メイアイコールユー グランマ?

 

 

 その子はチャーリーズの前に立っていた。誰かを待っている、というより立っている、という感じだった。背は高く少年と呼ぼうか青年と呼ぼうか、見た人なら迷ってしまうだろう、そんな子だった。けれど、顔をよく見るとまだ幼なかった。13?14?

 

 濃い眉と深い目をしていた。とりわけ大きくはないが、深い目をしていた。

 

 夏の終わりだった。風は強く湿っぽくそれでいてひんやりしていた。風が吹きあがると広い額が見え、その顔はさらに幼くなった。

 

 ここの夏の終わりはそのままに深い秋に滑り込む。あっという間に道には枯れ葉がカサカサ音を立て始め、革のブルゾンが似合う季節となる。

 

 彼は剥げたような茶色のブルゾンのポケットに手をつっこんで立っていた。両手をつっこんで立っていた。

 

 しばらく時が流れ、彼は時計を見た。近視なのだろうか。かなり目に近付けて見た。すると立っているというより待っている風情になり、口元に少し緊張が走った。

 

 肩がこったかのように首をぐるっと回すと、そのまま頭をがくんと後ろに倒し、空を見上げた。

 

 青い空だった。深い空だった。彼の目のように深い空だった。彼はそのまましばらく空を見上げていた。

 

 そのとき、婦人は現れた。身なりに気を遣わなければ老婆と呼ばれかねぬ年齢に差し掛かった婦人だった。けれど、服装、持ち物、足取り、全てがスムーズで上品な婦人だった。

 

 老婦人はゆったりと、それでいてどこかきびきびした様子でチャーリーズに向かっていた。ケリーバッグの金具が陽に光っていた。

 

 陽はかなり傾いていた。

 

 

 

 

 チャーリーズで二人は向かい合った。チャーリーズはパンケーキの種類の多さを誇るどこか時に逆らった風情のあるレストランだった。

 

 婦人はビビビビと小刻みに首を振る扇風機のようにリラックスできない様子だった。光沢のある緑色のスカーフを何度首に巻き直しても、パサリパサリと胸元まで落ちてきた。

 

 ウエイトレスが注文を取りに来た。スニーカーにソックスを履き、ストライプのブラウスの上にフリルが大きすぎる白とオレンジのエプロンをつけている。片手を腰にあて、にこやかにヘェローと言い、メニューをバサリと二人の前に置いた。そのあと小さなため息をついたが、すぐに笑顔に戻り、今日のスペシャルはブラックベリーパンケーキです、と言った。

 

 店内は閑散としていた。窓際の席にすわる二人にはガラスを通して外の風が感じられた。

 

 何でも好きなもの頼んでね。

 

 夫人はぎこちなさそうに僅かに引きつった顔で言った。

 

 ありがとう。

 

 彼は嬉しげに角が折れ曲がったメニューを見始めた。婦人は袖を少し引っ張り肩が凝ったかのように首元を手で数回押さえた。

 

 その時だった。

 

  May I call you grandma? 少年が英語で言った。グランマって呼んでいいですか?

 

 もちろんですとも。

 

 婦人はそう言って、ためらいがちに彼の手をとった。

 

 その手首にヘビの刺青があるのに気付き、婦人の手はぴくっと揺れたが、離さずしっかり握ろうと努力しているようだった。

 

 もちろんですとも。ええ、もちろんですとも。

 

 自分自身に言い聞かせるように言った。

 

 ほんとうに? ほんとうにいいんですか

 

 ほんとに? ほんとに? 彼は、期待した以上のクリスマスプレゼントをこんなにもらっていいの?というような表情で聞いた。

 

 もちろんですとも。

 

 婦人は今度はその子の手を軽くきゅっと握った。

 

 彼はもう片方の手を婦人の手に重ねた。

 

 しばらくそうしていたが、婦人は意を決したように口を開いた。

 

 あなたのママは……どれくらい前から…

 

 そこで婦人は口ごもり喉をごくんとした。湧きあがる感情を抑えようと目をつぶりゆっくりと呼吸をしようとしているようだった。

 

 ひどい状態になったのは2年前くらいからです。

 

 彼は言った。

 

 多分、苦しみはなかったと思います。

 

 婦人は咳こんだ。軽い咳から始まった咳はとまらなかった。

 

 あの、水を。

 

 彼はグラスを差し出した。

 

 そ、そうね。

 

 婦人の咳はしばらく続いたがやがて止まった。

 

 婦人の顔が歪んだ。悲しみや苦痛、というより、自分でどうにも対処仕切れないものに直面したような諦めの顔だった。

 

 もっと早く、あの子を探すべきだったわね。でも手に負えなかったの。どうやって会話していいのかもわからなくなって…。

 

 親子と言っても、手に負えない子は山ほどいますからね。…特にこの国では。

 

 少年の視線が一瞬氷のように冷たくなった。

 

 何にしてもあれほどの薬漬けになってしまったら誰にも救えませんよ。僕もそばにいて無力でした。少年はどこか投げやりにひどく客観的に言った。

 

 婦人はしっかりと少年の手を握った。

 

 あなたは 

 

 その子に何か聞きたいようだった。

 

 はい?

 

 彼は少し目を細めて婦人を見た。

 

 大丈夫ね。

 

 ええ。母のようにはなりません。以前、僕もちょっと危なかった時期もありますけど、母の死を無駄にはしないつもりです。

 

 そこで、婦人はむせるような小さな声をあげて泣いた。涙が頬を伝った。

 

 私がもっと頑張ったら…。そばにいたら。

 

 誰にも止められなかったと思います。少年は抑揚のない声で言った。

 

 けれど次の瞬間、少年の顔が歪んだ。サマーキャンプから帰ってきた時の異臭を思い出した。横たわる母の下から何匹も這い出てきたゴキブリ。母の体の上でうごめいていた何匹もの虫…。その時、体は動かなかったが、なぜか心は冷静だった。ついにか…と思った。ついに母は虫になってしまったのか…。幼い自分を引き回して、散々な思いをさせ、その挙句がこれか…。

 

 少年は引き出しからマスクの箱を取り出し、3枚重ね、異臭から自分を守った。そして大きく息を吐くと、スマホに入れていた連絡先の番号を押した。

 

 日本屈指の製薬メーカー、そのトップが少年の祖父だった。少年の祖父母は何かと問題を起こす母を留学という名目でアメリカへ追いやった。そこでできた子が少年だった。少年は父を知らない。ただ、自分の顔立ちから父は日本人ではないだろうと感じていた。ハーフというほど彫りは深くない。一体、父は何系、何人だったのだ。何度聞いても母は教えてくれなかった。

 

 金だけは十分送られてきたが、少年は祖父母に会ったことはなかった。日本へも行ったことはなかった。プレゼントももらったことはない。少年は何かあったら…その日は遅かれ早くれ来るだろうと感じていたが…母を捨てた金持ち祖父母に連絡して日本に行こうと決めていた。少年のサバイバル本能がそう決心させた。少年の日本語はネイティヴ並みだ。育ちはアメリカでも生まれてからずっと日本語で考えてきた。母の英語はひどく、少年とはいつも日本語だった。

 

 やっと来たか。迎えに来たか。初めてみる グ ラ ン マ  よろしく。

 

 少年は静かで奇妙なほどの穏やかな表情をして婦人を見た。

 

 あなたのグランマで嬉しいわ。

  

 婦人は言った。

 

 彼はうなづいた。

 

 そのヘビくんに名前をつけなきゃね。

 

 実はね、もう、あるんですよ、名前。

 

 少年の顔に戻り、彼は、にこっとした。

 

 あら、あるの。何て名?

 

 少年は答えようとしたが、ウエイトレスが、さあぁお待たせ!とブラックベリーパンケーキとコーヒーを持ってきたので、待つことにした。

 

 ベリーソースが見事なほどかかった少々乱暴に作られたパンケーキだった。少年のお腹が鳴った。

 

 甘みと酸味の混ざったコーヒーのいい匂いもした。

 

 この子の名は、

 

 少年はヘビの顔のところを人差し指でこすりながら言った。

 

 なあに?

 

 婦人は少し身を乗り出し、少年の深い目とヘビを交互に見つめた。

 

 ルネです。

 

 あなたの名と同じ?

 

 ええ、一心同体ですよ。

 

 少年は右のくちびるの端を少しあげて微笑んだ。