パコにそっくり:デグー

 

 僕にはミヤって幼馴染みがいて、これがまた奇妙な子だった。髪を耳の上まで刈り込み、トップをイワトビペンギンみたいに立てていた。僕たちが通っていたのは地方にしては随分自由な高校で、一学期の三分の二は紫色の服をまとう英語の吉田先生はそんなミヤを見てこう言った。

 

「あらあら、ロンドンで会ったパコにそっくり」

 

 股ぐら広げて机の陰で早弁していた山口も、漫画のキャラを机に描いてた由理子も、誰も彼も顔を上げ、吉田先生の言葉を待った。ある意味、皆、期待に胸を膨らませていた。パコのエピソードを待ったのだ。なのに吉田先生は、ほんとうにパコにそっくりだわ、と言ったきり、顎に指をあて、遠くを見るような目になり、 Well, let's start from page 84 と授業を始めてしまった。ロンドン時代を懐かしんでか、その日のパープルさんこと吉田先生は、一言も日本語を使わなかった。呆気にとられた生徒たちに微笑みを投げかけ、ゴーイングマイウエイでチャイムが鳴るまでその調子だった。それ以来、あらあらパコにそっくり、というのがちょっとしたブームになった。

 

 そのパコにそっくりと言われたミヤは、小学生の時は丸顔で、虫取りが大好きな子だった。僕たちはよくカブトムシ取りに出かけた。イナゴやバッタも大好きだった。

 

 ミヤは僕をデグーと呼んだ。ペットショップで見たデグーマウスとかやらに似ているのだという。

 

 中学後半ごろからミヤは変わった。ファッションに限ったわけでもないが、やはり目立ったのはファッションだ。ボーイフレンドをポップコーンみたいにポロポロ手からこぼしてく、ってのを最初にやったのもミヤだ。他の女の子たちがシャイに微笑んで男の子からの誘いを待っている中、これをやったのだから画期的だった。僕はミヤの幼馴染みというポジションだったので、ポロポロこぼされるボーイズの一人にはならずにすんだ。

 

 ミヤが先を歩いていたって表現はちょっと違うかもしれない。なぜなら誰も後に続いたりはしなかったから。要するに彼女は新しい道を開拓したっていうより、まったく突拍子もないとこを歩いていたわけだ。けれどミヤはいつも自分にシュアだった。それがベストウエイだと信じていないまでもマイウエイだと信じてて、その自信が彼女を輝かせていた。だから真似をしないまでも、皆、彼女には一目おいていた。ハイクオリティかロークオリティか決めかねたとしても、何かスペシャルなものとして一目おいていた。

 

 大学は違ったが、ある時ばったり会った。それから時々会うようになった。彼女はやはり相変わらずで、レゲエ風の頭にしてかかとまであるスカートを腰の低いところでとめて歩いていたと思えば、レザーの超ミニを履いて頭を半分剃ったりしてした。だけど大学も一年を残すころになると、なんとなくミヤの魔力は衰えたように見えた。何にしてもミヤならいけるっていう魔力がだ。

 

 卒業後、僕は中堅の証券会社で働き始めた。写真家になりたいとずっと思ってきたし、それなりに努力もしてみたけれど、その願望は食べてはいけないのではという恐れに負けるくらいだったから、大したことなかったんだろう。クリエイティヴなものへの欲求は、はけ口のないままアルコールや一時の楽しみってのに変わっていったが、株ブームのお蔭でサラリーもボーナスもかなりのもんだったから、大して不満もなかった。

 

 僕には時々ボーイフレンドができた。ボーイフレンドはできてもソウルメイトはできなかった。恋人も出来なかった。

 

 たまにミヤを思った。長い髪をけだるそうにかき上げる女の子たちを見ながら、あらあらパコにそっくりといわれた威勢のいいミヤの突拍子もない様子を思いだしたりした。

 

 だからミヤが結婚したって聞いたとき、僕はひどく裏切られた気がした。大してミヤらしく羽ばたくこともなく結婚したんじゃないかなってなんだかそんな気がして、まったく彼女らしくないと思ったんだ。極々普通に主婦してるミヤってのは、なんか僕の知っているミヤって気がしなくて、おめでとうも言わぬまま10年近くが経っていた。

 

 

 ふらーり入った店で一組のカップルを見たのは、夏が秋へ向かい小刻みに足踏みを始めたころだった。僕はグラスの氷に出来た蜘蛛の巣状の細かな筋を見ながら、釜飯を食べていた。箸で叩くとカランと安っぽい音をたてる釜の中から、椎茸の千切りを拾って食べていた。僕は椎茸の千切りが大嫌いだ。足のいっぱいある虫みたいで大嫌いだ。なのにそのとき僕はニンジンでも油揚げでも小エビでもなく椎茸の千切りを拾い上げ、食べていた。なんだか自虐的な気持ちだった。

 

 顔を上げると、そのカップルがいた。女はソフトにカールした頭を男の肩にもたせかけ、男は頭のてっぺんが少し薄く、襟足を心持ち長めにカットしていた。若い頃のなんとかっていうオーストラリアの俳優なら似合うかもしれない髪型だった。

 

 僕は椎茸をさがす手を止め、しばらく見つめた。女の首筋から肩のラインがなぜか気になったのだ。知っている人かもしれない、漠然と思った。

 

 ミヤ・・?

 

「ミヤ」

 

 僕は小声で呼んでみた。けれど女は振り向かなかった。

 

「ミヤ」

 

 今度は少し大きな声を出してみた。彼女は肩を少し動かしたように思う。エアコンの音に吸いつけられるように、ゆっくりと顔を僅かに僕の方に向けた。

 

 ミヤだ。やっぱりミヤだ。

 

 頬のラインが少し丸みをおびていているが、ミヤに違いない。

 

「宮田さん。宮田よしこさん」

 

 ミヤと同時に男も振り向いた。濃いブルーにオレンジのストライプのタイをしていた。体格は大きかったが、顔はまだ幼さが残っているような青年と成人の間のような顔だった。

 

「久しぶりじゃない」

 

 ミヤは言った。

 

「ヨッチャンの友達?」

 

 男が聞いた。

 

「よき時代のね」

 

 ミヤはくすりと笑った。

 

 沈黙のまま何だかぬるっとした数秒が流れ、「そろそろ行こうかな」と時計を見て席をたつ男に「またね」とミヤは男の腕を軽くつまんだ。

 

 男が出て行き、僕とミヤは、久しぶり! 元気? と何度も言い合ったあと、困ったように互いを見つめた。僕は昔のストレートな言葉のキャッチボールを思い出しながら、中途半端に微笑んだ。

 

 ミヤはレモン色のサマーセーターにベージュのスカートで、どこにでもいる奥さんという感じだった。薬指にシンプルな結婚指輪をしている。

 

 外へ出ると、僕は聞いた。

 

「なんだか邪魔しちゃった?」

 

「いいのよ。どっちにしても時間切れ・・・。やだ、何の時間切れなんだろ。ま、なんにしても時間切れって感じだったから」

 

「ご主人?」

 

「な、わけない」

 

「だと思った」

 

「で、デグーは?」

 

「えっ、僕かい?」

 

「デグーは何してたのよ」

 

「僕か椎茸食べてた」

 

 ぷはぁぁぁ、とミヤは笑った。やだぁ、と髪を手でかきあげたミヤは昔の顔になった。風は湿気を抱え込んで重たかった。暑そうに、ミヤは何度も髪をかき上げた。

 

 少し歩いて地下街の噴水の脇に腰を下ろした。首をねじって水の中を覗き込むと、やはり首をねじってこっちを見ている僕たちがいた。無数の一円玉や十円玉がボタンみたいに沈んでいる。

 

「彼、誰?」

 

「ちょっとした知り合いよ」

 

「恋人?」

 

「知り合いね」

 

「ふーん」

 

 僕たちはしばらくすわっていた。随分会っていないミヤなのに、とりたてて焦って話をしなければ、という気にもならなかった。居心地が悪いわけでもなかった。ミヤといて僕はとても懐かしかった。

 

 苔色の壁のコーヒーショップに入った。

 

「で、どうだい? 毎日の生活は?」子供はいなくて、毎日静かに暮らしているわよ、というミヤに聞いた。

 

「普段はどうってことないの。こたえるのはね・・・朝ゴミを出して隣の奥さんに会ったりして、お早うございます!って言ったりするときかな」

 

「えっ?」

 

「どうってことないんだけどさ、ただね、朝の明るい太陽に照らされていたりしても、その時だけはゴミに同化してしまうの」

 

「同化?」

 

「そう、同化よ。なまけもののあたしのことだから、一回出し忘れて一週間ぶりに出すとするじゃない。そうすると臭いも大したもんだけど・・・」

 

「うん?」

 

「ゴミと完全に同化するのよ。あたしとゴミ袋が同化しちゃうのよ。寝不足の目パチパチさせ・・・しょぼしょぼっていうのかな・・・通り過ぎる顔見知りの人たちにお早うございます!って大声あげるじゃない。すると何かが違うって感じがすご~くして、いてもたってもいられない気がして・・たとえていうなら巨大なゴミ袋になってる気分よ。でもそれ以外のときは大丈夫。部屋でごろごろしてったって、いい奥さん気取って細めのベルトをきりりとしめて出かける用意してるときだって、さっきの彼とかと会ってるときだって大丈夫。でも、ゴミ袋出す時だけはだめなのよ」

 

 どう答えていいのかわからなくて、ミヤを見た。

 

 ミヤはケーキを深くえぐっていた。まさにえぐるって感じだった。脱いだ靴だって揃えなかったミヤ。気の向くことしかしなかったとんだなまけもので、熱しやすく冷めやすかったミヤ。ぼくはそんなミヤのだらしなさが好きだった。だらしなさも彼女にかかると結構ニートに思えたものなのだ。

 

 ミヤが主婦してるのが、どうにも僕には不思議だった。時が経った、それだけ大人になって落ち着いたのさ、と言ってしまえばそれまでなのだろうが、ならどうしてさっきの男と釜飯屋にいたりするんだろう。

 

 ゴミ袋に同化か・・・。ミヤの心に詰まった排気ガスがゴミとの同化意識を引き起こすのかな。でもそれが大人になる、大人でいるってことなのかもしれない。結局のところ。

 

 ミヤが結婚するまでの過程を僕は知らない。結果として聞いただけなのだ。ただ、ミヤはその気になれば、いろんなふりってのもうまかったから、大抵の男は騙されただろう。ミヤの夫はどうだろう。ほんとうのミヤを知っているのだろうか。

 

 小学校低学年の学芸会で、僕は名もない蜂の役、ミヤはエンジェルだった。蜂の羽根は茶色だったから、僕はエンジェルの真っ白で輝く翼が羨ましかった。

 

 少しふっくらしたよな、ミヤ。

 

 目の前のミヤを見ながら、会わないうちに僕の記憶の中でどんどんスリムに長身になっていった彼女を思った。どうして記憶の中の彼女はどんどん実物離れしていったんだろう。まあいいか。所詮、記憶なんてそんなものだろう。

 

「ちょっと太った?」

 

「多分ね。退屈は人間を太らせるっていうけど、それ嘘よ。太らせるとしたらそれは、なんていうのかな。ゴミ袋と同化する、あの感覚ね」

 

「それってなんだろ」

 

「空っぽ感かな。おかしいよね。ゴミ袋ってたいていぎっしり詰まってんのにね

 

 僕は髪を刈り上げたミヤが細い煙草を吸ってみせたときのことを思い出した。どこの国だったか海外に行ったとき、ごっそり煙草を買ってきた。そのうち数箱、寛大にも僕にも分けてくれた。紙をかじってるよな味気なさに僕は一本吸ってやめてしまった。いや2本だったかな。案外一箱くらい吸ったのかもしれない。

 

 彼女は品よく塗ったマニュキュアの指でチョキを作り、チョキチョキ動かして見せたが、何の意味なのか僕にはわからなかった。

 

 少し太ったってやっぱりミヤはミヤのはずだ。ただ・・・ミヤの翼は凄く小さい。それは学芸会でつけてたままちっとも大きくなっていない。

 

 あの時のミヤには翼が似合っていた。今のミヤにもし翼があるとしたら、あの時の太っちょの僕がつけていた蜂のくらいの大きさだ。とうてい飛べはしない。

 

 小さな翼を持ち、ケーキをえぐるミヤは、すでにミヤであってミヤでないのかもしれない。

 

「ゴミ袋の話したのデグーが初めてだよ。なんだかすごく頭がクリアになった気がする。ゴミ袋に同化ってのは、昔のあたしの哲学に反するよね。でもそれが今のあたしなんだと思う」

 

 そんなミヤを見ていて僕はくらっと絶望を感じた。以前のミヤにあったベストウエイでなくてもマイウエイを進んでいるっていう自信はもうあとかたもない。今のミヤは一応は正道を走っている車の中でドラック吸ってる、そんな悪あがき感あるのみだ。そしてミヤの翼はどんどんどんどん小さくなっていく。以前、威勢よく天に向けて立っていたミヤの真っ黒な髪は、栗色に優しくカールしている。僕はなんだか自虐的になり、食べた椎茸を吐いてしまいたい気持ちにかられながら、ミヤの目の下にうっすら浮かび上がった血管を見ていた。

 

「そうそう、この前、出たのよ、リユニオン」

 

「えっ?」

 

「リユニオン。同窓会よ」

 

「え、そうかい。何も連絡なかったな、僕のとこには」

 

「自宅に送られたのよね、きっと」

 

「誰が来てた?」

 

 ロミーにケイコ、オキボウに・・・数人名をあげた後でミヤは言った。

 

「そうそう、意外な人が来てたよ」

 

「誰?」

 

「誰だと思う」

 

「ケンジかい?」

 

「あれが意外?」

 

「じゃ、ロッコ」

 

「違うよ」

 

 くちびるを少し突き出し加減・・・これはミヤの癖なのだが・・・にして僕の答えを待っているだろうミヤを見ながら、あらあらパコにそっくり、と言ったパープルさんを思い出した。

 

「あ、ひょっとして先生の一人?」

 

「うん! おひょう先生が来てたけど、もう一人」

 

「パープルさん!」

 

「あったり!」

 

「ちょっと変わってたよね、パープルさん。僕は好きだったけど」

 

「あたしも大好きだったよ」

 

「パープル着てた?」

 

「うん。でもちょっと淡いパープルで、あたしの記憶の中のパープルさんが着てたのとちょっと違った。先生、やっぱり紫ですねって言ったら、そうよ、人間一本筋が通ってないとね、一つのこと通すのってどんな大したことないことでも結構難しいからねって」

 

 あはははは、ミヤはそれは楽しそうに笑った。

 

「もうパコにそっくりとは言わなかったかい、ミヤのこと」

 

 聞いてから、僕はなぜかひどく残酷なこと聞いてしまったように思った。

 

 少しのポーズの後、やたら明るく彼女は言った。

 

「言わなかったよ。あたしの名前さえ覚えてないみたいだったし・・・」

 

 あらあらパコにそっくり。この言葉があのころの僕とミヤに与えた期待みたいな幸福感。そんなのをもう二人一緒に感じることはないだろう。なんにしても、ミヤにはもうパコの面影はない。パコが誰であれ。