分析屋:メイ
今のようにテレビや小説でもてはやされる前からプロファイラーだった。
プロファイラー、ではなく分析屋、と自分のことを呼んでいた。
分析屋ってのは曖昧な名前だ。分析って言葉には宇宙ほどの広がりがある。物がある限り、人がある限り分析は存在する。何を分析するかが問題だ。
父は知る人ぞ知る有名な分析屋だった。一時期犯人像の分析屋といえば父のことだった。
犯罪者かそうでないかは紙一重だ、が父の言葉だ。
紙一重…分析屋としては詩的な表現だ。一重というところが詩的だ。
「紙」からの連想なのか「それってリトマス紙で判別できる?」私は聞いた。
すると 父にしては珍しく、興味深く私を見た。面白そうでもあった。父は、私が、というより、子供、が苦手だったので、私を珍しそうに見ることはあっても、面白そうに見ることはなかった。
「リトマス紙では判別できないな。けど、そんなのでわかったら面白いだろうな」
父はくっくっと笑った。父にしては高めの声で笑った。低い声で笑う父は笑っていても暗かったので、高めの声で父が笑ったことが嬉しかった。笑わせた自分が少しだけ誇らしかった。けれど高めの声で笑う父はいつもほど暗くはないにしても、陽気、というのにはほど遠かった。
「ここからが犯罪でここからが犯罪じゃないって区切りがあるわけじゃないんだ」
「でもどこかに境があるわけでしょ」
「それは見る側との相互作用なんだ」
「相互作用?」
「相互作用っていうより、実際にはもっといくつもの数え切れない要因がある」
「…うん…」
「難しいか…。じゃ、こういうことならわかるかな。太陽の色は国によっては黄色だったり、橙色だったり、赤だったりする。とらえ方の違いなんだ。同じ太陽という存在なのに、ある時は暖かくてありがたがられ、ある時は迷惑がられたりする。あとは時間との関わりも大きい」
「うん…」
「やっぱり難しいか…。じゃ、砂浜に真っ直ぐに線を引くことを考えてごらん。どんなに真っ直ぐに引いたつもりでも、砂粒がわずかに動いたり、風が吹いたりすればすぐ崩れる。絶対に永遠の真っ直ぐなんてない。だから、場合によっては昨日は真っ直ぐに見えたものが今日はちっとも真っ直ぐじゃないってことなんてしょっちゅうだ」
わかりそうな気もしたけれど、すっかり理解するには自分は経験も頭も足りないんだろうな、って思った。知りたくもないのかもしれない、とも思った。
「犯罪は刻々と変化するってことなの?」
父はうなづきながらも、もう私のことなど視界に入っていなかった。
父の思考はよくとんだ。実際は私にはそう思えただけで、父なりの規則性で動いていたのだろうが、私にはとても唐突に思えた。
母は父に一目惚れした。父は若い頃から、髪を切るのを面倒がるほど見なりに構わない人だった。切らなければ髪は伸びるわけだから、朝起きると目の荒い櫛で梳かし、きっちり結んでいたという。いつも何かに悩んでいるように憂いがあり…少なくとも母にはそう見えた。そして物事の光を浴びた部分だけを見る、という特性の母は、父が早足で歩く姿を見てルックスもいいのに身なりにかまわないところが潔い、と感じた。
母は自分が美しくないと思っていた。けれど私はずっと母は 心をうつ美しさだと思っていた。12の時に亡くなった母。優しかった母。その存在が美しかった。
母は幸せではなかったと思う。父は利己的とか自己中心という言葉が本質を表している、というタイプの人間ではなかったとしても、結果としてその言葉がまとわりつく人だった。
器用な人ではなかっただけなのかもしれない。実際、家庭を持つべきではないほど不器用な人だった。分析屋としては一流だったにしても、仕事に関すること以外にはほとんど興味を持たなかった。父の興味は全て仕事の周りを衛星のように回っていた。
母が亡くなったあと、父の親としての適性が問題になった。父方にも母方にも私を引き取ってくれそうな人はいなかったので、父に適性がないと判断されれば、残る選択は里親に引き取られるか施設に行くかだった。
それほど父といたかったわけではなかった。けれど、父に責任を感じた。父のことを見てあげなければと思った。母がそうしてきたように。父に愛着を持っていたわけでもない。自分に興味を示さない人には愛着は持ちにくい。
考えてみれば、そのときの私には優しい共感型の母の素朴な愛情深さと父の分析屋としての頭脳の芽、両方が育ち始めていたのかもしれない。若葉に急速に光と養分を与えるがごとく、私は自分の心と頭を急速回転させ成長しようと必死だった。
私の家庭環境に懸念があるとの連絡を受けて調査に来た女性を前に、いかに父が口べたにしても愛情深く私のことを思ってくれているかを力の限り語った。そして、私がいかに歳の割りに常識と知能を持ち合わせていて、大人顔負けの分別と家事能力があるかを示そうとした。
調査員は迷っていた。私をこのまま実の父親のところに残して置くかどうか。
父の愛情溢れる行動を話す度、彼女の目が揺れるのを感じた。私は嘘がばれない範囲で作り話を続けた。感情にうったえたほうがいい、と感じた。取り乱すのではなく、適度に子供らしさを残しながらも知的にいかに父親と一緒にいたいか、引き離されたら自分の存在そのものが危うくなり、精神的につらくなるかを語った。
その結果、私は父と二人きりで暮らすことになった。
何年もの間。
父と二人で暮らすこと。結果から見ると決してよかったとはいえない。けれど、暮らさなかったら、それ以上の良い人生が待っていたかもわからない。
父と暮らして父をより理解したが、愛情は12歳の時より深くなったのか…。
父は愛情の吸収下手だった。そして与えることも下手だった。私に親としての責任以上の気持ちを持ったことがあるのかもわからない。
父は私に無関心だった。無関心、は言い過ぎか。ある程度の関心、というか存在に対する認識はあったと思う。コーヒーメーカーやトースターのように。そして生身であるから、パソコンのように思い通りの結果を出したり計算ができるわけでもなかっただろうが、それに対する忍耐力もあった。だから、怒鳴られたり、怒りをぶつられたこともない。苛々を肩のあたりに漂わせることはあったにしても…。
父は分析屋としての仕事に夢中になると私のことを忘れた。もちろん、私のことだけでなく全てのことを忘れた。そういう意味では平等だった。けれど、友達が溢れんばかりの愛情や愛情表現を受けているのを見て、ひどく不公平だと感じた。ちっとも平等じゃないじゃん。父なら言ったかもしれない。それも見方によって見解は異なるだろう、砂に描いた直線のごとく、と。
母はよく言った。自分がいなくなったら、あなたは孤児になってしまう、と。優しい母がいなくなったら自分は孤児になってしまう、そのとおりだった。父がいるじゃない、もう一人親が、とは思わなかった。母はいつも私に言った。あなたは、あなたらしくていいのよ。あなたらしさを見つけなさいね。否定してはだめよ。
12歳にして父と残されたとき、父に面倒みてもらおうとは思わなかった。ただただ母の代わりに父のことをみてあげなければ、と思った。
「あなたのパパには一目惚れだったわ。今から思うと何がそんなによかったのかしらね。その頃のパパは今のように骸骨のようでもなく、髪もふさふさしていて、変人ぶりも今ほどじゃなかったわね」
母は遠くを見る目で言った。父は数年にして青年から老年に入ったように容姿が変わった。
「どこかが悪いんじゃないかって思ったわ。検査もさせたけど、健康状態は悪くなかったのよ。分析しすぎる人は脳の皺も深いっていうけど外見もそうなるのかしらね」
母は絶望的にではなく、微笑みながら言った。母は楽天的で一度決めたものの面倒は見るタイプだった。母の心の中にはどんな小さなものでも一旦愛着を持ったものの居場所があった。飼っていたペットにはそれなりの思い出の場所があり、ことあるたびに思い出して話をしてくれた。ペキペキという名のコオロギのヒゲの様子も私が絵に描けるくらい、母は生き生きと語った。母は弱いもの、劣っているもの、保護が必要なものに対して手を差し伸べる情の深さがあった。優越感からではなく、憐れみからでもなく、ほんとうに自分ができることで相手の役に立つなら、という気持ちからだった。
父のルックスがの良さに惹かれたのよ、とおどけたように母は言ったけれど、父の人間として欠けているところをなんとか満たしてあげたかったのかもしれない。無意識のうちに。
私と父の食事の会話はもっぱら分析屋の仕事に関してだった。私の口の固さを父は信頼していたからか、固有名詞は避けたにしても、自分が扱っている事件、犯人像を話してくれた。
強盗、殺人、詐欺、ありとあらゆる事件があった。私は残酷な写真、傷や血が写っているものや、刃物の写真は苦手だったので、それは見せないで、とお願いした。そうでもなかったら、食事のテーブルの上一面事件の写真で埋め尽くされていたに違いない。
私は父の話に沿って頭の中でヴィジュアルに事件を組み立てた。言葉で聞く限り、それほどの衝撃はなかった。苦手な血は青や虹色に。刃物は鉛筆に置き換えて頭の中で想像した。少しぼやかしたり、影絵を見るように想像したこともある。
父は事件や犯罪に関しては雄弁だった。私でなく「そう、そうなの」と繰り返すオウムがいたとしても、話し続けたのかもしれない。
15歳になる頃には、時折父が気づいていない疑問点を投げかけたりして、父を驚かせた。父の驚く顔を見て私も驚いた。父はそんな顔を私に見せたことはなかったし、そんな顔をさせたのが自分自身であるというのも驚きだった。
天才か、透視者かメンタリストかもしれないな。父は言った。
自分ではちっともそんなことは思わなかった。学校ではどの科目にしても特に優れていたものはなかった。けれど授業中ほとんどデイドリームしていた割にそこそこ点が取れていたので、頭は悪い方ではなかったかもしれない。が、天才とはほど遠いと自分で感じていた。
メンタリスト、を調べてみたがどうも自分とは違ってみえた。人が何を考えているかを推測するのに優れているとは思わなかった。人の心を操る能力なんてのもあるわけない。
けれど、一つだけひょっとして、と思うことがあった。非常に困った局面にぶちあたったときや、必死で物事を解決しなければ、と思って頭と心を集中させたとき、自分でもそれまでその存在に気づかなかったエンジンが回り出すのを感じた。自分の未知の力が出番を待っている、そんな予感がした。
父と一緒に住めるかがかかっていた調査員との面接もそうだった。私はまるで母が乗り移ったかのように、落ち着いて優しく、感情豊かな、それでいて12歳のくせに気持ち悪いと思われないように振る舞うことに集中し、成功した。自分じゃない偉大な役者が乗り移って役を演じてくれた、そう思いつつも達成感があった。
父が放火事件を扱っていたとき、父の与えた情報から一つの情景が浮かんできた。仮説をたて、父に話した。その数日後、真犯人が逮捕された。
私が真の力を出すためには、心を追い立てる何か切迫つまったものが必要だった。動機が必要だった。数学の問題を解くのに喜びを見出す天才少年のような常習性は私には皆無だった。いつもはスイッチオフ。それが普通の状態だった。切羽詰まった状況でスイッチオンされると、何かが頭と心で起こり始めた。
ただ、それによって問題が解決されたとしても、ひどくひどく疲れた。全身全霊をつかって寿命を削っている、磨耗される、体も、心も、頭も、若くしてそんな風に思えた。
だから、父が相談相手として事件を真剣に話すようになっても、私はスイッチオンにはならなかった。ハーフスイッチにもならなかった。スイッチオフの状態でもときどき閃いた。それを父に言うと父は驚いた。父に認められて嬉しいのかは、自分でもわからなかった。
父と暮らしながら、違った暮らしをディドリーミングした。
光に満ち、木洩れ陽のように輝いて、自分で作らなくてもキッチンは作りかけのクッキーやシチューの匂いで満ちていて、思いっきり子供らしく遊んでくたくたになって帰っても、優しい笑顔と洗濯されたシーツのベッドが待っている…。
家庭…。家族…。
犯罪現場の話も写真もなく、犯罪にとりつかれた父とテーブルで向かい合うこともなく…。
じゃあ、あの調査員に真実を言えばよかったじゃない、父は親として何もできない、と。それどころか、自分が面倒を見てあげなければならないと。
やはりそれはできなかった…。父は自分の血であり、歴史。私にはペキペキでさえ可愛がった母の血も流れている。父を突き放すことはできなかった。母の後を継いで分析屋の父の面倒を見る、それが 自分の宿命だと思った。
恋もした。好きになる相手は決まったように皆、陰のない笑顔と笑い声に満ちていた。彼らといると自分も 陰でなく、陽になれる気がした。けれど、私は自分の気持ちを隠し、単なる友達として接した。
私はそれふうなことがしたかった。映画館でポップコーンを食べながら手を握ったり、野草の花が揺れる草原で追いかけっこをしたり…。たわいない恋がしたかった。
けれどそんなのは夢物語だった。
友達は家には連れてこないようにした。家にはなにかしら不気味なものがあり…写真にしても普通の人が見たらひくだろうものがそこらじゅうにあった。
そして家は暗かった。できるだけ、明るい色彩で明るい雰囲気のものを置こうとしたが、住人の思考からでる得体の知れないもの…が冷気のように家を浸していた。
その得体の知れないものは私にも影響を与えていた。 少しでも親しくなった者は、私に何か普通じゃない雰囲気を感じたのか、はっきりした理由も告げず去っていった。
彼らを責めれなかった。確かに私の育ちは普通じゃない。そして私自身が普通じゃない。気づかぬうちに私は不穏な空気を纏っている…。
私が恋愛感情を抱いた男たちは決まったように、私がカルト宗教の信者でもあるかのように敬遠しはじめた。
私は寂しかった。死にたいほど寂しかった。なのに涙は出ない。父は私のそんな感情の起伏など全く気づかず、来る日も来る日もプロファイリングをし続けた。いい歳をして就職もしない私を人はどう見ていただろう。私はその頃、頑健で無表情だったと思う。
長いようで短い、短いようで長い20代が過ぎていく。私は人生を諦めかけた。父の世話と仕事の手助けのみをしてこれからも暮らすのだろうか。
父に恨みをもつわけではなかった。特に愛してもいなかったと思うが、憎んでもいなかった。自分がした決断なのだ。12歳のときの決断。
今12歳に戻れたら、どうしただろう、時々思った。犯罪とはまったく関係のない明るい笑い声に満ちた家庭の養子になっていたら。そうしたら、父はどうなったのだろう。一人ででも暮らしていけただろう。ただ食べるものにも無頓着だし、長く健康でいられる可能性は低い。父は多くの点であまりに偏りすぎていた。
どうして父がこれほど犯罪に没頭するのかわからなかった。正義感からか、と思ったがそうではなかったと思う。つまり…父は犯罪が好きだったのだ。数学を解くのが大好きな少年が問題が難しければ難しいほどやりがいを感じるように、父は犯罪者をプロファイルするのが大好きだったのだ。
しかしそれも私が二十歳を過ぎる頃までだった。父の脳はとみにバランスを欠き始め…医者にも行ったしMRIも撮ったが、原因はわからないまま、行動に異常も出始めた。意味のないことをつぶやくようにもなった。転びやすくもなった。
それまでも聞き役として、否応無しに父のプロファイルの仕事に関わってきていたが、その頃になると、 父はプロファイラーとしてはほとんど機能しなくなっていた。
父は身を削って、自分の生きる時間と引き換えにプロファイルをしてきた。父は50代にして80代の外見になっていた。
そして老衰に似た症状で56の時、亡くなった。
父の亡骸を見ながら、心で問った。
どうしてそんなに犯罪に魅了されたの? 自分が極端な人格なのに、周りの人の心も読めなかったのに、どうして犯罪者のプロファイリングをしようと思ったの。お父さんって誰だったの。どんな人だったの。親子なのに犯罪の話しかしたことないよね。
けれどふと思った。案外…案外…父は人の心も十分に読んでいたのかもしれないと。人の心が読めないものにプロファイリングはできない。父は読めても、自分の表情、行動が変えられなかっただけなのかもしれない。心の動きと脳の活動、それに対応して行動に表せるか、それはまた別ものなのだ。
父に鍛えられたからだろうか、私は父の亡骸を見ながら、父のプロファイリングをしていた。
ジョウくんと会ったのは父の葬式だった。
「お悔やみを申し上げます。お父様には随分お世話になりました。お父様のお陰で、この世は確実により平和になっています」
ジョウくんは誠実な目をしていた。
その目を見ていると泣きそうになり、私は下を向いた。
父が亡くなったということでは泣けなかったが、ジョウくんの目を見て泣きそうになった。
思えばいつから私は泣いたことがなかったんだろう。
「今は何をしていらっしゃるんですか?」
ジョウくんは聞いた。
「特に何も…。これまでは父の身の回りの世話をしたり、家で翻訳の仕事をしたりしていました」
父の代わりにプロファイルしていました、が正しいところだが、そう言うわけにもいかなかった。
ジョウくんは優しかった。そして何より明るかった。ジョウくんの世界は混みいってない、陽だまりのように温かい。ジョウくんを見ると純粋に嬉しかった。
けれど思った。これまでの人たちがそうであったように、ジョウくんもいずれ私の異様さに気づき去って行くだろうだろうと。私がまとっているどこか暗い影に気づいて。
先のことは考えず別れの日までは楽しんだらいいじゃない。親しい友人になれたらそれだけで嬉しいじゃないの。ともすれば悲観的になる自分に言い聞かせた。
不思議なことに6ヶ月経ってもジョウくんは去っていかなかった。それどころか、私と一緒に住みたいと言い出した。
「何を言うの?」私は不思議な目をしていたと思う。
「そんなに不思議なこと?」 ジョウくんはふざけたように私の頬をつまんだ。
「私…と一緒にいたい人がいるの?」
「いるよ。ここに」
ジョウくんは微笑んだ。僕はね、ノンバイナリーなんだ。自分のことを男でも女でもないと思ってる。好きになるのも男性のこともあれば、女性のこともある。
そうなんだ…。
私は身長182センチ。体重74キロ。明…アキラという名前だ。けれど、自分では心の中で、メイと呼んでいた。生まれたのが五月だったので、メイだ。明もメイと読める。私の心は女性だった。
私は小さな声でアキラではなく、メイと呼んでほしいと言った。
「レジェンドさん、あ…メイさんのお父さん、伝説の人だから、レジェンドさんって呼ばれてたんだけど、しょっちゅうメイさんの自慢をしていたよ」
「 私の自慢を?」
わけがわからなかった。父が私のことを人に話す? 父が私にそんなに関心を持っていたはずはない。
「あの子には自分のせいで辛い思いをさせてる、って。あの子から子供時代を奪ってしまったって」
えっ…
めまいがした。父がそんなことを言うはずはない。そんなはずは…。
ジョウくんの愛嬌のある丸い目が優しく揺れていた。
その目に私は父のことは全て忘れて幸せになりたかった。心から、影のない人間になりたかった。
ジョウくんは離れていかなかった。私は幸せだった。幸せになれるかも、初めてそんな予感がした。陰のないジョウくんと幸せになって、まとわりつく陰を薄くする…。そんなことさえできる気さえした。
私たちは南に面したベージュの壁の小さな家を借りた。ソファ、テーブル、カップボード、ドレッサー、ベッド…買い揃えていくのが楽しかった。小さな庭には野草が咲いていた。黄色とオレンジとピンクと紫。小さいけれど、勢いのある素直な花々。
私は人生のシンプルさを欲していた。シンプリシティはそれだけで美しい。
小さな幸せ。小さくて大きな幸せ。自分には起こりうるはずがないと思っていた幸せ。窓から入り込む陽射しを感じ、今までで天国に一番近い場所だと思った。海辺のリゾートでなくても湖に面したログハウスでなくても私にとって天国に一番近い場所。
ジョウくんは優しくて、存在が柔らかかった。
そしてジョウくんのママ。笑い声が大きく冗談好きで、寛大だった。初対面のときほとんどピリピリ震えている私を両手を広げて抱きしめてくれた。あなたはジョウが今まで付き合った人の中で一番素敵よ。あの子が一緒に住みたいって言ったのはあなたが最初なの。
ジョウくんのパパは郵便局に勤めていた。寡黙だがその目には茶目っ気があり、時々肩をすくめて私に微笑んでくれた。
たわいない小さな置物がいっぱいのジョウくんの実家。ジョウくんのママと肩を並べて作る夕食。味見をしにくるジョウくんのパパ。
犯罪現場や被害者の写真に溢れたテーブルでプロファイリングに取り憑かれた父と食べる夕食。私が作る誰もおいしいと言ってくれない食事。その日々の方が現実で、今が夢。過去は後退しそうになかったが、少しずつ自分自身が過去に向き合いながら後退していけたらと思った。そうすれば夢が現実になっていく。
ジョウくんといて、一緒に笑い、雄弁にすらなれた。気分が高揚することすらあった。
思えば今まで高揚したことなどなかった。プロファイリングで犯人がわかった時も父のようには高揚できなかった。犯人が見つかる…それ自体はよかったと思った。けれど、高揚はしなかった。安堵もしなかった。論理的には犯人逮捕に貢献できるのだから、とてもよいことに違いなかった。けれど、闇に接すると自分も闇に包まれる…。笑顔が遠のいていく…。
そんな私にこんな幸せが訪れるなんて。私の心は落ち着い た。
けれどどことなく実体のない幸せだと感じることもあった。映画の中の自分を見ているような。ただ少しずつ現実味を帯びてきたのは、日常のルーティンをこなしているときだった。朝ごはんのあと、コーヒーカップを洗う。洗濯物を干す。それらが着実な幸せを与えた。ジョウくんと一緒の生活に笑顔も多くなり、自分でも動作が弾むように楽しげになってきた。
これは演技なのだろうか。
家の中に父の写真は飾らなかった。思い出さないようにした。父の話もしなかった。ジョウくんは時々父の名を出したが、私は最小限の言葉でしか父を語らなかった。ジョウくんはそんな私を怪訝そうに見ることもなく、それ以上聞いてこなかった。聞かないことがジョウくんの優しさだと思った。
ジョウくんは特に社交好きでもなかったので、楽だった。パーティや付き合いは正直苦手だ。もっとも得意だったら、父と二人の生活のときにも逃げ場があっただろう。
時々ジョウくんの子供時代からの親友だというケイくんが立ち寄った。ケイくんはジョウくんよりもシャイで、視線にどこか陰があった。ケイくんが口ごもると私は構えた。そんなとき、もう戻りたくはない細い道や見たくもない壁を背景にケイくんが立っている、そんな気がした。
苦手だな、ケイくんは…。私は思った。けれどジョウくんはケイくんに絶対的な信頼を置いていた。とにかく凄くいいやつなんだ、ジョウくんは何度も言った。幼いころから腕白でいたずら好きだったジョウくんは何度もケイくんに助けられたと言う。ケイがいたから先生に見つからずに済んだことも多いとジョウくんはウインクした。
幼なじみのただの友達なんだから大丈夫。二人は恋人同士ではない、それだけは確信できた。感覚的に。
望まずしてケイくんと二人でコーヒーを飲むことがあった。ジョウくんが約束の時間より遅れて帰ったきたときなど。ケイくんといるときもジョウくんのときと同じように陽気に振舞おうとしたがどうしてもできなかった。古いダメな暗い自分が顔を出す。恐かった。いつもはたやすくかぶれるようになっていた擬似陽気ベールがケイくんとのときはかぶれなかった。
ケイくんには本当の自分を身透かされている…そんな気がした。ケイくんには何をやっても真の自分…それがなんなのかはわからないまま…を見透かされる気がした。
けれど、ケイくんが私を嫌っているようには見えなかった。どちらかというと悪い意味ではなく興味をもたれているのではないか、と感じた。
小説の話などで気の合うところもあった。私がカーバーのカテドラルを好きだと言うと、ケイくんも好きだと言った。二人の男が一緒にカテドラル の絵を描いているところにどうしてかわからないけれどひどく感動した、とケイくんは言った。
私はケイくんを見た。初めて興味を持って見た。何かわからないけれど、心が揺れた。シンプリシティしか受け付けないと決めた私のラインを越えて、ケイくんは私の心を揺らした。ケイくんが好きなのはどんな人なのだろう。
恋心などではない。どこかに忘れてきた忘れ物。いつ、どこに、何なのかもわからない忘れ物の影がチラッと頭をよぎったような…そんな気がした。
その時を境にケイくんに対する恐れは減った。口数が少なく、表情が少なめだからといって性格が悪いわけじゃない、陰があるわけじゃない、そんなシンプルなことに気づいてなかった自分がおかしいと思った。とんだプロファイラーだわね、自分を笑った。かつてスイッチオンできた自分は遠くになっていた。スイッチオフになって長い。もうしばらくすればスイッチオンにはしたくてもできなくなるだろう。そのときが待ち遠しかった。
ある時、ジョウくんが帰ってくるのを待ちながらコーヒーを飲んでいると、ケイくんが言った。
「メイさんは随分辛い思いをしてきたんだね」
心の陰に直球を投げ込むような言葉に私は動揺した。動揺はしたが不思議と嫌な気はしなかった。
「よくわからないし、認めたくない自分がいるけど、きっと、きっと…ひどく寂しい思いをしてきたんだと思う」
ケイくんは私の指先に触れた。指先が私の心を覆っている繊細な糸で織られた布でもあるかのように。
目をつぶった。
まぶた、首筋、肩、そして心が震えた。
ケイくんは私の影を写しとった、そう思った。
ケイくんが感じたこと、確信してること、ジョウくんには言わないでほしい、と願った。ケイくんが感じ取った私の本質…ジョウくんに悟られたら愛される資格がなくなる…そんな気がして怖かった。
ジョウくんには、私が父との暮らしでねじれていることを言わないで欲しい、ともごもごと言った。
「メイさんはねじれてなんかいないと思う。ただ、苦労しただけだよ。苦労だけで人はねじれない」
「父のことをよく知ってるの?」
すると、ケイくんは驚くことを言った。ケイくんの知り合いが殺されたとき、プロファイルをして犯人を捕まえたのが父だと。それから父にもプロファイリングにも興味を持っていた、と。
近すぎる。私は思った。何かがひどく近すぎる。近くにあって欲しくないものが近すぎる。小さいころ父に連れられていった親戚の庭の井戸、覗き込むと奥深く知らない淀んだ世界があった。声をかけると響いてくる。夜寝るときに思った。なければいいのにあの井戸。あの井戸にどんどん生き物がのみこまれるところを想像した。最初は蟻だった。それはカナブンになり、ネズミになり、子犬になり、影のみ見える人になった。
なければいいのに。
そのとき井戸に対して感じたものをケイくんといて感じていた。
私はケイくんを見つめた。
すると…
目に涙が浮かんできた。目尻を伝って流れた。
自分の中にある暗い井戸のような存在に目をつぶって否定してもそれはなくならないのだ。それを悟ったとき、悲しいとか絶望感とかより、安堵した。見たくないのに見てしまい、無視したいのに存在を無視できないものから逃れるのでなく対面したときに感じるだろう安堵感なのかもしれない。
ケイくんが井戸のわけではない。けれど井戸の存在を無視しても無駄なんだ。それに気づいたとき張り詰めていたものがとけ、涙が出てきた。
私は涙を拭こうとはしなかった。ケイくんは指先で流れる涙に触れた。
それ以来、私たちはできるだけ二人にならないようにした。ケイくんはジョウくんがいるときにしか家に寄らなくなった。秘密を分け合った子供達のように、二人きりになるのを避けた。
私は近くのカフェを手伝ったり、近所の犬の散歩がかりになったり、ジョウくんの姪や甥の勉強をみてやったり…ゆったりと暮らした。
ジョウくんは刑事だったが、最近は部署が変わって収賄関係が多く、死にからむような事件を扱うこともなかった。
ジョウくんの安全を心配する必要がなくなり安堵した。ジョウくんと付き合い始めた頃は、ジョウくんが全く犯罪と関係ない仕事だったらいいと思ったが、父のプロファイラーとしての仕事が人の死に直面する仕事だったのに対して、ジョウくんの取り扱うのは知的犯罪に関するものがほとんどと聞き、安心した。
そんな時に夢を見始めた。
最初は単なる悪夢だった。
時々見る悪夢の一つ。
私は首を絞められている。絞められていてもなぜか冷静だ。ただ、首を絞められる感覚だけが徐々に強くなっていく。
最初、霧の中でぼんやり絞められているようだった。しだいに痛みがシャープになっていく。イメージもシャープになっていく。
一瞬スローモーションになった。ドラマのように。周りは人気のないどこか寂れたショッピングストリートのようだった。
瞬間にして視点が変わる。映画撮影で使う自動で瞬時に上下するカメラのように、一瞬にして私は上から自分自身と私の首を絞めている人物とを真上から見ている。苦しそうな顔。自分であって自分でない顔。絞めている人物は頭のてっぺんしか見えない。顔は見えない。襟足に髪が跳ねている。
突然視点が私に戻り、目の前の顔が少しずつクリアになっていく。女だ。どこか中性的な女だ。薄い目の色をした女だ。何も言わず私の首を絞め続けている。唇を噛み締めている。大きいけれど薄い唇。
一瞬息が楽になる。不思議だ。締められているのに。女の顔をしばし客観的に見ている自分がいる。女はなにやらぶつぶつつぶやき続ける。
なぜ私はこの女に首を絞められなければならないのだ。女は強盗には見えない。緑色の石のついたペンダントをしている。翡翠のペンダント。丸い翡翠のペンダント。
首を絞めている女は唇でも噛んだのか、唇からうっすらと血が流れている。
その瞬間、私は手が使えるのだと、気がつく。女の体に爪をたてる。けれど、革ジャケットのような感触で爪がたたない。女の腰を両手でつかんで揺さぶる。
メイ!メイ!
ジョウくんの声で目が覚めた。私は両手を上げて振りまわしていた。
あ…。夢を見てた…。
そうみたいだね。嫌な夢だったんだね。
うん、とってもやな夢だった。
父と暮らしていたころ、現実は鬱々として、たまにみる夢に救われることがあった。夢の中で私は自由だった。乙女チックといえばそれまでの夢。雲の上をジャンプしていたり、一面の草原を両手を広げて走っていたり、翼の大きな鳥になって海面すれすれに飛んでいたりした。すれすれに飛べば、澄み切った海の中まで見えた。
もちろん恐い夢も見ただろう。けれど今覚えているのは、夢の中では自由だったその感覚だ。心も体も自由で現実の自分より際立って解き放されている。
けれど、今は現実が明るかった。ジョウ君がいて、キッチンはクッキーやパンケーキやスープの匂いで満ちている。アロマの香も欠かさない。南に面したリビングは明るく、庭では小さな花をつけた草が揺れている。
現実ではこんなに自由で明るさに満ちているのに、暗い夢を見始める。しかも「死」の夢。「死」のなかでも「殺人」の夢。
幸せ、不幸せの濃度、明るさ、暗さの濃度というのがあるのなら、育っていく過程で、ある濃度に浸っていたものは、簡単にその濃度を抜け出せないのかもしれない。だから夢と現実でバランスをとり、一定の濃度を保つ。
澱んだ沼を思った。沼のねっとりした濃度の中、歩き続け、動き続けた私は、澄んだ水では軽すぎる。無意識に水を濁らせ、バランスをとろうとする。それが夢となってあらわれたのだろうか。
コーヒーのおかわりは?
ジョウくんがポットを片手に微笑んでいる。
ジョウくん…。
幸せすぎてバランスを欠くなんて、そんな馬鹿らしいことに振り回されてはいけない。自分の愚かさに崩れていってはいけない。
ジョウ君が注ぐコーヒーポットの先から落ちるコーヒー。
また夢を見た。
私は池に浮かんでいる。顔を水につけ、うつ伏せになって浮かんでいる。小さな水生植物に囲まれている。きっと私は死んでいる。死んでいるのに冷静に考えている。
どうして私は死んでいるのだろう。誰に殺されたのだ。
それからも私は夢を見続けた。全て、殺される夢。苦しかったのは最初首を絞められた夢だけで、他の夢では既に私は死んでいる。いろいろな場所で。同じなのはどうして自分が死んでいるのか、誰に殺されたのかを考えていること。
そして死んでいる私を、上から見下ろし観察している私がいること。
そうか…。写真か…。写真なんだ。
父に見せられた事件の写真。キッチンテーブルの上にも、下駄箱の上にも、写真はあらゆるところに存在した。家全体が父の仕事場だった。
私は見てないようで見ていた。私には奇妙な記憶力があり、見た写真をハイライトして覚えた。全ての細かいところを覚えるわけではない。ある一点。あるいは2、3か所。死体の髪のもつれだったり、指の形だったり、現場のテーブルに置かれていたハサミだったり。何か奇妙に感じるもの、特に心がひっかかるものが一瞬にしてわかった。それを父に言うと父は決まって一瞬顎を引き、目を見開き、私を見つめた。たいていはそれが事件の解決の糸口へと父を導いた。
この家には、このジョウくんと私の明るい家にはそんな不吉な写真はない。私は夢の中で、自分を使って写真をクリエイトしているのだ。明るさとは程遠い写真を。
長らく来なかったケイくんが家に来た。ケイくんはちょっと近くまで来たから、なんて嘘も言わず、私が入れたコーヒーを飲みながら、静かに言った。
「何となくメイさんの顔が見たくなって。最近、調子はどう?」
正直ケイくんに会って嬉しかった。なぜかほっとした。ケイくんにはかっこつけなくてもよかった。素のままでいいと思った。ジョウくんの前ではいつも少しだけ頑張っている自分がいたが、ケイくんには少し猫背気味にぶつぶつ言いながらいてもいいような、そんな気楽さを感じ始めていた。なぜだろう。
「レジェンドさんの仕事をメイさんが手伝っていたのを僕は知っていました」
えっ?
ケイくんは一時期、父をコンサルタントとして雇う部署にいたことがある。
「他の人も知っていたの?」
「いえ、多分僕くらいだと思います。僕はちょっと観察眼が鋭いものですから」
そういい、ケイくんはちょっと困ったように微笑んだ。
「この仕事には役に立ちますよね」
「ええ、立ちます」
ケイくんは私のことを父からしばしば聞いたという。個人的なことはほとんど話さない父だったが、なぜかケイくんにだけは話したという。いかに私が手掛かりを見つけたかを。一度など、写真を見つめる私の真似もしてみせたという。
「写真を見る私の真似ですか? どんなふうに」
「それがほとんど表情が変わっていないのです。ちょっとだけ目を見開いて見えたのですが…」
自分に特殊な才能があるなんて思ったこともなかったけど、父が認めてくれていたなら、それはそれで嬉しい…のかもしれない。
「いわゆる優秀といわれる人も多い、けど彼らになくてメイさんにあるものがあると思う」
それは何?
「直感かな。そう言ってしまえば月並みだけど。もちろん、メイさんが見て、感じ、なんらかのロジカルな頭脳活動の結果、気になると感じるもの、それは他のものには直感と感じられるんじゃないかな。レジェンドさんは緻密なプロファイラーでしたが、直感的なところはなかった。それが亡くなられる7、8年前から直感、勘としかいいようのない不思議な力で事件を解いていかれるようになった。僕がレジェンドさんに資料を渡しに初めて家を訪れたとき、メイさんが受け取って、ファイルの写真をすいっと、そうじっとではなく首を振るようにすいっと見て、残虐過ぎて見れないものを斜めに見るように見て、大きく息を吸ってそれから幾つもの小さなため息をつくのを見たんです。そのとき、メイさんがレジェンドさんのブレイン、というか事件を解くマインドなのだと理解しました」
「ああ、連続殺人事件でしたね」
もう、事件はまっぴらだ。普通に生活していたら、見なくてもいいもの。それを私は一生分…いやその何倍も見た。もう、あの世界に戻りたくはない。
なのに…
「ケイくんが担当だって聞いたけど、手がかりは見つかっているの?」
その時私は自分でも思ってないことを口にしていた。最近世間を騒がせている連続殺人事件。同一人物によるものと思われる連続殺人事件。ケイくんが担当の一人だった。
もう血なまぐさい事件はまっぴらのはずなのに、そんなことを口にした自分に驚いていた。私の中の別人物が私の口を借りて話しているようだった。
事件は私が夢にみたような場所で起こっていた。違うのは殺されているのが私ではなく、違う人間であること。そして私はそれらの事件を様々な媒体で読み、事実として何気なくとらえていたが、夢の中でヴィヴィッドに再生していた。
「おそらく犯人は無自覚型殺人者です。緻密な計画、捕まらずに犯罪を犯す知能を持っていますが、実際殺人を犯した記憶は殺害後意識下にあり浮上していません。多重人格か、といえば、そうではないでしょう。二重人格という表現もちがうと思います。一つの人格が一つの人格を内包しているのです。子供と母親の血液型が違ってもおかしくないように、血液は決して混ざらないように、この二つの人格は一つの人格の中にもう一つが埋まっていてもお互い独立しています。連動した二つのボタンのように、一つを押すと一つが上がる。上がった方を押すともう一方が下がる。けれど、互いに相手が上がっている、とか下がっている、という自覚がないのです」
「どうしてそんな性格が出来あがったんでしょう」
「それは多分、生まれつきの器質に育った環境、複雑な要素がからんでいるでしょう。幼い頃から、死、というのが身近に存在してたのかもしれません。サイコパスや快楽殺人ではなく、何か自分の存在の危機的なものに由来するのかも。一見なんの関連もないこれらの殺人はきっと犯人にとってはひどく意味あるものなのでしょう」
性別は?
「どちらでもあり得ます。頭が良くて、科学的知識、その他、広範な知識を持つ者。ビデオカメラをうまく避けて映っていなかったり、DNAなどを残していなかったり、警察捜査のやり方の知識も豊富でしょう」
無意識にプロファイリングしようとして、私は気づいた。自分自身がそのプロファイリングに合っていると…。
その恐ろしい考えがゆっくりと私を浸した…。
「私もそのプロファイリングに合うわ」
ケイくんが大声で笑いだした。
「メイさん、メイさん、メイさん」
ケイくんは三度言った。一度目はおかしげに。二度目は少し真面目に。そして三度目は少し愛しげですらあった。
「大丈夫だよ。もう、犯人は絞られてる。メイさんは違うよ。全く違う。メイさんは自分で思ってるより、優しく、強く、でも少し…脆い…」
その目は少し切なそうだった。
ケイくんを見ながら思った。しばらくは悪夢に苦しめられても、自分の濃度調整にもたもたしても、自分で沼を這い上がらなければ、と。
ケイくんは黙ってコーヒーをリフィルした。まるで自分の家のように。私はコーヒーを飲むケイくんを静かに見ていた。
私が翡翠のペンダントを見つけたのは、クロゼットを掃除していたときだった。
それは空の靴箱に入っていた。何かの整理に使おうと空の靴箱をクロゼットの隅に重ねて置いてあったのだが、少し動かし掃除機をかけた時、一番上の箱が落ちて、何かが床に落ちた。それが丸い翡翠のペンダントだった。
私はしばらく見つめた。
丸い翡翠のペンダント。手の中で細かく振動しているように思えた。
連続事件の一人目の被害者がつけていたのも翡翠のペンダントだ。現場からなくなっていたという。双子の妹が同じものを持っていて写真を提供しており、その写真を見たのは数週間前だった。
私は目を閉じ、新聞で見たペンダントを思い出そうとした。頭の中でペンダントはクリアになった。スイッチオンした頭がチチチチと音を立て始めた。
目を開けてみると、ペンダントは写真のもとよく似てはいたが違っていた。当たり前だ。そんなのがここにあるはずない…。
ジョウくんが帰ってきたのは夜8時前だった。
わたしはそっと手を開き、翡翠のペンダントを見せた。
「あ、どこにあったの? 」
ジョウくんは少し戸惑ったように言った。瞳が揺れていた。少しだけ。
「母さんが探してたんだ。僕が前、プレゼントしたやつでさ。うちで無くしたんじゃないかって言ってたんだ」
「この箱の中にあったんだけど…」
「箱の中? なんで箱の中に入ってたんだろう。ああ…多分、見つけたとき、無くしたらいけないと、一番上の箱に入れたのかもしれない。うん、そうだ…」
ジョウくんは笑った。
私はその瞬間、ジョウくんを見失った。幸せにバックグラウンドカラーがあるとしたら、その色が明度を失った。
ジョウくんのお母さんにペンダントを返すと、「あら、探してたのよ」と満面笑みを見せた。偽りには見えなかったが、そのあとお母さんは少し困ったように言った。
「ジョウはとってもいい子なのよ。あなたがそばにいてくれて嬉しいわ」
私の中でくっきりしていたジョウくんの輪郭が、また少しだけぼやけた。
ジョウくんママは優しく言った。
「ねえ、メイさん。ジョウがどうしてメイさんを選んだか知ってる?」
えっ? 私は恐れた。何か特別な理由があるのだろうか?
ジョウくんママは微笑んだ。
「単にメイさんが好きだったからよ。ちょっと影のある不思議なメイさんがね。ほんとに好きになったのよ。ジョウも欠点がないとは言えないけど、メイさんを選んでくれてよかったわ」
私は黙ってジョウくんママを見た。何かが間違っている…確かな感覚だった。
箱に入っていた翡翠のペンダント。誰のものかははっきりしないが、ジョウくんが入れたことは間違いない。なのに、自分の心のどこかで息づいていた邪悪…な何かが箱に閉じ込められていて…そんな気がして身をぶるっとふるわせた。
家中の引き出しを探った。スイッチオンした私には驚くほど簡単に手がかりが現れた。あまりに証明簡単な事件だった。ジョウくんの人間関係が事件だとしたらだが。
ジョウくんを疑って行動したのは初めてだった。
私は、ひどく冷静だった。自分の存在にいびつなチャレンジを受けたがごとく、心はひどく冷静だった。
砂浜に真っ直ぐに線を引くことを考えてごらん。どんなに真っ直ぐに引いたつもりでも、砂粒がわずかに動いたり、風が吹いたりすればすぐ崩れる。絶対に永遠の真っ直ぐなんてない。だから、場合によっては昨日は真っ直ぐに見えたものが今日はちっとも真っ直ぐじゃないってことなんてしょっちゅうだ。
父の言葉。
物事は時間によって変わる。見方によって変わる。見る人間によって変わる。ズームしたり、角度をつけたり…。ある時は虫レンズで、ある時は俯瞰的に。
私は得意だったはずだ。本当にそうだろうか…。私が得意だったのは、写真に撮られた平面上のものの中から特異なものを引き上げ立体化すること。情報の羅列の中で、関連性を見つけるとこと。
そうだ、私は得意だった。頭でシナプスが弾け飛び…。分析屋の子という環境だけでなく、生来何か私に刻まれていたもの。
それを私は封印した。
父の死と共に封印した。
幸せになるために。
幸せになるために。
砂浜はいつも明るい陽射しに満ちていてほしかった。水彩画のごとく。パステル調で。
恋愛初期。何度も失敗していた私は、心底時間を止めたかった。結果、ジョウくんとの関係は深みを増すことも、変化を受け入れる強さも、客観的思考も失った。
封印しようとした、父との暮らしで出来上がってしまった私という人間。それを無視しては存在も危うい。そんな当たり前のことを認めたくなかった。
砂浜に描かれた変わりゆく直線…意識上では無視し続けた直線が今私にせまっていた。
夢で殺されていたのは、分析屋としての私。殺していたのは分析屋を嫌う私。そしてその顔はジョウくんの女友達の顔を借りていた。
キッチンのテーブルに座り、目をつぶった。
静かに。静かに。
父のことを思い出した。
母のことを思い出した。
私のことを思った。過去に戻り。何を自分が渇望したか…。
そして
初めて
ジョウくんを
分析した。
思うのではなく、分析した。一度も分析しなかったジョウくんを分析した。
私は静かに手を組み、祈りに似た気持ちで自分を池の底に沈め、そして自分の力で池の表面にゆっくり戻る姿をイメージした。
沼の泥水に沈んだ翡翠のペンダントを救いだす。埋もれようとするペンダントから目を離さない。手にしたペンダントを湧き水で綺麗に洗う。そしてその意味を考える。解決は無視からではなく、思考から生まれる。
私はケイくんに電話した。ケイくんは夕方やってきた。
いつものように穏やかな顔をしていた。
「メイさん、犯人が見つかったよ。まだ事情徴収の段階だけど、ほぼ間違いない。精神科医からの情報なんだ」
「それはよかった…」
ねえ、ケイくん。ちょっと分析屋に戻ってみたの。私は言った。
「でも分析するのは事件じゃないわ」
ケイくんは 何?って顔をした。
「ジョウくんよ」
一旦、分析屋に戻れば、いろんな辻褄を合わせるのに、それほど時間はかからなかった。
「ジョウくんには恋人がいるのね。女性だったこともあるし、男性だったこともある。今までもいっぱいいたし、今もいるし、これからもきっといるわね。その一人は目の色が薄く、翡翠のペンダントを持っていると思う。きっと私、気づかずにどこかで彼女が写っている写真か、彼女そのものを見たことがあるんじゃないかと思う。ほんの一瞬のバックグラウンドとして。記憶に残るほどじゃないけれど、意識下には残っていて、夢には出てくる。夢の中では私、スイッチオンするみたい。夢の中では情報は混沌としていて一貫性はないけれど、所々に真実が潜んでる。そしてジョウくんはケイくんのこと友達として凄く好きなんでしょうけど、ライバル意識も強かったと思う。そんなところ少しも見せないけど。でも重大事件を受け持つケイくんにコンプレックスも持っていたんだと思うの」
ケイくんはやはり静かに私を見ていた。
「だから私に惹かれたの。私は最大の事件グッズね。なにしろ幾つもの事件を解いたレジェンドプロファイラーの子なのだから。それに…」
それに? ケイくんが目で問う。
「それにね、ケイくんが私を理解していたから。ジョウくんは違った土俵でケイくんに勝ちたかったのね。だから、付き合ってる人はたくさんいたけど、私との同居を決めた」
一旦、目を開けると驚くほどシンプルな事実。
そうでしょ?
父が描いた砂の上の一直線、刻々と変わる一直線。それを無視せず見つめる強さが今必要だった。
ぼこぼことした砂浜を一本の木の枝でスーッと滑らかにする自分が見えた。
私に必要なのはその動作なのかもしれない。自分を偽らず、変化する砂浜を見つめ、平らにする。観察だけでなく手を加える。目をそらさらず。恐れず。罪の意識も持たず。背中から陽を浴び、風を頬に受け……。
自分の人生はプロファイリングするだけじゃなくって、自分で変えていいんだ。そんな簡単なことに気づかなかった。
「ジョウくんと話してみるわ。父の子として」
「レジェンドさんの子として?」
「ええ、父の子として」
それもいいかもしれない、ケイくんはそんな風にうなづいた後、少し微笑んだ。
砂浜にしゃがむ親子がいる。父と私だ。私は六つくらいだろうか。
父が砂浜に木の枝で線を引く。そしてじっと見つめる。
その横を一人の青年が通り過ぎる。髪をポニーテールにして考え込むように歩いている。そこに一人の女性がよってくる。柔らかな髪。柔らかな視線。
母だ。父は母を見て少し微笑む。交差した時が私の脳裏をよぎる。
私の中で動きを止めていた何かが動き出した。分析屋の視点。父風分析屋ではなく私風分析屋。
俯瞰的。
時軸を混ぜて。
そうやって人は存在している。
不思議だ。ジョウくんとの小さな家。昨日まで全てだった場所。私が存在していた場所。もうそこに私の居場所はない。もともとないところに私は張り付いていたのかもしれない。
けれどそれはそれでいい。仕方ない。大切なのは今それを悟ったこと。
「ジョウのこと、どうして気づいたの?」
「ペンダントを見つけたの。翡翠の。きっと恋人の一人のね」
ああ…というようにケイくんはうなづいた。
「人の脳って驚く働きをするものよね。知らないうちに辻褄を合わせようと、チッチっと働いてる。自分の意識下の思考の流れを考えてみたんだけど…おそらく…」
連続殺人事件で翡翠のペンダントのことを知る。
翡翠つながりで、何かの記憶でジョウくんの彼女がぼんやりと浮かび上がり、彼女が忘れたペンダントが家にあること、それを隠すジョウくんなどが、意識下に現れる…。
掃除のとき、箱を落としたのは、無意識的故意であり、見つけるべくして見つけたのかもしれない。
「翡翠って幸福をもたらすものよね。でもなんだか翡翠に対してイメージが暗くなりそう」
「僕の母はいつも翡翠の指輪をしてるんだ」
翡翠か…。そう言えば、何の石か知らないが母も緑の石のペンダントをしていた。母が自分で買ったのだろうか。父がプレゼントしたことなんてあるだろうか…。母が亡くなったあと、あのペンダントは出てこなかった。どこにいったんだろう。
「メイさんには緑が似合うと思うよ」
「私、5月に生まれたの。だから、自分のことをメイって呼ぶことにしたの。自分のセクシャリティに気づいてないほど小さな頃だったと思うけど、アキラっていう名は自分に似合わないって思ったの」
「良い名だね。メイさんは、もっと自分らしくしていいと思うよ」
そうだ、ほんとにそうだ、私は思う。もう中性的な格好をするのもやめよう。私はスカートにヒールが履きたいのだ。そして、髪を伸ばそう。
そうだ、いつか手に取ってしばらく見つめていたが、結局買わなかった、あのスカーフを買おう。ムーミンに似た小さな動物がいっぱいプリントされた、あのちょっと風変わりなスカーフを。なぜか心惹いたあのスカーフを。
人生に色付けをするのは自分自身なのだ。嫌なことが起こるたび、忌み嫌うものが増えたら、もったいない。世界はもっと明るさに満ちていていいはずだ。
私はじっとケイくんを見つめる。ケイくんも静かに見つめる。
立ち上がり、ゆっくりコーヒーを挽く。部屋は次第にコーヒーの香りで満たされていく。