ユーアー ビューティフル:キリ
私はボストンにいた。
私は日本人としてもシャイな方だった。だから、そこそこの英語力はあったにしても、外向型が好まれるアメリカの中で、友達といえる人はなかなか出来なかった。
時々見かける日本人たちとも親しくなれぬまま、私の留学生活は孤独に始まった。
アメリカ人、外国人かかわらず、話をするのはほんの数人とだった。挨拶やスモールトーク以外で話すのはほんの数人、具体的には三人だった。
アカデミックアドバイザーと、クラスのプロジェクトで組むことになった気のよいアラン、そしてもう一人がゴールディだった。心理学の授業で隣に座ったのがきっかけで、話すようになった。というか、もっぱら彼女が話しかけてくれた。
ゴールディは年齢不詳に見えた。髪は名前のごとくゴールドだったが、顔立ちはハーフよりも東洋人に近く見えた。瞳はヘイゼルと言われる薄茶色だったが、瞼は奥二重でかぶさり、独特の思慮深い印象を与えていた。時折、片方の瞼が痙攣するように、数度瞬いた。
ゴールディ、という名前を聞いた時、金と銀か…と思った。日本人コミュ二ティで、何かと名が出るシルバという日本人がいたが、彼女は銀髪を肩のところで揃えていた。白髪というより、銀色に染めているように見えた。ただ、いつ見かけても髪の根本が黒く出てくることがなかったので、白髪を銀色に染めているのだと思った。シルバはやはり年齢不詳でいつも毅然として見えた。
シルバとゴールディは知り合いのようだった。数度一緒にいるところを見かけた。
留学初期、私はできるだけ心からの笑顔を見せようとした。いつもそう見せようと必死だったが、内面は緊張してほとんど空っぽ状態だったし、かなりの苦痛でもあった。
ゴールディは、そんな私をじーっと、長すぎるくらい見つめていたが、「そんなことしなくていいのよ」と言った。
えっ?
「無理に微笑まなくていいの」
その言い方はからかっているようでもなくとても真摯な感じだった。
それから、ゴールディはカフェテリアで私を見かけると、必ず同じテーブルに座ってくれるようになった。
ゴールディ! と他の者たちに声をかけられても、私に注意を向け続けてくれた。わたしのことを可哀そうに思ってくれてるのかな、そう思った。
初めのころ、少しだけ、警戒した。ゴールディに私の方から与えるものがないように思えたからだ。無償の好意というのはちょっと怖かった。
食べながら、ぽつんぽつんとゴールディは一つ一つは大して関連のないことを聞いてきたりしたが、たまにいる日本大好き外国人でもなかった。それにもうすでに日系の友達は結構いたからか、日本については随分と詳しかった。私の方からは、彼女自身にどこの東洋の血が入っているのか聞き損ねた。
ゴールディは女性と付き合うタイプなのだろうか? おそるおそるその可能性も考えてみた。私はその嗜好ではないので、もし私が違ったシグナルを出していたとしたら、誤解させてしまう。でも、ゴールディは、付き合っていた男たちのことを、どこか懐かしそうに、ある時は少し切なそうに語った。
私が何かを心配しているとき、たとえば試験の結果とか、日本の家族のこととか、もろもろだったが、その度にゴールディは私の不安、心配の気配というのを察してくれた。
「心配しないで」
彼女は唐突に思えるほど、まっすぐ私を見て言った。
「何か心配してるわね。何であれ、心配する価値があるならして。そうでなかったら、心をリラックスさせるのよ」
私は彼女のその言葉にまた違ったことを心配した。何かの宗教関係か、マインドリーダーか、超能力者気取りか…と。
けれど、結局それも杞憂だった。
次第に、彼女といて不思議なほど落ち着き自分らしくいられるのに気がついた。
ある時、カフェテリアで、ゴールディは一人の学生を指して言った。
「He is beautiful」
彼が美しい? 彼って誰? 私はきょろきょろした。
彼というからには男。見える範囲には二人の男がいた。
正直、どちらもbeautifulという一般の基準には到達していないように見えた。それどころか、beautiful からは遙かかなたに思えた。皮肉でよく「真逆」という言葉を使う幼馴染がいたが、二人はまさに「美しい」の真逆だった。
「さっき、彼と話しててね。私は思ったの。なんて美しい人なんだろうって。He is so beautiful」
私はその言葉の中にヒントを見つけようとした。話したってことは人間性もわかったってことか? じゃ美しいのは外見じゃなくて中身?
一人は痩せていて、顎髭が長く、おどおどしたようにヌードルスープを食べていた。もう一人は巨体と言えるくらい太っていて、頭は体につながって融けていきそうだった。
どっち? と聞きたかったがぐっと抑えた。ドラマの続きが見たくてしかたないのに我慢するときに似ていた。
「そう、本当に彼は美しい人間よ」
彼女はそう言い、二度うなづいた。
ゴールディと一緒に映画や買い物や散歩やサイクリングに出かけた。部屋でこんこんと話し込んだりもした。彼女は私が人付き合いが苦手なことをよく知っていて、パーティなどに誘ってくれることもあったが、強くは誘わなかった。
生成の木綿のようだ、と私は思った。飾ったところがなく、ずうずうしくなく、ゴールディは率直に優しかった。そして最初は黒髪を金色に染めているに違いないと思ったそのブロンドは生来のものだと知った。生まれた時はほとんど色素のない髪だったという。少しずつ色がつき、やっと少しグレイがかったブロンドに落ち着いたのだそうだ。
彼女を見ると私は純粋に嬉しくなった。話したい、彼女には全て語りたい、そう思っている自分がいた。
最愛の姉が肺炎をこじらせて亡くなった時、日本に帰って数ヶ月もぬけの殻のようになり、やっとのことで10キロ近く痩せた体で戻ってきた。どうやって飛行機に乗り帰国したかも、どうやって過ごしたのかも、その頃の思いは胸を締めつけられる重さだけ覚えている。
空港まで送ってくれて迎えに来てくれたのもゴールディだった。
なぜ?
なぜ私に話しかけ、いつも優しくつき合ってくれたの? なんの得もないのに…。
ずっとこれが聞きたかった。けれど、なぜだか聞いてはいけない気がした。聞くのが恐かった。彼女が優しくしてくれたのが、自分が望ましいとは思っていない理由で……つまり…外国人学生だから弱い者に手を差し伸べた、とか…であるのが怖かった。
けれど、ある時、本屋の中のカフェで一緒にコーヒーを飲んでいたとき、私は思い切って聞いてみた。
すると彼女はいつものようにわたしをまっすぐ見ると当たり前のように言った。
「なぜって You are beautiful 」 あなたは美しいからよ。
わたしは意表をつかれた。まったく、ひどく、意表をつかれた。
私は、やはり、外見的には美しいとは真逆にいる。日本的基準にしてもアメリカ的基準にしても、基準をどこに変えようが、美しいという言葉からは真逆だ。
けれどどういう理由にせよ、彼女が「あなたは美しい」と言ってくれたことが、戸惑いはあったにしても嬉しかった。決して外見のことでないと知っていたから、皮肉ではなく彼女は本心から言ってくれたのだろうと思った。
結局彼女のいう「美しい」の定義はわからないままだった。それから何年も葛藤して私なりに頑張ってきたが、事情があり日本に帰ってからもわからなかった。
何年が過ぎたのだろう。私はうまく行かない仕事、うまく行かない人間関係で、ここ数年、ひどく疲れていた。正直疲れきっていた。
夕食後に一人で見ていたアメリカのCNNのインタビュー番組で、或る男がインタビューを受けていた。じっくり一時間とったインタビュー番組だった。最初の紹介で、彼が地道に続けてきてここ数年やっと実を結んできたボランティアについての説明があった。
その男の顔に見覚えがあった。
どこで見たんだろう?
てかてかと額が光っていた。少なくなった髪をポニーテールにしていた。服装が無造作なところを見るとおしゃれのためではなく、たんに邪魔だから結んでいる、そんな感じだった。
そして顎鬚…。
ああ、そうだ…彼だ…。He is beautiful の彼だ。顎鬚の方がゴールディの言う美しいほうだったのだ。
インタビューを聞いていると、男の飾り気のない優しさや使命感のようなものが感じられ、ひきこまれた。インタビューが終わるころには私は思っていた。
He is beautiful。
ゴールディは人の内面をまっすぐに見る不思議なパワーがあったのかもしれない。
でも…私のこともbeautiful と言ってくれた。あの頃の私は今より素朴で人間性も優しかったかもしれない。いろいろあって今の私は追いつめられたネズミのように余裕がない。外見はもちろん、内面もbeautiful とは言えない。どちらも真逆だ。
ゴールディの人を見る目はいつも的中とはいかないのだろう。外国人学生だった私にゴールディの普通の基準というかフィルターが効かなかったのかもしれない。
けれど…You are beautiful と言って私を見つめたゴールディを思い出すと、どこかで諦めてはいけないと焦りを感じる。でも何を諦めてはいけないのか…それがはっきりしないのだ。
ゴールディにはもう一人日系の友達がいた。マーサだ。マサミという名前だった。典型的美人というのではなかったが、どことなく魅力ある人で笑顔が特に素敵だった。ゴールディと三人で一緒に食事をしたこともある。彼女の英語はほとんどネイティヴに聞こえた。
ボストン時代から何年も経ち、そのマーサとばったり、とある駅の近くで出会ったのは、何かの巡り合わせだろうか。私がカフェで会ったスカーフを髪に巻いた人の経営するネイルショップに行こうと降りた駅でのことだった。
あ! お互いに目を見張り、マーサ! キリちゃん! 同時に叫んだ。
マーサは離婚して日本に帰ってきてだいぶになると言った。小さな英語、進学塾を開いているのだそうだ。そしてその塾があるビルは偶然にも私が行こうとしていう「ネイル May」と同じビルだった。
「ネイル May」が一階でマーサの「アンディ個別指導塾」は三階だった。
ネイルショップの隣はペットショップだった。その名前を見た時、ドキッとした。心臓の鼓動が速くなった。「ペットショップ のんた」
のんた…。それは最愛の姉のニックネームだった。もちろん、偶然だろうが、植物も動物も、あらゆる自然を愛した姉と同じ名前のペットショップ…。私は立ちすくんだ。
のんた!!
店から出てきた男が叫んだ。長めの髪を耳にかけた顔立ちの整った男だった。髪は半分近く白くなっていた。
のんた! 私を見て再び男は叫んだ。が、数秒、見つめ、あ…すみません、人違いでした、とうなだれた。
私は亡くなった姉の典子と体型や雰囲気が似ていた。顔は似たところもあるが、私の方が何段階も美の基準で言うと崩れていた。
男は姉と勘違いしたのだ、一瞬にして悟った。
「典子という姉がいました」
「いました…ですか…」
男は呆然としたように私を見たまま、瞬きしなくなった。瞼が細かく揺れている。
「はい。もともと喘息だったんですが、ある冬、肺炎をこじらせなくなりました」
「い、いつですか…」
私は姉が亡くなった年を言った。
「会いました。私、その冬、クリスマスの日にばったり会いました。確かに…具合悪そうでした」
男はそのまま、しゃがみ込んで顔を押さえた。
中谷洋司というペットショップのオーナーは以前姉と付き合っていたそうだ。違う人と結婚したが、離婚し、その後、なんとか姉を探そうとした。会社をやめ、動物が好きだった姉を思い、ペットショップに「のんた」という名をつけ、いつか姉が入って来ると何年も待っていたのだという。そういえば、フラワーショップもペットショップも、通りかかると必ず、姉は入ったものだ。
同じビルに入っているブルースカイ調査事務所の所長が探してあげようか、と何度も言ったようだが、断って、彼は姉が入ってくるのを待ち続けた。
私は何度かネイルショップに通い、メイさんとも知り合いになった。メイさんが教えるのか、中谷さんは私が来る日には、いつも静かに入ってきて、挨拶し、数秒、私を見つめた。
ある時、中谷さんが聞いた。「あの…キリさんは典子さんのちょっと変わった姿を見たことがありますか」
「銀色の美しい毛を纏った彼女ですね」私は答えた。
中谷さんは目を見開き、うなづいた。
「子供の頃から、見ようと思えば、見えました。どちらの姿も見ることができました。姉以外にも、時々、あ、あの人はと感じる時、念じるような気持ちで見つめると、普段は見えない姿が見えることがありました」
「じゃ、あなたは」
「フィーラーです」
その言葉に、それまで静かに爪を磨いてくれていたメイさんが口を開いた。キリさんは美しく、スペシャル。だから呼んだの。このルネビルに来て欲しかったの。
美しく…のところで、私はゴールディを思い出した。そういえばアメリカではフィーラーとして人を見たことがなかった。そして姉亡き後は、私はその力をすっかり失ったと思っていた。
その日家に帰り、しばらく動けなかった。ゴールディの言った ユーアービューティフル…が頭の中に響いていた。
どこがビューティフルなんだ…。
どんな角度からみても成し遂げたことはない、そう感じている。ゴールディの期待に添えなかった、そんな思いが私を落ち込ませる。
けれど…
目をつぶると 微かにシャー…と音がし始め…斜面を細かい砂がざざーっと落ちていくのが見える気がした。いつまで流れ続けるのか…そのあと岩肌が見えるはず。岩肌はただの土色なのか。それとも少しばかり輝いているのか。
You are beautiful
そう言ったゴールディとのカフェテリアでのひとときを思い出した。
姉を思い出した。姉との日々は優しく柔らかかった。You are beautiful...その言葉をそのまま、姉に捧げたいと思った。
キッチンに行き、大きなマグカップにコーヒーを入れるとなぜか涙が出てきた。私はそんな自分に言い聞かせるように、うん、と小さくうなづいた。