきり言って今当惑している。差別とかじゃ決してない、と思う。けれど、僕たちの息子が一緒になる相手が男だとは思わなかった。息子の相手にどこかに君の面影があったらいいと思っていたのかな。なくても、どことなく母さんに似てるよ、って息子に言いたかったのかな。そう言うことで、僕は幸せな気持ちになれただろうし、きっと息子もそうだって思いたかったのかな。

 

 言ってあげたらいいじゃないの。心の中でクタっとしていたマリオネットの妻がゆっくり顔を上げた。

 

 えっ?

 

 どこか似てるところあるでしょ?

 

 え? 男だよ。

 

 男でもどっか似てるとこあるでしょ。

 

 大男で、髭を生やしているんだよ。まあハンサムの部類だろうけど。

 

 それでもどこかない? たあちゃんが選んだんだから。

 

 たあちゃんか…。 心の中の妻は息子のことをそう呼んだことはなかった。妻は生前、たあちゃん、たあちゃんと息子をあやし、可愛がっていたのに、僕は心の妻に息子をそう呼ばせなかった。僕がその呼び名を好きじゃなかったからだ。 でも、いまはしっかりと妻がたあちゃん、と呼んでいる。

 

 そうだな。どこか似てるかもな。

 

 僕は洗面所に入り、顔を洗いながら静かに泣いた。