イナゴの顔:ミヤ

 

 男は必死でロブスターにフォークを突き立てていた。いくら突き立てても、ロブスターは白いゴムのように殻にしっかりくっついて離れない。

 

 明らかに男は焦っていた。右手でフォークを突き立てては左手でしっかり殻を押さえ、何度も何度もトライする。手の甲には血管が浮き上がり、目元は今にも痙攣を起こしそうだ。

 

 男の横顔。こめかみにも血管が浮き上がっている。

 

 整った顔である。

 

 男の整った顔が正直苦手である。人でも物でもどこか適度に崩れている方が安心できる。今、ロブスターと格闘している男の整った顔は悲しげに滑稽である。うまく食べる食べないは問題じゃない。にこりともせぬその真剣さを見つめる私に笑顔はない。

 

 男の右腕が弾け、ロブスターの白い身のかたまりが私の膝に落ちてきた。乾燥してパサパサの物体が落ちてきた。

 

 じゃ、今夜はこのあたりで失礼、なんて軽く言い、席をたてたら、なんて思ってみる。一人で部屋に戻って読みかけの本を読みたい。けれど、優雅な手つきで、私の膝に降ってきたロブスターの身をつかみ、テーブルのすみに置いて微笑んでみせる。

 

「アキラさんってそんな不器用でよく会社勤まるわね。林田さんが言った、エリート街道まっしぐらって本当かしら」

 

 エリート街道まっしぐら・・・。古くさい表現を林田さんはひどく真面目な顔で言った。

 

「結婚式で褒められなきゃ、褒められる時ないからね」

 

 男は微笑む。柔らかくて、真面目そうで、嘘のない優しい笑顔。私はその笑顔で結婚を決めた。友達のお兄さんの紹介だった。7か月ほど付き合って、ごくごく身うちと気のおけない友達と一応呼ばなければ角が立つ会社関係の人だけ呼んで、小さな結婚式を挙げた。

 

 今日のことだ。

 

 

 

 よい式だったと思う。あたたかい善意に満ちた式だったと思う。

 

 私に関して言うと、一つだけ問題があった。式の最中から、いや、式の前から、一つの考えが芽吹き、私を悩ませ始めたことだ。

 

 必然性ないんじゃない?

 

 この結婚って必然性ないんじゃない?

 

 あんの? ほんとにあんの? 必然性・・・。

 

 その声がどんどん大きくなっていった。

 

 必然性? あるわよ。あるわよ。あるに決まってる・・・。

 

 仕事は落ち着いてきた。結婚して子供ができても産休も取らせてもらえるだろうし、男は温厚でよい夫になれそうだし、話もそこそこ合うし、私の話も男の人の割に意外によく聞いてくれるし、義理の両親も常識のあるよさそうな人だし、子供を産める歳を考えても、これ以上の人が出るのを待ってたってどうにもなるものでもなし・・・。

 

 男は私には出来過ぎた人だ。今まで男友達は、ユウゾウ、グミオ、ムーミン親父、ヤマゲラ、とか適当に呼んで言いたい放題だったけど、男は自然にアキラではなくアキラさんと呼びたくなった。この程度の尊敬と距離感が結婚には「ちょうどいい」と思えたのだ。

 

 ちょうどいい!

 

 ちょうどいい

 

 ちょうどいい・・・

 

 ちょうどいい?

 

 なぜ結婚式当日になって、必然性なんてことにこだわりだすのだ?

 

 恋心がないから?  

 

 恋心? なんて古臭い言葉。

 

 恋心・・・そんなのが長く続かないことは三度、四度? いや数え切れないほど経験済みだ。

 

 遊び上手なマモルなんて、その化けの皮が剥げるのにいくらも時間はかからなかった。軽薄な男に費やす時間ほど無駄なものはないと悟った。人格者のホリベは、全てにそつなく優れて、物でも人でも優れたものを選ぶのが上手だったが、私はその優れたものに入らなかったらしく、いくらかの優しい言葉を残し何気なく去っていった。

 

 夫になった男は私の天衣無縫なところと、その割に孤独も愛し一人の時間も大切にするところを理解し、一生君と過ごしたら面白い人生になりそうだ、と言ってくれた。私もその瞬間、感激し、心からそうなれば嬉しい、そのために努力したい、と思った。

 

 それが三か月ほど前のことだった。

 

 新婚旅行は男も私も休みが取りやすい11月にすることにしたので、今日は食事だけをちょっと値の張る創作フレンチで水入らずでして、マンションに帰る予定だった。

 

 タクシーでマンションへ向かい、エレベーターに乗ると、私は男に微笑んでみせた。男も微笑んでくれた。けれど、体だけが上へ上へと上がり、心が下へ下へと下がっていくようで、どうにも、どうにも、落ち着かなかった。

 

 

 

 1706号室。夜景が売りの新築マンション。

 

 リビングで冷房が小さな音をたてている。私は疲労感にまぶたを押さえた。

 

「何か飲む?」

 

「そうねえ」

 

 冷蔵庫を開けてみると氷がない。氷を作るのを忘れていた。

 

「コンビニで氷買ってくるわね」

 

「えっ? 氷ないの? 僕行こうか?」

 

「ううん、いいわよ。ついでにおつまみも買ってくるわ」

 

 そう言ってサンダルを引っかけ、外に出た。

 

 

 

 カブトムシ売ってます!

 

 コンビニのガラスに貼ってあった。

 

 カブトムシ? コンビニでカブトムシなんて初めてだ。

 

 このコンビニは大手ではなく、仕入もある程度店に任せられているのか、このあたりのマンションは子供が多いこともあってか、夏にはカブトムシを売るらしい。

 

 ふとデグーを思った。顔がデグーマウスに似ている、見た瞬間思った。ふっくらとした体型も気に入った。

 

  小学校二年の時転校してきたデグー。私は女の子なのに虫大好きで、女の子仲間からは変わり者と言われていた。そんな私とデグーは妙に気が合った。

 

 カブトムシ捕れるところ見つけたんだ、というデグーとカブトムシ捕りに行ったのは数えきれないほどだ。同級生は映画館デートなど始めたりしていたが、私とデグーはカブトムシ捕りに熱中した。

 

 おーい、凄いもんみつけたよ。

 

 初夏の朝だった。デグーはそう言って手のひらをそっとあけてみせた。

 

 あ・・・。

 

 私は息をのんだ。薄緑いろを帯びた白いセミがいた。

 

 きれい。

 

 うん、凄いだろ。

 

 きれい。

 

 うん、きれいだよね。

 

 私たちはデグーの手の中で力なく動くセミを見ていた。

 

 元気ないけど大丈夫かな。

 

 殻から出たばかりだからね。シゲタ公園の土の上にいたんだ。木をみつけて登るところだったんだろうな。ミヤに見せたくってさ。

 

 うん、ありがと。ねえ、死んじゃわないように、早く木にとまらせてあげようよ。

 

 うん!

 

 私たちはシゲタ公園へと急ぎ、一番大きな幹を誇る木にセミをとまらせようとした。

 

 なのに何度とまらせようとしても、セミは力なく背中から落ちていく。

 

 人が触ったからかな。手の熱がよくなかったのか。

 

 デグーはほとんど泣きそうだった。

 

 私たちはしばらくセミのそばにうずくまり、セミの足が力なく動くのを見ていた。

 

 あのとき私たちはどれだけ、じっとうずくまっていたのだろう。

 

 死んだなら、埋めてあげた方がいいのかな。

 

 でも、何年も土の中にいて、7年だっけ? やっと出てきたんだよね。また土に埋めるの?

 

 そうだよな、うん、案外元気を取り戻すかもしれないし・・・。

 

 そうだよね。

 

 うん!

 

 けれど、そうならないことはどちらも百も承知だった。

 

 悪いことしたな、そう言うデグーを私はとても愛しいと思った。人を愛しいと思うなんて初めてだった。

 

 デグーは中学に入るとぐっと背が伸び、ファンの女の子も増えたが、私はデグーが女の子に興味がないのを知っていた。

 

 高校まで一緒だったデグー。高校卒業を控えて下駄箱で二人になることがあり、久しぶりに間近でデグーの笑顔を見た。

 

 ミヤ! 元気でいろよ。

 

 デグーは言った。

 

 うん。スギッチもね。私はその時、私がつけたニックネームのデグーではなく、デグーの苗字の杉山からスギッチと呼んだ。

 

 スギッチか。デグーって呼ばれるのに慣れちゃってるからなあ。デグーはちょっと困ったように笑った。

 

 デグーに背を向けると、セミを手のひらにのせていたデグーの横顔を思いだして、何か言い忘れた気になった。

 

 

 

 デグーとは大学も卒業を控えた頃、偶然カフェで会った。デグー! ミヤ! 同時に叫んだ。カフェでよくとりとめなく話すようになったが、それもさほど長くは続かず、わたしの転居をきっかけに会わなくなった。もっとも、本当の理由はそれではなかった気もするが…。

 

 今ごろどうしているのだろう。

 

 そんなことを考えながら、コンビニのカブトムシのコーナーを見ると、メスが2匹だけになっていた。

 

 売れちゃったんですか、オス?

 

 ええ、置くなりすぐ売れちゃうんです。

 

 気のよさそうなバイトの男の子が言った。

 

 ちょっとかわいそうっすね。

 

 どっちが? 売れた方が? 売れ残った方が?

 

 売れ残ったほうがっす。

 

 デグーの手のセミもかわいそうだったけど、コンビニで売られるカブトムシもかわいそうだ。売れ残ったこのメスたち、買って帰ったら、夫は驚くだろうか。夫は昆虫好きだったかな? 考えてみると聞いたことなかった。

 

 氷と枝豆と唐揚げを買ってマンションへ戻った。戻りながら、きちっとした結婚ってのはいいに違いない、と思った。

 

 でも・・・私はここにいていいのかな。ふとそんなことを思った。

 

 私は ここ でなく そこ にいるべきじゃないかってふっと思ったけれど、 そこ がどこかはわかなかった。

 

 エレベーターに乗ると鏡を見た。全身が映る鏡がついていると乗る人が退屈しないし、エレベーターの動きが遅いのも気にならない。そう聞いたとき、確かにいいアイデアだと思った。

 

 自分の顔を見る・・・。女性だったら、一日何度でも鏡を見る。でも今の私の顔はちょっとおかしい。

 

 何かに似てる・・・。

 

 なんだろう。

 

 なんだろう。

 

 そうか、バッタだ。バッタににてる。

 

 ・・・いや・・・イナゴだ・・・。イナゴに似てる。

 

 表情があってないような、あのイナゴ。グリーンや茶色の硬いマスクをつけたイナゴ・・・。

 

 なんだか、何かを思い出さなければと思った。しばらく頭の芯が痛くなるほど考えた。思い出さなければならないものを考えた。

 

 ああ、そうだ・・・。

 

 何千匹も飛んで被害を与えるのは日本にいるイナゴじゃなくってさ、違う虫なんだって。

 

 ある時、夏草の上にイナゴを見つけたデグーが言った。

 

 とんだ災難だよな。悪者にされちゃって。

 

 へえぇぇ~そうなんだ。イナゴって害虫じゃないんだ。

 

 うん、害なんてないよ。穀物を食べつくすバッタ族の一種が誤ってイナゴってことになったらしいよ。

 

 イナゴさん、とんだ迷惑だね。

 

 私たちは笑った。

 

 何千匹、何万匹も群れをなして飛んできてはあたり一面食い荒らしてしまうイナゴに似た虫。デグーと一緒に虫図鑑を見た気がする。イナゴによく似た害虫のバッタ族と、汚名着せられた被害者のイナゴを比べてみた気がする。今ではどちらの形も顔もよく覚えていない。

 

 どっち? あたしが似てるのどっち? もともと口が大きく目が離れてるあたしだけど、今のあたし、どっちに似てるんだ・・・。

 

 ぐらりと足元が揺れる。けれど、地震でもない。そんな気がしただけだ。

 

 イナゴもどきになった私の頭に浮かぶのは地面に落ちたあのセミだ。

 

 デグーと見つめていたあのセミだ。

 

 何度木にとまらせようとしても力なく落ちていくあのセミを見ながら、私とデグーに広がっていった沈黙。その沈黙が今、私を包んでいる。

 

 私は目をつぶり、小さく頭を振った。