約束の笑い:カズト
これはまだ僕がごく普通の勤め人だった頃の話だ。僕は甥に会いに四国に住む姉の家に行った。もちろん姉に会いに行ったわけだが、僕の中では赤ん坊だった甥がどれだけ大きくなったのかが楽しみだった。
洋太に会うのは久しぶりだった。久しぶりも何も洋太が生まれて一度しか会ったことがなかった。生後4カ月の赤ん坊は小学四年生になっていた。四年生っぽい四年生というより、どこか小さな大人のような四年生に見えた。
四年生の洋太はふさふさとした髪と少し垂れた目をしていた。見たこともない痩せた男が自分の叔父だということに、その目が丸くなっていた。
「叔父ちゃん、お仕事何?」
「会社員だよ」
「どこの?」
「出版系ってのかな」
「カズト叔父ちゃんはね、ペンシルベニアに住んでたことがあるのよ」
姉がペットボトルのお茶を渡しながら言った。
「それってアメリカだよね」
「うん、小さな田舎町でね。家の前の道がよく凍ってたな」
「大きな家に住んでたの?ダーッてて大きな階段があって黒い服の人がコートを受け取ったりする」
姉が吹き出した。
「カズト叔父ちゃんが住んでたのはね・・・ そんなにリッチな大きな家じゃないのよ」
「それどころか、とっても小さな家でね。四角い積み木みたいな家が並んでるとこだったな」
「積み木かあ・・・。そうだ、ねえ叔父ちゃん、出会いの話ってある? 自分を変えた出会いってある?」
「えっ?」
「外国っておもしろい出会いがあるんだよね」
「宿題なのよ。身近な人の出会いについて聞きなさいって。生涯を変えた出会いがあるならそれについて聞きなさいって」
姉が説明する。
「残念ながらそんな出会いはなかったな」
「奥さんに会ったとか」
「叔父ちゃん独身なんだ」
「恋人は?」
「いない」
「ふーん。・・・じゃ、おもしろい出会いってなかったの?」
「うん…おもしろいかどうかわからないけど、・・・うん、心に残る出会いってのならあったな」
言ってから、そんなものがほんとうにあったっけ、と考えてみた。
「話してよ」
「隣に住んでいたのがね。とりあえずスミスさんてことにしておこうか」
「ほんとうは何ていうの」
「ドーレンダール」
「どれんだー?」
「ま、そんな感じかな。そのドーレンダールさんの家にはナイフがたくさんあってね」
「集めてたの?」
「いや、隠してあってね」
「悪い人だったの?」
「いや、すごい心配性だっただけさ。心配性にもいろいろあってね。ありとあらゆることを差別なく公平に恐れてる人もいれば、一つのことを極端に恐れてる人もいてね。そのドーレンダールさんのご主人スチュワート、奥さんはスチューって呼んでたんだけど、彼はある一つのことを極端に恐れるタイプでね」
「それって何を恐れてたの?」
「それがちょっと奇妙だったんだ。死んだ人の霊を見ることを恐れてたんだよ」
「お化けってこと?」
「うん、霊だよ。スピリットっていうのかな」
「幽霊だね」
「まあそうかな」
「どうして怖がってたの? 実際見たことあったの?」
「最初は強盗かなんか怖がってるんだろうなって思ってた。確かにドーレンダールさんが住んでいたのは、てか僕も住んでたわけだけど、貧困ではないにしてもかなり金銭的には恵まれてない人が住む辺りでね、すごく治安がいいとは言えなくてね」
「叔父ちゃん、危険なとこに住んでたんだよね」
「ま、それほどでもないけど、日本に比べたらね。確かに家もアメリカンドリームとは大きくかけはなれた感じで、ま、僕もそんな家を借りてたわけだけど」
「うん、積み木みたいなね」
「そう、積み木みたいなね。積み木っていっても積み木が一個だけって感じの」
「それじゃ積み木っていうより、四角い木が一個だけだよね」
「まあそうだね。積み木が一個ずつ横に並んで通りを作ってるって感じだね」
「で?」
「だから盗られるものも大してないだろうし、泥棒ならもうちょっとましな家に入ったと思うんだよ。それにドーレンダールさん自体がちょっと怖い感じの人でね。もちろんそれは見た目だけで、話してみると小さい声でぼそぼそと一向に要領を得ない話し方をする、気が悪くはないおじさんでね」
「それってナイフはどこにあったの? 何本くらいあったの?」
「家中あらゆるところにさ。玄関を入るだろ。右手の棚の下に一本取り付けてあって」
「取り付けてあるってどういうこと?置いてあるのと違うの?」
「ナイフの鞘がこういうふうに棚に取り付けてあってさ。奥さんがこうやってこんな具合に1秒以内にさっとナイフを相手の喉元につきつけられるように、何度も練習させられてね。ベッドの頭のところの棚の下にも、マットレスの下にも、洗面所のシンクの下にも、もうありとあらゆるところに隠してあってさ。本の間ってのもあったな」
「それって何本くらい?」
「42本だよ」
「42本も」
「なんでそんなに本数しっかり覚えてんの?」
姉が聞いた。
「うん、ちょっとわけがあってね・・・。ドーレンダールさんのご主人の方はそれはそれは真剣でね。奥さんのマロリーさんも何回も何回も練習させられてね」
「マロリーさんも真剣なわけ?」
「真面目につきあってるように見えたね。でもある日、僕に言ったんだ。スチューの不安症につきあうのは我慢の連続だってね。彼には時々、霊が見えるらしい、そんなのナイフで追いやられるわけないのにねって」
「そりゃ、大変だわね。私なら家出たくなっちゃう」
姉は笑いながら言った。
「カズト、コーヒー飲みにおいでってマロリーさん、言ってくれてね。スチューは?って聞くと、ナイフを買いに行ったんじゃないかしらって、いつもほとんど表情を変えないマロリーさんだったけど、その時は口元にほんの微かな笑いを浮かべててね」
僕は何だか急に笑いたくなった。笑わないようにしようとしたけれど、笑いだすと止まらなかった。
はっはっはっは!
洋太はそんな僕を静かな目で見ていたが、
「叔父ちゃん、何で笑うの?」
「だってね、ナイフそんなに準備したってさ、ほらアメリカって銃持っていいんだよ。簡単に手に入るしね。強盗でも霊でもナイフなんかじゃ相手にならないだろ。考えてみるとすごくおかしなことなんだよ」
「どれんださんは銃は持ってなかったの?」
「うん。持ってなかったんだよ」
「どうして?」
「銃は危ないからって。そんなもん置いておいたら危険だって」
「でも、それって・・・」
「うん、それってなんだかおかしいだろ」
「それってバカ?」
「バカげてるけど、ドーレンダールさんがバカってわけでもないと思うよ。バカげたことをする人がバカってわけでもない」
「うん・・・。でも、おかしいよね。ナイフを何本も持ったまま撃たれて死んでたりしたら」
「そうだな。…奥さんのマロリーさんってのが、ほとんど表情のない人でね。彼女が笑うのを見るのはすごく珍しいことでね。マロリーさんがあまりにも笑顔を見せないものだから、スチューはあるお願いをしたんだ。自分が先に死んだら、自分と過ごした一生分の幸せ度合いに応じて思いっきり笑ってほしいってね。彼女、じゃ、ちっとも幸せじゃないって思ったら微笑みさえしなくてもいいてわけねってスチューに言ったらしい」
「そしたら?」
「そしたらスチューは少しびくついたような顔をしたらしいよ」
僕はここまで話すと妙に喉が渇いてグリッっとペットボトルの蓋をあけ、一気に半分飲んだ。
「じゃ、どのくらい笑ってあげるのかな、マロリーさん。もしスチューさんが死んだら」
「実はね・・・」
僕は半分になったペットボトルを手の中で転がしながら言った。
「すごくね・・・すごく笑ってあげたんだよ」
「えっ? それって・・・死んだの?」
洋太は目を見開いた。
ニコニコ聞いていた姉も同じ目になった。
「うん。ある晩に、凄く突然にね」
本当に突然の死だった。
「あるときね、夜中の三時ごろかな、大声で起こされたんだ。最初なんだかわからなかった。寝ぼけてたしね。しばらくベッドの上にすわって耳をすませてた。それは低い声でまるで地響きのような声でね。ホウホウホウでもハァハァハァでもなく、とにかく尋常な声じゃなくってね。僕はとりあえず声の出所を確かめようと、外に出たんだ。その声は隣からで、ドアを叩くと、声がやんで、マロリーさんが戸を開けた。涙が頬をつたっていた。マロリーさんはそれまで見たこともない顔をしていた。どこか視点が定まらず唖然としているようでぼんやりしているようで、それでいてものすごい感情を抑えているようで・・・。マロリーさんの後について中に入るとスチュが床に倒れてた」
僕はそのときの光景を思い出し、目をつぶった。
「He’s gone マロリーさんは言った。死んだってね。救急車は?っていう僕に、呼んでもしょうがないわ。あきらかにHe’s goneって。近づいてみると人工呼吸をしたって無駄だってことは僕にもわかった」
気がついたら死んでたの。心臓発作かしら。マロリーさんはつぶやくように言った。声がかすれていた。いつもは冷静なマロリーさんがあれだけ大きな声を出したのだから、どれだけ動転し、ショックだったんだろう、僕は思った。
「それって、そのあとどうなったの?」
「ま、いろいろさ。いろんな人が出入りして、救急隊員も来たし、警察も来たし、もちろん、親戚が来てお葬式もあって…。お葬式には案外多くの人が来たんだよ。スチューは意外に顔が広かったんだね。防犯の小冊子とかも趣味で書いていたらしい。マロリーさんの親戚も来たよ」
「ねえ、マロリーさんとスチューさんって何人なの?」
「多分、スチューはほとんど白人。マロリーさんはお葬式の時に来た親戚の人を見てわかったんだけど、いろんな人種の血が入ってたね。黒人、ネイティブアメリカン、東洋系・・・。マロリーさんの顔がすごく神秘的なのもなんだか納得したな」
「それからどうなったの?」
「うん、それからほんの数日で僕は急に日本に帰らなくちゃならないことになって・・・。帰る前日だったと思うけど、マロリーさんの家でコーヒーをよばれることがあってね。長いテーブルの上に41本の鞘におさめたナイフが等間隔に並べてあったんだ。いろんなとこに取り付けてあったナイフを取り外して集めたんだね。そのとき数えたから41本ってわかったんだけど・・・」
「で?」
「その横の丸いテーブルで向かい合ってコーヒーを飲んだんだ。アメリカンコーヒーというよりちょっとどろんとした独特の香りのあるコーヒーだったな。マロリーさんにこれから一人で大丈夫?どうするの?って聞いたら、大丈夫、お金はそこそこあるのよ、私のお金がね、スチューには言わなかったけれどって、マロリーさんは得意のかすかに微笑むってのをしてみせた。隠してたってわけじゃないのよ、カズト。言わなかっただけ。ねえ、スチューが怖がってたのは、本当は霊じゃなくってやっぱり強盗なんじゃないかしら。霊が見えるって言うんだけど、霊にはナイフなんて刺せないわよね。それに悪人じゃないんじゃないかしら。単に霊ってだけで悪人か善人かはわからないわよね。そう言って彼女は41本のナイフに目をやった。その表情がすごく優しくってね」
優しい優しいマロリーの視線・・・。
そのあと、とても不思議なことが起こったのを、僕はしばらく封印していた。
それはマロリーが、あ、スフレが焼けたってキッチンの方へ行ったあとのことだった。僕に半分透けたようなスチューが見えたんだ。
その透けたスチューがナイフを一本持ってきて41本のナイフの横にそっと置いた。すごくスローモーで時間が止まったようで、それでいてシュッと一瞬で…僕は自分の目と頭が一瞬変になったんだと思った。
戻ってきたマロリーが、42本目のナイフに気がついた。あら、これさっきあったかしら。不思議そうに首を傾げる。1から数え直すと42本あった。マロリーはどうにも納得できないようだった。そんな愚かな間違いするかしらって顔をしていた。
「そしてマロリーさんは言ったんだ。カズト、私、もう一生笑えないかもしれない。幸せだった分だけ、思いっきり笑ったつもりよ。スチューと約束してたものね。だから笑いが枯渇したわ」
えっ、そうなの? 笑ってあげたんだ。それってお葬式の後? そう聞く僕にマロリーは目を大きく開き、何言ってるの?という不思議そうな顔をした。その顔をしばらく見ていて、僕はとんでもない間違いをしていたことに気がついた。
あの大声はマロリーが笑おうとした声だったんだ。
もっとも笑っているつもりだったのはマロリーだけで、それは笑い声であって泣き声でもあったわけだけど。
ハァハァハァホォホォホォって大きな息を投げつけるようなぶつけてるような、あの僕を起こすほどの大声は、スチューとの約束を守るマロリーの笑い声だったんだ。スチューといて幸せだったって去っていくスチューに伝えたかったんだ。だから、部屋の中にまだいるだろうスチューの魂に向かってできるだけの大笑いをしたわけだ。
「叔父ちゃんが聞いた声って、約束の笑いだったってわけだね」
洋太がうなづきながら言った。
「うん。そういうわけだ」
僕も頷いた。
「そうだったのね・・・」
姉もうなづいた。
アメリカでいろんな人に出会った。アメリカっていってもほとんどペンシルベニアのあの街から出なかったわけだけど・・・。人格的にすばらしい人、それほどすばらしくはなくても魅力的な人、驚くほど外見が美しい人、驚くほど外見で損をしている人。恩師といえる人との出会いもあるし、ちょっとした失恋じみたこともあった。
けれど、こうして何年も経って洋太との会話でふっと思い出したのはスチューとマロリーだった。ナイフを持ったスチュー、ナイフの特訓に付き合うマロリー。そして約束通り笑ったマロリー。一瞬見えた気がした透けていくスチュワート。ナイフで刺す必要もない、悲しげな優しげな顔をしたスチュワート。かなり透けていたスチュワート。最後の一本のナイフをマロリーが集めた41本の横に置いたスチュワート。それを置いた時、ほとんど消えそうなスチュワートの顔が和らいだように見えた。それも幻か。次の瞬間には見えなくなっていた。
僕はこれを白昼夢だと思っていた。長い間。でもルネビルの一員となってから透けゆく人の存在を知った。あのとき僕は透けゆく人を見たのかもしれない、そう思うようになった。霊が見える、というスチューの影響も少しはあったのだろうか。その能力は前もって僕自身にある程度備わっていたものだったのだろうか。スチューが僕に見えた最初の透けゆく人だったが、決して最後にはならなかった。ルネビル、インテグリティの一員になってから、僕は街中でも時々透けゆく人を見かけるようになった。ただ、僕には輪は見えなかったし、レイヤー族の姿を見たこともない。
出会いにはいくつかの種類があると思う。お互いに大切だったと思える出会い。片方の思い込みが大きいだろう出会い。スチューとマロリーにとって僕は隣の家に数年住んでいただけのありふれた感じの日本人で、さほど影響も与えなかっただろう。けれど、スチューとマロリーは僕の記憶の中にしっかりと足跡を残していた。そのことに今気がついた。洋太のおかげだ。
「そのあとマロリーさんとは連絡とってるの?」
「たまにね。カードが届く。クリスマス時期に。カズトに幸せをって。そのあと必ずスマイルマークがあるんだ。そのとき、マロリーのスマイルマークほど貴重なものはないって思うんだ」
それを見ると、あの夜の大声を思い出す。
ナイフ。大泣き。大笑い。床に倒れているスチュー。そしてマロリーの眼差し。42本目のナイフをそっと置いた透けゆくスチュー。
「出会いとして書くのは難しいわね」
姉が言った。
「でも僕、書けそうな気がする」
洋太が僕を見つめた。
「でも洋太、出会いとして叔父ちゃんにどんな影響を与えたか、まとめられる?」
姉が聞く。
洋太の垂れ目が少し上がったように思う。
「僕、出来ると思うよ。書けたら叔父ちゃんに見せるね」
にっこり洋太が笑った。
スチューとマロリーの話に、洋太は、奇妙さでなく優しさを見出してくれた。
僕はそのことをとても感謝した。