メタモルフォーシス:マモルの場合
意外なことが意外な時に起きる…。
こんなことが起ろうとは思ってもみなかった。
うっすら目を開けると、梅雨明けの陽射しがまぶしかった。レースのカーテン越しに薄緑色のモミジの葉が揺れている。
目が覚めた時はほんのきしみ程度の変化だった。
体の中のどこかがジジ、ジジと音をたてている。
微かではあったが毅然としたきしみだった。目を開けると、部屋の隅に自分で脱いだのか、着ていたはずの下着とパジャマがくしゃっと固まっているのが見えた。
次の瞬間仰天した。タオルケットのかけられていない自分の腿から上が目に入って仰天した。
まさに…仰天した。
自分の慣れ親しんだ体ではない。それどころか、理解不能な物体になっている。頭がぐるぐる回りだしたとき、「マモル。そろそろ起きたほうがいいわよ」
カサカサした妻の声がした。冷たい、というよりカサカサした声。
マスター・オブ・ザ・ユニバース。トム・ウルフの小説の主人公が言う。マスター・オブ・ザ・ユニーバース…。世界、いや宇宙をも支配しているかのごとくの達成感。そして支配感。高揚した気持ち…。
昨日まではそんな気持ちを抱えていたはずだ。
思い切って転職してから、収入はうなぎのぼりだった。5、6年前の機械メーカー勤めだったころが嘘のようだった。毎日、妻のお弁当を持って通っていたころ、妻は今より15キロは細く、皮肉と冷たい視線とも無縁で、僕はその生活の平凡さにそこそこ満足していた。
「もう起きないとだめなんじゃない? お客さんが来るんでしょ」
妻の声が響く。
な、なんなのだ。このきしみと、この体は。
目を閉じてみる。夢から覚めることを願う。体のきしみは続いている。特に首と背中と脚の関節と…。体の遠くで感じた小さなきしみは、今、体の表面全体に広がっていた。確実にきしみが広く深く進行している。
夢の中で夢だったらどんなにいいだろうと思い、手をつねってみるがやはり現実で…ひどく落ち込んでいると目が覚める。そんなことが何度もあった。これだってそうに違いない。現実だとしたら、あまりに馬鹿馬鹿しい。
妻が階段を上がってくる足音がする。妻が物置にしていた小さな部屋を自分の書斎と称して寝室を分けてから四年になる。
触れる回数で親愛の度合いが決まるなら、冷蔵庫は極めて親愛なものとなる。電子レンジもかなりのものだ。コーヒーメーカー、トースター、テーブル、椅子。便器のカバー。しかし触れないにしては妻の存在感は圧倒的だった。最近の彼女は無関心を装った批判と諦めに満ちた視線で空気をぐいぐい押してきていた。
妻とは入社五年目に出会った。麻子は総務課の雑用をしていたが、3人官女の一人のようなこじんまりした顔に何気ない愛らしさがあった。エリート大卒の社員に人気が集中する中、どこといって取り柄のない僕を少し気に入ったようだった。あとで聞くとゴキブリ事件のとき毅然としていたからだという。
ゴキブリ事件…それは社内の飲み会の後のことだった。翌日に控えたプレゼンの資料を忘れたという同僚に付き合って、皆でぞろぞろと会社の大部屋に入っていったときのことだ。電気をつけると、10数匹のゴキブリが一斉に飛んできた。ゴキブリの奇襲。暗闇に隠れて時が熟するのを待っていたかのごとく入ってきた人間を一斉に襲う…。実際は明かりと人間が発する臭いなのか熱なのかに刺激を受け、一斉に飛んできというのが正解なのだろう。
皆、ゴキブリなど一匹たりとも飛んだところを見たことなどないものだから、そもそもゴキブリが飛ぶなど知らなかったものだからその時の混沌といったらなかった。
あ~~~~~!
お~~~~~~!
確か男六人と女四人だったが、点数主義のカズキも、爽やか好青年系のジュンヤも血相を変えて逃げまどった。ジュンヤは鼻を机の角にぶつけ、大げさなほどの鼻血をポタポタまき散らした。
その中で僕だけが落ち着いていたらしい。1、2匹、僕のところへ来たゴキブリを軽く手で振り払い、麻子の方を見て、大丈夫だよ、と仏のごとく微笑んだという。よだれを垂らさんばかりに大声で叫び続ける他の男どもに比べ、凛々しい僕からは後光が差して見えたのだそうだ。
それから1年ばかりあとの結婚式では、ゴキブリの取り持つ縁という有難くもないスピーチで盛り上がった。
麻子の階段を上がる足音が近づいてきた。ラスト三段くらいか…。今にもドアが、と思ったとき、「あら!」とパタパタ階段を下りていく。ケトルがピーピー鳴り始めたのだ。
とりあえず僕は起き上がってみることにした。この体ではとても無理なのでは、と思ったが、勢いをつけるとコロッという感じで起き上がることができた。
見れば見るほどグロテスクだった。硬くてひだのようになった腹。体全体が茶色だ。中古車の車体のような色褪せた茶色。
手のひらを上にして腕をあげてみた。体の割に細い腕、小さな手、細い指。ウゥッと声にならない声をあげそうになったが、その割に妙に落ち着いている。何なのだ?この妙に落ち着いて観察している自分は…。虫のようにぎざぎざではなく、5本の指、細くて節々っぽく体と同じ色ではあるが、5本の指がある手。指を曲げようとすると、普段とさほど変わらず一本一本曲げることができた。
そしてガニ股気味な茶色の奇妙な脚。質感、細さ、色は虫であるが、形は人間らしさを残している。昆虫の足に人間の足のエッセンスをふりかけたような脚だ。足の先はあの昆虫独特のぎざぎざではなく、何かの動物、爬虫類か?のようで指すらきちんと5本ある。普段は27センチの靴を履くのだが、今では20センチあるかないかだろう。脚全体の長さは60センチくらいか。小さな脚でころりとしたかなり重たげな体を支えている。
そのとき、脇腹からなにかがぶらぶらしているのに気がついた。な、なんだ、これは…。
そうか、昆虫なら足は6本か。左右の脇腹についているその二本の物体は、動かそうとするが感覚がなく、仮装大会の衣装のように形だけつけたようだった。足のような、手のような…その奇妙な物体はぶらぶらしているだけで、動こうとはしない。不思議なもので、自分の意思で動く手と足に関しては、見かけにかかわらず僅かながら親しみに似た感情でその存在を認めつつあるのに、脇腹から出ているそのぶらんとしたやつだけは不気味だった。ひっこぬきたい衝動にすらかられた。
なんとか状況を把握しようと、しばらく立っていた。細い脚が丸い大きな体を支えていることが不思議だったが、立っていて違和感はない。一歩二歩と前後に脚を動かしてみる。
やはりこれは夢だ。この状況にもかかわらずこんなに冷静でいられるのは夢だからだ。自分は裸なのか。すっぽんぽんってことか。何かを腰に巻くべきか…など思ったりできるのも、やはりいつかは覚める夢だからだろう。
けれどピーピーケトルをとめた妻は現実味を帯びた足音で再び階段を上がってきている。
麻子が僕を見たら、どうなるんだ。顔を見て僕だとわかるのか。顔… そうだ顔は? 体は確認できたが顔は? くるっと見回すが、この部屋には鏡がない。前足、いや手で顔を触ってみる。硬質…。顔があるべきところを触っているのに全く未知なものに触っている。自分の顔であって顔でない。妻が見たら、妻が見たら…なんというだろう。
ああ~~~~~!
きゃ~~~~!
皆が飛んできたゴキブリに大パニックの中、一人微笑みを浮かべ立っていた妻。田舎育ちで、蝉、てんとう虫、バッタ、イナゴ、バナナ虫、ナナフシ、すべての虫が好きだと言っていた妻。ゴキブリってカブトムシのメスと大して見かけかわらないのに、行動パターンが違って不潔だからって人間に嫌われてかわいそうね、とすら言っていた妻。ゴキブリにさえ優しいコメントをしていたくらいだから、巨大だとしても僕はゴキブリよりましなはずだ。何かの虫には違いないが、頭を触ってみるが触覚もないし、ギザギザの足もない。ぶらんとした脇腹から出た足以外は大丈夫だ。大した根拠もないのに、大丈夫だ!と自分に言い聞かせた。
あの微笑みを浮かべ立っていた妻は二十年を経て変わっただろうか。
麻子も自分も確かに変わった。二人の関係も変わった。
香澄の顔が浮かんだ。可憐で人懐っい香澄。女性に格付けなどしたくないが、もしするとしたらトップシェルフにおかれるだろう香澄。
では麻子はどこに置くべきか。
麻子は階段の最後の数段をひどく重い足取りで上がってきた。小鹿のように駆け上がっていた時もあったが、今はポテポテとしている。
「起きてるの?」
「あ…うん」
声が…出た。少し金属音がかっているが声が出せた。そもそも虫は羽をこすり合わせて鳴くのだ。虫は口から音を発することがあるのか。食べ物を噛み砕く以外に口を使うことはあるのか。
戸が開く。その瞬間、僕はころんと後ろ向きに倒れた。大きな虫が立っているより横になっていた方が威圧感が少ないと思ったのだ。
倒れた瞬間、目をつぶった。夢であるように祈った。目を開けると夢から覚めていますように。
目を開ける。…パジャマの上にエプロンをつけた麻子が立っている。ファッション度外視のメガネをかけ、髪をひっつめた麻子はいつもより大きく見えた。夜ひとりでスィーツを食べるのがここ数年のくせになっている麻子は一段と丸々してむくんで見えた。
目が合った。
うっとしたように妻はひるんだ。顎をひいて僕を凝視する。僕は怖がらせないようにできるだけじっとする。1ミリたりとも動かぬように。しかしどうしても目だけがぐりぐり動くのをとめられない。
「どしたの?」
驚いたことに麻子は意外に静かな、それでいてすぱんとした声で言った。
「どしちゃったの?」
近くにきてすとんと膝をついた。夢だ。夢でしかない。僕は安堵した。現実だったら虫になった夫を見て「どしちゃったの」で済ます妻はいない。
「ねえ、どしちゃったの?」
麻子は僕が登校拒否ならぬ登社拒否をしてぐずっているかのように言った。
「わからないんだ」
やはりちょっと金属音だった。
「あら、しゃべれるのね」
「僕だってわかる?」
「わかるわよ」
「なぜ?」
麻子はナイトテーブルの引き出しを開けた。まだ寝室が一緒だったころ、妻が使っていたナイトテーブル。そこから小さな手鏡を取り出し、僕に差し出した。
僕はそれを手にとり、覗き込んだ。恐る恐る…。
アニメに出てくる昆虫のような顔だった。擬人化。バグズライフにしてもアンツにしても、出てくる虫たちは決してぎざぎざした口を持っていない。僕の顔は人間と昆虫の中間だった。いや、中間より…人間よりだ。ハエの遺伝子が入った男がどんどんハエになっていくという映画があったが、その主人公よりはずっと愛嬌がある顔だ。目だけはそっくり僕のものだし。僕の目が硬質の顔の中に埋め込まれ、ぱちぱちしている。
「ね、マモルでしょ」
僕はうなづいた。
「で、大丈夫なの? 具合は悪くないの? 息が苦しいとか」
「いや、気分は悪くない」
もちろん気分は最悪だったが、体調は悪くはないと思った。
「それはよかった」
夢以外の何物でもない。虫になった僕の体調を心配しているのだ。僕たちはしばし見つめ合った。じっと見つめ合うなんて何年ぶりだろう。毎日会っているはずの麻子は記憶の中より優しく見えた。すっぴんの肌にそばかすが浮き上がっていた。香澄と違い、生活臭に満ちた妻の顔をまじまじ見て変わったなと思い、おかしくなった。今まさに大きく変わったのは僕の方なのだ。
数日前、荘太が「変身」の本を読んでいた。
「へーえ、カフカ読んでんのか」
「指定図書なんだよ。仕方ねえよ」
荘太ちゃんはなんて品よくって可愛いんでしょ、それに比べたらうちのは野生のアライグマよっなんて米沢さんが言うのよ、と妻から聞かされたのはいつのことだったか。
荘太は自分によく似ている。そう思わないでもなかった。僕の顔は意外に整っているのだ。高1になった荘太は前髪を伸ばし妙に身なりに気を使うようになっていた。不良とは程遠く歳の割には扱いやすいのだろうが、父と子としての関係は以前より遠くなったように感じていた。
「ヘンシン、ヘンシン」
本のタイトルを翔太が繰り返した。
「ヘンシン、ヘンシン」
意味というより音を楽しんでいるようだった。
翔太は、声変わりする前は、男の子にしても甲高い声だったが、声変わりをした今は僕より低く、声を聞いたらその幼い話し方が意味することは明らかだった。
ヘンシン、ヘンシン。そう言いながらテーブルの周りを翔太は回りだした。独り言のようでもあり、周りからの働きかけを待っているようでもあった。
翔太にどう接していいのか、ひどく悩んだ。翔太の話しかけに一生懸命答えたつもりでも「あー、それ、ただの独り言なの」と麻子に言われることもあれば、独り言だとほっておいたとき、「どうして答えてやらないの」となじられることもあった。
翔太は体は随分大きくなったが、顔は麻子に似て丸く幼い感じだった。彼の世界には僕がしっかり存在していた。笑いかけるとにっこり笑い返してくれた。手を差し出すと指先にちょんちょんと触れてくれることもあった。
「ねえ、お母さんがいきなり虫になっちゃったらどうする?」
麻子が翔太に聞いた。
「虫って大きいやつ? 小さいやつ?」
「うん、小さめ」
「蚊くらい? 昨日そこの壁にいた蜘蛛くらい?それともカナワ君が飼っていたカブトムシくらい?」
「う~~ん」
「2センチくらい?」
「それよりさ、この本みたいに、そのままの大きさで虫になるってのがいいんじゃないかな」 荘太が言う。
「そのままって幅が? それとも長さ?」
「そうだよな、翔太、いいとこに気がついたよな。身長がそのままで虫になるってことはさ、しかも甲虫系だったらさ、すごーくヒュージだよな」
「ヒュージ、ヒュージ、ヒュージ!」
「それじゃ、ドラえもんも顔負けの迫力だわね」
麻子が笑った。これだけは若い頃と変わらない。ころころとした笑い声。
「でも家族が虫になるってやっかいだよな。だんだん面倒になるのわかるよ。なんたって虫だからさ」
荘太が言う。
「虫になったのママだ。ママと同じ。ママと変わりない」
翔太が少し怒ったように言った。
虫か、虫になってこの家から逃げてしまいたい。そのときふとそんなことを思った。逃げて香澄のところへ飛んでいく。香澄の住むマンションへ。
妻が虫人間の僕の目を覗き込んでいる。
「今日は松川さんって方が来る日よね」
麻子の言葉に心臓がコトンとなった。焦るといつもコトンとなる。虫人間になってもコトンとなった。
奥様に会ってみたいの、初めて香澄にそう言われたのは何カ月も前だ。一年以上前か? これ以上断ると香澄が離れていってしまう。香澄を失ってしまう。追いつめられて、うん、とうなづいた。どれほどの数の男が同じような状況に同じようにうなづくのだろう。
「でも僕からまず話すからさ。実質夫婦であってないようなものだから、妻は逆上したりしないと思うよ。ただ子供がいるしさ」
「いいの、取りあえず会って存在を知っていただくの。奥様に会ってみたいだけなの」
「ちょっとだけ待ってくれるかな」
「どうしようかなあ」
香澄はくすっと笑った。
マモルの部下の松川さんが会いたいんですって、と麻子に告げられたのは、それから数日後だった。
「ああ、仲人を頼まれたからね。君にも会っておきたいいんだろう」
なんて下手な言い訳なんだ…。
そして今日がその日だった。
「何時だったっけ? 松川君が来るのは?」
口は動かしにくかったが、何とか人間らしい声が出せている。それにしても薄い金属の膜を何枚も通ったかのごとくどこか不自然な声だ。
「11時よ」
11時? 時計を見ると10時45分を指している。
どうする? どうする? どうするんだ。
僕の頭の中では、妻と愛人が出会うという月並みにドラマチックな事態より、いったいこのままでいいのか服を着るべきなのか、今のこの状態は裸なのか、というひどく基本的な問題がきしきし音をたてていた。裸だとするとひどく恥かしいわけだ。
ディール、商談をまとめる。自分にそんな才能があるとは思わなかった。
機械メーカーに勤務して10年を過ぎたころ、頭に fed up with という文字がフラッシュし始めた。
特に英語が得意だったわけでもない。しかしその時、クリアに驚くほどの確かさで fed up with の文字がフラッシュしたのだ。フラッシュした文字は頭の中の広い空間にアクロバット飛行機で描いた文字のようにしばらく浮かび漂ったあとぼやけてていった。
その時、僕は確信した。自分は fed up 飽き飽きしていると。はっきりしないのはそのあとのwith につながるものだった。何に飽き飽きし、うんざりしたのか。仕事になのか。妻なのか。家族になのか。今の状況全てになのか。
そして転職のチャンスが訪れた。自分でも思わぬ隠された才能だった。収入は増え、周りの人間も流れるがごとく一掃され、新しい顔ぶれの中、自己イメージも変化した。新しい自己イメージの構築だった。
「いつもアールグレイですね」
松川という入社数年目の子が言った。クライエントの会社からの帰り、チームで寄ったレストランでのことだった。天井をアンティークのファンが回っていた。壁は天然石なのか人工石なのかと考えていた。そろそろ家も建てたかった。今の中古マンションはメゾネットタイプにしてはお買い得だったが、やはり一から自分の好みに合った家を建ててみたかった。
「香りがいいからね」
僕は微笑んだ。いつもはそんなこと気にしないのに、この微笑みにはえくぼが出ているだろうかと思った。幼いころよりチャームポイントと言われたえくぼだ。
恋愛感情などとは長い間無縁だった。根が真面目なのだ。結婚したら他の女性に興味を持つのはいかがなものか、など古臭い考えを持っていた。
日常生活の水面は平穏だった。平穏さは落ち着きから退屈へと移り、雨を期待し始めていた。水面に揺らぎが欲しかった。その気配を感じさせたのが「いつもアールグレイですね」の言葉だった。
松川香澄との親密さが増すころには、求めていたのは水面の揺らぎだったのか、彼女の微笑みそのものだったのかなどどうでもよくなっていた。幸せ度合いが増したかどうかはわからないが、確かに生活には張りがでた。
水面の揺らぎは表面だけがさざめいているときは美しい。水の中へ入っていこうとすると水面はそれを受けとめるだけの度量はあるのか…。
海ならあるだろう。
湖なら。
池なら。
水たまりなら。
ちっぽけなちっぽけな泥水だったら?
麻子と自分との違和感…。
それはいつ頃始まったんだろう。
麻子にとって重要なことが自分にとっては大したことでなく、自分にとって大事なことが麻子にはどうでもよく、その違いが意外な驚きとして楽しさを与えていた時期を過ぎると、どこまでも続くレールのごとき無味乾燥な平行線へと変化していった。
けれど今は麻子との違和感について考えてている余裕などないはずだ。自分自身の違和感について考えるべきなのだ。
子供には昆虫派と犬猫派があると思う。虫に興味を持つ子と犬猫を代表とする哺乳類に興味を持つ子。もちろん両方に興味を持つものもいれば、どちらにも興味を持たないものもいる。年齢によって興味の対象が変わっていくこともある。
僕は圧倒的に虫派だった。虫の世界は面白かった。兜をまとい毎日戦っているように見えた。掌に虫をのせて観察するのが好きだった。たいていは必死で僕の小さい掌から脱出しようと動きまわったり、跳んだりするのだが、中には僕をじっと見つめるものもいた。彼らにとって僕がどのように見えていたのか今でも理解できないが、その瞬間はお互いの存在を認め合っていたと思う。
犬猫が嫌いだったわけじゃない。ハムスターだってリスだって飼ったし、かわいがった。けれど触れて常に温かい生き物は自分と同じ仲間で驚異の対象ではない。それに対して虫は宇宙生物のごとく僕を魅了した。
だからか多数のゴキブリが飛んできた時も特に驚かなかった。もちろんゴキブリは嫌いだ。けれど騒ぐには値しない。そして今、通常な精神を持つ大人だったら、自分が虫になったと知ったとき、僕のように落ち着いてはいられないと思う。その点では自慢していいのでは、など悠長なことを思った。
麻子も虫が苦手ではないのは、今の状況では幸いだった。ケーブルテレビの虫の番組も翔太と一緒に楽しげに見ていた。
「あら、足が一本取れててかわいそう。痛くないのかしら。治せないないものかしらね」
麻子は夫が虫になっていた、というシチュエーションをさほど動揺せずに受け止められる稀有な人物だと思う。虫人間になって麻子の良さに気付かされたわけだ。
それにしてもこの状態が僕に降りかかってきたということは、何か必然性があったのだろうか。
「松川さんがいらっしゃったわよ」
麻子が言った。僕が焦るか見てやろう、という意地の悪い声でもなければ、虫になった夫の妻としての動揺も感じられない。「あなた、クリーニングはワイシャツ一枚でしたっけ、二枚でしたっけ」くらいの何気なさだった。
僕は薄手のタオルケットを腰に巻いた。そんなことをしたって香澄の前に顔を出せるはずもないのに、おたおたと短く細い足で部屋の中をぐるぐるした。バネをまくとカタカタと動く夜店で売っていたおもちゃを思い出した。ウサギか? ネズミか? 虫ではなかったと思う。
麻子が入ると、タオルを巻いた僕を見た。吹き出すわけでもなく馬鹿にするでもなく穏やかな視線だった。
「松川さんに会わないわよね」
「会えるわけない…」
「そうよね。それより病院行く?」
「何科に?」
二人で困ったように笑った。
「麻子…。実は松川くんの用ってのは」
「わかってるわよ。大体のところ」
麻子は淡々としていた。
「とりあえず話を聞いておくわね」
「ありがとう」
金属音のビブラートがかった声で、僕は感謝した。本当にありがたい…と感謝した。
麻子が出ていき、僕は布団にころんと横になった。むくんだときによくするように、足を上げてトントンと踵を合わせようとしたが、茶色の硬くて細い足の異様さにやる気が失せてしまった。
目をつぶる。香澄の笑顔が浮かんでくる。香澄と生活する…。何度も思い描いたが、その度になぜだかわからないが必ず翔太の「ユウビン、ユウビン」という声が頭に響いてきた。
翔太は郵便物が好きだった。テーブルに並べて切手や印刷された文字を飽きもせず見つめていた。自分には荘太と翔太という子供がいる。特に翔太には一生守ってやる親が必要だ。妻以外に好きな人が出来たからといって家を出るわけにはいかない…。
急に麻子と香澄の会話が気になってきた。僕はなんとか立ちあがろうとした。
よっこいしょ…。丸っこい腹。細い足でふんばる。立ちあがってはみたが歩こうとするとひょこひょこする。客間に行くには階段を下りなければならないが、そんなことができるのだろうか。
階段を下りるなんて最初は不可能に思えた。階段を前にそれでも恐る恐る足を出してみた。体の割にバランスの悪い細い脚。チッ。細すぎるだろうが。虫になった自分の脚に悪態をついてみる。
一段目はうまく下りれた。二段目、三段目、なんとかオッケー。ところが四段目で足がぐらっときた。手すりをつかもうにも慣れない腕の長さのせいか、つかみ損ねる。次の瞬間、ごろっごろっと体が階段を転がった。
何とか三段を残したことろで足を広げて止めることができた。麻子や香澄が音と振動に驚いて出てくるのではと息を殺したが、特に動きはないようだ。なんとか立ち上がりながら、虫人間の僕に青あざはできないのだろうな、など思っていた。ただ、打った肘や膝や腰は外見が人間のときと同じくひどく痛んだ。
用心してゆっくり確実にドアに近づき、耳をあててみる。少し興奮気味の香澄の声が聞こえてきた。
「マモルさんはどこなんですか? どうしてここにいらっしゃらないんですか? 二人で奥さんに話すって約束しましたのに」
「すみませんね。本人、ちょっと顔を出せない事情があって」
「私がお話すべきことは聞いていただきましたので、あとはマモルさんと一緒でないと…。これからのこと決めなくちゃなりませんし」
「ええ…。そのうち本人も交えて…。でも今日はちょっと無理なんですよ」
「ご在宅なんですよね。仮病とか使ってるわけじゃありませんよね」
「仮病…。病気といえば病気、といえるのかもしれませんけど」
「どこが悪いんですか?」
「あの…。松川さん…虫は好きですか?」
「虫? なんで虫なんですか? 虫は大嫌いです。それにしてもなんで虫! 虫なんですか!」
香澄の苛々した声が響いた。香澄はたいていは穏やかなのだが、緊張すると声高に攻撃的になる。
僕は耳をドアに押し当てていたが、耳たぶがあるわけではないので、押し当てた場所に耳があるのかもわからなかった。ただ声はよく聞こえてきた。
「マモルさんはどこなんですか!」
「あ、ちょ、ちょっとお待ちください」
麻子の声がしたかと思うと、戸が開き、僕はぐいっと戸に押された。突然開いたので、耳を押しあてていた僕はバランスを失って後ろに倒れた。
僕の倒れる音と香澄のきゃあぁぁぁぁぁ!という声が同時だった。
僕は必死で起き上がろうとした。両手両足をバタバタさせ、脇腹から出た二本の脚をぶらぶらさせ、なんとか必死で起き上がろうとしたが起き上がれない。
そんな僕を香澄は廊下に立ててあったモップ用の棒を手に、もの凄い形相で殴りつけてきた。殴りながら、ありょ~~!ともおりゃ~~!ともつかない声をあげる。
香澄はジャンプすらしそうな勢いだった。
脳天に衝撃が走った。正に電気を帯びた大きな石を頭に振り下ろされたような衝撃だった。
「ちょ!ちょっと待って! やめて! 主人なんですから! 主人なんですよ!」
香澄はその声に躊躇することもなく、廊下の隅に追いつめられ痛みに動きをとめた僕を何度も殴りつけ、さらに突こうとする。
はっ!
香澄は棒を力いっぱい僕に向かって突いた。
ガリっ!とも ボリッ! ともつかぬ音がした。
その瞬間、脇腹がずーんと痛んだ。
棒が刺さった…。
香澄は今度は棒を勢いよく引き抜いた。
さらなる激しい痛みが僕を襲う。香澄はさらに剣道の構えをすると僕の頭めがけて振り下ろした。
「やめて! やめて下さい! 主人なんですから!」
麻子の必死の声も無駄だった。香澄はギョェッ!という声とともに面!とばかりに、僕の頭に強打をあびせた。
失いつつある意識の中で一瞬、香澄と目が合ったように思う。香澄は殺気じみた目で再び剣道の構えをしていた。
頭が痛かった。体も痛かった。気がつくと廊下に一人転がっていた。麻子も香澄もいない。
廊下の隅にはさまったようになっている頭をかろうじて動かし、何とか起き上がろうとした。いたたたたたっ! 思わず声が出た。それでもゆっくり立ちあがろうとすると、ことっと何かが落ちた。
脚だ……。
落ちたのは脚だった。脇腹から出ていた形だけの脚がくの字形になって落ちている。
脇腹を見ると、香澄に棒で突かれたところに7センチほどの穴というか10センチばかりの傷があった。ここから脚が抜けたのだ。
血が出ている。少し色が薄い気もするが赤い血だ。虫なら緑色の血のはずだ。とすると、この硬い皮膚の下は人間なのか。哺乳類のままなのか。
僕は50センチばかりの脚を拾い上げ、脇腹に差し込もうとしたが、やめた。痛そうだし、もともと機能していなかった脚だ。もう片方も引っこ抜きたい衝動にかられたが止めておいた。
「マモル、大丈夫?」
麻子が小走りにやってきた。
「松川さん追い出すのどれどけ大変だったか。凄いわね。カンフー並みの棒使いね。奇声も凄かったわ。嫌がらせですか!嫌がらせですかああああぁ!!って」
「えっ?」
「どうやら嫌がらせで大きな虫を用意したと思ったらしいわ」
「………」
「痛いでしょ。病院に行かなきゃね」
「何科に?」
僕たちは笑った。ハハッ ハハッと大笑いした。脇腹がひどく痛んだ。頭も痛い。肩も胸も、体じゅう痛かった。
「とりあえずリビングのソファで横になってね。階段上がるの無理でしょ。わたし、どこに相談したらいいか考えるわ」
結局どこにも相談しないまま夕方になった。こんなことを相談する場所なんて見つかるはずもない。
頭痛は少し楽になったが脇腹の痛みは時間とともひどくなっていた。
「ロキソニン効くのかな」
麻子が水の入ったコップとロキソニン錠を持ってきた。
痛みをこらえながら、リビングのソファに横になっていた。太い体はソファから半分くらいはみ出しているが、どうにか落ちずにいられた。脇腹は麻子が消毒し、大きめのガーゼを何重にも貼ってくれた。
「ただいま!」
翔太だ。どうしよう、と目で問う僕に、麻子は「大丈夫よ。動かないで」と言う。
「翔太、お帰り! おやつ、買う時間なかったんだけど、昨日のシュークリームならあるわよ。夕ご飯の準備もちょっとわけがあってまだなんだけど、簡単に作れるものすぐに用意してあげましょうね。それよりね翔太、ちょっと大切な話なんだけど」
「なに、ママ、なに?」
「あのね、パパが虫になったの。ううん、パパはパパだけど、見かけがちょっと虫っぽくなったの。でもパパに変わりはないの」
「ふーん、虫。パパ、虫になった?」
翔太はそう言いながらリビングに入ってきた。そして少しはなれたところで僕をしばらく見ていたが、近づいてきて顔を覗き込んだ。
「パパ、虫になった?」
「うん。ま、そんなとこだ」
「声、変った。でも虫じゃない。話せる。脚も違う。目はパパ。色は虫。皮膚も虫。でもパパ。口もパパ」
僕はなんだか嬉しくなった。同時にひどく情けなくもあった。
「そうだ!」
翔太はそう言い、自分の部屋に行くと封筒を持ってきた。翔太の集めている郵便物の中から一つの封筒を持ってきた。
「ほら!」
それは保険会社からの内容説明の手紙が入っていた封筒だった。
「ほら!」
翔太が指差したのは切手だった。虫の切手だ。蛍のような長細い虫の切手だ。
「ほら、顔、ない。目はあるけど顔ない」
そういって僕の顔をのぞきこんでいたが、再び「そうだ!」っと言って駆け出した。
次に翔太が持ってきたのはごきぶりホイホイだった。台所の隅に随分長い間しかけっぱなしにしていたものだ。
「見て!」
翔太は開けて見せた。一匹、かなりの大きさのゴキブリがかかっている。随分前にかかったのか、水分が抜け乾燥し、平たくなって形が崩れかけている。足が一本とれて2センチほどはなれたところについている。
「ほら、顔ない。人間の顔ない。パパと違う」
そう言って、ごきぶりホイホイを僕の顔に近づける。
「パパは顔ある。パパはパパ」
僕は切なかった。涙はこぼれなかったが、本当は涙を流して泣きたかった。そんな僕たちを麻子は少し離れた椅子にすわって見ている。
やがて荘太も帰ってくるだろう。荘太はどう言うのだろう。そして僕はいつまでこのままなのだ。
片手に虫の切手の封筒、片手にごきぶりホイホイを持ちながら、僕は心から夢であることを願った。
目が覚めたら、昨日とは違った日を過ごしていきたいと思った。
ただ、漠然と、これは夢ではないと感じている。
その漠然とした確かさはどんどんはっきりとした確かさへ形を変えていき、僕の丸々とした体を満たしつつあった。