ケイタに会いに
陽は温かかった。
晩秋というのを忘れさせるくらいの温かさだった。
昼食を食べただろうか、ふと思った。
最近ずっと食欲がない。
自立神経よ。
昔から気弱な僕を妻が笑ったものだった。
まったく男なのに、私より自立神経の乱れがひどいなんてね。
本当に芯からリラックスしているときが少ないとは自分でも思う。体のどこかがいつもテンションを感じている。テンションはストレスとも言いかえられるか。
自律神経が弱い人間に子育ては向いてなかったんだ…。子育てには図太さが必要だ。しかし図太さは無関心ではない。妻は…自己愛に満ちていて、違う意味で子育てには向いていなかった。
自分は弱い人間だ…。頻繁に思った。
しかし優しい人間だ。優しい男だ。優しさは強さだ…そんなふうにこじつけた時もあった。
けれど、優しさと思ったのは弱さだった。
実際、何もできなかったじゃないか。いや、してはみたが、よい方向には行かなかった。行ったかな、苦労が実ったかな、と思ったときもあったけれど…。
ケイタ。
可愛い子だった。丸い目が不思議な輝きを帯ていた。全てが小さかった。手も足も耳も…全てが小さかった。
生まれたばかりの子を見たことがなかった。だからびっくりした。まるまるとした赤ん坊…をなんとなく想像していた。初めて見たケイタは想像していた赤ん坊とはまるで違っていた。皮膚にはまだ皺があった。背中のあたりまで毛が生えていた。生まれたときは毛深いんですよ。すぐ無くなりますよ、看護師さんに言われて、少し安心した。
目は焦点があっていない。少しブルーがかった灰色だった。目の色、ちょっと変わってないですか? ああ、赤ちゃんの目の色は変わるんですよ。また少し安心した。
抱いてみられますか?
手を広げて恐る恐る抱いてみた。今日から守るべき存在ができたと思うと、赤ん坊を抱く腕ではなく体全体が地面に引き寄せられるような重さを感じた。
仕方ないわ。やるだけやったわ。でも私たちじゃどうしようもないこともあったのよ。実の子でもエイリアンみたいな子が生まれることもあるのよ。
エイリアン…。妻の言葉が胸を刺した。こんなにも長い間育てた子をエイリアンと言うのか…。期待通りに育たなかった子。エイリアンみたいなもの…と言葉にできる妻を見つめた。焦点の合ってない目で。初めて抱いたケイタの焦点の合わぬ灰色の目を思い出しながら、妻に焦点を合わせようとしたが、できなかった。
透明なプラスチックがない面会室もあるらしいが、ここは違った。こうやってケイタとあと何回向かい合えばいいのだろう。
ケイタは顔色が悪かった。けれど入る前より穏やかに見えた。
ここにいるとほんのしばらくにしても焦らなくていい。
ケイタは言った。まだしばらくは取り調べが続き、起訴され、裁判になるのだろうか。
弁護士をこちらで探すよ、いい弁護士を、と何度も言ったが、ケイタは頑として大丈夫だ、と言った。国選でいいと。刑を軽くしたいと思わない、と。
でも、これからの将来を考えると、軽い方がいい、猶予がついたほうがいい、と言ったが、譲らなかった。
監視つき面会なので、あたりさわりのないことしか話せない。
母さんは?
特に健康には問題なく元気にしてるよ、と答えた。ケイタが聞きたいのはそんなことじゃないことくらいわかっていたが。
ケイタはそれ以上何も聞かなかった。
思考の流れが似ている。時々思った。僕とケイタは思考の流れなのか、感じ方なのか、いろんな状況で同じように感じ、考えているのがわかった。父さん、今こう思っただろ、ケイタが言うことはたいていあたっていた。言葉に出さなくても、お互いの気持ちがわかる気がしていた。優しい子だ、そう思った。
けれど、僕はケイタを見失った。僕に似ているケイタはほんの一部でしかなかった。いや、ケイタは僕と同じ感じ方をしたわけではなく、僕の感じ方がわかっていただけなのかもしれない。
ケイタには考えてること見抜かされちゃうの、妻が言った言葉を思い出した。妻は少し困ったように言った。子供はシンプルでいてほしかったのだろう。
妻は楽観的だった。ただただ健康で可愛い素直な子供に育つと信じていた。僕はあらゆる可能性を考えて、いいことばかりではないことを覚悟して腕の中の子を力の限り育てようと思った。かなりの覚悟だったと思ったのだが…。
本当に父親になりたかったのか…。
父親のふりをしたかっただけじゃないのか…。
忘れましょう。もう大人なんだしね、ケイタは。私たち、運がなかったのよ。
育てがいがなかった、妻はそうも言った。
いろんな面でケイタは妻の理想とする息子、には成長しなかった。
明るく陽気で優秀でスポーツもできる、いわゆる子供らしい子供から少年らしい少年へ、そして青年らしい青年へ、それを妻は望んでいた。
ケイタは顔立ちも体型も妻に似て整っていた。芸能事務所からも声をかけられた。けれどケイタの瞳は深かった。ケイタは人の行動ではなく心を見るようなまなざしをしていた。
時々、ケイタに超越したところから見下ろされている、そんな気がした。静かなるケイタには超然としたところがあった。それは彼の幼馴染のサトルにも共通するものだった。アイドルさながらの外見の二人だったが、修行僧のような眼差しが共通していた。
時々アツシという子も遊びにきた。二人はアルファーと呼んでいた。小さい頃のアツシは言葉がほとんど出ない無表情な子だったが、暫くぶりに見て美青年と言っておかしくない容貌に成長していて驚いた。言葉は流暢で流れるように話し、微笑みはほとんど自然に見えた。
静かなる子供達。確かに平均的な子供たちと比べると、妻の言うようにエイリアン的に見えた小さき大人たち…。大人を客観視できる子供たち。彼らを不気味ととらえるものもいるだろう。自分はどうだったか…。
そんなケイタが時々変わった。ルネ…そう、ルネという子といる時だ。ケイタはまるでなにかの皮を被ったように表情が変わった。
具合が悪くて会社から早く帰り、ソファで横になっている時だった。ケイタとルネが笑いながら入ってきた。どこか不思議に心にざわめきを与える話し方だった。そっとソファから、起き上がり、様子を伺った。
そこには笑っているケイタとルネがいた。軽い、それでいてどこか不穏な笑いだった。胸騒ぎがした。
今、プラスチック板を隔てたケイタに、僕が何をしてやれるっていうんだ。
ケイタは、何を思ってんだ?
ケイタ、エイリアンなんかじゃないよな。父さんの子で優しい人間だよな。
僕はプラスチックに伸ばそうとした手をひっこめた。そしてその手を膝に置くと、体が重くなった。ケイタを初めて抱いた時の重さを思い出し、目頭が熱くなった。