私が最初に輪を見たのは、ふっと風が涼しく感じる夏の終わりだった。

 

 風が窓にあたり、カタカタとガラスを鳴らしている。3センチばかり開いた隙間から風がシュルーリと入り込み、黒板に張った生き物係の名前の紙を揺らした。

 

 私は風に魅せられる。風はいろんなものを運んでくれる。遥かな海の向こうから風にのって蝶の大群がやってくるって番組見たけど、それだけじゃない。風ってとにかくすごいんだ。目に見えるものはもちろん、目に見えないものもいっぱい運んでくれる。いい匂いだって、嫌な匂いだって。

 

 それに気持ちも。嬉しい気持ち、悲しい気持ち、怒りの気持ち。みんな風にのってやってくる。それって空気じゃないの?っていう人いるけど、空気と風とは違う。風は確実に動いている。風は人の気持ちも運べるんだ。

 

 だから私はいつも風に魅せられる。

 

 

 

 その日は風がけっこう強く、その分いつもよりいろんなものを運んでる気がして、私は風から目が離せなかった。

 

 あ……………

 

 それは3センチほど開いた窓の隙間からじゃなく、その横のガラスを通り抜けて、教室へ入ってきた。赤ら顔をしながら黒板に「同音異義語」って書いてる高浜先生の頭のあたりをすーっと通り、途中でとまったり、ふわっと高くなったりしながら、まるで教室の中を散歩しているようだった。

 

 なのに誰も気づかない。私以外。驚いて目を見開ききょろきょろしてるのは私だけだ。高浜先生のほんの鼻先を通り過ぎてもだ。

 

「ねえ、先生の耳のそばに輪っこみたいなの、見える?」

 

 隣の谷山くんに聞いてみた。谷山くんは先生の顔のあたりをじーっと見て、今度は私をじーっと見た。ちょうど輪っこは私の方へ向かってやってきたから、あ、谷山くんも見えるんだって思った。

 

「輪っこって輪ゴム?」

 

 あ…あ……それは私の目の前をすーって通り、教室の廊下近くで一回カクンって下がり、そのまま壁をすーっと通り抜けていってしまった。

 

 

 

 そして、その子はやってきた。

 

 2時間目の授業の前に。

 

 その子は高浜先生がまた腹痛のため、トイレにかけこんだ直後にやってきた。高浜先生はえくぼのできるおもしろくて結構気のいい先生だけど、月曜日には必ず腹痛をおこしてトイレに駆け込む。

 

「いやぁ、大人はストレスが多くてね」

 

 高浜先生は額をかきかき言うのだけど、本当は飲みすぎなのだ。週の初めの先生ってすごくお酒臭い。二日酔いだ。土曜日から飲み始めたとしたら、三日酔いか。

 

 高浜先生は大酒のみだ。月曜の朝や、とくに連休明けのときのむくみ顔は尋常じゃない。きっとお酒といっしょに辛いおつまみなんか食べてるんだ。辛いもの食べるとお酒がよけいにゴクゴク飲めちゃうらしい。だから連休明けの先生のお腹は一回り大きい。お腹に水ぶくろ抱えてる。その水たっぷりのゆるゆるお腹が、ちょっとここんとこ自習しててくれるかな、そう言ってトイレへ小走りさせるのだ。

 

 毎度のことねと、私たちは小さくうなづくだけで、大混乱は起きない。腕相撲する子や漫画のキャラを描いたりする子はいるけど、まじめに教科書に向かってる子も結構いたりする。

 

 私はたいていディドリーミングするか、風を見るかする。

 

 ディドリーミング、私の空想好きは自他ともに認めるところだ。小さい頃どんな子でした?と聞かれたら、真っ先にこう答えるだろう。「ディドリーミングが好きな子でした」と。

 

 とにかく、その子は高浜先生がトイレにかけこんだ直後にやってきた。私が密かにオニヤンバエとあだ名をつけている教頭先生といっしょにだ。教頭先生は顔がハエとオニヤンマの中間みたいだった。勘違いしないでほしい。これ悪口じゃなくって一種の好意の表れだ。私はどちらの虫にも敬意を払っている。

 

 オニヤンバエ先生はクラスを見回し、「またかいな」と言った。大阪のなんとかというところ出身の先生の言葉は、呆れても怒ってもそんなふうには聞こえずに、しょうがないやつでんな、って感じだった。

 

「そうです。そうです。そのまたかいな、です」

 

    ケンタロウが答える。ドッと笑いが広がった。

 

 オニヤンバエ先生は、転校してきたばかりのその子に、担任の実態を伝えるのはどうしたものか、と考えているようだった。

 

「高浜先生はすぐ戻ってきますから、安心しなさい」

 

 安心したいのは自分なのだろうが、オニヤンバエ先生はきょろきょろ見ながら、その子を黒板の真ん中へ促した。

 

 男? 女? 

 

 ひそひそ声が聞こえた。

 

 その子はくるっとカールした髪を肩までたらしていた。巻き毛ってこういうのを言うのかな。確かに男にも女にも見えた。目がくるんとして鼻はちょっと先が丸くて上を向いている。

 

 色は普通。焼けてもいなければ白すぎもしない。男の子といわれればそうも見えるし、女の子といえば、ちょっときりっとした女の子に見えなくもない。

 

 服も中途半端だ。半ズボンなのだけど、中途半端にかわいい。女の子がボーイッシュに着たらこんな感じだ。

 

 吉川 舵仁依

 

 オニヤンバエ先生が、黒板に書いた。

 

 なんだ? えーーと、ヘビって字だっけ? ジャニイじゃない? ばーか、ヘビは虫へんだろうが。声が飛び交う。

 

「よしかわ だにいくんだ」

 

 だにいかぁーーーー。いくつもの声が重なった。

 

 ダニイ? ダニー…。ダニー…って…。

 

 その子は一、二歩動き、黒板の真ん中から窓よりに歩いてきて外を見た。前から二番目、窓から 三列目の私にはよく見えた。そしておそるおそる息をとめてその額を見つめた。

 

    あるのかな…?

 

    額に傷あとが。

 

    ダニーが私を見た。あ……。下を向く。

 

 ダニー、日本人にしては変な名前。もし額に傷があったら。あの子だ。あの子に違いない。

 

 どうしよう……。

 

 なぜって……

 

 その傷は私がつけたものだったからだ。

 

 

 

 

    私にはパパがいないって気づいたのは3歳くらいのときだった。

 

「パパ」「おとうたん」と周りの子たちが呼んでるものが自分にはない。保育園に迎えに来るのは、しょっちゅうおばあちゃん?って間違えられるママで、ジャンバーやブルゾンを無造作に羽織った「パパ」ではない。

 

 痩せた「おとうたん」も肉付きのいい「パパ」もいろいろいるけど、私にはパパがいない。だから、パパがいる子がひどく羨ましかった。

 

 一番羨ましかったのは彼らの手だ。彼らの手は大きく広かった。そりゃ、大きな肩や、けっこう早く走れそうな筋肉質の足もママにはないものだったけど、彼らの手は、未知なる広がりだった。

 

 ヒロコのヒロってひろぉーくて、こせこせしてなくってとってもいいことなのよ。そう言いながらママは微笑む。私の手を握る、大人にしては小さなママの手。それ見て、ひろいってことは私とママにはない、なんだかとても素敵なことに思えた。

 

 だから、保育園に迎えに来るパパって呼ばれる男たちに「ひろい」をさがした。「ひろい」って感じたのは大きな背中や、半ズボンから出た毛の濃いむこうずねとかじゃなくって、大きな手のひらだった。

 

 迎えにきたぞぉーーーって広げる大きな手。

 

 その手と手の間には宇宙的な広さがあった。そしてその広さに嫉妬した。

 

 私が特に羨ましかったのはダニーだ。だってダニーのパパはポニーテールをしたゴロさんだったからだ。

 

 ゴロさん……。

 

 バーンと大きな顔にははりがあり、頬っぺたが子供のように赤くつやつやしていた。頭のてっぺんは少し禿げてて、それを隠すでもなくポニーテールにしていた。たいてい光沢のある緑色のゴムだった。

 

 ダニーを迎えに来るのはいつもゴロさんだった。双子のヨースケ、シンスケにいつも泣かされていたダニー、お目目が大きくて髪がカールしてて人形みたいに可愛いのにあんまり表情がなくって、いつも不機嫌そうなダニー。おにぎりが大好きで、おにぎりを食べるときだけ、頬がゆるみ、まん丸顔になったダニー。口からごはんつぶをこぼしこぼし食べるなんとなく憎らしいダニー。

 

 ダニーはいつも突然泣いた。声は天まで届けとばかりで、目からは涙袋のように、コボコボコボコボ涙が流れた。だからひそかに泣きんぼダニーと呼んでいた。

 

 そんなダニーだったけど、ゴロさん見つけて「パァパ!!!」と言って駆け寄るとき、最高に大きなおにぎりを見つけたような顔をしていた。

 

 駆け出す姿は弾丸で、弾丸にしてはよく転んだ。三度に一度は転んだ。そうするとゴロさんは垂れ加減の丸い目でおやおやという顔をするのだ。

 

 何かに似ていた。何だろっていつも思ってたけど、その答えをある日動物園で見つけた。

 

 アザラシだよ。タテゴトアザラシ。ゴロさんの顔は愛嬌者のあざらしに似ていた。目も体つきもよく似ていた。

 

 ダニーが転ぶのがわかっていてもゴロさんは駆け寄ったりしない。キャッチャーのように腰を低くし、弾丸ダニーを見守っている。そして転ぶと決まってこう言うのだ。

 

「よく転んだな。頑張って転んだ。今度は頑張って立ってみろ」

 

 私は何をしていようと、ジャングルジムで両足ぶら下がりしてようと、ゴロさんから目がはなせなくなった。

 

 アザラシに似たゴロさん。顔だけでなくって、体つきも似ているゴロさん。肩から腰へとつるりとずん胴で、足が短い。背はかなり高くって近くに来ると大男だったけど、公園の向こうから歩いてくるゴロさんはヒョコヒョコ歩く子アザラシみたいだった。

 

 海がやってきたそう思った。

 

   何の仕事かしらないけど、ゴロさんは時々バケツ一杯の小魚を持ってきた。ある時はドジョウ。ある時はタナゴ。ある時はメダカ。あるときは見たこともない何とも不思議な魚。

 

 魚と一緒にやってくるゴロさんは海そのものだった。アザラシに似た海坊主。ゴロさんの広げる両手の間には海が見えた。

 

 パパって海なんだ。漠然とだけど、パパがいない自分はなんだか狭いところに閉じ込められてる気がした。ゴロさんが持ってきたバケツの中のメダカみたいに。そしていつも一つの疑問がわいてきた。

 

 ロコのパパはどこ?

 

 思う度ママの顔が浮かんだ。小さい頃から聞き続け、その度、ママはちょっと微笑んだ。今はご用で遠くに行ったの。微笑んでいてもママが困っているのがわかった。だから、パパはどこ?って思うたび、ママの困った微笑みを思う。

 

 パパは遠くにいていっしょに暮らせないのよ、というママの言葉に遠くってどこだろうと思いながら、また会うことのできる遠くなのか、もう会うことのできない遠くなのか聞くのがこわかった。

 

 ロコのパパはダニーのパパのゴロさんのように、公園を横切ってロコを迎えに来てはくれないんだ。バケツの中の小さな灰色の魚を見ながら、パパと海へ行ってみたいと思った。

 

 ロコのパパはイルカのように泳ぎ上手だろうか。

 

 ザバンと水から頭を出しておどけてくれるだろうか。

 

 その顔はゴロさんみたいに優しい笑みを浮かべているだろうか。

 

 ロコが砂浜を走って転んで頭から砂をかぶっても、ゆったり笑い大きな手を頭にのせてくれるのだろうか。

 

 一度だけゴロさんに肩車してもらったことがある。私がショータにカナブンをとられて泣いていたときだ。そのカナブンはしょっちゅう見かける光沢のない茶色じゃなくって、そりゃもうピッカピッカの緑色で、宝石のように美しくって…。なのにショータが足二本つかんで取り上げたのだ。取り返そうにも足がちぎれそうで手が出せない。カンブン片手にショータは走り去った。私は声を張り上げて泣いた。

 

 と、そのとき、不思議な力が私を持ち上げた。

 

 気がつくと、ゴロさんに肩車をされていた。ゴロさんの薄くなった頭のてっぺんが沈みかけた太陽に照らされて光っていた。

 

 私は突然体が浮いたこと、ゴロさんに肩車されていることが、ゴロさんの頭のてっぺんにできた光のかたまりのように楽しかった。嬉しかった。

 

「高いだろ」 

 

 私を見上げるゴロさんの額にくっきりした皴が4本できた。

 

「ここに魚が泳いでる」

 

 ゴロさんが指差した頭の上、その禿際に、確かに魚が泳いでいた。それは一センチばかりの魚の形をしたあざだった。

 

 もっと髪が薄くなって禿げが広がったら、ゴロさんの頭の上でこの魚ももっと自由に泳げるだろう、そう思ったら、とっても楽しくなってきた。

 

「楽しいかい?」

 

「うん」

 

「もう泣いてないな」

 

「泣いてない」

 

 カナブンはいないけど、私は少しだけ空に近くなったのだ。だから手を伸ばした。

 

 「パァパ!!」

 

 ゴロさんを見つけたダニーがやっぱり弾丸のようにかけてきて、お決まりに転んだ。ゴロさんは私をゆっくり下ろすと、いつものようにキャッチャースタイルに腰を下ろした。

 

「ダニー、上手くなったなあ、転び方が!」

 

 私はその瞬間ダニーが憎らしくて憎らしくてしょうがなかった。苛立って足踏みしたくなった。ダニーを蹴散らしワァァァァァア!!と走り出したくなった。

 

 

 二日後、ゴロさんがダニーを迎えに来たとき、ダニーはジャングルジムの上にいた。

 

 私はそばの砂場で、雑草をむしってはバラバラにして撒き散らしていた。なんだかむしゃくしゃしていたのだ。「パァパだ!」そう言ってジャングルジムのてっぺんから下りてくるダニーを見て、その気持ちは高まった。だから……

 

 ジャングルジムからピョンと飛び降りるダニーの前に足を出した。

 

 地面に無事着陸し、さあ、とばかり駆け出そうとしたダニーの最初の一歩の足目がけて。

 

 下りたことで勢いがついていたダニーは大きく前につんのめって転んだ。

 

 足を出さなくたってどうせ転ぶんだからそう思ってどうしようもなくこわい気持ちを打ち消そうとしたけど、半分起き上がって、私を見たダニーに、息がとまった。

 

 額から血が流れだしていた。ポタポタ…とかなりの量だ。

 

 泣き声が響いた。私も泣き出した。痛さと血でびっくりしたダニーとパニックの私はどちらも負けないくらいの大声で泣いた。

 

 ゴロさんが走ってきた。さすがに上手に転べたとは言わなかった。ゴロさんは少し悲しげな目でダニーを抱えて保育園の中へ入り、水道で傷口を洗った。

 

 地面にあった大きめの石で額をうったのだった。石さえなければ、いつも転ぶのと大した違いはなく、膝小僧の擦り傷程度だっただろう。

 

 私は地面を見つめた。少しだけ頭の尖った石がそこにある。私は震える手でその石を拾った。拾って手で握り締めて隠そうとした。けれど、三才の子の片手では大きくはみ出てしまった。でも、見られてはいけない気がして握りしめた。強く握りしめた。ごつごつとした石は手の中でどんどん熱くなっていった。

 

「目じゃなくてよかったわ。ほんとに」

 

 星野先生が言った。ゴロさんは神妙な顔で、額の汗を拭いた。公園のすぐ横にある園医の先生が、この傷は縫うこともできないし、このまま消毒してばい菌が入らないようにするしかない、と言った。

 

 

 あの時の傷。その傷がうっすらとだけど、しっかりと額に残っている…そんな気がする。

 

 ダニー…。

 

 確かにダニーなのだ。あのダニー。泣き虫坊主、泣き袋、泣きんぼと私がひそかに呼んでいたダニーに違いない。

 

 怪我のあと、チューリップ組から菊組になるのを待たずにいなくなってしまったゴロさんとダニー。

 

 北海道へ行ったのだと、保母の先生たちが話しているのを聞いた。ホッカイドー? その場所がどこかまったく見当がつかなかった。

 

「ロコちゃん、強い子になれよ」

 

 ゴロさんは言った。その言葉が心にしみた。いい子にしてるんだぞ、とか、しっかり先生の言うこときくんだぞ、でもなく、強い子になれよ、といってくれたゴロさんの目。タテゴトアザラシに似たゴロさんの目は私を責めてなかった。

 

 でも、ゴロさんは知っていたと思う。私が足を出したこと。ゴロさんからは見えなかっただろうけど、ゴロさんは確かに知っていたと思う。

 

 もちろん、ダニーだって知っていたはずだ。泣きながら、私を見た目が問っていた。

 

 どうしてなの? 

 

 チューリップ組でけっこう仲良くしてたはずの私とダニーのはずだった。おままごとだってしたし、砂のトンネル作りだって毎日のように一緒にした。

 

 私のこと、オコタン、オコタンって、回らぬ舌で言っていたダニー。ダニーは3月生まれ、私は7月生まれ、だから、同じチューリップ組でも私の方がずっとおねえさんだった。

 

 保母の先生たちは知らずじまいだった。ママの耳にも入ることなかった。3歳にしてわざと人を怪我させた、ってことママは今だに知らない。

 

 ダニー親子がいなくなって、私は自分がどう感じてるのかよくわからなかった。怪我をおわせた子がいなくなった安心感はすごく大きかった。

 

 なのにとっても淋しかった。公園の向こうから歩いてくるあのゆったりとした海坊主のようなゴロさんがいなくなったことが。そして泣き袋のようなダニーも、いなくなってみれば確かに淋しかった。

 

 

 

 

 そして今、そのダニーが目の前にいる。とても涼しげな目で、教室の壁を通してどこか別の世界でも見るような風情で立っている。もう泣き袋をかかえた目には見えない。

 

 ダニーが私を覚えているとは思えない。まだ3才だったのだ。それに、自慢じゃないけど、私、あの頃からはずいぶん変わってるはずだった。でも、私はダニーを覚えてるじゃない。やっぱ3才だったのに。でも4才になりかけの3才だ。それに、何と言っても私には負い目があって、その記憶が深く刻まれているだけだ。

 

「だにい君」

 

 オニヤンバエ先生が言った。

 

「席はここにします」

 

 2週間前に岐阜県に転校になったレミちゃんの席のを指した。

 

 私の斜め後ろだった。

 

 

 次の時間には高浜先生が復活した。トイレで吐いたのか、お腹を下したのか、けっこうすっきりした顔をしていた。少しだけ青白い気もしたけれど。

 

 徐々に調子をあげる高浜先生の時々裏返る声を聞きながら、私は妙に居心地が悪かった。斜め後ろからダニーが見ているような気がして仕方なかった。

 

 右側の首筋から頬の辺りが緊張する。ダニー、見てるのかな、それともそんな気がするだけ?こういうのってパラノイア?

 

 授業に集中できないでいるとあてられた。

 

「 三好さん」

 

「はい!」

 

「あの、な、なんでしたっけ?」

 

 ドワワワワワーと笑いが広がった。

 

「水田の主な役割を言いなさい」

 

「米が作れます」

 

「それから?」

 

「えーと、洪水のとき、水を貯めれます」

 

「そういうの何て言ったかな?」

 

「ダム?」

 

「そのとおり」

 

「あと二つ」

 

「ぁ、あと二つも?」

 

「三好さんの得意な自然に関係したものだぞ」

 

 私の生き物好きを知ってて高浜先生はにっこりした。

 

「カエルやヘビや、合鴨農法ではカモや、動物の住みかになって自然に貢献してます」

 

「貢献とはいいね。あともう一つ!」

 

 ハイ!ともヘイ!ともつかぬ声。キョウヘイだ。

 

「水の方が土より気温が上がりにくいので、水田のあるところは気温が上がりにくいです」

 

「よし、よく出来た」

 

 高浜先生はにっこりすると、黒板にまとめ始めた。

 

 

 

 

「ねえ、君」

 

 その声に振り向くと、ダニーが立っていた。少し微笑んでるところを見ると、私のこと怒ってないのだろうか。

 

「ちょっと、話せる?」

 

「う、うん……」

 

 何なのかな…。私はちょっとびくついた。やっぱ、覚えてたんだ。

 

「外に出ようか?」

 

「もう帰んの?」

 

「校庭だよ」

 

「あ、校庭ね……」

 

 

 二人並んで校庭を歩き出すと、風が一段と強くなった。

 

 ダニーが手を振った。風に向かって。風以外何もない空間に向かって手を振っている。

 

 この子も風に特別な思いを持っているのかも。もしそうなら同類だ。

 

「吉川くんも見えるんだ」

 

「えっ?」

 

「風が見えるんでしょ?」

 

「見えるよ、もちろん。ほかにもいろんなものが」

 

「いろんなものって…風の中に?」

 

「うん。…あのさ、君、ひょっとしてまだくぐったことないの?」

 

「くぐる?」

 

「あ、ないんだ。あ、今もくぐってないよね。じゃ、この子も見えてないんだ」

 

 ダニーは大切な何かを両手にのせているように、私の前に差し出した。じーっと見つめたけれど、その空間の先にはダニーの目しか見えない。

 

「何?」

 

「カゼゥリさ」

 

「カゼウリ?」

 

「風ルリだよ」

 

「風ルリ?」

 

 まるで両手の上に何かのっているかのようだった。そして今度は両手をそっとはなすと、地面を指差した。

 

「やあ」

 

 地面に向かって挨拶している。

 

「今度は何?」

 

 私は、苛々してきた。馬鹿にしてんのか。何、この子? 

 

「チータンだよ」

 

「チータン? ねえ、からかってるでしょ」

 

「いや、ちがうよ」

 

 ダニーはひどく真面目な顔だった。

 

「ほんとに久しぶりなのさ。フェルルに会えたのがさ」

 

「ふぇるる?」

 

「うん、一番最近ではさ、いつだったかな、パパと行ったリンゴ園で、農家の縁側に腰掛けてたおじいさんがそうだったな。あんな年までフェルルでいられるってすごいことだよ。そのもっと前にはさ、赤ん坊がいたな。まだハイハイするかしないかくらいなのに、輪に入ったり、出たり、その違いがおもしろいんだろうな。その子のママはいったいなんでその子が興奮してんのかまったくわかってなくって、大丈夫かしら、この子ってすっごく心配してたよ。あんなに小さくしてフェルルになっちゃってるってのもほんとにすごいよな」

 

「ねえ、フェルルって何!」

 

「君もそうだよ。でもまだくぐったことなかったって驚いたな。ところで君、何て名?」

 

「え? 私のこと知ってんじゃないよ?」

 

「知ってるよ。フェルルだってこと。でも名前は知らない。いっぺんに35人もの名前覚えられないよ。35人だよね、僕たちのクラス。僕をのぞいてさ」

 

「う、うん」

 

 何だか混乱してきた。私の名前知ってんじゃないの? 保育園で一緒だった、あの怪我をさせたロコだって知ってて話しかけてきたんじゃないの? それともこれ何かのワナかな? 私のことずっと恨んでたとか。

 

「みよしひろこ、だよ」

 

「ふーん、ニックネームってある?」

 

「ロコだよ」

 

「ロコか…」

 

 あ気づいた?

 

 ええい! この場におよんで隠したってしょうがない。

 

「うん、コゲラ保育園で一緒だったロコだよ」

 

「そうだっけ?保育園のことはあんまり覚えてないんだ。頭うったからね」

 

 うったから!? あの怪我、あとあとまで影響したの?

 

 私はダニーの額にかかった髪を右手で分けた。そうせずにはいられなかった。

 

 ダニーはいきなり髪を触った私に少しびっくりしたようだったけれど、特に体を引くわけでもなかった。ただ何?って顔をしていた。

 

 私は間近でその傷を見て、正直、安心した。うっすらと白い線がある気もするがほとんど目立たない。

 

「うったって。コゲラ保育園でだよね。この傷ついたときでしょ?」

 

「いや、あざみ保育園。札幌の。そこでジャングルジムから落ちちゃってさ。ほとんど一日意識がなかったんだって」

 

「よかった

 

「え?」

 

「い、いや。意識が戻ってよかったね」

 

「うん、ほんとだよ」

 

 ダニーは嬉しそうに笑った。

 

 私のことは覚えてなかったんだ。でもそれって私、嬉しいのかな。嬉しいはずだよね。でもなんだかがっかりしたような気がするの、どうしてだろう。

 

「吉川君がコゲラ保育園で怪我したとき、あたし、そばにいたんだ。凄く血が出てたから覚えてる」

 

「そう? コゲラ保育園でも怪我したんだ」

 

 私は、自分のせいだと言いたかったが言えなかった。

 

「ゴロさん、元気?」

 

「あ、パパのこと知ってるんだ。元気だよ。ほら4丁目公園あるだろ。あそこのすぐそばで床屋開業したんだ。また、来てよ。女の子も来るよ」

 

「ゴロさんって床屋さんだったんだ」

 

「ここ、数年はね」

 

「前は何してたの。私ね、ゴロさんが魚もってきてくれたの覚えてるんだ。魚屋さんかなって思ってた」

 

「ああ、魚ね。あれは趣味だね」

 

 ゴロさんの頭のてっぺんの池は大きくなったんだろうか。聞いてみたかった。でもどうやって聞けばいいっての? 禿、広がった?って聞くわけにもいかないし…。

 

 昔ロコちゃんが言えなくてオコたんって呼んでたのよって、言おうとしたけどやめておいた。自分が反対の立場だったら言われて嬉しいかな、なんていつもは考えないこと考えてしまったんだ。何と言っても引け目があるからね。

 

「ロコって呼んでいい?」

 

「うん、いいよ。ダニーって呼んでいい?」

 

「いや、みんなダニー様って呼ぶんだ?」

 

「ほんと?」

 

「ウソだよ」

 

「やだなー、もう」

 

 私たちは校庭の風を見ていた。大きな枝も揺れ、校庭の土が舞う。ほとんど誰も出てないところを見ると、風のため外には出ないようにって放送が入ったかな? 私はたいてい他のこと考えてていつも放送を聞き逃す。

 

「ねえ、私のこと覚えてなかったのに何で声かけたの?」

 

「だから君がフェルルだからさ」

 

「ねえ、フェルルだとか風ルリだとか、なんなのよ、それ」

 

 私は少し語気を強めた。でも、おちょくってんのかーーーぁ!と怒る気にもなれなかった。

 

「僕が言うよりさ、自分で発見するほうが楽しいよ。僕もそうだった。僕の場合はちょうど6才の誕生日だったな」

 

「どうすればそれを発見できるの?」

 

「輪さ」

 

「輪?」

 

 心臓が コト コトン となった。